(中断していた「失われた感性を求めて」の続き)

 (3)太陽、月、星

 雪がたくさん降った朝のことだった。それは2月の初旬で、雪は今風に言えばパウダースノーで、明け方にはほぼ止んでいた。祖母は玄関から公道までの道をつくるのに忙しく、4歳の私もその手伝いという名目で、外に出る。薄明りの中に青空が見え出し、雪はちらほら舞う程度。降り積もったスムーズな雪面に朝日が伸びている。薄く赤みを帯びた光が白い雪面を伸びていく。雪と光(、それに影)については、それから何度もその組み合わせの美しさを経験するのだが、その朝が彼の最初の美の経験だった。薄いピンク色の太陽の光が雪面に延び、白い表面は一瞬ピンク色に変わる。それは太陽が創り出す光の魔術なのだが、子供の私にはそのからくりなどわかる筈もない。だが、とても直截に、苦も無く美を感じることができる。

 昇り切った眩しい太陽は白い雪によってさらに眩しくなる。眼を開けていられないほどの反射光の溢れる経験は今でも色褪せていない。晴れた銀世界は眩しいほどの光に溢れ、雪面はその光を浴びて、見ることができないほどの光に満ちていた。晴れた雪だらけの日中は光が躍り、雪面が輝き、反射光が痛いほど飛び交う、眩しいだけの世界だった。

 月など滅多に見ないのが日常生活。特に、子供はそうだ。月になど関心がないのが当たり前で、彼も無関心だった。月夜の影、一瞬の流れ星など、手に取ることができず、しかも遠くにあるのに、なぜ見ることができるのか。そんな問いなど普通は頭に浮かばないものである。太陽、月、星の順に私たちの関心は薄れていく。それらは平等に存在しているのではなく、感覚レベルで差別されているのである。もしそれらが頭に浮かんだとすれば、それには光が必ず関与しているのだが、その光が何かなど子供には疑問さえ持てない闇の中の対象なのである。彼もそんな疑問をもつことはなかった。だが、光は彼の身近な様々なものを通じてしっかりと感じることができたのである。

 光の中での太陽、月、星の様々な経験が積み重なって、自分の住む世界が生み出されていく。「世界を感じ知る」結果は、見える世界が構築され、日常世界なるものが生まれることである。とはいえ、見えないものを感じ知るのは子供には至難の技である。そのためか、地動説より天動説が先に唱えられたし、中世を支配したのは4元素説であって、原子論ではなかった。だが、話はそう簡単ではなく、素直に「感じ知る」のではなく、誤りや偽りの「感じ知る」ことがあるのだと言う輩が過去に相当数いたことである。そのため、イデア論に見られるように感覚への不信心が根強く存続し、理性優先の風潮が支配することになったのである。

 「感じ知る」ことへの懐疑はいかにも哲学的だという通念を生み出すが、それは哲学にとって不幸だった(と私は思う)。哲学はギリシャ時代以来科学の母胎となったはずなのに、いつの間にか哲学と科学は違うものだという考えが当たり前のようになった地域や時代があり、日本もその一つなのだ。哲学は宗教や倫理とは違い、数学や物理学と同類なのだと言い切れば、デカルトニュートンも、そしてゲーデルも賛成すること間違いなしなのだが、この国はそうではなかった。哲学とは人の生き方だと今でも信じる人がこれほど多い国は珍しい。

 

(4)正体不明のもの

 正体不明のものは怖いもの、知らない場所、人、生き物は恐ろしいもの、というのが子供心である。大人はわからないものに対して不感症になる。では、子供の頃と大人になってからといずれがわからないものが多いのだろうか。わからないものをわからないと分類してその範囲をはっきりさせることができる大人とそれさえわからない子供を比べたとき、この問いは中々答えがわからないことになる。「わからないもの」についての常識的な態度については多くの人がわかっているのだが、「感じ知れないもの」については困ってしまうのが本音ではないか。

 そこで、次のような言明を考えてみよう。

 

イデアや形相を見ることができない。

物自体は誰にもわからない、認識できないものである。

箱の中のネズミは生きているか死んでいるかわからない。

感覚できないものは存在しない。

 

いずれも否定形の言明だが、否定されているもの(上の言明では、「イデア、形相、物自体、箱の中のネズミ、感覚できないもの」である)は果たして存在しないのか。このような問いかけは曖昧で、「存在する」という曲者の述語の受け取り方次第でいか様にも主張できてしまう。そこで、単純に「物理的に存在する」と限定してみよう。イデア、形相、物自体は物理的な対象ではないので、感じ知ることができず、その結果、認識できないので、どのように物理的な条件を変えてもわからないということになる。つまり、最初の二つの言明は真ということになる。これら言明が当てはまる対象の数と範囲は、見ることや知ることができるものの数や範囲と比べても、引けを取ることはない。

 さて、箱の中のネズミだが、これは生きているか死んでいるかの判定ができるように工夫できる。一番簡単な工夫は、箱の蓋を開けることである。必ずわかるかと問われれば、中を確認できない、極めて頑丈な開かずの箱だとわからないと答えることになる。だから、三番目の言明は真でも偽でもあり得る言明である。

 原子や電子を直接に感覚することはできないが、それらが存在することは別のやり方で確認できる。だから、感覚できなくても存在するものがある。これは最後の言明の否定である。物自体、イデア、形相についても、それらは感覚できないが、存在する(と仮定された)。

 これら4言明だけからでも、私たちは「感じ知る」ことができなくても存在するものを有しているかわかるだろう。正体不明でも存在を認めることに躊躇しないことが人間の本性なのだと認めざるを得ない。

オリンピックの聖火は水素?

 水素は私たちの生活には馴染みがないように見えるが、実は宇宙全体の約70%を占める物質で、太陽などの宇宙の星が輝いているエネルギーはその水素である。地球上では酸素と結びついて「水」として存在している。水素(hydrogen)という言葉は、水(hydro)の素(gen)という意味。  2020年の東京オリンピックの期間中の聖火の燃料に二酸化炭素を出さない水素を使って日本の環境技術を世界にアピールしようと、大手企業が研究開発を進めていることをニュースで知った。聖火リレーで運ばれ、オリンピックの期間中灯もされ続ける聖火はオリンピックの象徴だが、トヨタ自動車東芝、それに岩谷産業東京オリンピックで、二酸化炭素を出さないクリーンエネルギーの水素を燃料にしようと研究開発を進めている。

 温暖化の原因となる二酸化炭素を出さない水素は、燃料電池車などの燃料に使われ、政府も普及を後押ししているが、コストの高さなどがネックになり、思うように進んでいない。天然には産出しないので、化石燃料を使って二酸化炭素を発生させながらつくるか、電力で水を電気分解するか、あるいは光触媒や高温ガス炉で水を分解して作るかしなければならない。そのため、他の資源価格が上昇すると必然的に水素の値段も上がることになる。また、水素の貯蔵、取り扱いには従来の化石燃料よりも手がかかる。  水素を燃料として使用する場合、従来の化石燃料の方が安い。水素の製造に化石燃料が原料やエネルギー源として使われるので、元の化石燃料よりも必然的に高くなるからである。また、燃料電池から電気を使用する場合でも、発電費用は化石燃料からの発電費用の方が安い。現状では水素燃料の使用はかえってエネルギーの浪費につながる。

 質量あたりのエネルギー密度は確かに大きいが、その状態で保管する事は困難で極低温に保つか高圧タンクに貯蔵する必要があり、それらの体積、重量、低温化、高圧化に要するエネルギーを考慮すると経済的とはいえないという意見がある一方、燃料電池はエネルギー効率がガソリン車に比べて高く、エネルギー密度が高いため、ガソリン車よりも経済的とする意見もあって、損得勘定は微妙である。

 そんな中で、我が家の傍を通る都バスのFCV(燃料電池車)は順調に走っている。台数が増えて2020年にはFCVが街中に溢れているかも知れない。いや、損得勘定がクリアーされて、聖火だけでなくFCVも街中に溢れていてほしいものである。

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(走行中の都バスの燃料電池車)

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(前を走るのが普通の都バス)

センスのない夢

  子供の頃、ジェット機やロケットより水上飛行機に憧れたものだ。水上飛行機は今では遺物という感じがしないでもないが、それに似ているのが水陸両用の乗り物。軍隊の上陸用舟艇の他に思いつかなかったが、最近はそのようなバスがあり、観光地で使われている。

 子供じみた夢となれば、空水陸どこでも使える乗物だろう。戦艦ヤマトやU.S.S.エンタープライズはそれに近いのだが、いずれも架空のもの。だが、何故か空水陸どこでも使える乗物はセンスがないと思ってしまう。船が翼をつけて舞い上がるというアイデアは何とも心は舞い上がらないもの。

 私たちは車のように速く走れない、船のように水上を動けない、飛行機のように自由に空を飛べない。いずれも実現したい夢なのだが、不思議なことに三つ(あるいは二つ)が同時に満たされるような状況を私たちは嘘っぽく思うのである。

 

 この夏後半に豊洲で運行がスタートするとみられている水陸両用のバス「スカイダック」が姿を見せた。スカイダック日の丸自動車興業の水陸両用バスで、現在は東京スカイツリーコースを行くスカイダック東京と横浜コースのスカイダック横浜がある。既に豊洲とお台場にも水陸両用バス用のスロープが完成していた。船着き場ならぬバス着き場である。豊洲での水陸両用バスの運行は早ければ2017年8月下旬になるらしい。

 

 それにしても人間は衣食住のあらゆるものを巧みに組み合わせて合成することが好きだけでなく、うまい。個人用の住宅、工場、倉庫、神社仏閣、美術館や図書館等々、実に多様な建物が様々なデザインでつくられている。食べ物の種類は実の膨大で、食材も味も幅広い。着物となれば、色も形も毎年の流行を楽しむ人が多い。衣食住以外となれば、乗り物も実に多様。乗物の中の両用の一つが今回のバスである。

 「兼用、両用、流用」という言葉がどんな意味合いで使われているか振り返ってみれば、私の心が舞い上がらない理由が見えてくるのではないか。私たちは自由に組み合わせて多様なものを作り出すのがうまいだけでなく、どうも一つの用途に特化し、それを極めたものも好むようで、使い回しは嫌われるのである。バスのスポーツカーを追求する人がいても構わないのだが、そんな人にはなかなかお目にかかれない。人の好みとは面妖なものである。

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e-myokoの顕微鏡観察に寄せて

 今年も子供向けの顕微鏡の観察会が行われた。顕微鏡を観察した子供たちと父兄の方々に知ってほしいことを書いたのだが、それを転載しておこう。

 

子供たちへ:顕微鏡で観察すること

 e-myokoの自然観察が妙高で行われ、子供たちが顕微鏡を通してミクロな世界を垣間見た。小さなものを目を凝らしてみることは心躍る経験である。顕微鏡の発明によってミクロの世界が明らかにされ、今や電子顕微鏡の時代。裸眼は所詮裸眼で、人間を知るには不可欠でも自然を知るには大したことはなかった。だが、顕微鏡を使った成果は眼を見張るものがあった。人々はそれまで隠れていて、知らなかった世界を見てしまったのである。自分の眼では見えない世界を見ることができた結果として、私たちはミクロな世界の莫大な知識を手に入れることができた。

 顕微鏡に素直に向き合い、顕微鏡が与えてくれるデータを自分の眼で確認しながら、貪欲にデータを収集する。そんな態度は科学革命以前の知識人にはまずなかった。考えるのではなく、一心不乱に観察するのは職人であって、高貴な知識人ではなかったのだ。だが、それこそがまともな知識獲得のスタートだった。哲学者の言う法螺など信じては駄目で、自分の眼で確かめるしかなかったのである。

 おじさんやおばさんの言うことなど信用しては駄目で、自らの眼や耳を信じて自然からのメッセージを感じ、知ろう。知るには考えるのではなく、観察しなければならない。考える前に見なければならない。

 外野の知識や意見はすべて横に置き、自分がもつ感覚器官をフルに使おう。見ることに徹してみよう。その結果が科学であり、それに飽き足らずに考えることに走ったのが哲学なのだ。考えることは時には不幸をもたらす。もっと純粋に見ること、聞くことに徹し、何を見て、何を聞いたかを正すべきなのである。

 若き観察者たちに望みたい。君たちは大人が教え、喚くことなど信じないで、自分の感覚器官を信じ、感じたものを知ることに徹するべきなのである。そして、見たものは自分の手でスケッチしてほしい。それが眼と手で知ることなのである。直接に感じ知ること、それがすべてのスタートなのである。

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セミの季節

  夏休みに入ると、何日かはセミを捕るのが私の仕事だった。昆虫採集は名目で、セミやトンボを捕ること自体が目的だった。一過性のもので直に飽き、大した殺戮者という訳ではなかった。子供の頃に圧倒的に多かったのがアブラゼミ、そしてミンミンゼミで、クマゼミは少なかった。アブラゼミは「ジジジジジ」「ジリジリジリ」という鳴き方が日中の暑さを倍増させるような響きで、「油で揚げるような」と言われ、そこから「アブラゼミ」と名づけられた。

 さて、近くに有明テニスの森公園があり、大木が多い。夏休みに入り、利用者が増え、朝からボールを打つ音が響いている。そんな中でひときわうるさいのがセミたちの鳴き声。午前中はクマゼミ、午後はミンミンゼミと棲み分けがなされているように聞こえる。なぜ一緒に鳴かないのか、ちょっと気になり、調べてみた。

 クマゼミは関東南部、東海、北陸地方および西日本に生息していて、センダンやキンモクセイ、サクラなどにとまり、「シャシャシャ」、「センセンセン」と鳴く。ミンミンゼミとは音のベースが同じで、鳴き声をゆっくり再生すればミンミンゼミに、早く再生すればクマゼミになるという。だから、同じ時期の同じ時間帯に同じ場所に発生することがなく、棲み分けている。クマゼミが鳴く時間帯は日の出から正午までの午前中。  ミンミンゼミは北海道から九州に生息しているが、西日本での平地にはほとんど生息しておらず標高の高い山にいる。ミンミンゼミが鳴く時間帯も日の出から正午にかけての午前中だが、同じ場所にクマゼミがいる場合は、ミンミンゼミは午後に鳴く傾向がある。この2種は場所や時期、鳴く時間帯で棲み分けをしていて、これで私の疑問はとりあえず解消という訳である。

 だが、クマゼミとミンミンゼミの棲み分けの進化とその過程の謎は残ったままである。たかがセミ、されどセミ、というのがセミの進化学の奥深いところである。

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有明テニスの森公園

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クマゼミがいるのだが…)

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アブラゼミ

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クマゼミ

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(ミンミンゼミ)

有明西学園

 この名称から公立の学校を想像するのは難しい。斬新というより、センスのない名前で、当初の「江東区立第二有明小・中学校」という平凡な方がずっとわかりやすい。我が家の前にある有明小学校、有明中学校の名称はそのままとなる。こちらは同じ敷地内に小学校と中学校が併設されていて、「施設一体型」の学校なのだが、いわゆる「小中一貫校」とは異なる。

 有明にマンションが増え、有明小学校・中学校で児童・生徒を収容できなくなるため、新校の設置が計画され、区内で初めて小中一貫教育を実施する義務教育学校として、平成30年4月の開校に向け、現在建築中。施設一体型の小・中学校というだけでなく、小中一貫教育を導入するとのことで、注目している。普通教室が48で、大きな学校になりそうである。

 私自身の経験からすると、一貫教育の利点は沢山ある。私学の一貫教育の成果を積極的に生かしてほしいものである。

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ヒマワリ賛

  Facebookで私の友人の一人である足立さんが素晴らしいエッセイを英文で書いてくれた。いつも私の駄文を読み、実に的確なコメントをくれる無類の友である。心からお礼を述べたい。ヒマワリは日本的でない花の代表格の一つで、典型的な夏の花。二人にとっては似た記憶を共有する花らしい。

 男の弱さを何とも見事に演じたマルチェロ・マストロヤンニと、女の強さを誇らし気に演じたソフィア・ローレン、いずれがうまいかなどただすのは野暮というもの。ゴッホのヒマワリとロシアのヒマワリ畑のいずれが好きかは正に人様々。見事な映画でも「なぜヒマワリなのか」と問えば、ヒマワリでなければならない必然性は見つからない。ヒマワリがマストロヤンニ演じる兵士の記憶の回復に寄与でもしていれば、シナリオはもっと違っていたに違いない。

 ゴッホがなぜヒマワリに固執したのかもはっきりしない。その頃のゴッホに尋ねてもまともな答えは返ってこないだろう。実に不思議なのだが、ゴッホには糸杉とヒマワリ(そして自らの顔)が実にぴったり合うのである。私はゴッホセザンヌが知り合い、絵画についての美学を展開させていたなら、20世紀だけでなく、21世紀の美術もまるで変っていたのではないかと残念でならない。もっとも、二人の気質からしてそんなことは望むべくもないことなのだが…

 いずれの場合もヒマワリは単に小道具に過ぎないのかと言えば、決してそんなことはない。ヒマワリの存在は実に大きく、ヒマワリ無くして、映画も絵画もなかったのである。ヒマワリは無碍に扱ってはならない存在なのである。

*画像はロシアのヒマワリとゴッホのヒマワリ

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