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酒と煙草

 私が酒や煙草について書くと、偏りが明らかで、公平ではないと読まれるようである。だから、このタイトルなら私が愛してやまないものについての独断的な話なのだろうと想像できる。このタイトルにギャンブル、さらには女と付け加えれば、道楽者の男の振舞いということになる。ギャンブルも女も今回の話には幾ばくか関係がある。それは四つとも中毒(addiction)と結びついて考えられていることである。そして、中毒は一般的に病気(disease)と見做されている厄介者である。「中毒は脳の病気なのか」という問いは一時盛んに議論されたことがある。その話はいずれすることにして、今日は酒と煙草の近年の役割変化を考えてみよう。

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 私は酒は今でも大好きだが、もう煙草は吸わない。だが、10年ほど前までは煙草も好きだった。酒も煙草も嗜好品の代表で、実に多くの種類の酒と煙草が提供されてきた。酒やたばこの愛好者は何でもよいというのではなく、それぞれに好きな酒や煙草にこだわりを持ってきた筈である。だが、酒と違って煙草への風当たりは辛辣で、いずれ社会から抹殺される運命にあるようである。酒を嫌いな人も煙草嫌いに劣らず多いのだが、今のところ人間社会は酒を嗜好品の地位から引きずり下ろし、禁制品にするつもりはないようである。一方、煙草は嗜好品から禁制品になりつつある。

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 私は戦後の日本しか知らないが、昭和の時代は酒と煙草に対する社会の反応は同じようなもので、ほぼ同等の扱いを受けていた。だが、20世紀の後半から事情は変化し、煙草だけが厳しい仕打ちを受けるように変わった。その理由は、「酒は健康に利するが、煙草は健康に利さない」に尽きる。この何とも言えない健康至上主義に勝るものは今のところないと言っていいだろう。健康に対して真っ向から対峙できるような、煙草擁護の理由は今のところ誰にも思い至らない。命を守ることが至上命令であるという倫理規範に反するような理由があれば、それは反倫理的だけでなく、反人間的だと思われているからである。命を賭しても構わない理由を見つけるには、自殺を擁護するのと変わらないような理由を見つけなければならない。それは現在ではほぼ不可能。ここから、煙草の喫煙を禁止すべきだという結論が極めてスムーズに導き出されることになる。

 酒には致命的な理由が見つからない。過度の飲酒を慎むなら、健康に貢献する場合すらある。例えば、「百薬の長、ポリフェノール」といった表現は健康を示唆している。だから、酒はこれからも暫くは嗜好品の一つとして比較的安定した地位を保っていくと予想できる。酒の好みの変遷はあるだろうが、酒の存在は揺るがないだろう。一方、煙草は致命的であり、それゆえ、その存続はほぼ不可能という訳である。

 かつては嗜好品の双璧だった酒と煙草の社会の中での地位はすっかり変化した。このパラダイムシフトを引き起こした要因は「健康」であり、それによって双璧の一方は風前の灯ということになってしまった。かつて喫煙を楽しんだ私には少々寂しい気もするが、敢えてこの変化に反対する気はない。

視覚の能動性

 最近の知覚心理学の研究によれば、正常な状況なら視覚系は外界の情報を正確に受け取るのですが、視覚が誤ると、曖昧な結果をもたらすことが多くあります。「多義図形」はそのような一つ。アトニーブの三角形を眺めていると、最初すべての三角形がある特定の方向に向かっているようにみえますが、しばらくすると、別の方向を向いているようにも見えてきます。そして、このような現象(視覚交替)が無限に繰り返されます。

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(アトニーブの三角形)

 視覚交替は、視覚系が能動的だという重要な例証です。視覚系は新しい情報が入力されてから次の状態に変化するとは限らず、ときには自分でその状態を変えてしまうのです。パースにある「三角形がないのに、三角形が見える」彫刻もこのような例かも知れません。面白いことに、この命題は「三角形が見えるなら、三角形が存在する」という命題の否定形なのです。「見える」と「在る」の間に違いが生じるのは、視覚系が能動的に働いた結果なのだと思われます。

 視覚というセンサーが信頼できる、つまり、「見たものが、その通りに在る」のは、センサーが100%受動的で、自ら工夫して小細工などしないからです。センサーが正直者であるとは、「在るがままに見る」ということです。ですから、私たちの視覚系が能動的であればあるほど、見えるものと在るものの間にズレが生じるということになります。知覚系が能動的とは知覚することによって何かを生み出す、何かを脚色するということです。当然ながら、生み出されたもの、脚色されたものは、元々世界に在ったものとは違います。

 見ることが能動的な要素を含むとはどのようなことでしょうか。その一つの意味は、私たちは単に見ているのではなく、知識を使って見ているということです。経験的知識が誤り得るものであることを認めるなら、その知識を使って知覚されるものも誤り得るものになります。能動的、積極的に見ることが知識を使って見ることであるなら、知識の援用が見ることと在ることのズレを生み出すことになってしまいます。

 私たちは何か新しいことを見つけたい、知りたいと思えば、積極的に観察し、能動的にそのデータを取り扱います。その能動的な行為が新しい知識を生み出し、その結果、世界を知ることができるようになったのです。

 ところで、哲学者にはリアリストとロマンティストがいます。アリストテレスがリアリストなら、プラトンはロマンティストですし、ヒュームがリアリストなら、カントはロマンティストです。このような分類は大した意味をもっていないのですが、「在る」と「見える」の間の違いについての説明にこの分類を使ってみましょう。

 今流行りのロボットは、AIとセンサーを組み合わせたものです。センサーは外界の情報をデータとして入力し、それを計算処理して行動を決めるのがAIです。忠実なセンサー、正確なコピー、正しい計算、推論、適切な決定がこの過程に含まれています。  知覚と判断のような二段階で経験を捉えるのはロボットだけでなく、人間もそうです。でも、AIと違って、人間の特徴は上位の判断レベルが始終下位の知覚に干渉する点にあります。判断は知識を使って行われますが、それが知覚に干渉するのです。知覚に絶対の信頼を寄せる動物とは違って、人間は絶対の自信をもつと過信する悟性の働きに頼り過ぎるようです。

 心がもつと想定される知識、本能、欲求、意志等がデフォルメされ、それらが何かを生み出す、産出する、創生すると考えることが正にロマン主義の特徴です。心の持つ働きを過剰に生産的に捉え、心が世界を生み出すとまで信じてしまうのです。ですから、創造的な活動は大抵ロマンティックなものです。このような傾向は精神が物質に優先するというような途方もない考えにつながり、その代表の一つがヘーゲル哲学と言えます。人間の精神を信じ、それによって世界を変えていこうという意気込みには感服できても、それはもっ節度を保ったものであるべきです。

 私たちの意識は知覚したものを判断する前に、何をどのように知覚するかまで干渉します。これは自由意志の勝利であると同時に、知覚と存在の紐帯を断ち切ることでもあります。

 視覚が能動的であることについて、ロマンティストは精神の創造性を示すものだと信じ、リアリストは主観的な雑音に過ぎないと批判することになりますが、あなたはどちら?

散歩

 最近は保育所がオフィスビルの中に数多くつくられている。午前10時を過ぎるころには子供たちが散歩に出てくる。すると、オフィスビルの周りに元気な子供たちがあふれ出し、仕事に忙しい大人たちが歩き回る空間に入り込んでくる。

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高村光太郎 新緑の頃

青葉若葉に野山のかげろふ時、
ああ植物は清いと思ふ。
植物はもう一度少年となり少女となり
五月六月の日本列島は隅から隅まで
濡れて出たやうな緑のお祭。
たとへば楓の梢を見ても
うぶな、こまかな仕掛に満ちる。
小さな葉っぱは世にも叮寧に畳まれて
もつと小さな芽からぱらりと出る。
それがほどけて手をひらく。
晴れれば輝き、降ればにじみ、
人なつこく風にそよいで、
ああ植物は清いと思ふ。
さういふところへ昔ながらの燕が飛び
夜は地蟲の声さへひびく。
天然は実にふるい行状で
かうもあざやかな意匠をつくる。

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多義図形の3次元化

 福田繁雄の作品「潮風公園島の日曜日の午後」(1995)が今は水の広場公園にあると記したが、この作品は正面から見るのと横から見るのとでは、全く別の形に見えてしまうトリックアート。正面からはジョルジュ・スーラの「グランド・ジャット島の日曜日の午後」(1884-1886)の一部が見え、横からはピアノの演奏シーンが見える。福田の作品を見て最初に気づくのは、二つの視点(正面と真横)以外はまとまった姿に結実せず、中途半端な位置にいる鑑賞者を失望させてしまうのではないかということ。2次元の多義図形の3次元版がこの作品の意図なのだろうだが、本当に3次元の多義図形になっているのかと問われると心許ない。3次元の多義図形がどのようなものかの明確なイメージを私たちはもっていないように思われる。

 「ルビンの壺」は代表的な反転多義(両義)図形で、多義的であることより反転が起こることの理由がもっぱら探求されてきた。一方、「ペンローズの三角形」は不可能図形(impossible object)で、その作図可能性が議論されてきた。いずれの図形も紙に描かれているのが普通だが、2次元ではなく3次元で表現できるかどうか、それを追求したのが福田だった。福田作品は2次元の錯視図形を3次元化したものが多い。ペンローズの三角形や悪魔のフォークは2次元で「だまし絵」として描くことができるが、3次元には存在しないので、impossible objectと通称されてきた。画家のエッシャーはそのような不可能な対象を数多く描いている。

 こんな面倒な話はやめて、直截にこのimpossible object(不可能立体、不可能図形)を私たちの住む3次元の世界でどうすればつくり出せるか調べてみよう。その後で、この子供じみた好奇心が何を意味するか考えてみよう。まず、次のような課題について答えを見つけよう。

 

(1)ペンローズの三角形はなぜimpossible objectなのか

(2)3次元のルビンの壺は可能か

(3)アヒルとウサギが多義(両義)的なのは3次元の世界でも可能か

(4)ペンローズの三角形は3次元の世界にあるのか

 

(1)「ペンローズの三角形」という表現は正確ではない。それは3本の角材でつくられた三角形のシルエットをもつ立体のことである。三角形の枠の上に線を引いていく。各辺の枠上を通る線3本は結ばれる筈だが、そうはならない。遠近法を信じるならば、上下、左右、表裏が三角形の立体について成り立っているが、それがバラバラになってしまっている。つまり、この三角形の立体は3次元の対象としては存在できないのである。3次元では存在できないが、2次元の紙の上にはスケッチできるのがペンローズの三角形である。

(2)3次元のルビンの壺は可能で、例えばMathematicaを使って作図可能である。私の顔のシルエットを左右逆にして並べれば、壺が浮かび上がる。だから、壺も両脇の人の顔もいずれかを3次元の対象にすることができる。そして、2次元の図として見ると、壺あるいは人の顔が交代しながら両義的に見えるのである。

(3)(2)と実は同じ理由で、3次元でも可能。だが、特定の角度から見たときだけ曖昧な図形になり、真上から、あるいは真横から見たのではアヒルもウサギも見えない。

(4)ペンローズの三角形は私たちの3次元ユークリッド空間には存在しない。ペンローズの三角形も悪魔のフォークもこの世界に実在できない。だが、ペンローズの三角形や悪魔のフォークに見える対象をある視点から見ることができる場合がある。これは他の多義図形についても同じである。アヒルとウサギの場合も、それが3次元の対象であるなら、2次元の画面に描かれた角度から見ると、ウサギとアヒルに見えるのである。3次元のルビンの壺も然りである。

 線で描かれた三角形はペンローズの三角形にはなれない、つまり、線三角形はimpossible objectではなく、possible objectなのである。ペンローズの三角形も悪魔のフォークも眼に見えているが、上述のごとく不可能なものである。その不可能なものが見えている、矛盾するものが(2次元の紙に描かれた像として)見えている。にもかかわらず、不可能なものは存在しないし、矛盾するものも存在しない。実在するが見えないのは不思議でないが、見えるのに実在しないのはとても不思議に思われる。「見えるのに実在しない」ことを実際に具体的につくり出すことができるだろうか。それが可能であることを示す証拠が幾つもある。作図画面、パースのモニュメント、サイコロや立体での構成、その他にも曲がった梁を使った立体等々、人の好奇心は尽きないのだが、いずれもある視点から見るとペンローズの三角形に見えるというもので、それ自体が実在する訳ではない。

 また、アヒルとウサギの両義図形はアヒルにもウサギにも見えるが、実際は同時に両方であることは不可能。だから、アヒルとウサギとであることはないが、ある視点から見ると、ある時ウサギに見え、別の時アヒルに見えるのである。

 ペンローズの三角形も悪魔のフォークも存在するのは表象としてである。いずれも見えるのだが、存在はしない。「見える」ことと「在る」ことの具体的な違いがこの例を通じて見えてくる。ペンローズの三角形も悪魔のフォークも実際に見えている。そして、いずれも実在していない。

 見えにくいので、よく見えるようにする、2次元で見えるものを3次元でも見えるようにする、これらは美術の役割の一つである。福田はエッシャーの絵画を3次元化することによって、存在と外観がどのように違うかを具体的に表現しようとした。大袈裟に言えば、「仮象と物自体の違い」という言葉遊びのような表現を美術的に真面目に具体化した例でもある。むろん、「見える」ことと「在る」ことの違いだけでなく、存在と外観が視点によって結び付けられ、存在のある側面、存在のある性質が外観に対応していることが具体例を通じて見えてくる。

<画像解説>

1バウハウスの宣伝ではないが、これだけでペンローズの三角形が3次元の世界でどのような意味で可能かがよくわかる。

2オーストラリアの東パースの彫刻で、ある角度から見るとペンローズの三角形に見える。 (Wikipedia, Impossible object)

3福田繁雄「消えた柱」(1985)も、ある角度から見ると悪魔のフォーク型の不可能立体が見える。

4アヒルとウサギ

5ルビンの壺の3次元化

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休日の過ごし方

 晴れた休日は外に出たくなるのが今の季節。昨日はよく晴れ、温度も適度で、過ごしやすかった。新緑の中で多くの人たちが様々な過ごし方をしている。朝鮮半島ともフランスとも違って、子供も大人も人生を楽しんでいる。  最初の一枚はいわゆるコスプレの撮影に集まった人たち。二枚目は子供たちの自転車レース。この自転車はストライダー。三枚目はバーベキュー風景。

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To be, or not to be, is that the question?:衣食住の中の煙草

(改訂版)

 日々の暮らしを支えているのは衣食住。衣食住に登場するものたちは独特のあり方をもち、私たちが自由に使える、必ず使わなければならない、使ってはならない等々に分類できる。食べ物や衣服は何を選んでも構わないが、未成年者には酒もたばこも禁止されている。そのあり方を、様相の違いと考える人も、行為パターンの差異と思う人も、判断の類型と解する人もいる。私たちと嗜好品との普通の付き合い方の原則は「いずれでも構わない」というもの。その原則のもと、嗜好品は自由に選択できる。

 嗜好品として現存している煙草だが、「いずれでも構わない」という煙草との付き合い方は急速に変わりつつある。2020年の東京オリンピックパラリンピックに向け、厚労省受動喫煙の対策として、2003年施行の健康増進法のさらなる強化を図る。海外では公共の場を屋内全面禁煙にする国が増え、WHOは日本の対策を「世界最低レベル」と指摘。また、IOCとWHOは「たばこのないオリンピック」を共同で推進。WHOの報告によれば、世界で毎年60万人が受動喫煙で死亡、厚労省研究班は国内の死亡者も年1万5千人と推計している。

 私のような老人には、煙草との付き合い方が昭和と平成で一変したという実感がある。その一例が大ヒットした『風立ちぬ』に頻出する煙草の描写。NPO法人日本禁煙学会が制作担当者へ送った要望書「映画『風立ちぬ』での煙草の扱いについて(要望)」で、「教室での喫煙場面、職場で上司を含め職員の多くが喫煙している場面、…数え上げれば枚挙にいとまがありません」と具体的にシーンを列挙し、煙草の扱いに特段の留意を要望。制作側は、表現の自由を脅かす行為にもなりかねない、と応答。僅かな時間差で煙草の地位が激変したことの紛れもない証拠である。タイムスパンを広げ、煙草の歴史を振り返れば、煙草の地位の変化を確認できる。

 煙草はナス科のニコチアナ属の植物。その出生地を辿っていけば、新大陸に行き着く。新大陸の人々は、煙草を吸う、噛む、粉にして鼻から吸い込む、という三通りの仕方で主に宗教儀礼に使っていた。また、沈静作用、軽い興奮と刺激などの効力をもつ煙草は、粉末、薬湯、座薬、塗り薬などに形を変え、病気治療にも使われていた。日本には16世紀末に鉄砲、キリスト教と共に入ってくる。江戸幕府は煙草禁止令まで出したが、効果なく、元禄の頃には嗜好品として定着した。

 煙草は儀礼品、医薬品から嗜好品へと役割を変えてきた。それに応じて、煙草は儀礼、処方、作法に従って使われてきた。それぞれの文法は異なるが、嗜好としての煙草使用の原則は「いずれでも構わない」であり、儀礼や処方での命令や禁止と違って、基本は自由にある。自由意志の作法の原則「いずれでも構わない」が、煙草の喫煙でも成立していた。その歴史の中で近年重要な役割を演じ始めたのが「健康」。この言葉は「良好な身体状態」を意味する英語のhealthの訳語として使われ、福澤諭吉の『文明論之概略』にも登場する。だが、明治時代の身体状態を表す言葉としては、「養生」が一般的。「養生」とは「災厄から逃れ、良好な身体状態を維持するためにある行為をしない」という考え。医学、医療の知識が「消極的な養生から積極的な健康へ」と私たちの意識を変え、煙草が毒、悪を含むものと見做され、その地位は揺らぎ出し、それが今でも進行中なのである。

 桶と樽は明確に区別できないが、「桶は樽ではない」という常識を後生大事に守るというのが私たちの習慣。人はそれにこだわり、固執する。多くの事柄について「いずれでも構わない」ものが「いずれかでなければならない」ものと考えられてきた。どんな存在にも十分な理由がある、というライップニッツの主張にその理由があるのかも知れない。反対に、「いずれかでなければならない」ものが「いずれでも構わない」ものと考えられてきたこともある。煙草は吸っても吸わなくても構わないと受容されてきたが、遂に医学的な理由が見つかり、喫煙は悪だと糾弾されている。煙草の「どちらでも構わない」存在は否定され、禁止されようとしている。

 煙草はまだ全面的に禁止されている訳ではない。今は自由に楽しめても、その自由をさらに制限しようというのが時流。煙草に新効能が見つかり、それが善だとわかれば、私たちの衣食住の中での煙草の地位は変わるだろう。とはいえ、喫煙が「いずれでも構わない」習慣から、「吸うべきではない」禁止事項に変わることを止めるほどのことは今のところ想像しにくい。だから、「吸うべきか、吸わざるべきか、それは問題か?」に対する解答は「問題などなく、吸ってはならない」に決しようとしている。

 この煙草事情に一抹の寂しさを覚えるのは、かつて私が喫煙を楽しんでいたからなのだろう。