帰納(過去・未来、Induction)

 私たちは自分が直接観察しないことでも多くのことを知っている。直接見るには小さ過ぎる、遠くにあり過ぎる、隠れている、昔に起こったことで今は既にない、まだ起こっていないので見ることができない、といった様々な理由から自ら観察できない場合、私たちはそれらをどのように知るのだろうか。どんな四角形にも4つの辺がある、2個のリンゴと3個のミカンの和は今年だけではなく、来年も5であると容易に信じることができる。四角形についても和についても、そうでない場合を想像することができない、というのが私たちが信じる理由であろう。ヒュームによれば、観念の間の関係と事実の間の関係は次のように異なっており、四角形や和は観念の間の関係を表現したものである。

S が観念の関係を表現する⇔Sの否定が理解できない、あるいは矛盾している

S は事実を表現している⇔Sとその否定の両方が理解可能である、あるいは矛盾していない

 「私は猫を二匹飼っている」が真でも、私はその否定、あるいはそれが偽だと想像することができる。だから、それは事実を表現しているのである。私たちは知覚と記憶によって観察事実を知る。私たちはどのように観察されない事実に関する意見をつくるのだろうか。それらもやはり経験から得られる。性質のどんな組み合わせも論理上は可能であるが、どの組み合わせが事実として実現するかは経験に頼らなければならない。
さて、観察事実と一般的な言明の関係を経験的なデータと理論の関係と捉え、その関係を帰納法として考えてみよう。

これまで火はいつも熱かった。
だから、火はこれからも熱いだろう。

(データ)これまですべてのFはGであった。
(理論)すべてのFは未来もGである。

帰納法 (ヒュームの問題)
 観察されない事実についての意見は経験から帰納法によって導出される。データから理論への推論は演繹的に妥当ではない。そこで考えられたのが次の原理である。

自然の一様性原理(UN):FとGについて、F がこれまでGであるなら、Fは以後もGのままである。

すると、データとUNから、理論が導出できる。

(問)(データ)+UN→(理論)を証明しなさい。

 UNは大変強い主張で、私の経験の中に登場したパターンは自然において一般的に成立すると述べている。明らかにこれは強過ぎる主張である。だが、この主張を弱め、「FであるものはGであった」というのが法則であるとすると、どのようにそれが成立することを知るのだろうか。

過去には、未来は過去に似ていた。
それゆえ、未来には、未来は過去に似ているだろう。

この結論はUNを仮定に加えなければ妥当にはならない。仮定に加えると、推論は循環することになる。未来が過去に似ているだろうということを既に知っていない限り、過去の未来が過去の過去に似ているという事実は、未来の未来が未来の過去に似ているだろうということを示してはくれない。

(1)UNは未観察の事実に関わっている。
(2)未観察の事実についての知識は経験から帰納的に導き出されなくてはならない。
(3)だが、UNはどんな帰納的な論証でも暗黙の仮定になっている。
(4)それゆえ、UNに対する循環しない論証はない。

これが示しているのは、科学的な探求(つまり、観察されるものから観察されないものについての結論を導き出す試み)それ自体は証明できない仮定に基づき、信念条項として受け取られなければならない、ということである。これは科学的な証拠を占星術と同じ地位に置くことのように思われる。

(データ)水晶球は私の申し出が受け入れられると言っている。
(理論)だから、私の申し出は受け入れられるだろう。
確かに、これは真ではない。だが、次の仮定を加えれば、真になるだろう。
(RC)水晶球は信頼できる。つまり、それがXと言えば、Xであることは真である。
確かに、(RC)に対する最善の論証は次のものである。
(データ)水晶球はそれが信頼できると言う。
(理論)水晶球は信頼できる。((RC)と同じ)
なるほど、この論証が妥当になるのは(RC)をさらなる仮定として加えた場合だけで、それは全体の試みを循環的なものにしてしまう。だが、これらのことは科学的な推論についても真である。水晶球占いは何ら恥ずべきことではない。科学と同じように知的に尊敬できるものである。
 これは明らかに正しくはない。幾つもの反論がある。

a) これまでのところ水晶球占いより帰納法の方が成功してきた
b) 帰納法は定義によって合理的である。それは正しい推理によって意味していることの一部になっている。
c) 帰納法は無益で、科学はそれを決して使っていない(Popper)。
d) 帰納法は演繹的に妥当であるとは想定されていない。それは帰納的に妥当である。
e) 演繹も似ている。演繹が信頼できることを証明するどんな試みも演繹に循環的に頼っている。

ヒューム自身の反応は異なっていて、より根本的である。

f ) 帰納法の信頼性に対する合理的に心を動かす証拠はない。

帰納法は私たちが選ぶべき戦略ではない。それは私たちに生れつき埋め込まれたものである。鳥は南に飛んでいくことを正当化する必要はない。鳥にとってはそうすることが正しいことなのである。私たちは帰納法を正当化する必要などない。というのも、そうするのが正しいだけなのである。動物はうまく行くものをしているだけで、私たちはその動物なのである。

(問)帰納法と確率・統計的な手法は何が違っているのだろうか。
(問)経験的な理論の正当化はできるのだろうか。

 

好奇心旺盛な子供の疑問、あるいは禁断の疑問への大人の補足

 個人や個体を中心に生物世界を考えるのは、個人主義によって支えられる近代社会では当たり前のことであって、その思想はダーウィンにも色濃く表れています。自然選択(natural selection)は個体に働くのであって、組織や集団に働くのではないというのがダーウィンの基本的な立場です。個体が選択の働く単位になっているのです。一方、性選択(sexual selection)はダーウィンにとって自然選択とは違った選択でした。ダーウィンには性選択が働くのも個体でしたが、それゆえに自然選択とは違う働き方が想定され、別の概念として捉えられたのです。確かに、「生存」と「生殖」は多くの点で異なる生命現象です。生きることと子供をつくることは微妙に異なるのです。「生きていないと子供はつくれませんが、子供をつくらないと生き残ることはできません」と言われた時、前者の主語は個体ですが、後者の主語は集団です。戦前までの日本は家中心の社会でしたが、集団を家に置き換えればその違いが実感できるでしょう。生存は一個体でも可能ですが、生殖は一個体ではできません。これは有性生殖のもつ基本的な特徴なのです。
 このように個体の生存と集団内の生殖を上述のダーウィンとは違って、二つは異なるレベルの視点から捉えた生物世界だと割り切ってみることも可能です。選択は複数の異なるレベルの対象に働き、異なる結果をもたらすという捉え方で、階層的に生物世界を捉える見方として20世紀に常識になるものです。個体レベルと集団レベルは異なるレベルであり、その異なるレベルに選択が働くという訳です。中でも一世を風靡したのがドーキンスの考えで、個体や集団ではなく、DNAを中心のレベルにした見方でした。分子遺伝学の台頭とも相俟って、DNA中心に生命現象を捉えることは単なる流行ではなく、生物学の実際の研究方法として当たり前になるのです。「ニワトリかタマゴか」といういずれの単位が因果的に原因なのかという哲学的な問いは、個体でもその卵でも、ましてや集団でもなく、DNAだと決着がついたのです。事態はそれによってスッキリしたのですが、人という個体のもつ自我や、意識といったものの存在を消し去ってしまうことになったのです。自我のDNAがあったにしても、それは自我ではなく、自我になる萌芽、種子に過ぎません。
 自我や意識が還元されてしまったDNAレベルでは個体と集団は擬似的レベルに過ぎなく、いわば砂上の楼閣であり、自我や意識はどこにもありません。ですから、私たちが「自ら生き永らえることと自らが属す共同体の持続のいずれを選ぶか」と自問自答するとき、何に頼ってその答えを見出したらよいか暗中模索しなければならなくなるのです。人それぞれに答えを見つけることになるのですが、その際に生物学、医学は何を教えてくれるのかを私たち自身がわからないのです。
 複数の対象を異なる複数の見方によって別々に捉えることは珍しいことではなく、物理現象でもミクロなレベル、日常のレベル、マクロなレベルで異なる物理理論が使われます。それと同様に、生命現象でも異なる理論が使われても何ら不思議ではありません。異なる理論が両立しない主張をもつことは物理現象でも生命現象でも同じです。ですから、個体と集団のいずれを優先するかは理論によって異なることになります。となると、いずれの理論を優先するかが問題の解決だということになるのですが、誰もこの分別臭い、暫定的な答えに満足はしない筈です。
 結局、大人は分別をもっている限り、個人の生存と集団の持続のいずれをどのように優先するかに対して、状況依存型の局所的な解答しか出せない、ということになり、これが大人の頼りない補足なのです。

アキグミ

 アキグミ(秋茱萸)はグミ科グミ属の落葉低木。春に花が咲き、秋に熟す果実は果実酒などに利用される。名前は秋に果実が熟すことから。アキグミは北海道南部から九州に分布し、林縁などに生育する。アキグミの花は4月から5月にかけて咲く。花弁はなく、萼が花の形となっている。
 日本にはナツグミ、アキグミ、ナワシログミ、ツルグミなど十数種がある。グミは白色の星状毛や鱗片が枝・葉・花・果実などにあるのが特徴で、葉の裏は白銀色で光沢がある。グミの仲間は根に共生菌類を持ち、空中窒素を固定する能力があり、荒れ地でも生育できる。そのためか、湾岸地帯によく植えられている。画像はそのようなアキグミで、秋がきて、実をつけ始めている。子供の頃、庭に小さなグミの樹があり、夏に実を食べたのを憶えている。ナツグミかトウグミのいずれかだったのだろうが…

f:id:huukyou:20180926044348j:plain

f:id:huukyou:20180926044419j:plain

f:id:huukyou:20180926044439j:plain

好奇心旺盛な子供の疑問、あるいは禁断の疑問

 人だけでなく、どんな動物も植物も、みんな生きている限り、「生きる」ために一生懸命であり、生きることを肯定的に見ることに疑問の余地はないと思われてきた。だが、一方では規則的な世代交代が繰り返され、生物の集団が維持され、社会が存続することへの期待はすこぶる大きい。食べ物は、規則的に収穫されるが、そのためには規則的に生産されなければならない。
 一個体は一途に生きることを本能とし、集団は安定的な世代交代を繰り返して永続することが特徴になっている。この二つの本能と特徴はよく考えてみると、互いに両立しないものである。個体の永遠の命と集団の永続性は互いに矛盾するのである。つまり、個体が生き永らえると、集団は若い命を供給できなくなり、集団が規則的に若返ると、個体は生き続けることができないことになる。つまり、集団の安定的継続は個体の規則的な死を前提にしているのである。
 早熟な小学生ならこの位の疑問を平気で思いつき、その答えを見つけようとするのではないか。残念ながら、今の私たちはこの生意気な小学生に十分納得できる答えを用意できないのである。
 医療は個体のため、それとも集団のためかと問われ、医者を含め、大抵の人は疑いなく両方だと答える。だが、上の節の内容を受け止めるなら、医療が両方の為だという答えはあり得ない。個人に対する医療と集団に対する医療は、それゆえ、違った目的や内容をもつことになる。医の倫理への関心が高まったのは20世紀後半だったが、個人の場合と集団の場合で異なる倫理基準があるのかと問えば、実に曖昧で、倫理のターゲットが個人なのか集団なのか不定の場合がほとんどだった。
 20世紀以降の医学の進歩は、人の生と死に関わり、それまで神の領域だった生と死を人の手に委ねることになった。個人と集団の間をつなぐのは生と死である。個人と集団の間にある因果的な関係は個々の生と死であり、集団の変化はメンバー個々の生と死によって引き起こされる。
 「個体は自らの意志で生まれるのではないが、自らの意志で生きようとする。個体は自らの意志で死ぬのではないが、自らの意志で生きようとする。」というのがこれまでの通り相場だった。だが、医療技術の進歩はこの言明を否定するところまで来ている。不死の願いは集団の永続性に抵触し、個体の不死が集団の絶滅を結果することになりかねない。
 「死の倫理」と「集団の倫理」は違うものだが、いずれも同じようにタブー視されてきた。それらは死の礼賛や集団への自己犠牲という禁忌概念として、忌み嫌われてきた。倫理はもっぱらよく生きるための作法と考えられ、扱われてきた。集団や群を優先することは危険思想だというだけでなく、科学的にも信用できない概念(例えば、群選択)と捉えられてきた。
 賢い子供たちはこのようなこれまでの大人の対処にどのような反応を示すのだろうか。個人主義、利己主義、自我など、いずれも「生きる」ことを前提にした思想や概念である。「死ぬ」ことを基本に置いた倫理や道徳は果たして宗教なのだろうか。そもそも「死、死ぬ」を前提にすること、認めることはどのようなことなのか。かつての因果応報、諸行無常、盛者必衰、無常観といった仏教思想はどれだけ倫理として精緻化されたのだろうか。残念ながら、倫理思想としては洗練されず、宗教的な信念や感情を文学的に表現するレベルで終始したのではないか。
 最後に、あなたなら鋭い子供たちの疑問にどう答えるだろうか。

科学的な説明

 アリストテレスは自然を因果的に説明しようとした。しかし、その「因果的」説明は彼の四原因すべてを含むものだった。機動因による因果的説明は運動変化の科学的な説明としてニュートンによって初めて具体化された。それは仮説演繹法という形式をとり、さらに演繹の中では数学的な式の変形と計算が主要な役割を占めていた。現在では当たり前の自然法則と初期条件による説明の構図が確立する。この構図をまとめるなら、次のように表現できる。

初期条件-運動方程式-解-(数学レベル)
原因-因果法則-結果-(物理レベル)
前提-論理法則-帰結-(推論レベル)
言明-「ならば」-言明-(言語レベル)
ニュートンの説明方式は各レベルを総合したものであり、以後の科学的説明の原型となった。

 では、ニュートン力学によって確立された科学的説明はどのような仕組みになっているのか。ニュートンの説明は、物理システムについて自然法則と初期状態から数学的にシステムのその後の状態を計算するものだった。科学は経験的であるが、推論なしには科学とは呼べない。その推論によって問題を解くことを数学的に精巧に仕立て上げたのが力学であり、数学的な推論や計算から新しい自然観が生まれて行った。ラプラスの魔物はこのような条件を普遍化することによって普遍的決定論を主張したのだった。この点では科学的な説明も哲学の伝統的方法をより精緻に実行したものである。推論が演繹として正しいことと、その内容が経験的に正しいこと、適切であることとは違っていた。科学的説明ではこの違いが鮮明に出てくる。そして、当然ながら推論の形式ではなく、その内容こそが科学者にとっての関心事なのである。完成された科学理論と問題を追求する活動は科学的説明を異なったように捉える場合がある。完成された理論ではその形式的な側面が強調されるし、問題追求の現場では内容がもっぱら重視される。それぞれの場合で、科学的説明の特徴づけは異なってくる。さらに、説明されるものがどのような役割を果たすかも考慮するなら、科学的説明について次のような三つの異なる見解が考えられている。

(a) 推論としての説明 (Hempel, Oppenheim):説明は推論の一タイプであり、説明される現象は自然法則を含んだ前提から結論として演繹される。
(b) 因果関係としての説明 (Salmon, Lewis):説明は説明したい現象を引き起こす様々な原因を記述することである。
(c) 実用としての説明 (van Fraassen):ある現象の説明とは、それが他の現象より起こる可能性が高いことを導き出す情報の集まりである。

 謎や驚きに立ち向かう点では科学も哲学も同じであり、したがって、その努力が同じような様相を呈するのは当たり前のことである。哲学が理論である、あるいは活動であると異なる仕方で特徴づけられるように、科学的説明の特徴づけ方も複数ある。
[推論としての説明]
 まず、(a)を見てみよう。これは説明の形式的な特徴から出てきた見解である。説明に使う前提条件と自然法則は説明項、説明される現象は被説明項と呼ばれ、法則を含んだ演繹としての科学的説明は次のような構造をもつ。

C1, ... , Cn [前提条件]
L1, ... , Ln [自然法則]
E [被説明項]

説明項に自然法則が含まれず、例えば、法律の条文が含まれていれば、法廷陳述に使うことのできる文が被説明項として得られるだろう。自然法則を含むという点を除けば、上の図式は演繹的な推論と同じ構造をもっている。したがって、自然法則を含むことが科学的説明の特徴ということになる。その自然法則は、普遍的で、個別的な対象を含まず、純粋に質的な述語だけを含んだ真なる言明である。ヘンペルとオッペンハイムの説明理論は上の図式から、説明は推論であり、前提条件と自然法則から現象が起こることが演繹されるという形で説明や予測がなされる、という特徴をもっている。また、説明と予測は原理的に区別がなく、自然法則は因果過程を記述する必要は必ずしもないので、その場合、説明において因果性は主要な役割を演じないこともわかる。
 ヘンペルとオッペンハイムは統計的な説明も科学的説明の一つとして認める。この説明は統計的な法則と初期条件から特定の出来事についての言明を高い確率で導き出すもので、次のような図式で表現できる。

C1, ..., Cn
L1, ..., Ln [p(E) = r](pは確率を表す)
E

確率p(E) が十分高い値なら、説明項は被説明項に対し、確実ではないが、十分信じ得る根拠を与える。

(問)説明が推論であることを使って、説明と記述の違いを述べなさい。
(問)被説明項が確定的な場合と確率的な場合の説明の違いを説明しなさい。

 ヘンペルとオッペンハイムの考えは力学を想定すれば全く正しいように見える。だが、推論としての科学的説明には幾つかの難点がある。代表的な二つの難点は次のようなものである。
(1)説明と予測の違い、内容の関連性
説明と予測は形式上区別がないというのがヘンペルとオッペンハイムの考えだが、二つが実質的に異なる場合があり、推論としての説明ではその違いが表現できない。気圧計の値が下がると、台風の接近を予測できるが、台風が接近していることから気圧計の降下も予測できる。しかし、いずれも説明にはなっていない。というのも、両方ともそれまでの気象条件から説明されるからである。また、説明や予測が内容から独立に特徴づけられていることから、関連のないことまで説明に含まれる場合がある。例えば、ピルを飲んでいる男は誰も妊娠せず、太郎がピルを飲んでいるから、彼は妊娠しないと演繹できる。しかし、これは彼が妊娠しないことの説明ではない。彼は男で、そもそも妊娠しないからである。いずれも形式的な推論の特徴付けだけからは識別できない事柄であり、それゆえ、推論としての説明では不十分である。
(2)低い確率の出来事の説明
 白血病になったことは、その人が原爆実験地から数キロのところにかつて住んでおり、そのような場所での放射能被爆白血病の発症の確率を高めるということから説明できる。同じ場所に住んでいた1,000人中1人が白血病になった。しかし、そのような場所にいたことのなかった人の場合は、10,000人に1人しか発症していないことから、低い確率であっても説明として認めるだろう。これは喫煙と肺ガンの場合も同じである。ある人が肺ガンになったことを40年間毎日二箱のタバコを吸い続けたからであると説明する場合、実際はそのように吸い続けた人の100人に1人しか肺ガンになっていないとしても、そうでない人に比べて発症率が高いことから、タバコが原因であるという説明を認めてしまう。これは統計的な説明につきまとう基本的な問題である。100人から1人しか選ばれなくとも、その1人に選ばれないとは限らない。このようなことから、統計的な説明や予測は何を説明、予測しているのか曖昧なのである。

 この難点に対する批判は二つに分かれる。一つは反例を認め、説明項は被説明項の原因に言及しなければならないとするもので、それが(b)の因果的説明である。
[因果関係としての説明]
 (b)の因果関係としての説明を見てみよう。それによれば、説明は認識レベルで特徴づけられるのではなく、世界の出来事の間で成立する関係として特徴づけられなければならない。出来事間の適切な関係の候補は因果関係である。説明と予測の関係も因果関係をもとにすれば、区別できる。推論としての説明がもっていた上述の難点はそれぞれ、非対称性(原因と結果の違い)、無関連さ(統計的結果の確率の低さ)とまとめることができる。 この難点に対してサーモンは、現象を説明するのはそれを予測するのに十分な情報を与えることではなく、その現象の原因についての情報を与えることであると考えた。サーモンによれば、説明とは自然法則を前提に含む推論ではなく、ある出来事の因果的歴史についての統計的に適切な情報の集まりである。彼は因果的な情報が説明に必要である理由を次のものと考えた。
  説明の情報の初期条件は被説明項より先に生じなければならない。
  法則から演繹できるすべてが説明にはならない。
 サーモンの因果的説明は次のような説である。

1.統計的関連:説明項Cは被説明項Eの確率を高める、つまり、 p(E|C) > p(E)。((P(A | B)は条件付き確率と呼ばれ、Bが生起するときのAの確率である。)
2.因果過程:説明項と被説明項は共に異なる因果過程の一部である。
3.因果的相互作用:因果過程は相互作用することによって問題の出来事Eを生じさせる。

ここに登場する因果過程とは何か。まず、それは連続的な時空の領域での出来事の系列であり、情報を伝達できるものである。連続した出来事の系列には光のビーム、壁を動く光、投げられたボール等がある。この中で情報を運ばないものがある。壁の光や影は情報を運ばない。これらは因果過程から排除される。情報伝達はある過程の離散的な段階の間の連結ではなく、その連続的過程そのものの性質である。
 サーモンによれば、二つの過程の性質の間に一致や相関があれば、その一致や相関を説明する二つの過程に共通の出来事があり、それが「共通原因」である。肺ガンになることCとニコチンを吸収することNの間に
p(C|N) > p(C)
の関係があるとき、これら二つの出来事の共通原因は長期間に渡る喫煙Sである。
p(C|N∧S) = p(C|S).
上の関係は「SはNからCを遮る(S screens C off from N. Sがあると、Nは不用になる。)」と言われる関係である。それは「共通原因」の正確な定義の一部であり、 p(A|B) > p(A)のとき、 CがAとBの共通原因とは次の条件が満たされる場合である。

p(A∧B|C) > p(A|C)p(B|C)
p(A∧B|¬C) = p(A|¬C)p(B|¬C)
p(A|C) > p(A|¬C)
p(B|C) > p(B|¬C)

この因果説にも難点がある。それを二つの例で見てみよう。恒星は進化するが、その崩壊が止まる。なぜか。パウリの排他原理(Pauli Exclusion Principle)を考えると、さらに崩壊が進めば、同じ状態を占める電子が存在するようになって、排他原理に違反する。だから、崩壊過程が停止する。これが通常の説明である。ここで排他原理は崩壊を止めることの原因ではなく、崩壊が止まることを予測するだけである。恒星が崩壊を止めるのはそれ以上の物理的な変化が不可能であるという否定的な情報からである。否定的な情報は原因にはなれず、因果過程の最終点を描くだけである。さらに、量子力学にはサーモンの理論に合わない例が多くある。サーモンの見解では科学の説明は共通原因による説明であり、時空の連続的な変化を前提にしている。だが、この連続性はミクロレベルでは成立しない。

(問)二つの共通原因の共通原因は元の出来事の共通原因だろうか。

[実用としての説明]
 推論としての説明への2番目の反対意見はフラーセンによるもので、説明は「なぜ」という問いへの適切な答えである。その説明が良い説明であるのは、推論として正しいからではなく、説明を受ける人々の興味といった背景知識に依存している。例えば、「なぜ次郎はミカンを食べたのか」という問に対して、背景知識の違いから問い方が複数考えられ、そこから複数の答えがあることになる。

(太郎ではなく)なぜ次郎はミカンを食べたのか
(それを描くのではなく)なぜ次郎はミカンを食べたのか
(リンゴではなく)なぜ次郎はミカンを食べたのか

これらの問は状況に応じて異なり、当然それに応じて異なる答えを要求している。したがって、「なぜ」という問は、問う対象が存在し、「なぜ」が何を聞いているか明瞭であり、適切さの基準が想定されている必要がある。このようなことは推論としての説明からは導き出せない。

ヤブラン

 昨日はヤブガラシ、今日はヤブラン(藪蘭)である。別名はリリオペサマームスカリで、東アジアに分布する常緑の多年草。主な自生地は標高100~1400mにある森林や林の中にあり、各地の山野や林床で普通に見られる植物である。日本には、ヤブランの他、同属の近縁種であるコヤブラン、ヒメヤブランが自生している。
 湾岸にもあちこちに植えられているが、それらの多くはヤブランの園芸品種である斑入りヤブラン(画像)。斑入り種は青葉種に比べるとやや葉の幅が広く草丈も低めで、ヤブランの中では小型の種になる。どれも「ラン」という名前がつくが、ランの仲間ではない。
 「ヤブラン」の名前は、藪などに自生し、葉がランに似ていることに由来する。ヤブランの花期は8月~10月で、今が花の時期である。花期になると葉の間から花茎を伸ばし、小さな藤色の花を穂状に咲かせる。

f:id:huukyou:20180925053812j:plain

f:id:huukyou:20180925053833j:plain

f:id:huukyou:20180925053851j:plain

決定論

[力学的な決定論
 どんな出来事にも原因があるというのが因果的な決定論の主張である。この形而上学的な主張はニュートンの力学によって、物理世界の決定論として精巧に具体化された。ニュートン決定論の洗練された表現はラプラスの魔物(物理学者ラプラスが思考実験で考えた架空の万能者)によって見事に与えられた。ラプラス決定論は、すべての事象は原理上決定されていて、正確に予測できるという普遍的決定論(Universal Determinism)である。原理上予測できない事象はなく、例外は許されない。だから、予測できない事象があったとすれば、それは私たちの無知のためである。だが、これは私たち自身の予測、予言を含めた思考が決定論の範囲内にあれば成立しない(なぜか?私たちが自らの予言を破ることができることを考えれば、予言破りは決定論破りであることがわかるだろう)。それゆえ、「知る」ことは世界の中にはなく、世界は私たちが知る、知らないということとは独立している(実在論)。それゆえ、確率は物理世界にはない私たちの無知のゆえに導入される。ある事象がどのくらいの確率で起きるかということは決定論的世界では何の意味ももっていない。決定論的世界ではどのような事象についてもそれが起きるか、起きないかのいずれか一方しか成立しておらず、事象が起きるなら確率1で起き、起きないならその確率は0である。
 私たちはコイン投げやサイコロ振りを確率的な出来事の典型例だと考えている。実際、公平なコインは表、裏の出る確率が1/2とみなされ、それをもとに確率モデルがつくられる。このような確率的な出来事は私たちの生活に馴染んでおり、公平な選択のためにコインやサイコロが使われ、時には賭けの道具にもなっている。しかし、ニュートン的な決定論が正しいとしたら、公平なコインを投げた場合の表か裏かの結果は決まっていないのだろうか。このような疑問に答えるためにラプラスの魔物に登場願おう。
ラプラスの魔物]
 ラプラスが生み出した魔物はコイン投げについての完璧な知識をもっており、投げられるコインの物理的な運命について完全に予測できる。魔物によれば、人間はコイン投げについて十分な物理的知識がなく、正確な予測ができないために、その過程が確率的に見えるに過ぎない。魔物はコイン投げで生じるバイアス(非対称性)は決して見逃さない。コインを投げるときの物理的な状態のバイアスが何であるかを的確に知り、それが結果にどのようなバイアスを生むかを正確に予測できる。コインを投げて裏か表が出たということは、その結果にバイアスがあったということであり、それは原因であるコイン投げのどこかに最初からバイアスが潜んでいたためである。バイアスとは、裏ではなく表が出た原因、表ではなく裏が出た原因である。これは筋の通った話に思える。というのも、この話は既に述べた対称性の原理の一例と考えることができるからである。対称性の原理を因果的決定論に適用すると、

結果に現れる非対称性は、原因がもつ非対称性によって引き起こされる、

と表現できる。この原理が成立している限り、魔物は原因のバイアスに注目することによって結果の裏、表というバイアスの予測を物理的な法則を使って行うことができる。

(問)バイアスのないコイン、バイアスのないコイン投げとはどのようなコイン、コイン投げでしょうか。

 以上のことから、魔物は物理的な状況に関して予測ができ、確率などに頼らなくても、個々のコイン投げを一回毎に正確に予測でき、したがって、すべてのコイン投げの系列について正確な予測を行うことができることになる。つまり、魔物にはコイン投げの過程は全く決定論的なのである。それゆえ、自然の過程に確率的なものは何ら含まれていないことになり、確率の使用を主張・擁護するのは誤っていることになる。
 この説明によれば、確率は私たち人間には不可避的に必要であるが、それは私たちが十分な知識をもつことができないために過ぎない。これが確率の古典的な解釈である。私たちが確率概念を使う理由は私たちの無知のためであり、十分な知識をもっていれば確率などに頼る必要はない。これがラプラスの魔物の主張である。
 さらに、現存する確率的な科学法則についても、それは現象的な法則であり、時間対称的な物理学の法則とは違って派生的なものに過ぎないと魔物は結論する。対象の変化を述べる現象的な法則は厳密な意味で法則ではない。そもそも確率が無知の反映であるから、それを使っての確率的な法則は法則と呼ぶに値しない。幽霊はどこにも存在しないが、考え出された多くの幽霊についての一般法則はつくろうとすればつくれる。統計法則はそのような類の法則であるというのが魔物の主張である。ちなみに、現象的と言われる法則にはエントロピー増大の法則やメンデルの遺伝法則がある。

(問)身長や体重の測定で生じる誤差と、コイン投げの確率を比べて、結果の系列や頻度に関して、二つの共通点を挙げてみよう。

決定論と予測可能性]
 ラプラスの魔物は、初期状態を正確に測ることができ、未来の予測のためには瞬時に完璧な計算ができなければならない。元来、決定論は実在の決定性を主張するものであり、私たちの認識とは何の関係もない。その決定論と予測可能性を同一視させる理由は古典力学の第2法則にある。第2法則と、微分方程式系の解が存在して、しかもその一意性を保証する定理とが結びつくことによって、系の初期条件が定まれば正確な予測が可能であることが数学的に証明できる。これによって現在の状態から演繹される未来や過去の状態が存在するということが保証される。さらに、この決定論は上の予測が実際に構成的に計算可能であるという定理によって強化される。ただ単に予測が可能というのではなく、実際に予測を計算できる。こうして古典的な決定論は予測可能性と同一視されることになる。そして、このような決定論=予測可能性という認識的な決定論理解が、ラプラスが魔物に対して与えた役割である。

(問)「ラプラスの魔物は、決定論を認識論化して、予測可能性に置き換えた」という謂い回しが何を意味しているか、自分の言葉で説明しなさい。

決定論と運命論]
 このような魔物の主張は私たちの行為にも当てはまるのだろうか。人の行為の予測は大抵できないが、それは私たちの無知のためだけなのか。ここで、決定論と運命論(Fatalism)の区別が重要である。物理世界が存在し、ある時点の状態がわかっていれば、ラプラスの魔物にとって古典力学が主張する決定論は運命論である。(したがって、この節のタイトルは運命論でもよかったのかもしれない。)決定論は、過去が異なっていたとすれば、現在も異なっていただろうという考えを排除しない。決定論はまた、現在私がある仕方ではなく別の仕方を選ぶならば、私は未来に起こることに影響を与えることができるという考えも排除しない。しかし、運命論はこれを否定する。現在あなたが何をしようと過去と未来はそれとは無関係に決まっているというのが運命論の主張である。つまり、決定論と運命論はほとんど正反対のことを主張している。運命論は私たちの信念や欲求が無力なことを主張するが、決定論では信念や欲求は因果的に私たちの行動をコントロールできることが主張されている。

(問)あなたが「これから(問)を考え、答えを出す」には決定論がどうして必要なのだろうか。その際、運命論が成立していると「これから(問)を考え、答えを出す」必要はあるのだろうか。

 ラプラスのような決定論的自然観を今の私たちはもっているだろうか。原理上その通りと答える人であっても、その原理は実現できないと考えていないだろうか。決定論的自然観は古典力学の一つの解釈に過ぎない。