誰の、何の都合?

 世の中はそれぞれの都合で動いてきた。街も美術館も、そして学校や国も、さらには制度や規則も、それらがあるのはことごとく人それぞれの都合から。
 最近は地球や自然の都合が私たちの生活を脅かすことしきりである。地球温暖化地震や洪水は結局は人の都合がもたらした自然の反応、つまり自然の都合である。国の都合、政治の都合も今は北朝鮮との対応を巡って危険領域を右往左往。自然の都合、国や政治の都合は私利私欲が目立たないが、政治家や政治団体の都合となれば、いつも見え隠れするのが政治家個人や団体の私利私欲。それこそが人の都合の正体そのもの。だから、人の欲と都合は切れることなく結びつき、愚行を暴露されても議員はその地位にしがみつき、政治家の離合集散が繰り返される。
 今こそ解散の好機と考えるのは政治家の嗅覚だが、それも政治家の個人的な都合。そこで「私利私欲で衆議院を解散する」と野党風に叫べば、それは「下衆の勘ぐり(ゲスのかんぐり)だ」と与党側から一蹴されるのが落ち。だが、友だちに利する決定が下衆の勘ぐりに過ぎないと証明しない限り、誰もが私利私欲が働かなかった上衆(じょうず)の決定だとは納得しない。となれば、一人の都合で解散できるというのは理不尽極まりなく、つまるところ、今の憲法解釈がおかしいことになるのだが…
 投票する有権者次第だと最後に言われるのだが、有権者がもつ選択の権利は、受け皿がなく、直接に首長を選べない中では露ほどもなきに等しいと応えたくなる。こんな繰り言が出るのも私の勝手な都合ということか。

紫色

 近くの公園に立派な花壇があり、様々な花が植えられている。色の種類も多く、実に見事と思いながら、それぞれの色を花の種類ごとに見直すと、色合いのバリエーションは意外に小さいものだと思い出す。例えば、紫色。4種類の花を見比べてほしい。ほとんど変わらない。だが、先人たちは、江戸紫に京紫、二人静紫式部、紫紺に茄子紺、藤紫に京紫、…と、何とも豊かな紫色を感じ、区別してきた。この限りでは、色の文化の方が色の自然より豊かなようである。
 むろん、これは限定的なことで、文化の色は自然の色とその認知をベースにつくられたことを思い起こせば、文化も自然も色について互いに競い合ってきたというのが正しいのだろう。

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(ローレンティア フィズアンドポップ パープル)

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(アンゲロニア セレニータ スカイブルー)

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(アゲラタム トップブルー)

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(トウテイラン)

謎を含んだ決定論(2):反教科書版

(復習)
 古典力学をベースに対象の運動変化を考えると、運動中の対象に決定していない状態があるというのは考えにくい。時空が決まれば、運動する対象の状態、つまり、対象の力学的な物理量は特定の時刻と場所で決まっているというのが大前提である。実際、対象の状態が特定の時刻と場所で決定していれば、いつでもどこでもその状態は決定されている、そしてそれを知ることができるというのが力学的な決定論の主張である。
 ところで、シュレーディンガーの猫の「生きているか、死んでいるか」がわからない状態はこの力学的な決定論の反例になっている(原理になっているのがハイゼンベルク不確定性原理)。猫は運動していないが、猫の生存と死亡は確かに猫の状態変化である。どんな見事なマジックであっても、箱の中のボールは赤いか赤くないかのいずれかに決まっている。だから、それを超える超絶マジックとなれば、箱の中のボールの色は決まっていない状態にあるということになるだろう。
 このような例がもたらす帰結は、決定論的でない状態は考えることができないような、理不尽な状態だということである。そこで誰もが考えるのは、確かに箱の中のボールの色はわからないが、ある色であることが決まっていて、私たちはそれを知らないだけに過ぎないということである。ボールの存在やその性質は決まっているが、それらをすべて知らないことが「決定していない」という判断をもたらす、と考えるのが保守的な古典主義者の立場である。

 さて、古典力学が決定論の代表なのだが、対象とするシステムとそれを知り、使う主体は互いに独立しているということが決定論の大前提になっていた。ラプラスの魔物は世界の外にいて、世界を傍観することに徹していた。だから、彼らは世界を決定論的に知ることができた。同じように私たちも世界を俯瞰的に眺め、対象を乱し、汚すことなく知ることができる。世界と私たちの間には相互不可侵の条約が結ばれているかのようである。それゆえ、私たちは安心して何がどのように決まるかを知ることができるのである。このように私たちが「決まることを知る」ことができるという考えは古典的知識観と呼んでもいいだろう。
 一方、私たちは自由意志をもつ主体であり、自ら決める主体であり、何かによって決まるだけの対象ではない。私たちの人生は決めることの積み重ねからでき上がっている。決めるだけではなく、私たちは決めたことを実行し、結果を生み出す。世界は私たちが決めたことの集積なのである。
 世界と主体との関わりは、したがって、「決める」と「決まる」という二つの述語によって別々の仕方で表現されることがわかる。古典的な決定論的世界は「決まる」ことの集まりであり、自由意志をもつ私たちの自由に「決める」ことの集まりが日常的な非決定論的世界なのである。つまり、物理的なシステムから主体への因果作用は「決まる」という述語で、主体から物理的なシステムへの因果作用は「決める」という述語で表現できる。それゆえ、古典的な決定論的世界では「決まる」という述語だけで話は済むが、日常的な非決定論的世界になると、「決まる」と「決める」の両方の述語が共在することになる。
 そこで、これら二つの述語について考えてみよう。「決める」ことの構造は直接の論理的な分析に馴染まなく、そのため、これまで「決まる」ことの構造を中心に論理的な分析が行われてきた。「決まる」のほうがはるかに論理的な分析が容易であるからである。「決める」方の仕組みは因果的でも、決定論的でもない。例えば、「証明可能である」という述語を考えてみよう。形式的なシステムFについて、「証明可能である」という述語Pは次の条件を満たしている。

(1)文AFにおいて証明可能なら、P([A])も証明可能である。(ここで[A]はAゲーデル数で、Aの名前である。)
(2)Fにおいて、P([A])かつP([ABを含意する])なら、P([B])である。
(3) Fにおいて、P([A])なら、P([P[A]])である。

上の「証明可能性」という性質は推移的でも因果的でもない。確かに、主体Sは明示されていないが、証明をするのは主体であり、その主体が証明できるかどうかの構造が「証明可能」という述語の内容である。しかし、形式的に扱うには主体Sを直接に表現することはできない。そこで、Sは背後に隠れることになり、どのような主体であれ、その証明を行なう証明構造そのものが形式化されることになる。「証明可能である」は「決める」の一例に過ぎないが、私たちが「決める」に読み込むのはこれ以外の意志的な作用も含まれている。証明可能性という「決める」の性格は因果的ではない。「決まる」世界は因果的であるのに対し、これは際立った違いである。「決める」から「決まる」のでありながら、両者は異なる論理に従っている。しかし、「決める」ことが介在しない「決まる」と、「決める」から「決まる」とは全く異なる「決まり」方であるにもかかわらず、「決まって」しまうならば、いずれであれ因果的に「決まる」ことになってしまう。「決める」は「決まる」世界では何の効果や影響も残さないで、すべては単に「決まる」世界として私たちの考察対象になることができる。
 「決める」の性格を論理的構造以外に特徴づけることはできないのか。それは「決める」のダイナミックな側面を考えてみることだろう。もっとも具体的な側面は行為の決定の側面である。「決める」行為が複数競合し、その間に競争が生じる場合がよく扱われてきた。その典型はチェスや将棋のようなゲームである。これらゲームは一定の規則の下に行われるが、ゲームの規則は物理法則ではない。むろん、論理法則でもない。それは言葉の規則に近い。ただ、規則を認める限り、その適用と結末は論理的に定められる。将棋の各駒の動き方は決められている。勝負での駒の動きはそれぞれの対局者が「決める」。この勝負は因果的に決まるのではなく、対局者による駒の動きの決め方に依存している。このような約定による一連の動きは因果的に考えただけではわからない。
 上の例は「決める」がこの世界に滲み出ている例である。約定による行為は因果的に考えたのでは理解できない動きである。これは「決める」が主導権をもっている動きであり、単なる因果系列とは異なる内容を情報として含んでいることを示している。
 物理学は相互作用を扱うことが苦手である。力学はその代表であり、三体問題はこの格好の例である。では、相互作用を扱うのがなぜ困難なのか。相互作用は開いた複数のシステムを必要とする。開いたシステムの扱いは保存則が成立しないという点だけでも閉じたシステムとは比較にならないほど難しい。さらに複数のシステムを同時に扱うことは一つのシステムを扱うのに比べて数段手がかかる。この二つの厄介な理由が相互作用の物理学の進展を阻んできた。だが、物理学から眼を転じるならば、相互作用を扱う知識は溢れている。それらがすべて確固とした基礎をもっていないなどと言うことはできない。物理学無しに相互作用を扱うトリックはどこにあるのか。それは物理量を基礎に置かないことである。物理量でない典型的なものが情報量である。情報は実に多義的である。物理量として狭く定義することを拒まないと同時に、意味や内容の質的なものまでも担当している。このような広がりをもつ概念ではあっても、それは物理的ではない。情報を基礎に置いた相互作用の代表例が遺伝である。遺伝情報と呼ばれる遺伝子の内容は化学的な組成や構造とは明らかに異なっている。遺伝子の内容は単なるDNAの断片でも化学反応でもない。
 意味や内容は情報の一部であると共に、言語の重要な成分となっている。意味をそうでないものに置き換える試みは実に多く考えられてきた。意味の検証理論、行動性向解釈はその代表例である。そのような経験や行動への読み替えは詰まるところ相互作用に辿り着く。情報という概念が厄介なのはそれが新たな視点や概念を誘導することである。例えば、力学的なシステムにデザインという視点は必要でないが、情報が組み込まれた生物システムにおいてはデザイン、機能は不可欠の概念となってくる。意味や内容を扱う心的モデルはさらに志向的な視点が要求される。そして、社会科学においてはこれらの異なる視点や概念が並存している。相互作用から始まるこの一連の概念の導入は事態を驚くほど複雑にする。
 「決める」操作が入る限り、「決まる」内容はその「決める」操作の影響を受ける。「決める」操作の影響は「決まる」内容に滲み出てくる。ここまでの叙述はいささか哲学的になり過ぎたかもしれない。それをまとめれば、次のようになるのではないか。決定論の主張は「決まる」対象について言われてきた。私たちの自由意志は「決める」主体について言われてきた。したがって、自由と決定の関係は、「決める」と「決まる」の間の関係として考えることができる。
 「決まる」と「決める」の対に似た対は他にもたくさんある。例えば、「起きる」と「起こす」、「変わる」と「変える」である。「決める」、「起こす」、「変える」はいずれも意志的であり、「意識する」、「考える」、「知る」と同じように自由意志の存在を示している。古典的世界観が偏屈な印象を与えるのは、これらの述語の違いをうまく説明できないことである。つまり、古典的世界観のもとでは「決める」、「起こす」、「変える」、「意識する」、「知る」といった述語をどのように表現できるかわからず、無理やりそれらを心の世界に押し込めるといった対策しかとらなかったのである。

謎を含んだ決定論(1):教科書版

その前に
 古典力学をベースに対象の運動変化を考えると、その対象に運動中決定していない状態があるというのは考えにくい。時空が決まれば、運動する対象の状態、つまり、対象の力学的な物理量は特定の時刻と場所で決まっているというのが大前提である。実際、対象の状態が特定の時刻と場所で決定していれば、いつでもどこでもその状態は決定されている、そしてそれを知ることができるというのが力学的な決定論の主張である。
 ところで、シュレーディンガーの猫の「生きているか、死んでいるか」がわからない状態はこの力学的な決定論の反例になっている(原理になっているのがハイゼンベルク不確定性原理)。猫は運動していないが、猫の生存と死亡は確かに猫の状態変化である。どんな見事なマジックであっても、箱の中のボールは赤いか赤くないかのいずれかに決まっている。だから、それを超える超絶マジックとなれば、箱の中のボールの色は決まっていない状態にあるということになるだろう。
 このような例がもたらすのは、決定論的でない状態は考えることができないような、理不尽な状態だということである。確かに箱の中のボールの色はわからなくても、ある色であることが決まっていて、私たちはそれを知らないだけであると誰もが考える。存在や性質は決まっているが、それらをすべて知らないことが「決定していない」という判断をもたらす、と考えるのが保守的な古典主義者の立場である。

では、教科書版の始まり
どんな出来事にも原因があるというのが因果的な決定論の原型である。この形而上学的な主張はニュートンの力学によって、物理世界の決定論として精巧に仕立て直された。ニュートンの決定論の洗練された形はラプラスの魔物(物理学者ラプラスが思考実験で考えた架空の万能者)によって見事に表現された。ラプラスの決定論は、すべての事象は原理上正確に予測できるという普遍的決定論 (universal determinism)である。原理上予測できない事象はなく、例外は許されない。だから、予測できない事象があったとすれば、それは私たちの無知のためである。だが、これは私たち自身の予測を含めた思考が決定論の範囲内にあれば成立しない(なぜか?)。それゆえ、「知る」ことは世界の中にはなく、世界は私たちが知る、知らないということとは独立している。確率は物理世界にはない私たちの無知のゆえに導入される。ある事象がどのくらいの確率で起きるかということは決定論的世界では意味をもっていない。決定論的世界ではどのような事象についてもそれが起きるか、起きないかのいずれか一方しか成立しておらず、起きるなら、それは確率1で起き、起きないなら、その確率は0である。

*確率は誰もが学校で学び、計算にも上達し、うまく使うのだが、「サイコロを投げて3の目が出る確率が6分の1である」という言明が何を述べているのかということになると、しどろもどろになる場合が多い。この言明は一体何を意味しているのか、自問自答してみてほしい。そして、以下の文章に進んでほしい。

 私たちはコイン投げやサイコロ振りを確率的な出来事の典型例だと考えている。実際、公平なコインは表、裏の出る確率が1/2とみなされ、それをもとに確率モデルがつくられる。このような確率的な出来事は私たちの生活に馴染んでおり、公平な選択のためにコインやサイコロが使われ、時には賭けの道具にもなっている。しかし、ニュートン的な決定論が正しいとしたら、ある公平なコイン投げの表か裏かの結果は決まっていないのだろうか。このような疑問に答えるためにラプラスの魔物に登場願おう。
 ラプラスの魔物はコイン投げについての完璧な知識をもっており、投げられるコインの物理的な運命について完全に予測できる。魔物によれば、人間はコイン投げについて十分な物理的知識がなく、正確な予測ができないために、その過程が確率的に見えるに過ぎない。魔物はコイン投げで生じるバイアス(非対称性)は決して見逃さない。コインを投げるときの物理的な状態のバイアスが何であるかを的確に知り、それが結果にどのようなバイアスを生むかを正確に予測できる。コインを投げて裏か表が出たということは、その結果にバイアスがあったということであり、それは原因であるコイン投げのどこかに最初からバイアスが潜んでいたためである。これは理屈の通った話に思える。というのも、この話は既に述べた対称性の原理の一例なのである。対称性を因果的決定論に適用すると、

結果に現れる非対称性は、原因がもつ非対称性によって引き起こされる、

と表現できる。この原理が成立している限り、魔物は原因のバイアスに注目することによって結果の裏、表というバイアスの予測を物理学的に行うことができる。
 以上のことから、魔物は物理的な状況に関して予測ができ、確率などに頼らなくても、個々のコイン投げを一回毎に正確に予測でき、したがって、すべてのコイン投げの系列について正確な予測を行うことができる。つまり、魔物にとってはコイン投げの過程は全く決定論的である。それゆえ、確率の使用を主張・擁護するのは誤っており、自然の過程に確率的なものは何ら含まれていないことになる。
この説明によれば、確率は私たち人間には不可避的に必要であるが、それは私たちが十分な知識をもたないために過ぎない。これが確率の主観的な解釈である。私たちが確率概念を使う理由は私たちの無知のためであり、十分な知識をもっていれば確率などに頼る必要はないのである。
さらに現存する確率的な科学法則についても、それは現象的な法則であり、時間対称的な物理学の法則とは違って派生的なものに過ぎないと魔物は結論する。対象の時間発展を述べる法則は厳密な意味で法則ではない。そもそも確率が無知の反映であるから、それを使っての確率的な法則は法則と呼ぶに値しない。幽霊はどこにも存在しないが、考え出された多くの幽霊についての一般法則はつくろうとすればできる。統計法則はそのような類の法則であるというのが魔物の結論である。ちなみに、現象的と言われる法則にはエントロピー増大の法則やメンデルの遺伝法則がある。

 ラプラスの魔物は、初期状態を正確に測ることができ、未来の予測のためには瞬時に完璧な計算ができなければならない。元来、決定論は実在の決定性を主張するものであり、私たちの認識とは何の関係もない。その決定論と予測可能性を同一視させる理由は古典力学の第2法則にある。第2法則と、微分方程式系の解が存在して、しかもその一意性を保証する定理とが結びつくことによって、系の初期条件が定まれば正確な予測が可能であることが数学的に証明できる。これによって現在の状態から演繹される未来や過去の状態が存在するということが保証される。さらに、この決定論は上の予測が実際に構成的に計算可能であるという定理によって強化される。ただ単に予測が可能というのではなく、実際に予測を計算できる。こうして古典的な決定論は予測可能性と同一視されることになる。そして、このような決定論=予測可能性という認識的な決定論理解が、ラプラスが魔物に対して与えた役割である。
 このような魔物の主張は私たちの行為にも当てはまるのだろうか。人の行為の予測は大抵できないが、それは私たちの無知のためだけなのか。ここで、決定論と運命論 (fatalism)の区別が重要である。物理世界が存在し、ある時点の状態がわかっていれば、ラプラスの魔物にとって古典力学が主張する決定論は運命論である。決定論は、過去が異なっていたとすれば、現在も異なっていただろうという考えを排除しない。決定論はまた、現在私がある仕方ではなく別の仕方を選ぶならば、私は未来に起こることに影響を与えることができるという考えも排除しない。しかし、運命論はこれを否定する。現在あなたが何をしようと過去と未来はそれとは無関係であるというのが運命論の主張である。つまり、決定論と運命論はほとんど正反対のことを主張している。運命論は私たちの信念や欲求が無力なことを主張するが、決定論では信念や欲求は因果的に私たちの行動をコントロールできることが主張されている。

(問)あなたが「これから(問)を考える」ためには決定論がどうして必要なのだろうか。その際、運命論が成立していると「これから(問)を考える」必要はあるだろうか。

 ラプラスのような決定論的自然観を今の私たちはもっているだろうか。原理上その通りと答える人であっても、その原理は実現できないと考えていないだろうか。決定論的自然観は古典力学の一つの解釈であり、今ではそれが成立しないことが知られている。

人の都合

 荒川と隅田川という名称は人の都合で変えられた。隅田川はもともと荒川の下流だったが、「荒川放水路」の完成によって隅田川と名前が変わった。荒川放水路(現在の荒川)と隅田川の分岐点は、北区の岩淵付近。荒川放水路を荒川、本来の荒川下流部が隅田川となったのは、1965年の河川法改正以来のこと。それまでは現在の千住大橋付近までが荒川、それより下流域が隅田川と区別されていた。隅田川は「澄んだ川」を意味し、千住付近では千住川、浅草付近では浅草川、それより下流が大川と呼ばれ、江戸の住人に親しまれた。
 画像は現在の隅田川、荒川の河口部。隅田川左岸から築地、築地大橋、浜離宮、竹芝が見える。荒川右岸から荒川河口橋(長さは840m)、葛西臨海公園、ディズニーリゾートが見える。二つの川の大きさの違いは画像からも一目瞭然。

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いつもの秋

 ありきたりに小さな秋を見つけるもよし、秋の実りを楽しむもよし、そんなことができる幸せが如何に脆いものか肝に銘じて生きていくべし、などとついしんみりと感じ入るのも秋ならではのこと。
 何かが僅かでも狂うと、自然であれ、社会であれ、精神であれ、不安定になって暴走、迷走する。だが、そんな異常が起こるらしいことは予測できても、いつどこでとなると叶わぬのが今の人の知恵、知識で、あらかたのことは一寸先は闇で、わからないまま。
 だからこそ、正確に予測しなくてもよい未来を手にしたいものだと逆手に出る向きがいるかと思えば、正確に予測できないゆえに未来に対して淡い希望をもち続けることができるのだと能天気になれる者もいる。
 そんな人の思惑など一切気にせずに、今年も秋は平然といつもの秋である。

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アリストテレスの正常モデル

(今回もアリストテレスの影響の強さ、呪縛の内容についての話)
 アリストテレスは他の動物との比較によって人の生殖を研究した最初の人であり、彼の考えによれば、精子が胎児を産み出す種をもち、月経の血がそれを成長させる土壌となる。アリストテレスは、胎児をつくり、成長させるのは霊魂であり、男はその形相因、機動因であり、女はその質料因であると考えた。彼の考えはトマス・アクィナスに引き継がれ、カトリック神学の基盤となる。人間はまず植物的、次に動物的、最後に人間的の順に成長していく。初期の教会では嬰児殺しより、植物的段階の堕胎に対する倫理的な反対の方が少なかったのはこの考えからである。また、精子は生命の本質であるので、それを浪費することは重大な罪と見做された。一方、イスラム教では女の精子も生殖において血や肉を造る素になると考えられ、男の精子だけでは生命はできないので、男の精子の浪費は問題ではないとされた。こうして、マスターベーションに対してキリスト教イスラム教では異なる態度が取られることになった。
 性やジェンダーの議論に限らず、人間の心理や行動を語る場合、「正常な(normal)」、「異常な(abnormal)」という言葉が多用される。今でも、病気は身体的、精神的な異常だと考えられている。「異常性愛」という言葉は正常な性愛があって、そこからのズレと考えられている。「正常」や「異常」には機能不全の他に、事の「善し悪し」に似た、価値判断が含まれているようにみえる。ここには規範にかなっていれば正常、もとれば異常という判断が含まれているようである。そのような判断が含まれているのであれば、「正常」や「異常」を含む考察や研究は価値判断を含むものとなってしまう。「健康」と「病気」との区別にも同じような価値判断が含まれている。では、このような理解はどこから生まれてきたのか。

 どのようなものにもそれ本来の存在の仕方と場所があり、その本来的な姿を正しく把握することが本質の理解につながるというのがアリストテレスの「正常モデル」の考えである。アリストテレスの物理学は目的論(teleology)に満ちている。彼は星も有機体に劣らず、目的志向型のシステムであると信じていた。内的な目的が重い対象を地球の中心へと引きつける。重い対象はこれを自らの機能としてもっている。どんな対象にもその自然状態があり、その対象の不自然な状態から区別される。対象が不自然な状態にあるのは外部からの干渉が働いた結果である。自然な状態にある対象に働いて、その対象を不自然な状態にする干渉力は、自然なものを偏向させる原因である。したがって、自然の中に見られる変異は自然な状態からの偏向として説明される。干渉力がなければ、重い対象、軽い対象ははみなそれぞれの本性に従い、本来の場所に存在することになる。ニュートンとそれ以後の物理学には「自然な」、「不自然な」という語は登場しなくなるが、アリストテレスの区別はそれらの物理学においても可能である。対象に働く力がなければ、当然、干渉力もない。力学での自然状態は力の働かない状態であり、「慣性の法則」がこれを表現している。また、目的と機能はアリストテレスでは結びついていたが、ニュートン以後の物理学では切り離されている。
 このモデルは物理的なものだけではなく生物に対しても適用される。人間の正常な姿が人間の本質を具体化したものであり、その本質からズレたものが正常でないものである。それら異常なものはたとえ出現しても篩にかけられ、選択され、支配的になることはない。このモデルは天体の構造や生命現象を大変うまく捉えている。模範になる姿があって、それに外れるものはたとえ存在しても、あくまで例外に過ぎない。

 アリストテレスの正常モデルと根本的に異なるのがダーウィンの変異モデルである。彼は生物集団の中には常に変異(variation)が存在し、それが個体差(個人差、個性)として選択のふるいにかけられ、生存と生殖に関して有利なものがその集団の中で多数を占めるようになるという、いわゆる自然選択説によって生物の進化を説明した。この説明の出発点は変異の存在である。この変異、個体差には正常も異常もない。あるのは個体間の差だけであり、この差が選択の原動力になっている。したがって、正常、異常とはある時点の集団の多数派、少数派に過ぎなく、本質的なものではない。

 このように見てくるとアリストテレスニュートンダーウィンの違いは歴然としている。では、私たちが現象を考える際、いずれのモデルを採用して考えているだろうか。多分、物理現象、生命現象に関してその原理的な部分ではニュートンダーウィン風に、私たち自身の身体的現象、行動に関してはアリストテレス風に考えているだろう。異常な行動は大抵の場合悪い、してはならない行動とさえ考えられている。このように述べただけでも、そのような分析が価値判断を含むかどうか、価値判断からは中立かといったステレオタイプの問題ではないことが明らかだろう。
 アリストテレスのモデルが(かつて考えられていたように)正しい科学的なモデルであれば、「正常」、「異常」は優れて科学的な概念であり、それら概念を正しく使っての判断は正しい科学的な判断である。一方、ダーウィンのモデルが正しい科学的なモデルであれば、「正常」、「異常」は科学的に誤った概念であり、それら概念を使っての判断は科学的に誤った判断ということになる。この表現のどこにも価値判断など入っていない。問題は「正常」、「異常」を最初から価値判断が入っていると思い込むことである。確かに、より複雑な人間の行動に関しては科学的でない基準や約定が関与しており、そこから価値判断を含んだ「正常」や「異常」が生まれ、伝統をつくってきた。しかし、それら基準や約定は科学的な知見に依存している。その科学的な知見が正しいかどうかを判定するのはいずれのモデルを選ぶかという問題であり、価値判断とは独立した事柄である。

(問)誰かの考えや行動について、正常か異常かと尋ねられたとき、あなたはどのような基準で判断してきたか。その判断に価値が含まれていると思っていたか。


 まず、正常や異常の区別のない物理学でのモデル、それも簡単な古典力学のモデルを考えてみよう。そもそもなぜ力学モデルには正常や異常の区別がないのだろうか。この問いに対して、異常なものは力学法則に違反するが、力学法則は普遍的であるから、異常なものは存在し得ないというのが普通の答えであろう。力学法則の普遍性が正常、異常の区別の存在を否定するのである。この説明は一見説得力があるように見える。しかし、二つ以上の異なる自然法則があり、境界条件等の違いによってその適用範囲が異なるなら、一方の法則に従うものを正常、他方の法則に従うものを異常と呼んではいけないのだろうか。粒子と波は異なる法則に従う。粒子は波の異常な形態なのか、あるいは波は粒子の異常な形態なのか。この問いに対する常識的な答えは、対象に関する多元論である。波と粒子を異なる対象として共に認めるならば、波は波の法則に、粒子は粒子の法則に従い、正常、異常の区別は「異なる対象には異なる法則を」という多元論のモットーに従って回避されることになる。そして、同一の存在論的なカテゴリーの中では正常、異常がないことも保たれる。粒子と波が異なる法則を要求しても、それらは二元論という棲み分けによって両立する。粒子は波と異なるが、粒子の中では正常、異常の区別はなく、これは波についても然りである。
 多元論の導入は物理学では普通のことのように見えるが、これが決して十分な解決でないことは物理学自身の統一理論(unified theory, GUT)への試みがその端的な証拠となっている。この理論は異なる力を統一して普遍的な説明を求めようとしている。物理現象に対する統一的な説明は物理法則の普遍的な適用によってなされ、その適用は対象の一元論を要求するのである。つまり、「異なる対象には異なる法則を」ではなく、「どんな対象にも同じ法則を」が求められている。
 では、物理法則に関して同じカテゴリー内で正常、異常の区別の可能性が考えられないのはどのような理由からなのか。同じ物理量の組について二つ以上の理論がつくられたら、一つだけが生き残るか、あるいは総合されて一つの理論になり、その結果、理論の主張は一つの自然法則にまとめられ、同じ種類の対象について二つ以上の異なる内容の法則が成立することはないからである。これは正常、異常の区別が存在しないことの極めて強い理由である。では、原子は正常と異常の区別ができるか。原子は物理量の違い以外は同じであり、物理学では物理量以外の性質は不問に付されている。物理量は変化し、原子を根本的に区別するものではないと考えられている。したがって、物理量を除いた原子は基本的に皆正常である。その理由は皆同一であるからである。
 それでは、物理学以外の場合はどうか。化合物、細胞、生物個体、生物種(species)と階層的に考えていくと、次第に正常とそれからのずれが説明において必要になってくる。そして、その典型が生物種であり、生物種は一定範囲内の性質の束を共有しているにもかかわらず、同一種内の個体は皆互いに僅かに異なっている。極端な場合が私たち人間の個人である。例えば、水の分子をみな同じと見なすことに不自然さはないが、人間を含めた生物個体の場合、種内の個体差は歴然と存在し、それを無視することは重大な影響を生む。むしろ、個体差こそが私たちの個体概念の基礎となっている。実際、各個人は他の個人と異なることによってその存在を保っている。これは原子や分子という存在と生物個体や個人が極めて異なった存在であることを示している。原子や分子は文字通りの意味でユニークな個体ではない。それらはタイプの一例以外の何ものでもなく、酸素原子はタイプ「酸素」の具体例という特徴しかもっていない。部屋に充満する酸素原子はどれも同じ原子であるが、その部屋にいるハエや人間の各個体は皆異なっている。だから、生物個体や個人については正常、異常を自然に考えることができる。皆異なっていながらも、一定の範囲にあるものが正常、他は異常と判定できるからである。同一の遺伝子をもつ双生児であっても、私たちは彼らを異なる人間と見る。実際、一卵性双生児であっても異なる特徴や性質をもっているし、時には一卵性双生児の一方だけが異常とされる場合すらある。

 私たちの日常生活の中でアリストテレスの正常モデルはしぶとく生き残り、正常や異常の区別が差別や偏見を生み出している。ダーウィンの変異モデルはもっと重宝されてもいいのではないか。