生命の変化(9)

9適応主義
(適応主義批判)
 1979年に中立説-選択説の論争以上に多くの人の関心を引いた論争が起こった。グールドとルイントンは自然選択一辺倒の説明に対する辛辣な批判論文を書いた。それが“The Spandrels of San Marco and the Panglossian Paradigm: A Critique of the Adaptationist Programme” (Gould and Lewontin, 1979)である。既に述べてきたように、自然選択は集団に有利な変異の蓄積をもたらす。ダーウィンによれば、長い期間に渡っての集団内の有利な変異の蓄積は有機体を互いに対してだけでなく、その環境にも適応するようにする。だから、自然選択は私たちが自然のなかで観察できる適応に対して説明を与えることができる。つまり、選択が働いたシナリオがわかれば、適応した形態や行動の説明はできる。これは誤っていないが、すべての形態や行動が適応であるわけではない。だが、そのように考える研究者が多く、それが彼らの批判の的になったのである。彼らはいわゆる「適応主義者」が進化のメカニズムとして自然選択にばかり関心を寄せるだけでなく、自然界があたかもうまく適応しているかのように見てしまうと非難する。さらに、彼らによれば、適応主義者は特定の形質の適応的な役割がうまく説明できないとき、別の適応主義的な話を捏造してしまうか、有機体の環境を十分に理解していないことに説明できない理由があると考えてしまう。次から次へと自然選択に頼った別の適応のシナリオを考え続けるのではなく、選択だけではない浮動を含む、別の可能な進化要因を考えるべきだというのが彼らの主張である。例えば、人間のあごは、選択が働いた結果、獲得された形質だというより、発生上の制約からくる副産物なのである。
 また、ある形質はかつて特定の機能のために選択されたのだが、その形質はもはやその機能を果たさなくなってしまった場合がある。例えば、鳥の羽は温度調節を助けるために進化したと信じられているが、今では羽は翼として飛ぶという異なる機能をもつようになっている。結局、進化の多くは適応的ではない。これが彼らの主張である。では、この批判の対象になっている適応主義とは一体どのような考えなのだろうか。

(適応主義とは何か)
 適応主義とは自然選択の力に関するテーゼである。生命の樹という進化の事実について疑念をもたない者も、進化のメカニズムについては疑いをもつ場合がある。上述の論争が何であるかを理解するために簡単な選択過程のモデルを考えよう。ウサギの集団の中に足の速いものと遅いものがいるとする。足の速いものが遅いものに打ち勝ち、最終的には足の速い形質が集団に固定するとする。簡単のためにウサギは単性生殖し、速さは他の形質とは独立に進化するとする。更に、突然変異も遺伝的浮動も何ら効果を及ぼさないとする。
 これらの仮定は明らかに誤りである。実際の世界には仮定以上の複雑な事柄が含まれている。もしモデルを現実的なものに近づけていったならどのようになるだろうか。もしより現実的なモデルをつくっていくなら、「足の速いという形質が集団に固定する」という結論は何か影響を被ることになるのか。適応主義者の答は影響がないというものである。彼らによれば、自然選択は集団の進化を決定する極めて強い決定因子なので、それ以外のものは無視しても大丈夫なのである。もし単純なモデルで足の速い形質が100%になるなら、より複雑で現実的なモデルでも同じような結論が得られる。自然選択についてのモデルがあれば、他は考慮しなくとも構わないというのが適応主義者の答である。
 ある集団Xの個体がある形質Tをなぜもつかを説明する場合、自然選択がどのように関係しているかについて、次の三つのテーゼを区別することができる。

(U)自然選択はXに至る系統の中でTの進化にある役割を演じてきた。
(I)自然選択はXに至る系統の中でTの進化に重要な役割を演じてきた。
(O)自然選択はXに至る系統の中でTの進化に唯一の重要な役割を演じてきた。

これらのテーゼは論理的な内容の強さの順に並んでいる。(I)は(U)を帰結するが、逆は成立しない。(O)は(I)を帰結するが逆は成立しない。(O)が真なら、形質進化の説明は自然選択を無視することができない。(I)が真なら、形質の説明に非選択的な要因を無視しても構わない。(U)が真でも、選択以外の進化の要因が働いた可能性を否定できない。適応主義の主張はこの(O)に近い。自然選択にだけ焦点を当て、他の要因を無視するモデルが十分な説明になっていると考えるのが適応主義である。
 適応主義が何を意味しているかをより一般的な文脈で考えてみよう。適応主義者は通常彼らのテーゼを表現型の特徴に限定する。彼らはしばしば分子レベルの特徴については(O)や(I)が誤まっていることを認める(中立説の主張を思い出してみよ)。これから、適応主義を次のように表現することができる。

適応主義:集団の大半の表現型レベルの形質は、自然選択だけを考慮し、非選択的な要因が無視されたモデルによって説明することができる。

これは(O)の一般化である。(U)や(I)についても類似の一般化は可能である。(U)の一般形式は、自然選択は他の進化要因と同じように、いたるところにあると主張している。(I)の一般化は、自然選択は表現型の進化の重要な原因の一つであると述べている。だから、(I)が真であれば、自然選択を無視するのは誤まりということになる。適応主義に関する論争は(O)の一般化に関してのものである。適応主義をさらに強い形で考えると、自然選択ですべての表現型レベルの形質を十分説明できるという主張になる。
 ところで、適応とは何だったろうか。適応の標準的な理解によれば、それは「歴史的な」概念だった。ある形質が適応であるとはそれが選択の産物である場合であり、かつその場合に限られていた。この標準的見解は適応の歴史的でない概念とは相容れない。歴史的でない、工学的な適応の理解では、形質が適応とはそれをもつ有機体に現在利益を与える場合である。標準的な見解では、「適応(adaptation)」という用語が歴史的意味で使われ、「適応的(adaptive)」や「適応性(adaptedness)」が歴史的でない意味として使われる。歴史的見解をとるグールドらは「適応」という語を選択された機能を現在も有している形質に制限し、選択された機能以外の機能を果たしている形質を外適応(exaptation)と呼んでいる。既述の鳥の羽はこの例である。
 多くの哲学者や生物学者はグールドとルイントンが適応主義プログラムに対する決定的な批判を行ったと考えるが、適応主義を擁護する者もいる。グールドらの批判はポパー反証主義に基づいていると考える者もいる。多くの誤解も見られ、適応主義がすべての形質が適応であると主張すると信じられたり、反適応主義者はすべての形質が非適応的だと主張すると考えられている。既に適応主義の論争が(O)やその一般化に関するものだと述べた。ここで適応の定義を思い出してみよう。(O)と並べて書いてみると下のようになる。

(O)自然選択はXに至る系統の中でTの進化に唯一の重要な役割を演じてきた。

特徴cは集団において仕事tをするための適応である

特徴cをもつための選択が祖先に存在し、それが仕事tを実行することによって祖先の適応度を高めたゆえに、集団のメンバーが現在cをもっている。

(O)が成立していると、適応の定義項が満たされることから、形質Tは適応である。適応は定義上選択によって生み出されるものだから、過去の選択と適応は同じ意味となり、選択は適応の経験的な説明ではないことになる。したがって、適応主義の論争は(O)がどの程度正しいかという問題となる。これは経験的で生物学的な論争である。確かに哲学者はこのような経験的論争を分析して何が問題かを明らかにできる(これは中立説に関する論争でも全く同じである)。しかし、最終的にはそれは経験的な問いであり、哲学者が口を差し挟むことではない。
適応主義の論争は他の哲学的論争を引き起こしてきた。例えば、適応主義プログラムの所産の一つが社会生物学である。これは自然選択説を動物行動、そして人間行動に適用したものである(古典的テキストはウイルソン(E.O. Wilson, Sociobiology, 1975))。 そのため、社会生物学では(物理的特徴だけではない)多くの人間行動が祖先の生存能力を高めた適応として説明できると考えられている。ウイルソン利他主義社会生物学の中心問題と考えた。自然選択を通じて行動を説明しようとする理論は、自らの適応度を犠牲にして他人の適応度を高めるように見える行動が進化できたのはどのようにしてかを説明しなければならない。
 社会生物学を巡る論争の幾つかは適応主義の論争と呼応している。批判者はパングロス的な、テストできないお話づくりに過ぎないと論じるし、擁護者はこの文脈でのポッパー的な基準が十分でないと主張する。社会生物学が遺伝的決定論に陥っているという点でも批判される。遺伝的決定論とは私たちが遺伝子によって完全に決定され、環境や文化の影響はほとんどないという見解である。この批判は極端な社会生物学には当てはまるが、穏当な立場は遺伝的要因同様、非遺伝的な要因も認めている。勿論、このような反応はそれぞれの要因にどのくらい私たちが影響を受けるかという答えにくい問いを生み出す。

10最後に
 ここでは生物学の哲学として進化論の基本的な問題の幾つかを考えてきた。集団遺伝学の中で自然選択と遺伝的浮動がどのように形式化されるかを説明し、それに伴って表面化した問題の幾つかを扱った。進化論が因果的な説明を目指し、理論としては確率・統計的な性格をもつこと、そして、適応度や選択の単位、適応概念について問題点を挙げた。
 分子生物学社会生物学が社会にもたらす問題が扱われていないことに不満をもつ読者がいるだろう。それらの問題が重要でないから論じなかったのではない。それらの問題はここで扱われた基本的な事柄を理解した上で論じるべきだと考えたからである。

基本的文献
Darwin, C. (1859): On the Origin of Species, The Origin of Species by Means of Natural Selection, or
The Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life, 1859. 初版本を読む必要はないので、手に入りやすい本(翻訳でもよい)を読めばよい。
標準的な進化論の教科書
Bell, G. (1997): The Basics of Selection, Chapman & Hall.
Futuyma, D. (1986): Evolutionary Biology, Sinauer.(『進化生物学』蒼樹書房)
Maynard Smith, J. (1977): The Theory of Evolution, Penguin.
Ridley, M. (1996): Evolution, 2nd ed. Blackwell.
Stanley, S. (1979): Macroevolution: Pattern and Process, W. H. Freeman.
Wiley, E. (1981): Phylogenetics: The Theory and Practice of Phylogenetic Systematics, John Wiley.
標準的な哲学の文献(生物哲学)
Dawkins, R. (1976) The Selfish Gene, Oxford U. P.(『利己的遺伝子』紀伊国屋書店
Hull, D. (1974): Philosophy of Biological Sciences, Prentice-Hall.
Lloyd, E. (1988): The Structure and Confirmation of Evolutionary Theory, Greenwood.
Rosenberg, A. (1985): The Structure of Biological Science, Cambridge U. P.
Sober, E. (1993): Philosophy of Biology, Oxford U. P.
Sober, E and D. S. Wilson (1998): Unto Others, Harvard U. P.
Sterelny, K. and Paul E. Griffiths (1999): Sex and Death, The University of Chicago P.
Williams, G. C. (1966): Adaptation and Natural Selection, Princeton U. P.
関連する領域とその知識(物理学、統計学、遺伝学、発生学等)
力学、統計学ゲーム理論、そして勿論遺伝学や発生学が順次必要となる。特に、忘れてならないのは、集団遺伝学である。このテキストも必要である。

練習問題
1進化が事実である証拠を挙げた上で、歴史的な事実が推論の結果であることを説明せよ。
2進化論における集団概念を説明せよ。
3自然選択と遺伝的浮動の違いをまとめよ。
4自然選択と適応の関係を説明せよ。
5遺伝的浮動が進化の要因であることを説明せよ。
6「いかに」と「なぜ」の問いの違いについて説明せよ。
7選択の単位に関する考えをまとめよ。
8集団遺伝学で使われる確率概念を説明せよ。

 

夏に咲く花々

 暑い毎日が続き、命が削ぎ取られていくようだが、そんな中で元気に花を咲かせ、暑さに立派に抗しているかのような植物の姿には感動さえ覚えてしまう。律儀な植物は動物のように不平不満はあからさまにしないだけで、本当は気づかれないところで頑張っているのかも知れない。動物である私など、つい不平不満を口にして、慌てふためくのだが、画像のどの植物もそんなはしたない姿は微塵も見せない。
 サルスベリは大きな樹が少ないが、この樹は5mを優に超え、花も万遍なくついている。立派なヒマワリは健康のシンボルそのもので、実に夏に似合っている。ペンタスは暑さなどどこ吹く風で一向に気にならない風情がなんともいい。
 こんな花々と共に何とか夏を乗り切りたいものである。

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植物は地球で生まれ、大きくなって、地球を変えた

 「地球」と「植物」の関係は一体どのように捉えるのが適切なのか。植物が果たした役割は何だったのか。地球は40億年以上の歴史をもち、地表がすべて凍結するとか、突如恐竜が絶滅するとか、波乱万丈の歴史に満ちている。地球の酸素は今約21%だが、その濃度は時代と共に変化してきた。そして、その変化は植物、動物を翻弄してきた。
 35%の酸素を含んだ大気は今より14%も濃度が高い。すると、大きな動物でも簡単に空を飛べるようになる。羽で濃い空気を押すと、身体は楽に浮遊できる。その代わり、空気抵抗が大きくなって、スピードは落ちる。ショウジョウバエを酸素濃度の濃かった時代に合わせて育てると、僅か5世代で14%も大きくなった。豊富な酸素は僅かな期間で生物の物理的な身体のサイズを大きくすることができる。
 植物もずっと進化を続けて、様々な形質を獲得してきた。植物の光合成を助け、形態的にも見事なしなり具合を持つのが「葉」である。この葉が生まれて、植物界全体に広まるまでに5000万年もの歳月がかかった。どうしてそんなにかかったのか。葉をつくる遺伝子それ自体は葉が生まれるよりずっと前に完成していた。ならば、なぜ葉は長い間眠ったままで発現しなかったのか。植物の方で準備ができていたのだとしたら、外的な要因で葉は発現できなかったのではないかと考えられる。この外的な要因は二酸化炭素の濃度である。過去4億年から3億5000万年前の間に、二酸化炭素の濃度は現在より15倍も多かった。温室効果によって気候は当然温暖で、植物は豊富なエネルギー源をもち、悠々自適な生活だった。二酸化炭素の排出量を減らせと今私たちは騒いでいるが、それとは桁外れの二酸化炭素濃度である。この時代の植物を調べると、初期の陸上植物は二酸化炭素を取り込むための気孔を1ミリ四方に五つしかもたなかった。現在の植物は1ミリ四方に数百だから比べものにならない。二酸化炭素の濃度が高かった時は気孔の数が少なくても何の問題もなかったが、濃度が薄くなるにつれ、呼吸するために葉の面積を増やして、気孔の数を増やしていった。植物の涙ぐましい、しかし見事な適応である。
 植物の増殖・変化が地球環境に影響を与え、それが地球気候を変える。これは数百万年単位で漸進的に進行していくため、人間の時間スケールをはるかに超えている。森林が地表を覆うことで雨水がリサイクルされ、有機酸が土壌へ流れ出た。それにともない、陸の侵食によって二酸化炭素が大気中からどんどん取り除かれ、重炭酸塩イオンとなって海の底に埋もれていった。植物の活動は1億年のあいだに陸を削り、その結果、二酸化炭素濃度は急降下し、気候は寒くなり、地球は氷河時代という瀬戸際に追いやられた。地球の消化不良によって、湿地には死んだ生物の残骸が大量に溜まり、大気中の酸素濃度が上がった。それは生物に巨大化という新しい進化をもたらした。

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生命の変化(8)

8進化の結果
 なぜ有機体が見事に適応しているのかを説明するように求められたら、ランダムな自然の過程の結果だという仮説より、予めデザインされたものだというデザイン仮説の方がはるかにもっともらしい。そこで、デザイン仮説と自然選択による進化の仮説を比較してみよう。
 ペイリーは適応の完全さを強調した。彼は生き物のすべての細部が最善だと信じていた。これはペイリーに特別なことではなく、彼より一世紀ほど前の哲学者ライプニッツも、すべての可能世界の中で最善の世界が神によって実現される世界だと論じた。だが、ダーウィンは適応が完全であるという考えを否定する。進化論によれば、適応は十分うまくなされているが、完全ではない。自然選択が予測するのは、集団に実際に実現されている形質のうちで適応度のもっとも高いものが一般的になるということである。この結果は考えられる限りの中で最善ではなく、実際に利用可能な変異の中の最善であり、相対的である。
 さまざまな種の有機体が同じ機能を実行するために異なる構造をもっているという事実を考えてみよう。鳥、コウモリ、昆虫の翼はすべて飛ぶためにある。しかし、その「翼」を注意深く見ると、飛ぶこととは無関係なところで多くの違いが見出される。もし翼が知的な設計者によってデザインされたのであれば、これらの無関係な違いを説明することは困難だろう。一方、グループのそれぞれが翼のない先祖から異なる経緯で由来したという仮説を受け入れるなら、これらの違いは簡単に説明できる。
(デザインによる論証は非科学的か)
 デザイン論証は生命形態にデザインが存在することを認めることから出発する。次の文を考えてみよう。

(O) 眼は性質P1、…、Pnをもつ。
(H1) 眼はデザイナーによってつくられた。
(H2) 眼は偶然的過程によってつくられた。
(H3) 眼は自然選択によってつくられた。

デザイン論証はアナロジー帰納法と考えられることがあったが、尤度原理(likelihood principle)を使って的確に表現できる。(H1)、(H2)、(H3)のいずれの仮説が正しいかに関して尤度原理を使うために、それを条件付確率を使って表現しておこう。

観察Oは仮説H2より仮説H1を支持する ⇔ P(O|H1)>P(O|H2)

偶然は既に次のように考えた。あるものが一様な偶然的過程の結果であるとは、多くの同程度に起こりやすい(equiprobable)ものの一つということである。「ランダム」はこのような一様な偶然的過程を表現するのに使われてきた。既述のように自然選択による進化の過程は一様な偶然過程ではない。自然選択の働く過程は、偶然による個体の新しい形質の出現、その形質の選択という2段階になっている。それらは等確率の過程ではなく、したがって、偶然的な過程ではない。それゆえ、一様な偶然過程の否定はデザインの存在だけではなく、自然選択の過程の存在でもある。進化論では選択効果が対象として研究される。自然選択、浮動はそれぞれ異なる意味で選択効果である。だが、これらは観測による選択効果ではなく、自然の中で起こる選択効果である。
 適応のデザイン論証は、適応がデザインされているという観察から始まる。デザイナーがいなければ、眼はあり得なかった、と考える。また、偶然よりは選択があったほうが眼の存在を支持するだろう。すると、次のような関係が予想できるだろう。

P(O|H1) > P(O|H2)
P(O|H1) > P(O|H3)
P(O|H3) > P(O|H2)

どのような観察もデザインの存在や偶然を直接に支持しないが、選択の証拠として採用される観察は既に見たように数多く存在する。したがって、観察結果から考えた場合、H1やH2を支持する経験的な結果がないのに対し、H3を支持するものは多数あることになる。これは経験的事実を重視する立場からはH3が採用されなければならないことを示している。但し、選択以外の進化要因の結果かどうかに関しては別に考えなければならない。
反証可能性
 では、科学的な仮説は十分にテストできるのだろうか。テスト可能性はポパーの見解に訴えることでしばしば展開されてきた。彼は科学的言明の道標として反証可能性を主張した。ポパー反証可能性の基準は観察言明と呼ばれる言明の特別のクラスを選ぶことができなければならない。そして言明は、観察言明に特定の仕方で関係している場合に反証可能であると言われる。

言明Pは反証可能である ⇔ Pが少なくとも一つの観察言明Oを演繹的に含意する。

反証可能な言明は観察できるものについて予測できる。これは、言明Pと観察報告Oの間に演繹的な含意関係が存在することから得られる。
 ポパーの提案の問題は観察言明と他の言明の間の区別が必要である点にある。では、この区別はどのようになされるのか。「ニワトリが死んだ」という言明を確認するために、ニワトリとは何で、死とは何かを知っていなければならない。これはしばしば「観察は理論を背後にもっている(theory laden)」と表現されてきた。人が観察からつくる主張はみな、それを正当化するために既にもっている知識や情報に依存しなければならない。
 この問題に対してポパーは何が観察言明かは約定の問題だと言う。しかし、この解決の仕方では言明が反証可能かどうか問題になる場合に困ってしまう。もし誰かが「神はこの宇宙の創造主である」が観察言明であるという約定を採用するなら、有神論は反証可能なものになってしまう。ポパーの基準が実質的に効力をもつためには、観察言明をそうでないものから区別する、任意でない方法がなければならない。しかし、現在までそのような基準は誰も見つけていない。
 反証可能性の基準の問題はさらに深まる。まず、ある言明Sが反証可能であるとしてみよう。すると、Sと他の言明Nの連言も反証可能である。これはポパーの提案には厄介なことである。というのも、彼はそもそも真に科学的な命題Sから非科学的な言明Nを区別するために提案したはずだからである。多分、もしNが科学的に考慮に値しないなら、S&Nも考慮に値しないだろう。反証可能性の基準はこの当たり前の要請を満たしていない。
 別の問題は、彼の提案が命題のその否定に対する関係について奇妙な含意関係をもっている点である。「すべてのAはBである」という形の言明を考えよう。ポパーはこの言明は反証可能であると判定する。BでないAを一つ観察することによってこの言明は反証されると考えたからである。では、一般言明の否定を考えたらどうか。「Aであり、Bでない対象が存在する」がそのような言明である。この言明は反証可能ではない。どのような単一のあるいは有限の対象であっても、この存在言明を反証することはできない。したがって、普遍的な言明は反証可能だが、存在的な言明はそうではないことになる。これは奇妙な結論である。通常、ある言明が科学的なら、その否定も科学的である。したがって、これは反証可能性が科学的であることの基準としては相応しくないことを示唆している。
 さらに問題がある。科学の大抵の理論的言明は観察によって確かめることができるものについての予測をしないということである。理論は補助的な仮定と結びついたときだけテスト可能な予測をする。理論Tは観察言明Oを演繹的に含意しない。むしろ、Oを含意するのはTと補助的な仮定の連言である。この考えはしばしばデュエムのテーゼと呼ばれてきた。
 最後の問題は科学における確率言明が反証不可能であることになってしまう点である。「コインが公平である」という言明を考えてみよう。つまり、「裏あるいは表の出る確率が0.5である」という言明である。この言明からコインの観察可能な振舞いについて何が演繹できるだろうか。10回コインを投げたなら、正確に5回表と裏がそれぞれ出なければならないことが演繹できるだろうか。答はノーである。コインが公平であるという仮説はあらゆる可能な結果と両立可能である。表が0回から10回までの結果のどれとも両立可能である。ポパーの意味では確率言明は反証することができない。
(目的論の自然化)
 生物学者はさまざまに工夫を施された機能について語る。心臓の機能は血液を送り出すポンプであるというのもその一例である。これは何を意味しているのか。心臓は血液を送り出す以外に心音を発したり、胸の一部に場所を占めたりしている。なぜ心臓の機能は音を出したり場所を占めたりではなく、血液を送り出すことなのか。機能についての主張を理解するために心臓のような工夫がもつ結果について明らかにしてみよう。
 機能という概念は人工のものに適用した場合には明らかである。ナイフの機能を聞かれても何の問題もないだろう。ナイフがどのような意図でつくられ、使われるかは明らかだからである。
 では、人間がつくったものでない対象に機能という概念を適用することは何を意味しているのか。もし有機体が知的なデザインの結果であれば、その心臓の機能はナイフの場合と同じように理解することができる。心臓を与えた神の意図について語ることが心臓の機能について語ることになろう。しかし、もし私たちがこの生命世界について純粋に自然主義的な説明を与えたいと思うなら、どのように機能を考えたらよいのだろうか。
 アリストテレスの物理学は目的論に満ちていた。彼は星が目的に導かれたシステムであることを信じていた。内的な目的が重いものを地球の中心に向かって引きつける。重いものは自らの機能をもっている。だが、ニュートン力学は流星が何の機能ももっていないと考えることを可能にした。それが機能をもっているように振る舞うのは科学法則に従うからである。
 ダーウィンは科学的な唯物論についてはニュートンと同じ考えだったが、目的論的な考えについては異なっていた。目的論を生物学から追放するよりは、それを自然主義的な枠組の中で理解することができると考えた。つまり、彼は目的や機能を自然選択の結果として説明しようとした。その結果、進化論は対象に機能を付与するのに人間中心主義を必要としなくなった。
ある形質が「適応」であると言うとき、それは現在の有用性に言及していない。それはその歴史に言及している。哺乳類の心臓が血液を循環させるための適応であると言うのは、哺乳類の先祖が心臓をもつことで適応度を上げたために現在心臓をもっていると言うことである。心臓をもつための選択があったゆえに心臓が選択された。そして、心臓は血液を循環させるゆえに選択された。心臓は音を出すが、音を出すための適応ではない。 心臓は音を出すゆえに進化したのではない。むしろ、音を出すという性質は副産物として進化した。音を出すことの選択はあったが、音を出すための選択はなかった。より一般的に、次のように適応概念を定義できる。

特徴cは集団において仕事tをするための適応である

特徴cをもつための選択が祖先に存在し、それが仕事tを実行することによって祖先の適応度を高めたゆえに、集団のメンバーが現在特徴cをもっている。

 それが進化した理由でなくとも、ある仕事tを実行するゆえに有用であるような形質は存在する。ウミガメは産卵後前足で穴を掘り卵を埋める。この点で前足は有用である。しかし、ウミガメの前足は穴を掘るための適応ではない。ウミガメには彼らが砂浜に産卵するはるか以前から前足があったからである。
 逆に、適応が今では有用性を失ってしまった場合もある。ある系統で翼が飛翔に有用であるゆえに進化したとしてみよう。これは翼が飛ぶための適応であることを意味している。そこで環境が変化し、飛ぶことがかえって危険であるようになるなら、翼は適応であるが、飛ぶことは有機体の適応度を下げることになる。
 適応と適応的(adaptive)は異なる概念である。ある形質が現在有利さをもっていれば、それは今適応的である。ある形質が過去にあった選択の結果であるゆえに現在存在するなら、その形質は現在適応である。二つの概念は形質の経歴の異なる段階を述べている。ある形質が現在適応的でなくとも、適応であることは可能である。また、ある形質が現在適応でなくとも、適応的であることが可能である。適応は歴史的概念であり、現在の有用性と同じではない。
 適応という概念のなかでも区別が必要である。「適応」は過程の名前でもあり得るし、また所産の名前でもあり得る。翼の進化は適応の過程を含んでいる。その過程の結果としての翼は所産である。適応の過程に関しては個体発生的な適応と系統発生的な適応を区別しなければならない。学習できる有機体はその環境に適応することができる。それは自らの行動を変える。この変化は有機体の一生の間で起こる。進化論で議論される適応の過程はこのような個体発生的なものではなく、系統発生的な適応である。
 ここまでは「機能」という概念についてどう理解すべきか何も言ってこなかった。これについての哲学者の意見は二つに分かれる。ライト(Larry Wright)のように、今まで適応について述べてきたのと同じように生物学的な機能を扱うのが一つのグループである。ある装置が機能をもっていると言うのは、それが現存する理由について述べることである。人工的なものがある機能をもつと言うとき、私たちはなぜその人工物がつくられ、使われているかを述べている。これが機能の起源論的見解(etiological view of function)である。機能を付与することは起源についての仮説をつくることである。
 別のグループは機能と適応を同じように見ることに反対する。例えば、カミンズ(Robert Cummins)は、ある装置に機能を付与することはその装置がなぜ現存するかについての主張ではないと考える。ウミガメの前足の機能は穴を掘ることであり、それが前足をもつことの理由でなくとも構わない。カミンズにとっては、前足は有機体の能力に寄与するゆえにその機能をもっている。
 起源論的な見解に反対する一つの理由は、過去の生物学者が進化論など知らずに、それとは無関係にさまざまな器官に機能を巧みに付与してきたことである。17世紀のハーヴェイ(William Harvey, 1578-1657)は心臓の機能は血液を循環させることであると知っていた。ハーヴェイは心臓が何をするかについて主張していたのであり、私たちがなぜ心臓をもつかについて主張していたのではないというのが反対派の考えである。起源論への別の批判は、それが奇妙な結論を導くというものである。肥満ゆえに運動しない人を考えてみよう。運動をしないゆえに太り過ぎは解消されない。ここで、彼の肥満の機能は運動防止であるというのは奇妙である。これはある形質が現存する理由についての説明が機能についての説明と同じと考えることが誤りであることを示している。
 他方、カミンズの理論は機能をもつことに寛容過ぎることで批判されている。心臓は重さをもっている。しかし、心臓のもつ重さがその機能であるというのはおかしい。機能と単なる効果の区別がカミンズの理論には欠けている点が問題となる。もし、ある器官を全体として考え、その効果を扱うことになると、その器官のもつすべての効果がその機能と考えられてしまうのである。
 機能という概念が何を意味しているかの哲学的説明の基本的な特徴は、それらが自然主義的であることである。さまざまな説はみなその主張が異なるとはいえ、機能の説明は現在の生物学と両立可能である点で一致している。目的志向型のシステムが生物学的でない、自然の中の事柄以上のものを含んでいるということを一切要求していない。

タイタンビカス プレアデス

 タイタンビカスは、アオイ科アメリカフヨウとモミジアオイの交配種で、画像は2018年に登場したタイタンビカスの最新品種。花はピンク色で、花径が20cmほどになる中大輪のタイタンビカス。花持ちがとても良く、6時すぎまで咲いている。
 タイタンビカスは、大変強健な宿根草。5月上旬ごろより、株元から新芽を吹き始め、約1か月ほどの間に人丈程度の大きさまで成長する。9月下旬ごろまで、日々と交代で花を咲かせる。晩秋には、落葉し、根で越冬し、翌年の春には株元から新しい芽を吹く。プレアデスの他に、ウラノス、フレア、イリスという品種がある。
 暑い今の時期はムクゲがあちこちで咲き続けているが、どれもタイタンビカスに比べれば、ずっとおとなしい。画像を見比べて優劣をつけるつもりは毛頭ないが、人の好みを考える上で大いに参考になるだろう。

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生命の変化(7)

7適応の分析:性の場合
 今では誰も生殖の機構について知っている。体細胞分裂減数分裂(meiosis,mitosis)と呼ばれる二種類の細胞分裂の解明は細胞学と遺伝学の共同作業の結果だった。減数分裂と性染色体の役割から、性決定のメカニズム、性比の割合等が容易に説明できる。その説明は経験的な裏付けのある信頼できるものとして生物学の教科書で周知のものになっている。

(問)オスとメスの性比が1:1であること(オスとメスが同数であること)の性染色体を使った通常の説明を述べよ。

性染色体を使った性比の説明の特徴は「How」型の説明と言われる。どのように性が決定されるかのメカニズムとその経緯が遺伝子の組み合わせをもとに(数学的に)説明できる。減数分裂の仕組みをもち、性染色体が存在すれば種を問わず同じような説明ができる。では、性をもたない生物の生殖はどのようなものなのか。どのようにして生殖のメカニズムが獲得されたのか。性の存在は生物の存在とどのように結びついているのか。このような問いに対する答えを上述の性染色体のメカニズムから得ようとしても無理である。特に、なぜ性が存在するようになったか問われた場合、上のような説明は全く無力になってしまう(なぜか)。そして、この問いの形は「How」ではなく、「Why」の形をしている。
 性の機構について、過去の生物は、未来の生物は、地球外の生物は、と問い始めてみると、答えはあやふやになっていく。生物の過去を探り、性のメカニズムがどのように進化したか知りたくなる。これはれっきとした歴史的な探求であり、なぜそのようなメカニズムが進化したかの由来を探ることである。つまり、これは起源の探求ということである。これが進化論で「Why」という問いに答えることである。この型の問いは理由を求めているが、それに「遠い原因」を使って答えようとするのが進化論である。理由と原因を同じものと考えることは、起源、由来を考えることが基本的な原理を考えることであり、原初的なものが原理的なものであると考えることである。物理的な見方と生物的な見方の違いのひとつが、起源、歴史、機能といった諸概念の進化論における役割によって明らかになる。これを性に関する次の三つの問を例にして考えてみよう。

なぜ性を使って生殖するか(性の存在)。
なぜ性は異なるか(性の違い)。
なぜ性比は1:1なのか(性比)。

(性選択)
 ダーウィンは、自然選択説ではクジャクの尾のようなオスの形質が説明できないことを知っていた。そのような性質は生存に有利ではないからである。彼はそれを自然選択ではなく、性選択(sexual selection)で説明しようとした。彼は性選択でメスを獲得するためのオス同士の争いとメスによるオスの選別(choice)を区別した。しかし、彼はなぜオスは争い、メスは選別するのかを説明できなかった(The Descent of Man, and Selection in Relation to Sex、1871)。
 自然選択については、ダーウィン以前にも多くの人が思いついていたが、性選択は誰も考えていなかった。ダーウィンは生存の差より生殖の差が進化には重要であると考えていた。生殖では性選択が重要な役割を演じる。そして、彼は「有機体が同じ性の他の有機体に対して生殖に関してだけもつ有利さ」によって性選択が起こると考えた。性選択の対象は文字通り敵の脳や身体であり、それは相手の心理に直接に結びついている。性選択はこの意味で人為選択に似ている。互いに相手を出し抜かなければならない。ダーウィンは性選択におけるメスの選別に重要さを認めたが、当時はオスの争いが強調されて、メスの役割は無視されていた。
 フィッシャーは性選択の重要性を認識していた数少ない研究者である。彼の仮説とそれとは異なる仮説を以下に述べておこう。
(性選択の二つの仮説)
フィッシャーの暴走理論(Runaway Theory)
 クジャクの長い尾の進化には三つの段階がある。最初の段階では長い尾は生存上の有利さしかもたない。第二段階で、生存上の有利さに交配の有利さが加わる。メスの選り好みが大きくなり、尾の長さが生存に最適な範囲を超えると、二つの有利さの相対的な重要性が逆転するまで、さらに尾が長くなることがメスの選り好みのせいだけで進化するのが第三段階である。オスの尾の長さの進化と尾の長いオスへのメスの好みは互いに他を強化し合うことになる。これが暴走過程である。最終的な均衡状態でのオスの特徴のコストはメスには何の機能も持たない。むしろ、それはメスの選り好みによって維持されるが、最初の有用な過程の結果としては無用な最終産物である。

ザハビの障害理論(Handicap Theory)
 ザハビ(Zahavi、1975)は障害原理(handicap principle)を提唱して論争を起こすことになった。その原理は、多くの性的な装飾物はコストのかかるものだが、それによって遺伝的な質の表示がなされると主張する。健康で質の高い形質が余計に見える装飾物によって保証されていると考えるのである。あるオスが他のオスより良い(適応度の高い)遺伝子をもっているとしてみよう。メスが任意に交配し、半分のオスが良い遺伝子を、他の半分は悪い遺伝子をもっていると、50%の交配相手が良い遺伝子を、他の50%は悪い遺伝子をもっていることになる。良い遺伝子をもつオスだけが障害をもって生存できるなら、障害をもつオスと好んで交配するメスは良い遺伝子をもつオスとだけ交配することになるだろう。障害のコストより良い遺伝子が有利であれば、メスの選別は選択上有利になる。モラー(Moller)は長い尾をもつツバメがメスに好まれることから、尾の長さはオスにはコストがかかるが、それがオスの健康であることの指標になっていることを実証的に示した。オスの健康であることは遺伝し、子孫に伝えられる。
 フィッシャーの理論では暴走過程の最終産物としてオスのコストは高くなる。ザハビの理論ではオスの形質は最初からコストがかかる。フィッシャーの理論ではオスの形質が遺伝可能な変異をもつことが必要だが、ザハビの理論では適応度の遺伝可能な変異が必要である。

(問)二つの仮説を比較し、それぞれのシナリオを比較せよ。

(「なぜ」と「いかに」が求めるもの)
 問いの形はしばしば理論の本性だけでなく、世界観にさえ大きな影響を与える。例えば、熱力学は現象的な理論であると言われるが、その理由は熱力学が「いかに」という現象に関する問いには答えるが、「なぜ」という理由には答えないからである。一方、進化論が説明理論と言われるのは、「なぜ」という問いに答えることができるからである。機械論的な世界観は「なぜ」ではなく「いかに」に答えるメカニズムに基づくものであるが、目的論的世界観は「なぜ」を目標に読み替えることによって世界を解釈している。これらだけでも問いの形が私たちの理解の仕方を大きく左右していることがわかる。忘れてならない「何」という問いは哲学では典型的な問いの形式になっている。「生命とは何か」、「知識とは何か」はその代表的なものである。
 では、二つの問いの形、「なぜ」と「いかに」はどのような関係をもっているのだろうか。異なる理論解釈や世界観を生み出す重要な契機になっているのであるから、二つの問いの型の間には本質的な違いがあると考えたくなる。実際、「なぜ」と「いかに」は答の型だけでなく、それら問いの発せられる環境も全く異なっているようにみえる。異なる文脈に二つの問いは存在し、したがって、それらに対する答も触れ合うことがないようにみえる。例えば、進化論は意識が「なぜ」進化したかの説明は与えるが、「いかに」進化したかは説明しないと言われている。
 ここではこの常識的な見解について考え直してみよう。「なぜ」と「いかに」がなぜ異なるのか、そしていかに異なるのかは十分な説明が与えられているようには思われない。「なぜ」と「いかに」がどのような関係になっているか調べることによって、二つの問いの意味するところは程度の差に過ぎない面を多くもっているという結論を導き出してみよう。
 二つの問い「なぜ」と「いかに」の関係をフィッシャーの性比を例に考えてみよう。彼の性比の説明は「なぜ」に答えているのか、それとも「いかに」に答えているのか。通常、彼の説明は「なぜ」の答であると考えられている。しかし、答えの僅かな変更によって「いかに」の答にもなり得る。彼の説明に細かな条件を加えることによって構造的なモデルから時間発展のモデルに変更できるからである。それは彼の説明の仕方を構造的なモデルと見るか、より具体的なシミュレーションと見るかの違いでもある。構造的モデルと見れば「なぜ」に答えるものとなり、シミュレーションと見れば「いかに」に答えるものとなる。
 原因は「なぜ」の答えになると述べた。この原因に時間発展の記述が加わると、「いかに」の記述が得られる。では、「なぜ」と「いかに」の説明の区別はこれだけの違いなのか。遠い、近いが程度の差であるように、「なぜ;遠い原因」と「いかに;近くの原因」の説明の間に本質的な違いは存在しない。
 実験レベルでは「なぜ」も「いかに」も共にないと実験そのものが遂行できない。この実験による検証の比較を一般化すると、「なぜ」の追求と「いかに」の追求の特徴が出てくる。「なぜ」の実験は遡及的に組まれ、「いかに」の実験は後続系列の指定という特徴をもっているが、その一般化は次のようになるだろう。「なぜ」は遡及的に問いかける系列として、次第に系列の項目がマクロ化していく。「いかに」は機能連関の因果的な展開の系列として、次第に系列の項目がミクロ化していく。このことは空間、時間のいずれに関しても成立する。確かに、私たちは自然主義的追求において「なぜ」は歴史的な遡及であり、「いかに」は機能の周期的な連関であると言う。それは一見自然な分類にみえても、歴史と周期の常識的な違いに依存しているだけである。
 歴史と起原が「なぜ」の一つの自然主義的解答であり、原子論とプログラムやメカニズムが「いかに」の別の自然主義の解答であるというのが二つの問いの違いである。この主張が出発点であった。確かに、このように特徴づければ、二つの問いの違いは明らかになるだろう。この特徴づけは、しかし、二つの問いの違いを大幅に減じるものである。それは氏と育ちの例を考えればよい。「なぜ」は氏によって説明し、「いかに」は育ちによって説明する。この分業は自然にみえる。遠い原因としての氏と、近い原因としての育ちという分業である。この分業の妥当性はどうも伝統だけに頼ってきたように思えてならない。歴史とプログラム、起原と原子論といった組み合わせは水と油の関係のように考えられてきた。だが、これらの組み合わせは矛盾する、両立し難い組み合わせではなく、むしろ極めて自然で、興味深い組み合わせであるように思われる。

(問)「なぜ」と「いかに」の問いの違いをまとめよ。

植物はなぜ緑色なのか

 逆転クオリア(Inverted qualia)は心の哲学での思考実験。同じ物理的刺激に対し、異なるクオリア体験をもつ可能性を考える思考実験で、別名は逆転スペクトル(Inverted spectrum)。色の赤と緑が入れ替わる例がよく論じられ、色の第二性質が隠然と関与し、心の世界に独特のあり方を与えてきた。「心がつくり出す自然世界」から「心をつくり出した自然世界」へと視点を変えた時、色は第二性質から第一性質へと敢然とその性質を変える。
 地球が誕生したのは今からおよそ46億年前。原初の地球は灼熱地獄の星で、大気もなく宇宙線が直接降り注ぎ、太陽は今と違って暗く、暗い宇宙に浮いている灼熱地獄の星、これが原始地球だった。その後、地球は次第に冷え、40億年ほど前には地殻や海が形成されたが、30億年以上前の海水温は60~120℃程度もあったらしい。そのため最古の生物は「熱耐性」、「嫌気性」のバクテリアだった。地球磁場はまだなく、生物にとって危険な宇宙線や紫外線が直接地表に注いでいて、生物はこれらから逃れられる環境(深海や地中など)で生息していた。そして、僅かな光をもとに光合成する細菌(光合成細菌)が現れる。
 当初の光合成は緑色硫黄細菌や紅色細菌によるもので、還元剤として有機物や硫化水素を用い、酸素を出さない光合成をしていた。だが、やがてこの仲間のシアノバクテリア藍藻)の一種が、水と二酸化炭素から劇物の酸素を生みだす「酸素発生型光合成」を始めた。硫化水素や有機物ではなく、地球上のどこにも存在する水と二酸化炭素光合成できることから、このシステムは次第に主流となっていく。そして、酸素濃度が急激に増え、ついに大気中にオゾン層が形成される。一方、暗かった太陽も約10億年前頃には現在の9割程度の明るい光を発する星になる。こうして、紫外線というリスクのある世界から太陽の恵みを受ける多様な色の世界へと地球は変化したのである。
 27億年前に現れ、酸素発生型光合成を始めたシアノバクテリア藍藻)は藻類や陸上植物の祖先である。真核生物にシアノバクテリアが共生する事で真核の光合成生物が生まれた。海の植物である海藻類は、種類によって光合成に使う波長域が異なる。海藻には、緑藻(アオノリ等)、紅藻(アサクサノリテングサ等)、褐藻(コンブ、ヒジキ等)などがある。緑藻は青と赤領域の光を主に吸収する。紅藻は青、緑、赤の光を比較的バランス良く吸収するが、褐藻は、紅藻と緑藻の中間で緑光の吸収が若干低い。よって、水中で最も深くまで届く、青-緑光の利用という観点では、紅藻>褐藻>緑藻の順に効率が良いことになる。これらの藻類の繁殖可能な深さも異なり、緑藻、褐藻、紅藻の順に深い海中でも生息できることになる。
 約4億5000万年~4億8000万年前(オルドビス紀)にまず植物が陸上に進出した。乾燥と強光等に打ち勝ち、最初に上陸したのは緑藻の仲間(シャジク藻類の仲間)と考えられている。もし他の色の植物が上陸して支配権をにぎったとすれば地上は緑ではなく、褐色や紅色の世界になっていただろう。逆に、海は緑藻の世界から紅藻類から生まれた渦鞭毛藻やハプト藻、珪藻類を主とした紅色、褐色の世界に変わった。このように緑藻の仲間が上陸して繁栄したことによって、陸上植物の色は緑色になったのである。現在の森は緑色をしているが、紅藻類から地上進出が行われていたとしたら、現在の森林は赤い色になった筈である。

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 植物が緑色なのは、葉緑体クロロフィルによるもの。クロロフィルは赤色や青色を吸収し、緑色は余り吸収しない。このため葉からの反射光や透過光には緑色の成分や遠赤外光が多くなるが、遠赤外光は人間の眼にはみえず、緑色のみが感受されるために草木の体や葉は緑色となる。花の色の基になる色素はどこにあるのか。花びらは上側に釣り鐘や円錐形をした表皮があり、その下に四角形の細胞が柵状に並んだ層をもつ。花の色素は主に表側の釣り鐘型をした表皮細胞に含まれている。表の表皮細胞では液胞が非常に大きくなり、ここに水溶性の色素が、また不溶のカロテノイド系の色素が色素体(プラスチド)に存在している。一般に、花の色は白や黄色が多く、次に紫・青系と赤系統の色が続く。