ヘクソカズラの実

 ヘクソカズラの実は光沢のある黄金色をしている。ヘクソカズラは花や葉を揉むと悪臭があるので、「屁糞蔓」と名づけられた。命名者の感覚中心の、なんとも可哀相な名前である。ところが、見ているだけなら嫌な臭いはせず、花の中央が赤く、お灸(やいと)の跡に良く似ていることから、ヤイトバナ(灸花)という別名や、美しい花の姿からサオトメバナ(早乙女花)という別名もあり、これもまた人の勝手な判断の命名である。
 花は咲いていると目立つのですぐ分かるのだが、実を見ても何の実かはよくわからない。とはいえ、実は薬用になる。薬用としての効能は認められていて、しもやけ、ひび、あかぎれ、などの外用民間薬として生の果実を潰した汁が使われる。利尿に内服される利用法もあり、全草を煎じたものが、腎臓病や脚気、下痢、黄疸に効能があるとされてる。美肌化粧料として肌に潤いを与える効果もある。

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実在、言語表現、感覚質経験の間のギャップ

・あること、存在すること、実在すること
・感じること、見えること、聞こえること
・述べること、表現すること、話すこと
これら三つの何が同じで、何が異なるのか。あるいは、何が主で、何が従なのか。考えるべきことの宝庫になっていて、存在(存在論)、感覚(知覚論)、言葉(言語論)の間の関係を知ることが哲学の課題となってきました。
<名前の本性>
 妙高山は「妙高山」でなければ腑に落ちず、深川は「深川」と呼ばれてこそ深川だと大抵の人は断言する筈です。ですから、富士山は「富士山」でなければなりません。名前はものやことにつけられ、それを指示するにも関わらず、そのものやことの本来の性質を表す必要はありません。「猫」はネコを指しますが、ネコの性質などもっていませんし、「Cat」も「猫」もネコの性質ではありません。イヌやネコの名前は一般名詞ですが、固有名詞の場合も同じです。私の名前は固有名詞で、私と私の名前の関係は独特のものです。地名はつけられた街や地方の性質ではありませんし、山や海の名前も山や海の性質を表現している訳ではありません。ものやことの名前は偶然につけられても、そのものの性質を表すようにつけられても、いずれでも構わない、ということになります。
 固有名詞は、ある時、誰かによって命名され、それが因果的な変遷を経て現在に至っています。その過程が固有名詞の意味だと考えると、固有名詞は歴史的偶然とその後の因果系列の二つからなっていることがわかります。そんな観点から「深川」がいつ誰が命名し、どんな経緯を経て現在に至ったのか確認してみましょう。
 徳川家康により天正18年(1590年)から開削が進められていた小名木川の北側を開拓したのが摂津出身の深川八郎右衛門。慶長元年(1596年)に深川村ができます。材木商人として財を成した紀伊国屋文左衛門も一時住み、曲亭馬琴はこの地で生まれ、松尾芭蕉は深川から旅立ちました。1878年東京15区の一つとして深川区ができ、1947年に城東区と合併し、現在の江東区となります。その江東区に今は私も住んでいます。
 こんなところが「深川」の意味ということになりますが、北海道にも深川市があり、少々気になります。でも、江東区の深川とは無関係というのが答えです。北海道の「深川」は東京深川から移住した開拓民に由来するという話を広めたのは故司馬遼太郎の紀行文『街道をゆく』第15巻「北海道の諸道」の記述です。彼は深川市に来て、深川市の人々の一部は東京の深川出身だと言われたのを思い出し、それを記したのです。あの司馬遼太郎が書いたのなら、日本人は文句なく信じてしまいます。名前の因果的経緯の中に誤りが紛れ込んだということで、これは固有名詞の宿命のようなものです。
 深川の名前は「徳川」では却下されたでしょうが、「堀川」でもよかったはずです。いずれでもなく、開拓を指揮した深川八郎右衛門に因んで命名され、それが様々な因果的な経緯を経て現在に至っています。命名は偶然であっても、その後の経緯は、その名前に意味を与え、名前と指示対象の間に切っても切れない縁があるかのような演出さえしているのです。つまり、「経緯=歴史」が偶然を必然であるかのように変える演出をしているのです。そのため、深川は「深川」でなくてはならず、妙高は「妙高」と呼ばれなければならないと私たちは錯覚するのです。
*名詞が何を指示するかについての上述のような考えは、「指示の因果説」と呼ばれ、クリプキ(Saul Kripke)によって最初に唱えられた考えに基づいています。
 折角ですので固有名詞の特徴をもう少し考えてみましょう。「認識論的必然性(アプリオリ性)と形而上学的必然性の区別」、「固定指示子」、「指示の因果説」などを提唱したのがクリプキです。第一の主張は、「宵の明星」と「明けの明星」のような、別々の固有名詞で名指される対象の同一性についてです。私たちが宵の明星と明けの明星が金星であると知ったのは、天文学上の発見によってであり、それは云わば偶然のことでした。ですから、宵の明星と明けの明星が同一であるのは必然的なことではありません。でも、クリプキによれば、宵の明星と明けの明星がたまたま同一であったということは、同一性そのものが偶然に成り立つということではありません。同一性は、対象とそれ自身との関係であり、必然的に成り立ちます。宵の明星と明けの明星が同一である以上、両者は必然的に同一なのです。同じ考えが一般的な種名辞にも適用できます。「熱が分子運動である」という「理論的同一性」は、偶然に発見されたとはいえ、存在論的には必然的な真理なのです。
 このことを可能世界論で解釈したとき、第二の主張が生まれます。「明けの明星」、「宵の明星」、「金星」のような固有名詞は、固定指示子(rigid designator)、つまりあらゆる可能世界で同一の対象を指し示す指示句です。一方、「宵に西の空に輝く惑星」、「暁に東の空に輝く惑星」のような記述句は、それぞれの可能世界においてその字面の性質を満たす対象を、それが何であれ、柔軟に指し示します。金星が暁の東の空に輝き、火星が宵の西の空に輝く可能世界では、「暁に東の空に輝く惑星」は「宵に西の空に輝く惑星」と同一ではありません。でも、固有名詞は記述句と違って、いかなる性質をも媒介せず「直接に」対象を指し示します。宵の明星はいつどこで輝こうが、惑星だろうが、恒星だろうが、宵の明星かつ明けの明星なのです。
 指示の因果説によれば、私が使う固有名詞「妙高山」、「深川」は他人の発話や文章からなる因果的な系列によってリレーされてきたものです。この系列は教科書や教師の声や昔の新聞を経て共同体の中を遡ったあげく、ある山や地域に対し誰かが命名している現場にまで到達することになるでしょう(はじめは「妙高」ではなく「名香」か何かだったでしょうが、名前の形の変化も物理的連続性が保たれていれば問題ありません)。「熱」や「水」のような一般種名辞の場合は、最初のサンプルとそこで作られた科学理論が、命名と同じように系列の出発点の役割を果たします。
<固有名詞の確定記述や因果説について議論する前に>
 固有名詞は確定記述(definite description、固有名詞が何を指示するかを決定できる文の集合)によって表現されるような意味をもつのか、それとも端的に対象を指示するだけなのか。このような問題が20世紀の後半に盛んに議論されました。同じ頃、生物種は実在的なのか否かが問題になっていました。それらの問題は言語哲学と生物学の哲学という異なる分野の問題であり、あえて一緒に扱われることはほとんどありませんでした。そろそろそれらの議論の後始末が必要なのですが、そのために具体的な事例を参考に再度考え直してみましょう。まずはその下準備として、生物種の名前の二例を挙げてみましょう。
イヌワシ
 「イヌワシ」という名前は、安土桃山時代から様々な文献に登場します。天狗のモデルがイヌワシで、和名では「狗鷲」と書かれます。「いぬ」はより下を意味し、より大きい大鷲(オオワシ)の下という意味でイヌワシと呼ばれました。逆に「いぬ」は大きいものを表す言葉であり、大きい鷲という意味でその名前がつきました。さらに、鳴き声がイヌのようだからつけられました。このように諸説乱立で、その由来は曖昧で不明。もっともらしいのは、イヌワシオオワシオジロワシの呼び分けが同時に行われるようになったため「オオワシ」と見分けて「より劣るワシ=イヌワシ」とする説です。これだけでも私たちが住む生活世界が素直でオープンな世界などでは決してなく、思惑が飛び交い、一筋縄ではいかない混乱した世界であることがわかります。
 オオワシは古来、その尾羽が矢羽の素材として珍重されてきました。どんな鳥よりも大きく、根本まで真っ白なオオワシの尾羽は非常に貴重で、神事にも用いられていました。オジロワシも長く白い尾羽を持ちますが、個体によっては根本付近に茶色が混ざることがあるようで、イヌワシに至っては全身がオオワシよりも一回り小さく、尾羽の色も黒っぽいため、矢羽としての価値は劣ります。今の私たちにはまるで時代錯誤の話で、名前など実につまらない理由によってつけられたのだという証拠でしかありません。
 オオワシの名前は「大きなワシ」、オジロワシは(オオワシより価値は劣るが)「尾羽が白いワシ」。これに対し、イヌワシは「オオワシとは似て異なる、価値の劣るワシ」というのが最もスタンダードな説と述べました。江戸時代に入ると他にも様々な異名が登場します。「クロワシ」が最も広まった名前ですが、これはイヌワシの全身が黒っぽく大きな翼を持つことから「天狗伝説」のモチーフとなったと考えられています。他にも「クマワシ」、「ネコワシ」、「チグリワシ」、「ワキジロ」など、地域によって様々な名前が見られ、これらの多様な名前の中から、明治・大正・昭和を経て「イヌワシ」が標準和名として定められました。でも、標準和名とはいっても公的機関の認証があるわけではなく、単にスタンダードな図鑑や事典などに使用される名前というだけです。ですから、今でもイヌワシを「クロワシ」や「チグリワシ」と呼ぶ地域もあり、これらの異名もイヌワシの「準標準和名」とされています。このような経緯が名前に権威を与え、それが正しい名前というような幻想を人々に植えつけることになるのです。
ニセアカシア
 「偽」も「似非」もいい意味ではありません。その「ニセ」が接頭語のようについたのがニセアカシア。北米原産のマメ科ハリエンジュ属の落葉高木です。日本には1873年に渡来しました。用途は街路樹、公園樹、砂防・土止めに植栽、材は器具用等に用いられます。一般的に使われるニセアカシアは、種小名のpseudoacacia(「pseudo=よく似た、擬似の、acacia=アカシア」)の直訳そのもので、何ともいただけません。「アカシア」というと日本語のように思われがちですが、実は学名のRobinia pseudoacaciaに由来しているのです。Robiniaという属名は、17世紀初頭に米国からこの木を輸入して栽培したフランスの庭師兼植物学者ジャン・ロバン (Jean Robin)の名前にちなんで命名されました。彼は1597年にパリ大学の医学部から植物園の設立を依頼され、フランスにアメリカ原産のニセアカシアやアジア原産のムクゲ(Hibiscus syriacus)を栽培しました。ロバンの植えたこれらの樹木はパリ植物園で最も古い植物として現在も残っています。
 和名で針槐(ハリエンジュ)と呼ばれるニセアカシア。針槐が日本に渡って来たのは明治時代で、その当時アカシアと呼ばれたことから混同が起きました。ちなみにアカシアのハチミツとして販売されているものは、針槐の花の蜜であり、本来のアカシアの蜜ではありません。例えば、札幌のアカシア並木、西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」など、実はニセアカシアなのです。
 では、アカシアはどんな木なのでしょうか。ここにも混同があり、アカシアは黄色のフサフサした花を咲かせる木で、ミモザと呼ばれています。ミモザは別の種類なのですが、世間ではアカシアをミモザと呼んでいます。
 アカシアは日本へ導入された当初の呼び名で、ハリエンジュは明治19年に松村任三博士が命名しました。ギゴウカンは「疑合歓」の意味でネムノキに類似しているため名づけられました。「ゴムノキ」はゴムのとれるアカシアだと間違って宣伝されたためでした。ニセアカシア命名に関しては災難続きだったことがわかります。
 「イヌモドキ」は犬に似た生き物ですが、犬ではないのでイヌモドキなのか、「擬き」が偽物(イヌ)なのだから、擬きではなく本物なのか、こんな珍問答を想像したくなるほどに、この謂い回し自体何とも怪しげな表現としか言いようがありません。種を明かせば、「イヌ」も「モドキ」もほぼ同じ意味。いずれも本物の代用品という意味で「イヌ」や「モドキ」が使われてきました。ですから、「イヌモドキ」は偽物のダブルで本物だと言いたくなるのです。
 世間を見ればイヌモドキどころではなく、キツネとタヌキの騙し合いだらけで、ですから世界は面白いのです。まずは少々退屈でも、生物の命名をもう少し引っ掻いてみましょう。イヌナズナは,道端や農地周辺などに多い越年草。暖かい地方よりも北国でより多く見かけます。ナズナに似ていますが,花が黄色いことのほか短角果の形も違います。人里で目にするナズナに似て黄色の花はすべてイヌナズナと思っていいでしょう。
 広辞苑によれば、「イヌ」はある語に冠して、似て非なるもの、劣るものの意を表す語。別の辞書には、役立つ植物の何かに形態上は似ているが、多くは人間生活に直接有用ではないものを表すとあります。イヌナズナの他に、イヌムギ、イヌタデ、イヌナズナ、イヌツゲなどがあります。イヌタデは、昔ままごとで使った「アカマンマ」のことで、残念ながら食べられません。「タデ」はその芽を刺身の付け合わせにします。ナズナは、春の七草。ところが、形は似ているイヌナズナは、食べられません。ツゲは、櫛や将棋の駒に使われますが、イヌツゲは、材質がよくなく使われません。
 「イヌ」を使う由来は実際の犬とは無関係のものが多く、有用な植物に似ていても「否(いな)、違う」とか「役に立たない」という意味でつけられたものが多いのです。本物の植物に対してのニセモノといった不本意命名をされた例も多く、人間用でなく犬用ということから、「麦」に対して「イヌムギ」、「稗」に対して「イヌビエ」、そして同様に「イヌホオズキ」、「イヌタデ」、「イヌハッカ」といった具合です。
 ところが、「オオイヌノフグリ」の「イヌ」は、本来の犬のふぐりの形に似ていることからついた名称です。漢字で「狗尾草」と書く「エノコログサ」は、イヌの尾の形に似ていることからついた名称ですが、別名ではイヌではなく「ネコジャラシ」と呼ばれています。同様の例としては、和名「イヌハッカ」と呼ばれている同じ植物が、英名では猫が好む香りのあるハッカという意味で「キャットニップ」(同じイヌハッカ属に「キャットミント」もある)という名前で親しまれています。
 こうなると、動植物の命名の歴史は何ともいい加減で不真面目、駄洒落さえOKという歴史であることになります。
<惑星の名前>
 私たちは物質が原子でできていることを知っています。では、昔の人は物質は何からできていると考えていたのでしょうか。古代中国では色々な物質は木、火、土、金、水の5種類の元素からなると考えられていました。この考えは「五行説」と呼ばれていて、それによれば、私たちの一週間は五元素と太陽を表す「日」と「月」の7つの曜日からなりますが、惑星にも同じように当てはまります。太陽のすぐ近くを回る水星の公転周期は約88日で、地球の365日より随分速く回わっているため、水が流れるようにということから水の星、つまり水星と名づけました。金星は、太陽、月以外では一番明るく輝いています。それゆえ、「明けの明星」、「宵の明星」という別名もあるくらいで、金のように輝いている星、つまり金星。火星の表面には酸化鉄が多くあり、酸化鉄はさびで、赤い色をしています。「赤い」のは火で、火のような星、つまり火星という訳です。土星の表面には白や黄色の縞があり、それが土のような色に近く、土の星、つまり土星です。木星五行説で残った木をあて、木星としました。これで命名は終わりです。かつては惑星がこの五つだと考えられていたからです。五行説ではこのような説明になりますが、これはかつての中国や日本での話で、古代ギリシャでも五行説に似た説明がありました。
 ヨーロッパの星座が一通りの完成をみた古代ギリシャで、星座の間を動く明るい惑星に対し神々の名前がつけられました。惑星と神々の名を挙げておきましょう。
 水星(Mercury Hermes)、金星(Venus Aphrodite)、地球(Earth Gaia)(ヘシオドスの『神統記』によると、まず「カオス」が生まれ、次に「大地(ガイア)」が生まれました。その後「地下(タルタロス)」が生まれ、そして「愛(エロス)」が生まれました。さらにカオスからは「幽明(エレボス)」と「夜(ニュクス)」が、ニュクスからは「澄明(アイテル)」と「(昼日)ヘメレ」が生まれ、ガイアは「天(ウラノス)」、「海(ポントス)」を生みましだ。そして、ガイアはウラノスと交わり、数多くの子供を産みました。)、火星(Mars Ares)、木星(Jupiter Zeus)(全知全能の神ゼウス、またの名はジュピター。クロノスとレアの子供として生まれ、オリンポス神族の長となります。ゼウスは「明るく輝く空」を意味し、雷を武器としました。ゼウスは姉であるヘラと結婚しますが、女に対し手が早く、嫉妬心の高いヘラの目を盗んでは浮気をし、子供を増やしていきました。なお、木星の衛星はそのほとんどがゼウスと関係の深い女性の名がつけられています。)、土星(Saturn Kronos)。
 その後ヨーロッパで天体望遠鏡が発明され、天体望遠鏡で空を観測することによって、天王星海王星冥王星が発見されます。それが日本に名前と共に伝わりました。天王星は英語ではウラヌス。それはギリシャ神話の天空の神様。青緑色に見えるので、この天の神様の名前がつけられました。天の王様の星ということで、天王星海王星は英語でネプチューンネプチューンローマ神話の神様で、海の神様。海王星も美しい青色をしていて、それで海の神様から名前をもらいました。今では惑星ではなくなりましたが、冥王星は英語ではプルート。冥界の神様で、死後の世界の王様の星、つまり冥王星命名されました。
<元素の名前>
 「万物は、その根源をなす不可欠な究極的要素からなる」(広辞苑)という考えは古代からの原子論的な自然観であり、その究極的要素の探究が科学を生み出しました。そして、この「究極的要素」が元素で、「それ以上分けることができない物質(アトム)」として定義されたのは18世紀に入ってのこと。19世紀になると「物質を構成する最小の粒子」を原子とする考えが広まり、元素の物質的正体は原子で、元素は「原子の化学的性質を表す概念」、あるいは「同じ陽子数を持つ原子の総称」となります。現在では、原子よりさらに小さい素粒子が「物質を構成する最小の粒子」です。
 1869年、ロシアのメンデレーエフが提唱した「元素周期表」は鉛(Pb 原子番号 82)まで、1871年に発表した第二周期表には既に天然で最も重いウラン(U 原子番号92)がありましたが、まだまだ空欄が残っていました。その空欄全てを埋めるには1930年代の加速器の登場が必要でした。そして、加速器の登場によってウランより重い元素(超ウラン元素)が人工的に作り出されていきました。1940年に米国のエドウィン・マクミランらによってネプツニウム(Np 原子番号 93)が作られると、次々と超ウラン元素が作り出されることになります。1958年にアメリカでノーベリウム(No 原子番号102)が作られ、その後はロシア、ドイツ、そして日本がこの競争に参入、最近ではロシアと米国の共同研究グループが発見した114番、116番元素に、それぞれフレロビウム(Fl)、リバモリウム(Lv)という名前がつきました。
 1908年、小川正孝は原子量が約100の43番元素を精製・分離したと主張し、「ニッポニウム」として発表しました。しかし、他の誰も結果を再現できず、その信頼性は揺らいでいきます。それから29年後の1937年、エミリオ・セグレが米国の加速器を使って43番元素を作り出しました。ニッポニウムは幻となり、43番元素は1947年にテクネチウム(Tc)と命名されました。このテクネチウムは小川の方法では見つかるはずがなかったことから、小川は間違っていたと考えられました。小川の死後、研究資料を詳しく調べると、レニウム(Re 原子番号75、1925年に独のワルター・ノダックらが発見)であることが判明したのです。何と小川が1908年に発見したのはこのレニウムだったのです。
 さて、元素の名前はどのように決まるのでしょうか。まずは研究グループが新元素発見を主張する論文を発表。その後、「国際純正・応用化学連合IUPAC:International Union of Pure and Applied Chemistry)」と「国際純粋・応用物理学連合(IUPAP:International Union of Pure and Applied Physics)」が推薦する有識者で構成された合同作業部会「JWP:Joint Working Party」 がその論文の実験結果の信頼性を調べます。JWPはその調査内容を記した報告書(論文)をIUPACに提出、報告書に問題がないと判断されると、IUPACが新元素を発見した研究グループを認定するとともに、新元素の命名権を同グループに与えます。これが命名までの手順です。
 2015年末、理化学研究所チームが合成した113番元素がIUAPCの認可を受け、命名権が同グループに与えられました。113番元素はミリ秒レベルの寿命しか持たず、これまでたった3原子しか合成されていません。化学的性質などがわかるには,まだ時間が必要です。
 既述の小川の新元素発見のことを想い出しましょう。ロンドン大学に留学していた小川は、スリランカ産の鉱物トリアナイトから、それまで知られていなかった新元素を分離します。彼はこの新元素の原子量を約100と推定,周期表の空き場所である43番に当てはまる元素と考えました。1908年,小川は師であるW. Ramsayの勧めに従い、この元素を「ニッポニウム」(元素記号Np)と名づけて報告しました。
 でも、この発見は他の研究者による確認ができず、小川の弟子たちでも単離に成功したものはいませんでした。こうして新元素ニッポニウムは,周期表に正当な居場所を得ることなく、幻と消えてしまいます。このように、一度提案されながら、消えてしまった「幻の元素」の名前は、新しく発見された元素には使えないという規定があります。このため、新たに作り出された113番元素に最もふさわしいと思われる「ニッポニウム」の名は,残念ながら使用できないのです。
 科学の世界における命名の基本は自由です。でも、元素名に関しては,いくつかの規定があるため、勝手に名前をつけることはできません。まず、金属元素と推定される元素については、語尾を「-ium」とすることになっています。また、語幹についても国名などの地名、科学者の名、その元素の性質、神話にちなむ名前などから選ばれるのが慣例。アメリシウムフランシウムゲルマニウムなど国名にちなむ元素が多いため、113番元素も「日本」にちなむ命名が有力視されました。でも、前述のように「ニッポニウム」は使用不可。
 113番元素の名称は「ジャポニウム」が最有力とみられていましたが、2016年6月には研究所のチームがIUPACに提出した名称案は「ニホニウム」(元素記号:Nh)で、11月に正式決定されました。
<第二性質は感覚的なのか、あるいは色は主観的か>
 私たちが住む物理的世界は数学によって表現され、信頼できる仕方で説明や予測ができます。これが科学革命の目標で、その実現をスタートさせた一人がガリレオ・ガリレイでした。数学が嫌いな人は物理学も嫌いであり、その逆も成り立つのは二つが密接に結びつているからですが、そのような結びつきを生み出したのがガリレオだったのです。このようなガリレオの研究スタイルを嫌いな人が多いのは確かです。でも、科学に対する通念はこの1世紀の間に大きく変わり、言語が数学的であるゆえに、数学が使われる範囲はますます増え、ガリレオの方法では扱えないと思われていた事柄が続々と解明されてきました。そんな時期に、改めてガリレオ批判を見直してみましょう。
 17世紀前半に活躍したガリレオは、近代科学の実証主義的方法論や数学的自然観を生み出しました。数学的な理論と実証的な実験という二本立てを駆使して物体の落下法則を発見しました。数学の言葉で書かれる自然という表現は、彼の数学的自然観を見事に示し、物体の「第一性質」と「第二性質」の区別につながっています(「第二性質」という用語は哲学者ロックが後に使って有名になった用語です)。
 第一性質としては「大きさ、形、数、運動の速さ」などが挙げられます。これらは物質そのものがもっている実在的な性質であるのに対し、味、匂い、色彩などは物体がもっているのではなく、感覚する人間がもつ性質であり、客観的に実在していないとガリレオは考えました。ガリレオはこの区別の基準をはっきり語っていません。おそらくガリレオは、数学的に処理可能な性質を第一性質とし、そうでないものを第二性質としたのではないかと推測できます。ガリレオは数学的自然観をもとに、数学的に表現できない性質として感覚的なものを考えたのでしょう。
 味や匂いや色彩などは、17世紀のガリレオの時代では数学的に表現できる見通しが立っていませんでした。その際の典型的な謂い回しが、「量」的な性質と「質」的な性質の違いという表現です。ガリレオは自然界を「量」と「質」に分け、質的なものを主観的な領域に押しやり、自然界を探究するには数学的手法の適用で十分となると考えたのでしょう。
 ガリレオは二つの性質を峻別した上で、人間の視覚以外の感覚について、「四つの感覚が四つの元素と関連している」と主張しました。17世紀の科学革命の立役者ガリレオが感覚を論ずるのに古代ギリシア四元素説を持ち込んだのです。エンペドクレスやアリストテレスは、この世界の根源的元素として「火、空気、水、土」を挙げ、これらの四元素によってこの世界のすべてが構成されている、と考えました。その枠組がガリレオにも継承されていたのです。例えば、触覚については、その感覚が土の元素に関連しているとし、味覚と臭覚については、「味を生じさせるためには空気中を落下する液体が、匂いを生じさせるためには空気中を上昇する火が、ある類比をもって対応している」と言います。さらに、音には、空気元素が対応していると考えます。そして、それらの感覚を生じさせるために、それらの元素の微粒子の「大きさ、形、数、遅いもしくは速い運動といった以外のものは必要ない」と断言します。微粒子の形や運動によってさまざまな感覚が生じる、というのはデモクリトスの原子論に由来するもので、原子論がガリレオの数学的自然観に合致することを見抜いていたようにみえます。
 考えてみれば、物質の化学的理解は18世紀の後半から19世紀の初頭に急速に進展し、ラヴォアジェやドルトンらによって、化学分野の近代化が達成されたのですから、17世紀前半のガリレオアリストテレス四元素説を温存していたとしても不思議ではなく、それを原子論に結びつけたことは化学革命を先取りしていたとも言えます。
 物理学と天文学の研究者ガリレオに反対する陣営となれば、アリストテレス派の哲学者たちとアリストテレスの自然哲学でした。運動理論でも地動説でも、ガリレオアリストテレスに反対しました。ところが、感覚を考察する際に、他の道具立てが当時はなかったため、宿敵アリストテレスの手札を使うしかなかったと考えることができます。そのため、人間の感覚と密接な係わりのある「第二性質」については、重要性を認めたくない、という意識に上らない思考が働き、物体には実在しない性質、とみなしたくなったのではないでしょうか。
 ガリレオは、数学的に表現される世界こそ真の世界であるという強烈な自負心をもっていました。フッサールガリレオを隠蔽の天才、ガリレオの倒錯とさえ呼んでいます。感覚については、数量化の構想を仮想的には提示できるものの、基本となる概念をアリストテレスから借りてこざるを得ませんでした。これが思想史の一つの捉え方であり、ガリレオフッサールの対比が科学、数学、哲学の間の関係とドラマティックに理解される図式なのですが、私にはこれは一面的過ぎると思われて仕方ありません。
 ガリレオがかなり強引に、数学的自然観の方針を貫徹しようとしていたことは確かでしょう。そのため、アリストテレスの臭いがし、数量化の見通しの立たない「第二性質」を客観的世界から放逐したかった、と考えると、対立構図がはっきりし、わかりやすく見えるのですが、それが私には納得がいかないのです。ガリレオが世界の姿を隠蔽したとすれば、その同じ知識や手法によって暴露したことはどうなるのでしょうか。
 そこで、再度ガリレオの仕事と思想を確認しておきましょう。ガリレオ・ガリレイGalileo Galiei, 1564-1642)はイタリアの数学者、物理学者、天文学者。パトヴァ大学数学教授の後、トスカーナ大公メディチ家)の宮廷数学者・哲学者となります。彼は物体の運動をその物体に内在する性質やその物体が世界のなかで占める場所から切り離して理解した最初の科学者です。物体は数と量によって表され、幾何学的な空間と時間の中で運動します。彼はそれを実験を通じて明らかにし、客観的な数学言語によって表現しました。また、当時発明されたばかりの望遠鏡を改良し、木星の衛星や太陽黒点を発見しました。
落体の法則:一様加速運動で落下する物体が任意の時間で通過する距離の比は時間の二乗の比となる。
慣性の法則の先駆け:「あらゆる障害が取り除かれたときに、ある動体が水平面の上に投げ出されたと想像する。この平面が無限に延びているなら,動体の運動はその上で際限なく均等に続くであろう。」(『論議』1638年)
「ある物質とか物体とかを考えるやいなや、次のようなことを思い浮かべる必要にかられます。すなわち、その物体がしかじかの形態によって境界づけられているかどうか、他の物体と比べて大きいか小さいかどうか、しかじかの場所と時間に存在しているかどうか、動いているか不動のままであるか、他の物体に接触しているかいないか、単独であるか数個であるか多数であるかなどのことです。いかなる想像力を働かせても、物体をこれらの条件から切り離すことはできません。しかし白いか赤いか、苦いか甘いか、音を出すか出さないか、芳香がするか悪臭がするかといった特性は、その物体に必ず伴うものと理解されなければならないとは思えません。それどころか、感覚がその特性に影響されなければ、理性や想像力では決してそれらはとらえられぬでしょう。それゆえ、これらの味や匂いや色彩などは、主体にとっては何ものでもなく、単なる名辞に過ぎず、感覚主体の内にしか存在せず、したがって動物(つまり感覚する人間)の方が取り除かれてしまうと、これらすべての性質は消滅・破壊されてしまうと考えられるのです。」(『偽金鑑識官』1623年)
 ガリレオは数学への信頼を『偽金鑑識官』の中で次のように表明しています。「哲学は、眼の前にたえず開かれている、この広大な本(私は,宇宙のことを言っている)に書かれているのです。しかし、その本は、もし人がまずその言語を理解し,そこに書かれている文字を解読することを学ばないのであれば、理解されることはありません。その本は数学の言語で書かれており、その文字は三角形、円、その他の幾何学図形であり、これらなしでは、その本のたった一つの語さえも、人間の力で理解されることはありません。(Opere, 6, p.232.)」
 さて、このようなガリレオの考えを強烈に批判したのがフッサールです。そこで、「自然の数学化」についての現象学的な一般的批判をまとめてみましょう。
 学問が実証主義的になると、真理は客観的に確定できるものに限られ、そのため「生」が排除されてしまうことになります。生の意味や価値や意図といった内面的なものは、実験や観測では検出できないからです。生を排除してしまった学問は世界の中で生きる人間に対してその生の意味を与えることができなくなります。
 ガリレオは科学から私たちの生を取り去り、そこに新しい科学をつくりました。ガリレオ的科学とは、世界を物質的な事物の秩序に基づいて組み立てることに特色があり、近代科学は最初から私たちの生を排除していたのです。ガリレオによって生を排除された世界が現実の世界だと見做され、「幾何学的、数学的に規定された世界」と「私たちの主体的生が体験する生活世界」が取り違えられたのです。近代科学は生まれながらにして学問の「危機」を胚胎していたのであり、ここに近代科学の「原罪」的性格が指摘できます。
 ガリレオは自然を書物と見なし、「数学の言語」で書かれていると考えます。「書物」としての自然は、数学の言語で規定可能な数量的自然であり、単純に直接的に経験出来る世界とガリレオは考えています。ガリレオにとっての考察対象は「抽象的数学的諸規定に還元された自然」でした。「自然という書物」を数学的文法によって読み解いた成果が、近代科学の中核を占める力学(=機械学)です。そこで前提されているのは、自然界は数学的に提えることが可能であるということです。
 カリレオが数学的文法によって読み解こうしているのは数学の言語で捉えられる自然です。ガリレオは、感覚的に捉えられる世界の多様性は理性的分析によって統一的、総合的な把握が可能であると考えました。そこで前提されていたことは、自然を記述するための最も詳細な方法として、機械的な形、大きさをもった抽象的単位の運動に全てを還元するということであり、自然考察に際して、要素還元主義を採用するということでした。
 自然は,一定の秩序(文法としてのロゴス)に従って構成されており,私たちが数学という言語を片手に一歩一歩解読作業を進めていけば、やがては「真理の王国」に到達できるとされています。ガリレオは「自然は一様であり、 常に同じ仕方で振る舞う」と捉え、「因果性の支配する具体的な宇宙としての無限の自然全体」を「純粋幾何学」によって記述しようとしたのです。しかし、それは生き生きとして豊かで暖味な自然の内で「数学の言語」で扱うことのできる対象のみを研究の対象にするということであり、「自然の理念化された形式のみを抽出すること」に他ならないのです。そこには自然が如何に質的に多様性に富むものであろうとも、一般的な運動法則の形によって捉えられるもののみが、科学的に合理的であるとする理解が優先されているのです。
 自然は、測定され、計算され、全てのものがミクロの構成要素にまで還元されることによって、操作が容易な対象へと変えられたのです。それは自然に対する支配の増大であり、それが自然を感性や内的な繋がりのないものと見なすという傍観者的意識を育んだのです。
 自然を認識するには,自然そのものの的確な測定が不可欠です。そのためにガリレオは物体の性質が「第一性質」と「第二性質」とに区別しました(記述参照)。ガリレオにとっては、大きさ、形状、重さなどユークリッド幾何学によって数量化可能な「第一性質」のみが実在的な自然の構成要素でした。
 ガリレオにとって、自然を純粋幾何学によって捉えることは、自明の事柄でした。フッサールによれば、ガリレオによる「自然の数学化」は、「二重の理念化」によって行われます。第一は「完全性の理想」が理念的な「極限形態」の世界として構想され、量的操作が確立される段階です。測定術における経験的、実用的な客観化の機能が「理念化」され、「純粋幾何学的な思考作業」に転化されることによって幾何学が生まれたのです。第二は物体の感性的性質の「間接的数学化」の段階です。「理念化」を通して、「日常的な生活世界」が「数学的な基底を与えられた理念体の世界」にすり替えられたのです。数学的諸規定に還元された自然が現実に存在し、「厳密な意味で認識されうる普遍的妥当的な唯一のもの」と「取り違えられた」のです。ここで、「生活世界」とは、科学的営為の究極的基盤とされるものです。生活世界とは「あらゆる理念化に際して前提となる現実として直接に与えられているもの」、あるいは私たちの全生活が実際にそこで営まれているところの、現実に直観され、現実に経験され、又経験されうるこの世界のことです。
 このようなガリレオ批判は20世紀中葉までならある程度わかるのですが、現在ではそのままでは通用しません。社会科学、心理学、脳科学などの領域ではコンピューターと数学言語によって飛躍的に知見が増え、心の内側が次第に明らかにされつつあります。感覚、信念、欲求、意識などは着実にわかり出しています。それらを挙げるまでもなく、手元にある「紫」という色感覚とその表現についてみてみれば、第一性質や第二性質という区別が便宜的、暫定的なものであることが誰にもすぐわかる筈です。
 万葉集の時代から古今集時代にかけて紫が染料名から色彩語へと転化していく過程がありました。紫が色彩語としての地歩を確立する上で和歌が果たした役割は予想以上に大きく、『古今集』では色彩語としてまだまだ発展途上の段階にあった紫ですが、次第に藤や菊などとの結びつきを深め、色彩語として次第に確立されていきました。
 ヨーロッパでの天然染料は貝紫が主でしたが、日本では紫草の根が染料となっており、『紫』という名もこれが語源です。その名前も群生植物であったことから『群(むら)』と『咲き』の二つが合わさったものです。
 日本では平安時代にもっとも人々から愛され、色の濃さによって「藤」、「桔梗」、「菖蒲」など、花の名前から多くの色名が生まれました。自然界では生命とかかわる紫との原初体験は、やはり肉体の色の変化です。打ち身の際に現れる紫斑や死体に現れる死斑。どちらも同じ色で、同じ音です。いかにも不安定で、両義的な意義のある紫ですが、もともと紫は赤と青の中間あたりの色であり、死や寒色である青の意味と再生や暖色である赤の意味と、両方を持つ不思議な得体のしれない曖昧な色でした。
 歴史的には冠位十二階以外にはさほど重要そうな歴史を感じない色ですが、その昔紫は珍重され、古代中国と律令時代の日本、さらには地中海のフェニキアなどでは高位を示す色とされていました。さらに中世ではローマ教皇枢機卿の衣服の色でした。
 古代紫(こだいむらさき)は僅かに赤みを帯びた、くすんだ紫色のことです。紫草という多年草の根による紫根染めで染められていて、江戸時代に流行した青みを帯びた派手な紫が「今紫」と呼ばれたのに対して付けられた色名です。「京紫」と同じとする説もありますが、一般的に京紫はもう少し鮮やかな色になります。東京の武蔵野に自生していた紫草で染められた紫が「江戸紫」で、紫の本場と考えられるようになり、江戸っ子の自慢の色になりました。江戸紫は青色の強い紫で力強い活気を表してます。京紫は実用性を暗示する青色を避けて優雅さを尊ぶ、紅みの強い紫色です。この紫草は日本の絶滅危惧植物50種の中に入るほど貴重な植物です。ちなみに紫草は白い花を咲かせます。こんな「紫」は第一性質と第二性質とを共に含んだ色です。
*これまでの私の何回かの投稿を修正し、まとめたものです。

水面に揺れるマストたち

 「夢の島」とは何とも奇抜な名前で、私などつい「鬼ヶ島」を想い出してしまう。でも、江東区の「夢の島」は実際の地名であり、その大半は夢の島公園。飛行場の建設計画が挫折し、戦後遊園地が計画されたためか「夢の島」と呼ばれることになった。陸上競技場、少年野球場、熱帯植物館、東京スポーツ文化館といった施設があり、人工の林が広がり、緑に溢れている。運河に面しては夢の島マリーナがあり、ヨットやレジャーボートが所狭しと係留されている。

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実在、言語表現、感覚質経験の間のギャップ(3)

(miralunaさんの「実在、言語表現、感覚質経験の間のギャップ(1)」へのコメントに答えたものに基づいています。)


<色の場合>
 色はその感覚と知識の違いが際立つ例です。色が実在すると信じる画家と色の知識を追求する科学者は色について共通の理解があるのでしょうか。印象派の画家は色彩学者と意見を同じくする必要はありません。色の感覚質(クオリア)と第二性質としての色はほぼ同じというのが私たちの直感です。実在する色、第二性質やクオリアとしての色、そして知識としての色は重なり合う共通点をもちながらも、それぞれ違うものだというのが私たちのおよその見解ではないでしょうか。タイトルの「ギャップ」はまさにこのことを表現していたのです。
 早熟な子供なら誰もが空想してしまうような思考実験の一つが、次のような逆転スペクトル(Inverted spectrum)の話です。例えば、私と隣人が同じ紙を見ていても、私には赤く見え、隣人には青く見えている状況が考えられるというのです。この場合、隣人には「赤」という言葉がその紙の「青い色」を指しているのですから、言葉では感覚している質(クオリア)の逆転を知ることができないことになります。紙の青と他の色とを区別できるのですから色盲テストもパスできるし、信号が赤に変われば隣人は私と同じように停まります。私と隣人の振る舞いのテストで判定できるのは、二人の外界の対象を弁別する力であって、二人の内的な経験の相違ではないのです。二人のクオリアは「機能」的に同じであり、外的な振る舞いも同じです。でも、二人は異なったクオリアを経験しています。
 この思考実験の意義の一つは、心的現象の本質は「機能」だという機能主義(functionalism)はクオリアの問題を取りこぼしているというものです。心的現象の代表は意識ですが、その意識の意味は機能的な役割だというのが認知心理学の通常の考えです。もう一つの意義は、心的現象は物理現象に論理的に付随(supervene)しないというものです。心的なものは脳の生理現象の一部であり、それに付随するというのが心脳一元論的な見方です。ですから、実証的、科学的に心を解明できることへの異論、反論の一例が逆転スペクトルの思考実験の意義ということになります。
 上の話はもっと精緻なシナリオにして、注意深く再構成しないとうまくいきません。言葉は一人の個人の所有物(私的言語)ではなく、共同体に共有されないと成立しません。ですから、二つの異なる共同体が異なる惑星で異なる対象を同じ言葉で表現すると言った状況が必要になってきます。このシナリオ作りは哲学の専門論文に任せることにして、少々慎重に上の話を吟味してみましょう。
 「赤く見える」や「青い色」の赤や青は誰の赤や青なのでしょうか。色盲テストで使う色は誰の色でしょうか。さらに、社会の中で標準的な色のシステムを決める時には誰の色を使うのでしょうか。色彩科学は成立するのでしょうか。成立しなければ、絵具メーカーは何を基準に絵具を作ればいいのでしょうか。こんな疑問が次々と湧き出してくるのですが、それはシナリオの設定がまずいからです。でも、シナリオの修正によっても残る真の問題が明らかになってきます。その問題を突き詰めれば、次のような問いに到達することになります。

色を感覚する以外の仕方で色のクオリアを具体的に実現するにはどうすればいいのか。

クスノキの実

 湾岸にはクスノキが多い。クスノキの名前の由来は、クスシ(薬師)と同じようにクスリノキ(薬木)から、クシキキ(奇木)から、あるいは台湾でラクスと呼ばれていたなど諸説ある。「楠」は和字で、暖地(九州地方)の木の意、樟は中国名。10~11月に実は画像のように黒く熟す。小鳥の好物で、種が遠くに運ばれる。新しい葉がすっかりのびた5月から6月にかけて、クスノキはクリーム色の小さな花を咲かせ、ミツバチが蜜を求めて集まってくる。受粉を終えた花は緑色の小さな実を結び、夏の間に7、8 mmの大きさに生長し、秋には黒く熟し、今度はヒヨドリムクドリの大切な餌として利用される。

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実在、言語表現、感覚質経験の間のギャップ(2)

 だが、ウィルフリッド・セラーズ(Wilfrid Sellers 1912~1989)が「所与の神話(myth of the given)」論によってそれをあっさり否定してしまった。セラーズは、感覚所与(つまり、センスデータ)の信頼性とは次の二つを混同させることによって、でっち上げた幻に過ぎないと主張した。
(1)ある感覚によって印象を持つこと
(2)どう感じるかについて命題で表現できる知識を得ること
 (1)は確かに直接的に現前し、感覚質として与えられるものだが、これはまだ知識や認識と言えるものにはなっていない。その現前が何ものであるかを認識するためにはそれを命題として表現し理解する作業が必要である。(2)は確かに知識あるいは認識である。しかし、直接的な現前とは違い、言語的に表現される命題である。それゆえ、(1)と(2)の間には言語と感覚という越えがたい断絶があることになる。  
  Aを「赤い」と言うとき、Aは(1)の意味で現前そのものである。それを「赤い」と言うのであれば、それはそのとき(2)の意味で知識化・認識化されている。これを正当化不要な直接的な認識としたのがセンスデータ論であったのだが、セラーズはそこに、意味付けのための<無限の断絶>を飛び越える飛躍が潜んでいることを指摘し、それが、感覚的な現前そのもののレベルと言語的な認識のレベルを混乱させた中での単なるでっち上げに過ぎないと主張したのである。セラーずに従えば、Aが「赤」だと言うとき、それは「正当化」を必要としないどころか、解釈ルールを密輸入させてしまっているのであり、勝手に正当化が不要だと決めつけただけのことになる。「他の信念を正当化できるのに、自分は正当化不要なセンスデータ」などというものは、自分に都合のいいでっち上げに過ぎない。だから、センスデータをもって基礎付け主義の基礎とすることはできない。それゆえ、セラーずによれば、内在主義的基礎付け主義は否定される。
 セラーズの主張を詳しく見てみよう。感覚質を所与とする内在主義によれば、「もっとも基礎的な信念(命題知)は、信念(命題知)ではない認知状態によって正当化される」という主張である。たとえば、「これは赤い」は、ある知覚によって正当化される。しかし、感覚や知覚によって命題を正当化するということに対する批判が、セラーズが「所与の神話」と名づけた批判で、上に述べた通りである。くどいようだが、再言すれば、

(1)特定の対象からやってくる光や音を感覚すること、つまり感覚印象をもつこと、
(2)どう見えるかについての命題的内容をもつ知識を非推論的な仕方でもつこと、

だった。 直観や直接の気づきという認知状態が、命題的内容をもち判断的なものだとすると、たしかに他の認知状態を正当化することができるが、自分自身も正当化を必要とする。逆に、そうした認知状態が命題的内容をもたず非判断的で感覚的なものだとすると、こんどは正当化を必要としなくなるが、その代わりに他の認知状態を正当化することもできなくなってしまう。
 このような議論は「感覚そのもの」と「感覚内容の表現」の違いが根本的に異なるものだという常識に基づいている。このような違いは「所与の神話」だけでなく、あちこちに見られる珍しくない事態である。例えば、感覚質を主にした情報が知識の基礎づけに役立たないということは、機能主義に基づく、言語的な知識が感覚質を説明できないということを含意する。これは(1)と(2)の断絶の一側面である。つまり、心に関するハードプロブレムは通常の科学では解けないという主張は「所与の神話」を別の側面から述べたものになっている。
 直接経験と知識の間には歩道橋がないように見える。セラーズは(1)と(2)の区別に何の疑問ももたないし、心身の一元論批判や主観性の擁護でもこの二つの区別が最初から想定されてきた。だが、道路の左側と右側のように二つの区別は明白に違うのだろうか。
 感覚と感覚の表現の間に二つをつなぐ歩道橋はないとしても、道路の両側は通常なら見通せるので、片側から他方を観察することはできる筈である。両側を調節することは歩道橋がなくてもできる。さらに、歩道橋がなくても、あたかもそれがあるかのようにできることは可能である。常に歩道橋が必要ではなく、時々歩道橋が渡れるなら十分。その例には次のようなものが考えられる。
<絵画による相互乗り入れ的な表現>
 描写、写生、リアリズム、あるいは表象、表現といった謂い回しの中に、感覚と描写、時には説明の「重ね合わせ」が見て取れる。画家だけでなく、鑑賞者もそれぞれがもつ経験や知識を駆使して鑑賞している。画家は描く対象を様々な手法、技を使って、それらを重ね合わせて描くという経験をしている。画家は自分が見たもの、感じたものをキャンバスの上に直接置くのではなく、自らの知識・技術を駆使して意図的に(描きたいものを)描き出そうとする。感覚レベルの刺激に対して、学習によって得られた感受性をその刺激に対して働かせ、具体的な画像を生み出す。
 さて、このようなその一連の「描く」作業で(1)と(2)が断絶していたのでは画家は仕事ができない。感覚的な内容を絵画として描くには(1)と(2)の連携が不可欠である。「所与の神話」こそ実は机上の神話に過ぎなく、感覚的な所与は画家の経験や知識、技能によって絵画という文法を通じてキャンバスに表現されるのである。
 絵画、彫刻、写真等の美術は幾重もの重ね描き、描き分けが行われている。私たちが感覚表象と科学知識を重ね合わせて世界を表象しているが、基本的にはそれと同じものである。だが、美術の場合はより先鋭、繊細で、そのための学習、つまり、重ね合わせの技の習得は決して簡単ではない。知覚像の合成、総合は知識と感覚、勘と技の統合であり、絵画美術の場合は画家独自の画像がその結果表明となる。
 ところで、「重ね合わせ」が可能ということは、「付随」可能ということでもある。重ね合わせは付随性がルーズな仕方で成り立っていることを示している。(2)は(1)に付随する、つまり、(1)を基礎にして、それに違反しない仕方で(1)の内容が表現され、言語化される。言語で表現するとは、現象に付随させ、現象に従わせるということである。勿論、私たちの言語表現は付随させることに止まらない。付随など単なる記述に過ぎなく、真に創造的なのは現象に付随しない、創発的なものだという自負が文学にはある。
<今後のスケッチ>
 絵画の例はほんの一例に過ぎないが、結局のところ、(1)と(2)の峻別ができるかどうかという問題は限りなく擬似的な問題だということが明らかになるだろう。二つの区別が本当にできるかどうかは問題ではない。実際にはそのような「あれかこれか」型の解答ではなく、ある時には区別ができ、別の時には区別できないというのが正解。つまり、解答は文脈依存的で、相対的なものであり、その上、個人差のあるものである。
 感覚経験とその表現の間にはどのような関係があるかについては、特に言語表現との関係が注目される。絵画について述べたように、(1)と(2)の重ね合わせは学習することによって蓄積され、「経験」という言葉でまとめられる内容を形成していく。つまり、「重ね合わせの学習=経験の形成」であり、重ね合わせることが経験することなのである。私たち人間が進化の途上で言語を獲得したことは、言語的でない感覚情報を言語的に表現することが「適応」であったからである。つまり、(1)と(2)の関係は進化上の適応関係として重ね合されているのである。
 普遍文法(universal grammar)はカントの悟性のカテゴリ-とほぼ同じ役割を果たすものだが、悟性のカテゴリーは遺伝的というより、学習によってできあがるものである。感覚的なデータは刺激であり、その刺激が学習によって経験へと変わる。新生児に「経験」はない。内容のない経験はなく、経験が内容をもつには学習が必要となる。恐らく、外部刺激に対する最低限の反応は遺伝的に組み込まれているが、環境への学習の遺伝が働きだし、それによって経験内容が経験と記憶の組み合わせによってつくられる。「経験」が有意義なものになることが生きることの実践であり、経験が記憶され、学習対象となり、知識と感覚のすり合わせ、重ね合わせがなされ、(1)と(2)は見事に調和されてつながることになる。

 所与とは感覚知覚に与えられたもの、所与とは実在として与えられたものと見做すなら、それぞれ感覚知覚的所与、形而上学的(存在論的)所与と呼ぶことができるだろう。そして、それらを表現するのが言語、知識であるが、言語や知識による表現内容は性質として解釈されてきた。アリストテレスの形相と質料という区別は、存在論的な所与である質料と言語によって表現される形相(性質)の区別である。ロックやヒュームの第一性質と第二性質の区別は性質と感覚質の間の区別になっている。私たちは言語、知識を通じて、自らの感覚経験、実体と呼ばれてきた対象に繋がってきたのだが、表現し切れるか否かがずっと論じられ、そこにはギャップがあるというのがこれまでの暫定的な結論と言ってもいいだろう。

実在、言語表現、感覚質経験の間のギャップ(1)

 中世の関心は実在と言語表現の間のギャップ、近代の関心は感覚経験と言語表現のギャップ、それらの間の関係の類似性は驚くほどのもので、「もの-性質(言明あるいは知識)-感覚」の間に何があるのかは相変わらず謎と闇だけが広がり、今でも私たちの好奇心を駆り立てている。そこで、これまでの議論をまとめることにしよう。

 「罪を憎んで、人を憎まず」は、人が罪を犯すにはそれなりの理由や事情があるので、犯した罪は憎むべきだが、その人そのものを憎むべきではないと主張する。だが、大抵の被害者とその家族は罪だけ憎み、犯人を憎まないといった芸当は至難の業だと反論する。
 孔子の「孔叢子(くぞうし)」(後世の偽作)のなかの刑論に「古之聴訟者、悪其意、不悪其人(昔の裁判所で訴訟を取り裁くとき、罪人の心情は憎んだが、人そのものは憎まなかったの意味)」とあり、そこからタイトルの諺がきている。弟子が孔子に「司法官として罪を裁く際にどうすれば良いか」と尋ね、孔子が「罪を犯すには理由、原因があったはずで、それに目を向けるべきである。罪そのものや罪人にのみとらわれてはならない」と答えた。つまり、この諺の本来の意味は「司法官として裁く側」の心構えを表していて、被害を受けた人や家族が加害者に対して「人を憎まず」と言っているのではない。だが、このような釈明は、司法官と被害者側は同じ態度をとるべきだとも、別の態度をとってよいとも主張していないのである。
 では、人自身とその人の行為や性質とに対して、どのように扱ったらいいのだろうか。次のような文について考えてみてほしい。
 
「罪を憎んで、人を憎まず」、「悪を嫌って、人を嫌わず」
「功を賞して、人を賞さず」、「善を愛して、人を愛さず」

ある人とその人の行為を見比べたとき、その人の評価や人柄は、その人の行為や性質の評価に還元されるのか、そうではないのか。これが結構厄介な問題で、上の四つの文を比較した場合、孔子の諺以外は承服しがたい文ではないだろうか。例えば、「功を賞して、人を賞さず」が正しいとなれば、勲章や各種の栄誉賞は誰をも賞さずということになり、表彰は宙に浮いてしまうのではないか。生活世界では人の功を賞することはその人を賞することなのである。さらに、人の善き振舞いを愛すれば、その人を愛することも生活世界では常識である。
 ところが、ある人自身とその人の性質や行為の間の違いを気にするのが哲学。逆に、それを気にしないのが常識。孔子の諺はこの常識に反して、哲学に加担していると考えることができる。では、人は誰かを好きになることが本当にできるのか。普通は誰もそんな疑問はもたない。生活世界で人を好きになったり、嫌いになったりするのは私たちの本能のようなものだから、誰も疑わないのは当然のこと。だが、哲学に加担し、そんな疑問にしっかり答えようとすれば、どんなことが必要になるのか。
 物自体は「物自体」としてしか表現できず、無限小も「無限小」と呼ぶしかない。それは、「1より大きい実数の中で最小のもの」と同じように、直接にその対象を指示しているようにみえて、実はそれができないものなのである。これに対して、「私の隣人」や「1より大きい自然数の中で最小のもの」は具体的に確認して指示でき、固有名詞を使って呼ぶこともできる。
 恋人、家族となれば、その存在を疑うことなど考えられないほどに実在的だと見做されている。方法的懐疑など当てはまらない代表の筈なのだが、その根拠は日頃の経験だけで、その経験となれば人自身ではなく、その人の外見や声の経験でしかない。つまり、経験しているのはその人自身ではなく、その人についての知覚経験(所与)に過ぎない。だが、そんな風に考えないのが私たちの生活世界のやり方である。好きな彼女は、彼女を表現する前に存在するのが生活世界である。だが、彼女の存在なしに直接に彼女自身を表現しようと考え出すと、そのような文が見つからず、何も思い当たらないのである。彼女の何が好きであるかはいくらでも述べることができるが、彼女自身を直接に表現することが厄介なために、「彼女が好きである」ということも実はうまく表現できない。でも、生活世界ではそんなことは大したことではなく、兎に角彼女が好きだと言い、行動に出るだけでうまくいってしまい、時にはそれこそ若さの特権ということになっている。
 「誰が好きか」、「何が好きか」、「誰の何が好きか」という問いを見比べたとき、同じような問いに見えたとしても、後の二つの問いが尋ねる前に解答できないように見えるのに対して、最初の問いは簡単そのものに見える。だが、後の二つは容易に解答できるが、最初の問いが実は何を意味しているのかはとても分かりにくいのである。そのように考えるのが哲学なのだが、人の何が好きかを特定できなくてもその人が好きだという方が単純明快でわかりやすいというのが私たちの常識になってしまっている。この大きな違い、あるいは哲学と常識の対立は一体何なのか。
 私たちが暮らす生活世界は個人を単位の一つとして成り立っていて、その個人が好きだ、嫌いだというのが生活の基本になっている。そして、ある個人が好きだという理由としてその個人の何が好きなのかが求められる場合が多い。だが、上述のようにそれらは異なっている。日常世界では「誰が好き」と「誰の何が好き」はほぼ同じ程度に自明の事柄として考えられ、使われている。それらを話したり、考えたりすることが同じように捉えられているのが私たちの生活世界のもつ大きな特徴なのである。私たちの世界は個人を基本単位の一つとして成立していて、その個人が好きか嫌いかは基本的な事柄なのである。
 人のもつ性質だけでなく、どんなものの性質も誰かの性質、何かの性質である。それぞれの性質は個体、集団、組織等がもつものであり、それらの性質として実現されている。かつて個体、集団、組織等は基体(substance)と呼ばれていた。性質は個体や集団の性質であり、性質をいくら集めても個体や集団にはならない。現象や事態を眺める場合、基体を重視するのが実在主義の基本的立場、性質を重視するのが経験主義の基本的立場。個体や集団をまず措定し、次にその性質を考えるのが古典的な方法であるのに対して、近世以降の思考は唯名論的、経験論的に、経験できる性質の検証や測定に重点を置く。

 原子が何からなり、どのような性質をもつか
 個人が何からなり、どのような性質をもつか

上の二つの問いの間にどのような違いがあるか、未だにうまく整理されていないのは確かなようである。にもかかわらず、生活世界では、

 アメリカが嫌いだから、アメリカの特徴も嫌い
 アメリカの特徴が好きだから、アメリカも好き

から、アメリカが好き⇔アメリカの特徴が好き、が当たり前のように導き出され、アメリカとアメリカの特徴はほぼ区別されずに扱われているのである。

 ここで架空の対象や人物について考えてみよう。チェシャ猫は1865年にルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』のキャラクターとして登場した。チェシャ猫のモデルは、エドワード・ピュージーと言われている。キャロルがオックスフォード大学の学生だった頃、ピュージーは学内の大聖堂で司教をしていた。聖職者の父の旧友でもあったピュージーは、学業成績が優秀なキャロルを、オックスフォードの特別研究生に推薦した。そんな経緯がチェシャ猫登場の裏にあったにしろ、アリスもチェシャ猫もキャロルが創作した対象で、私たちの周りにある所与の(given)対象ではない。架空の生き物、想像上の動植物、小説の登場人物はいずれも実在しない創作に過ぎない。さらに、その創造の範囲を広げれば、天狗、天使,鬼、悪魔、さらには仏や神と様々な存在が考案されてきた。
 それら架空の対象の特徴は何だろうか。一角獣も鬼ヶ島の鬼もそれらの性質の集まりとして定義されている。人の考案になる架空の対象は、その対象のもつであろう性質の束によって定義され、直接に指し示すことができない。これがその特徴。だから、アリスもチェシャ猫も本物を指さすことができないのだが、定義に従って絵に描いたり、言葉で述べたりすることはできる。ところが、所与のものは性質の集まりとは違って前触れなしに直接与えられ、それが何であるかは後で記述される。
 私が上で述べたかったのは、所与と定義による指示の間の違いの有無についてだった。言語哲学的には指示の記述説と因果説の違いと言ってもいいものである。所与の個人は謎を本来的にもつが、小説の中の個人は謎をもつと定義されるか、定義が不十分で謎をもつかのいずれかである。だから、科学者は所与の人間ではなく、定義されたヒトをもっぱら用いる。

 私は眼前の赤い紙を見て、「いま、その紙が赤い」と感じ(「赤」は感覚所与、sense-data)、それに直接的に気づく。勿論、私には赤く見えているが、本当は赤くないものを間違って赤いと見ていると訝ることは可能だから、「目の前に赤いものがある」という(言葉による)報告には正当化(justification)が必要になる、と思う人がいるかも知れない。しかし、「私に赤く見えている」ということは私には間違えようがない。「赤く見えている」ような気がしているだけで本当は「赤く見えていない」という勘違い(私が私自身の感覚内容について勘違いすること)はあり得ない。私が、私に現れる感覚質「赤」を直接的にデータとして受け取り、赤いと感じるのであるから、これ以上の正当化はできない。それゆえ、感覚所与はそれ自身正当化を必要としない。だから、その性質を使って他の信念の正当化を与えることができる。それ自身が正当化不要で、他の信念を正当化できるのなら、これは大いに特権的である。
 このような哲学的な説明には説得力があるようにみえる。どれほど自己懐疑に陥っても、疑っている自分を疑うことはできないことはデカルトだけでなく誰にも成り立つこと。そうでなければ、懐疑自体が存在しなくなってしまうからである。そして、それが直示的な感覚であれば、なおのことである。感覚のこの特権的性質を支えるものが、カントの「直観」であり、ラッセルの「センスデータ」であり、前期ウィトゲンシュタインの「私の世界」であり、現象学派の「現前」であり、サールの「知覚経験」である。これらはいずれも内在主義的であり、正当化の無限遡行の心配がない特権的な認知機能であり、それによって世界が理解できると考える。世界を理解可能にする機能が私たちの感覚に内在している。だから、私たちは感覚質を直接にわかるのである。こうして、それらはいずれも基礎付け主義の基礎的信念となり得ると考えることができる。