神の智慧、人の知識など…

 『般若心経』の実物となれば、空海が書き写したと伝えられている奈良の海龍王寺(隅寺)に残るお経が有名です。実際は弘法大師より古く、1200年以上も前の奈良時代のもので、今でも写経の定番となっています。

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 ところで、『般若心経』で主張されているのは仏の智慧、人の知恵、あるいは知識、それとも情報、いずれなのでしょうか。個々の出来事、日々の事件は情報と呼ばれ、知識とは言いません。個人的な事柄は私的な記憶、歴史の一部は公的な記録と区別されますが、客観的な記憶や主観的な記録は立派に存在可能です。一つの実験結果は情報ですが、その結果によって検証される事柄は知識です。こうなると、「神の情報」、「人の智慧」という表現は果たして有意味なのか知りたくなります。
 人が生きるための知恵は学校で習う知識とは違うというのが世間の常識ですが、神(あるいは仏)の智慧はいずれのタイプなのか、それともいずれでもないのか。あるいは、両方のタイプを併せもつものなのか、答えは千々に乱れるばかりです。智慧、知恵、知識、常識、情報などと私たちはまことしやかに分類しているのですが、その分類と命名の理由や根拠は曖昧模糊としたままで、真理からは程遠いものです。ですから、このような用語を生活世界で巧みに使い分けるのに必要なのは知識、それとも知恵、あるいは常識なのかと問われると、まごつき口籠るしかないのです。
 経験を通じて獲得する知識は神の知識ではないことになっています。それは人間に特有の知識で、人間は経験を通じてしか知識を獲得できないというのが経験主義の基本主張です。情報として手に入れたデータが脳内で処理され、言明として表現できるものになり、さらに他人によって検証され、知識に衣替えすることになります。つまり、情報が知識になると考えられているのです。ところが、神には人並みの経験がありません。ですから、神は情報を知識に変えることを学習する機会がありません。経験や学習がないとすると、それは神のもつ知識の欠点にはならないのでしょうか。神は親子愛や友情、裏切りや挫折を経験できません。したがって、神は悪を知らないのだと言いたくなるのですが、神は何でも知っていることになっています。これでは矛盾してしまいます。やはり、神は私たちのようには知ることができないのだと言わなければなりません。
 さて、ここからが真面目な話ですが、智慧、知恵、知識、情報の間に本質的な違いがないのだとしたら、どうなるのでしょうか。また、四つが皆根本的に違うのだとしたら、どうなるのでしょうか。それぞれ異なる状況を仮定して寓話やSFを創作してみるのも面白いのではないでしょうか。

(1)智慧=知恵=知識=情報
(2)智慧、知恵、知識、情報がみな異なる
(3)智慧と知恵は同じだが、それらは知識とも情報とも異なる
(4)四つはみな異なる

その他にも色んな可能性の組み合わせがあるが、(1)から(4)までを代表として様々なシナリオを考えて、思考実験してみると面白い筈です。
(画像の『般若心経』は褐麻紙に書かれ、淡墨で界線をめぐらしていて、慈覚大師(円仁)筆という伝承があります。)

ハナカタバミ(オキザリス・ボーウィー)

 原産地は南アフリカケープ地方。日本へは江戸時代に観賞用として渡来。葉の間から花茎を伸ばし、濃い桃色の花をつける。花径は3センチから5センチと大きく、花の真ん中は黄色い。
 ムラサキカタバミについて既に書いたが、カタバミの種類は結構多く、イモカタバミ、フヨウカタバミなどが挙がる。肝心の「カタバミ」は多種で、カタバミの地方名は「かがみぐさ」、「すいば」、「しょっぱぐさ」、「すずめぐさ」など、200近くになるという。学名のオキザリスは世界に広く分布している。

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「諸行無常」、「色即是空」はなぜ真なのか

 このタイトルでだらだらと書き続けてしまったのですが、自分の不満だけ表面に出て、空回りでしかなかった感があります。自らの疑問に固執し、「空」思想の実践とは遠くかけ離れた結果になったことには我が身の至らなさを感じ入るばかりです。釈迦自身が実践重視で、理論などまるで気にしなかったことが忘れられ、大乗仏教は言葉巧みに物語を通じて仏教を言語化、大衆化しました。信頼できる知識をもとに大衆の説得に当たるには、その知識をわかりやすく説明しなければなりません。その知識に関心をもったのがこのシリーズの私の動機でした。仏教史の中で最もアカデミックだった時期にどのような説明システムがつくられたのか、私の関心はそこにあったのです。残念ながら、そのような説明システムを見出すことができませんでした。
 最後の未練を『般若心経』にかこつけて書いておきましょう。『般若心経』は「般若経群」の要約として仏事ではよくあげられるお経の一つです。今では幾つもの訳があり、文庫本や新書版で簡単に読むことができます。大乗仏教の理論的集約なのですが、余りに要約され過ぎていて、結論だけが物語風に語られるだけで、体系的な説明にはなっていません。でも、その短く巧みな要約が文学作品と見まごうばかりに、人々を大いに惹きつけ、深い智慧だと賞賛されてきたのです。物語は今も昔も人の心を虜にする常套手段ですが、そのエッセンスは次のような内容です。

 聖なる観音が正しい智慧の完成を目指していたときに気づいたことを語りました。舎利子、お聞きなさい。宇宙の構成要素には実体がなく、形のあるものは形がなく、形のないものは形があるのです。感覚、表象、意志、知識さえもすべて実体がないのです。観音はこれらの要素が「空」であって、生じることも滅することもなく、汚れることもきれいになることもないと知ったのです。私たちがいる宇宙では形がなく、実体がないのです。宇宙は粒子に満ち、粒子は自由に動き回って形を変えています。お聞きなさい。形のあるもの、つまり物質的存在を私たちは現象と捉えていますが、現象は時々刻々変化し、変化しない実体はないのです。実体がないからこそ、形をつくれるのです。実体がなくて変化するから物質であることができるのです。あなたも粒子でできていて、宇宙のなかの他の粒子とつながっています。ですから、宇宙も「空」です。あなたという実体はなく、あなたと宇宙は一つなのです。宇宙は一つですから、生滅、美醜、増減はありません。ですから、「空」という状態には形、感覚、意志、知識は何もないのです。眼、耳、鼻、舌、身体、心、形、声、香りはことごとくなく、心の対象もありません。実体がないのですから、「空」には物質的存在も、感覚も、概念を構成する働きも、意志も、知識もありません。正しい智慧がないということもなく、それが尽きるということもありません。迷いもなく、迷いがなくなるということもありません。こうして、老いも死もなく、老いと死がなくなるということもないということになります。老いと死は「空」であり、それを恐れる必要などないのです。心を覆うものがないので、恐れがなく、道理を誤ることもなく、永遠の平和に入っていけるのです。私たちは、あらゆるものは「空」だという智慧を身につけたものになれるのです。無常のなかで生き、永遠のいのちに目覚めていくのです。永遠のいのちに目覚めた人は苦のなかにいて、苦のままで、幸せに生きることができるのです。深い理性の智慧は永遠に存在します。それゆえ、仏の智慧は大いなるまことの言葉で、すべての智慧です。

 この『般若心経』の典型的な一解釈は次のようなものです。仏教では区別を嫌い、主観客観、自他の区別をしません。その区別が二元論的な見方を生み出し、そこから「執着」が生まれ、「欲」の原因となり、「苦しみ」が結果すると考えます。そこで、世界を一元論的に見て、世界の風景を変えるのです。私たちをつくる原子が自由に動き回わっている物質世界(「色」)で原子レベルの意識になって世界を眺めてみると、そこには別の風景が広がっています。風景は原子の密度の濃いところと薄いところからなっています。人や物は密度が高く、その間の空間は密度が低いように、原子が飛び交っているだけの空間の中で原子の密度の濃淡しかないという世界なのです。その世界では個人や個性の違いなどありません。でも、この世のすべてが存在するのです。それは原子の濃淡でしかなく、物欲に捉われる必要などない世界なのです。
 すべてが空で、執着すること自体に意味がないと説かれると、人は不思議なもので、執着することが懐かしくてたまらなくなるのです。努力や精進は何かに執着しないとできるものではありません。固執することによって目的が達成されることを私たちは何度も経験し、そしてそれを賞賛してきました。特に、若い時分には諦めることと悟ることは区別がつかないものでした。
 ところで、タイトルの言明を使って、何を説明、予測するのでしょうか。これら言明は自然現象の説明ではなく、心理状態の治療に効果があるというのが実際のところです。言明をよくよく見るなら、『歎異抄』の悪人正機説に似て、限りなくトートロジーに近いのです。「色不異空」、「空不異色」、そして「色即是空」、「空即是色」の謂い回しを合わせるなら、つまるところ「色=空」、「もの=空」なのです。あるいは、それらが空の定義と言ってもいいのかも知れません。このレトリックは余りに見事というより、人を誑かしているようにも見えるのです。ですから、賢い釈迦は実践によってしか示さなかったのではないでしょうか。これらの表現はトートロジーと言うより分析的と言う方が正しく、それゆえ、このような文脈では「色即是空」はアプリオリで必然的に見えるのです。確かに、どんな数学システムも公理から定理を導出するのはトートロジーを利用したものですが、流石に定義はトートロジーでも分析的でもありません。鋭く見事な洞察は言葉にすると分析的にしかならないと釈迦が知っていたとすれば、龍樹も説一切有部もそれを見抜けなかったことになります。
 『般若心経』にまとめられているように、認識論的な話になることが釈迦以来の仏教の特徴で、直接に物理的なものに接し、それを指示することを敢えてしない巧みな手立てが張り巡らされていることに気づきます。事実についての話を意識の中の話に転換するやり方は小説の成立に大いに寄与するものでした。実際、これは読者には大いに受ける魅力的な方法なのですが、この手の方法を多用することに長けた哲学者は、それが実は科学の領域では何も生まないことを身に染みて知っています。
 物語やシナリオは人間には大きな効力を発揮するのですが、動植物には何の意味ももっていない無力なものです。音楽を楽しむ動物がいても、物語を味わう植物はいません。物語の内容や意図を理解するのは人間だけです。世界を知るには知る人間を知ることだと考え、人間を変えることによって世界を変えようとするのが仏教の伝統的手法でした。これは間接的に見えても、確かに世界を変える方法です。心身二元論などにこだわらずに、人心を操ることによって世界を変えるのです。
 科学的な知識と仏教の悟りの間には質の違いを強く感じます。特に、『般若心経』のような経典は文学的な物語として、直観的に行為のレベルで説明されますから、わかりやすく、共感できる部分が多いという利点をもっています。論証、証明、検証、確認など堅苦しいことは省かれます。そして、時には諦めを認めるような対応、処置は智慧と言っていいのでしょうが、経験則(rule of thumb)のようなものとして諭されるかのように主張されるのです。経典の注釈は世界や人生の注釈だと疑われることなく扱われてきたのです。経典の叙述は比喩、物語として述べられていて、そこでは整合的な主張かどうかしか調べることができません。世界の事実や現象からは独立した主張で、巧みに心理現象へのシフトが図られているのです。
 では、一体何が主張されているのでしょうか。そのために多くの解釈があるのですが、一つに定めることはできません。正直に言えば、不正確のままということです。これはいわば集団的な自己満足に終わったままだと言うことかも知れません。どんな殺人にも動機があります。この言明が個々の殺人事件にどのように役立つかと聞かれて、現場では役立たずだと多くの人が思うでしょう。まるで哲学者の主張のように、何の発見にも役立ちません。特定の事件の解決には役立たないと言いたくなりますが、役立つ領域があります。心理レベルにシフトするなら、動機のない人を容疑者から排除するという仕方で役立つことができるのです。
 『般若心経』は浄土真宗では無視されます。般若は「仏の智慧」という意味で、仏の究極の智慧を説いたのが『般若心経』ですから、その内容は高邁、深遠です。上述のように、この世の全てのもの、私自身も、欲を離れ仏の智慧になり切れば、何一つ固執がなくなると説きます。欲もなくなり、自我を主張することもなくなれば、この世は極楽浄土になる筈なのですが、欲や我執の煩悩から離れられないのが凡夫たる現実の私たちの姿です。親鸞は、現実の私たちの姿を認め、欲や迷いといった俗の中で生き、誰かの助けを受け、お互いに迷惑をかけつつも、私たちにかけられた阿弥陀仏の願いに気づき、阿弥陀仏のはたらきによって救われると説いたのです。稀代の秀才親鸞には「空」思想が実際に救済の手段になどならない空理空論だとわかっていたのです。彼は仏の智慧がどうかこうかなど無関係で、この世の苦しみからの救済者としての阿弥陀仏への信仰だけという、正に宗教のエッセンスだけを見据えていたのです。

ムラサキカタバミ

 歩道の傍、露地によく見かけるのだが、雑草にしては花が可憐で、園芸植物なのだろうと思いながらも、気になっていた。名前がわかれば、それでその植物がわかったことなどには決してならないのだが、何の習い性か名前を妙に知りたくなる。そして、調べた結果がむらさきかたばみ(ききょうかたばみ)。原産地は南アメリカ。日本へは江戸時代の後期に観賞用として渡来。現在では野生化し、あちこちで繁殖する帰化植物。広く全国に分布しているとのことで、あちこちでお目にかかることにも納得である。

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ダイダイ

 橙は文字通り柑橘類の一種。古い時代に中国から渡来。枝に棘ができ、実は酸味が強く苦味がある。さて、「ダイダイ」の名前の由来が面白い。最初、実は「緑色」で、冬に「だいだい色」に変わるが、そのまま次の年の夏まで残ることがあり、その場合「緑色」に戻ることがある。そこから「回青橙(かいせいとう)」とも呼ばれる。そして、また季節がめぐって「だいだい色」になることがある。こうして、一つの木に新旧の実がなるところから「代々(だいだい)」の名がついた。

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ヒペリカム・ヒドコート(金糸梅)

  近くの歩道では金糸梅の園芸品種ヒペリカム・ヒドコートが例年通り咲き出しています。よく茂った濃い緑色の葉に映えるキンシバイの黄金色の花は、初夏から夏へと移り変わる季節を表現していて、熱中症に注意と知らせているようです。金糸梅は江戸時代に渡来した中国原産の半常緑低木で、古くから観賞用として栽培されてきました。ヒペリカム・カリシナム(西洋金糸梅)、ビヨウヤナギ(美容柳)もよく見ますが、三つともよく似ていて、要注意です。

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「諸行無常」、「色即是空」はなぜ真なのか(8)

解答
 端的に、いずれの言明もその内容が曖昧で、真偽を決めることができない。その理由は『中論』(そして『俱舎論』)の主張に不正確な点があるからである。極端な謂い方をすれば、『般若心経』に代表される般若系の教義をまとめた空論とその後の唯識論の主張が曖昧さをもつからである。
 いずれも、因縁、縁起と呼ばれる因果関係に基づき、その関係がもつ特徴についての主張である。その主張で使われる基本概念が因果関係なのだが、それが明瞭でなく、一部明らかに誤っているのである。因果原理、因果律と呼ばれてきたものは今でもその正確な内容が判然としていない。その意味で、典型的な常識概念(folk concept)であり、曖昧模糊としたままなのである。自然科学は科学革命時に既にこの因果関係という信用できない概念を精緻にすることを諦め、数学的な関数関係を使って表現することにした。だから、因果関係は原則として今の科学にはない。
 それでも、日常の世界では因果関係は原因や結果を構成概念に含むが、分脈に応じて様々な因果関係が存在し、その都度、原因や結果は変化している(その最初の分類がアリストテレスの四原因だった)。さて、仏教では、その原因や結果が因果連関を構成する出来事、事象、事件、あるいは対象やものの性質や分量の一部となっていて、それが始終変化するのだから、出来事や対象は定まっておらず、その性質も始終変化していると考える。この点がヨーロッパ哲学での因果性についての考えと大いに違う点である。多様に考えられる因果関係でも、それが使われている間は一定で、原因がわかれば、その一定の因果関係によって生じる結果は一意的に決まるというのが、ギリシャ哲学以来の因果性の理解の仕方である。そこでは個々の因果関係が不変であり、それゆえ、予測可能ということになっている。だが、仏教の因果関係では、因果関係そのものが可変であり、その因果関係の変化が原因や結果の本質部分に関わるので、予測もできないことになっている。ヨーロッパの哲学では対象と対象の間に働く因果関係は区別されているのだが、仏教では対象と因果関係が時に干渉し合い、相互に影響を及ぼすために、対象も因果関係も自生をもたないと主張されるのである。因縁や縁起を余りに過度に捉えるため、そこに関わる対象や出来事は確立したカテゴリーを構成できないのである。説一切有部の方がヨーロッパ風の因果関係に近く、自生をもつ対象が因果関係をもつ中で変化が説明されていき、対象の時間を通じた同一性が保たれるようになっている。その実在論的説明は現在の私たちの現象説明により近く、唯名論唯識論の立場とは一線を画している。
 通常の哲学的な立場から、より明確に解答の内容を表現しておこう。肝心な点は「因果性」概念の違いにある。「xが原因で、結果のyが生じる」ことについて、次の4点の違いがある。
(1)論理的な「ならば」と因果的な「ならば」の違い
 「xならば、yである」と言う因果的な表現をx→yと記すとすれば、私たちは論理的な接続詞としての「ならば」についてははっきり知っているが、因果的な原因と結果を結ぶ「ならば」については未だによくわかっていない。
(2)因果的な「ならば」は多種多様
 個々の→は皆違っていて、一つだけの「ならば」ではない。因果的な「ならば」は不変ではなく、変化する。
(3)「ならば」を構成するx、yは外在する対象というより、心に内在する表象である場合がほとんどである。
(4)「ならば」が適用される範囲は限りなく広く、運動変化から生物進化、宇宙進化まで含んでいる。

『中論』の空 
 般若系の大乗経典の思想を「空」概念でまとめ、大乗仏教の基本思想を確立したのが龍樹(ナーガールジュナ、A.D.150~250頃)。「空」が何かわかれば大乗仏教の基本思想がわかる。龍樹の主著『中論』で説明される「空」を考えてみよう。
 「空」は『中論』で次のように定義される。
「諸々の因縁から生成されたもの(法)を私(龍樹)は「空」だと主張したい。何故なら、諸々の因縁(条件)が備わり、一緒になってはじめてもの(法)が生成される。このもの(法)は因縁によって生成したのであるから、諸々の因縁から切り離すことはできない。だから、それらは因縁に属すると言うことができる。因縁自体は一定した性質を持ってはいないので自性が無い(無自性)。自性が無いので、それは「空」である。ここで「空」という言葉で表現するのは衆生を導くために過ぎない。諸々の因縁から生成されたもの(法)は有でもなければ、無でもない。それゆえ、これを中道と名付ける。もの(法)は一定した性質を持っていない(無自性)ので有と言うこともできない。また無であるとも言い切れない。もし、もの(法)に固定した性質があれば、因縁の助けなしに、生成するだろう。しかし、すべてのもの(法)は因縁によって生成する。従って「空」でないもの(法)はないのである。」
ここには「空」の意味が説明してある。龍樹によれば、空は、
諸々の因縁(条件)によって生じたもの、
固定した性質を持たない、無自性なもの、
を指している。龍樹が説く空の概念は一見論理的で明快である。よく登場する「もの(法)」という言葉は仏教学者が「存在」と訳すものである。だが、この法は(受、想、行、識、苦)などの精神的なものが主で、法を精神的なものに限ることが仏教を理解するキーポイントになっている。この条件のもとに『中論』を読めば、仏教の説く諸法の殆どは脳内現象(精神現象)であることがわかる。
*結局、今風に言えば、もの(法)とはデカルト的な表象(representation)であり、外在主義的な表象ではない。外在主義的に表象を捉えれば、空論は表象実在論になるだろう。

 次のような表現は龍樹の立場を表していて、確かに成程と思わせるような内容なのであるが、独断的な表現であることを否定できないだろう。
「遠くにある人々によっては、この世界は実在するように見えるが、近くにある人々によってはそのように見られない。この世界は無相である。陽炎のように。」
「たとえば陽炎は水のように見えるが、それは水でもなく、また実際に存在するのでもない。それと同様に五蘊は我のように見えるが、我でもなく、また実際に存在するのでもない。」
「色(=物質としての存在、もの)の存在はただ名前のみである。それ故に、虚空もまた名前のみにすぎない。不生である色をどこに見ることがあろうか。それ故に色は名前のみにすぎない。」
 これらの言明は科学的な物質観から見るといずれも偽である。物質は素粒子や原子という眼に見えないものから成り立っている。大気も眼に見えない無数の窒素分子や酸素分子で満たされている。大気中に酸素分子がなければ人は生きていけないが、古代インド人はこれを知らなかった。
 「空」という概念は現代でも理解できるし、有力な概念である。龍樹の「空」の意味をまとめると、次の三つになると言われている。
・すべてのものは縁起によって生じる。
・縁起は無自性(それ自体が固有の性質を持っていない)である。
・すべてのものは縁起と不可分である。従って、すべてのものは空である。
*これら三つの言明はいずれも問題ありで、なぜこのような言明が主張されるのか、その理由を見つけなければならない。だが、それらが正しいことの理由は見つかりそうにない。

 ここで「縁起」について考えてみる。縁起という言葉は現代でも用いられている。原始仏教では12の項目の間に原因結果の関係が論理的に説明してある。縁起という言葉は「因縁生起」の略で、因縁によって生まれ起こることが縁起。ヨーロッパでも17世紀以前では科学が未発達であったため縁起(因果律)という考え方に対し、曖昧なままだった。釈迦自身も経典の中で縁起を仏教の根本的概念であるが、それを理解するのは難しいと述べている。だが、縁起は現代の科学的思考によってある程度は理解できる。縁起とは「原因があれば、ある条件(縁)によって生じる」という意味で、これは常識的な因果律とほぼ一致する。常識概念としての因果律は「原因があり、相互作用によって結果が生じる」と言うことであり、「原因があれば相互作用によって結果が生じる」という根本の考えは仏教も同じである。科学は諸々の現象を成り立たせる原因と条件、原因から結果を生じる相互作用を明らかにする学問である。まさに仏教の説く「ものが生じるときの縁起を研究し明らかにする学問」なのである。
*このような叙述はいかにも教科書風で、胡散臭い。実際の科学は因果律も因果作用も研究の指針になっても、題目としか考えない。どんな殺人事件にも原因や動機があるのはその通りだとしても、肝心な点は具体的な原因や動機を見つけることである。それと同じように、科学の現場では実際の具体的な原因を見つけること、そしてそこから予測することなのである。そこが仏教と科学の根本的な違いなのである。

1対象の違い 
 自然科学は主として物質の世界(仏教では色界と呼ぶ)を対象にする。実際、物質に関しては科学は大きな進歩を成し遂げた。これに対し、仏教の主要な対象は個々人の心や精神である。仏教の目的は当初から心のやすらぎによる苦からの解放(解脱)だった。
2現象の根本に対する考え方の違い 
 仏教では全てのものは縁起によって生ずると考える。これは科学と仏教で一致する考えに見える。だが、仏教では現象を生じる根本要素と縁起は無的であり、また無自性であると考える。無自性であると考えるのは無常であることを説明するためであり、 無自性であるからこそ自由に変化できる。それが諸行無常の原因になると考えるのは一見自然に見える。そのため諸法(現象)は空であるという考え方が市民権を得たのではないか。一方、西洋で発達した科学では物質的現象の根本に実体に対応するようなものを考える。即ち物質的現象の根本に対して原子や素粒子のような極微の粒子を考える。それらの粒子の間に働く相互作用によって現象を説明する。これは、西洋哲学が現象の奥に実体のような存在を素直に受け入れ、重要視したことから来たものと考えられる。むろん、波動を基本にすることも試みられてきたことを忘れてはならない。
3方法論の違い
 科学では理論が正しいかどうかを実験によって客観的に検証する。定性的なレベルに止まらず、定量的レベルでの厳密な検証実験が要求されることが多い。そのための多彩で精密な観測装置と実験方法を持っている。肉眼では見えない微小なものでも検証が可能である(X線、光学顕微鏡、電子顕微鏡、トンネル電子顕微鏡MRIなど)。実験結果を説明できない理論は否定され、受け入れられない。その着実な蓄積によって科学は進歩する。
 一方、仏教では、このような着実な向上進歩が見られない。釈迦、龍樹、世親、空海最澄、達磨、臨済親鸞日蓮道元など、彼らの言葉を正しいものとして疑わず、経典は盲目的に信じられる。それが正しいかどうかを疑うことは異端、異安心とされる。これは仏教に限らず、宗教に共通の姿勢である。だが、科学の世界では疑うことは良いことである。疑いに疑いを重ね、過去の理論を否定することによって、より普遍的な理論が見出される。

 大乗仏教が盛んになり、般若経などがまとめられて200年くらい経った頃、西暦200年頃、龍樹が『中論』を著した。この『中論』は、般若経の「空」思想を論理的に説明し、説一切有部の哲学を批判するものと言われ、「空」をどのように理解すればよいのかが述べられている。龍樹を先頭として、その哲学を継承していく学派が「中観派」。
 母と呼ばれるのは子がいるからで、子もいない独身者は母とは呼ばれない。また、母がいなければ子は存在しない。あるいは、物干し竿は鉛筆より長いし、鉛筆は物干し竿より短い。龍樹は、母と子、長と短、原因と結果など、対立した概念のそれぞれに実体はないと主張する。長は短によってあり、短が長によってある場合、そのどちらにも実体はないと言う。普通の物干し竿でも、鉄道のレールよりははるかに短い。では、物干し竿は長いのか、短いか、いずれなのか。ある結果は未来永劫結果にのみ止まることはなく、別のものの原因になることができる。そうなら、それは原因でもあり同時に結果でもある訳だから、結果という実体は存在しないことになる。
*この説明は正しいか。母がいるから子がいて、子がいるから母がいるが、だからと言って母も子も独立した概念でないなどとは言えない。ある基準を採用すれば、長い、短いの判断はいつでも公平にでき、その基準のもとでは長いものが短くなることも、その逆のことも起こらない。原因が結果になったり、結果が原因になることは不思議なことではなく、時には原因に、別の時には結果になるだけのことである。母や子、原因や結果は抽象的な名詞であり、概念を指していることは自明のことで、特定の実在物を指している訳ではない。「実体」はデカルトやロックの哲学に登場する過去の遺物というのが哲学の常識だが、龍樹の言葉遣いが同じかどうかの証拠はない。中世の実念論唯名論の対立が有名だが、実体は実は概念に過ぎないというのが唯名論的な主張で、それが中世を脱する糸口の一つだった。龍樹を唯名論者と考えると、何が新機軸だったのがわかりやすくなるだろう。

 これらの話は内容のない屁理屈にみえる。単に言葉の定義の混乱だとも考えられる。言葉というものはおよその取り決め、規約だと認識できる程度のものであって、絶対的なものではないのだと考えると、それはそれで大きな問題を引き起こす。真理の整合説(Coherence Theory of Truth)は、ある言明が真であるかどうかはその言明と他の言明群との整合性によって決まるとする立場である。この立場と相性が良いのが唯名論。それに対して、真理の対応説(Correspondence Theory of Truth)は、言明の真偽は、それが事物・実在のあり方と正しく合致するか否かで決定されると考える。だから、実在論の立場から主張される真理論が対応説と考えることができる。
 説一切有部によれば、この宇宙の入れ物としての空間を虚空といい、現象の世界にある物と物の間にある隙間のことを空界と言っている。前者は生滅しないが、後者は生滅する。この意味で空間としての性質が違っている。言葉は対象を定義するものだから、空間の定義より前には空間は存在しない、もし定義よりも前に空間があるとすれば、それは定義されていないものになってしまう。私たちは、空間そのものを知覚することができない。あくまでも物体しか知覚できない。空間は、抵抗性を持たず、物体の在り場所を提供するものであると定義できるからこそ、思惟によって空間を認知できるのである。もしそのような定義がなされていないならば、直接空間を知覚できない以上、空間を空間と認識することはできない。これが、空間の定義より前には空間は存在しない、ということである。後半は、もし、定義されていないのに空間を知覚したというのであれば、それはまだ定義されていない空間そのものを知覚したということであり、人間誰でも知覚できないのにそのようなことがありはしないということである。
 私たちは色々のものを定義し、名前をつける。しかし、その名前は人の名前や住所と違って、ある特定の固体を示すものではない。机といえば色々の机を指していて、ある特定の机を示しているものではない。もしある特定の机を机と言うのであれば、他の同じようなものを机とは言えなくなってしまう。だから、読み書きしたりする台のことを机と言うと定義されたならば、特定のものに対して机と定義はされず、特定のものを示す定義は存在しない。また、定義されていないものには、当然定義は存在しない。しかし、定義と対象が全く関係のないものならば、言葉の役割はまったくなくなってしまい、何一つ伝えることはできない。要するに、言葉とその対象は同一でもなく、異なるのでもないのである。
 言葉というものはこのように対象と同一でもなく別異でもないという相反する性質を持っているから、永久不滅の特定された本体が存在するとは言えない。すなわち、言葉は本体の無い空なものなのである。言葉で示される対象についても同じようなことが言える。二つの同じ机があって、もしその内の第一の机が未来永劫机であり続ける本体を持つと仮定するならば、それを机と定義することになるが、それでは第二の机は机とはいえなくなってしまう。これは両方とも机であることに矛盾する。これは本体を持つとした仮定に誤りがあるのであり、第一の机には本体は存在しない。第二の机についても同じであり、いくつあっても同じことが言える。すなわち、言葉で定義付けられるものはすべて本体を持たないということなのである。
*これは誤った考え方である。何かを定義するのが言葉だけによるのであれば、上述のようなことは成程と思うが、先に現象や対象が経験され、それについて定義する際に言葉を使うということである。上述の机なら第一の机と第二の机に共通するものを使って机を定義する。

 「自我」という言葉を考えてみよう。その対象となる自我と定義されるものは実在するのか。先に述べた言葉の本性の通りであれば、言葉で定義される対象は実体を持たないのだから、自我と定義されるものには実体が無いことになり、実在しないということになる。だが、全く存在しなく、全くその定義である自我と関係が無いのであれば、自我と定義した意味もないし、私たちが認識する対象としての自我がないというのもおかしなことである。このように、自我は存在するのでもなく、存在しないのでもない空なものであるということになるのである。
*実体、存在、実在といった言葉の定義が先だと言うことがよくわかる。自我もはっきりしている状態から、無意識になって消えてしまう状態まで様々な在り方があるなら、同じ「自我」を使うことがあやしくなってくる。

 釈迦は色々説明している。この世には何もないのだとするニヒリストには自我はあると教え、自分に固執している人には自我はないと教え、教えを深く学んだ人には自我もなく無我もないと教える。あると言ってみたり、ないと言ってみたり、あるのでもなくないのでもないと言ってみたりしているわけで、支離滅裂に見える。いくら待機説法とはいえ、まるで矛盾した言い方のようである。だが、矛盾しない。次の言明を例にしてみよう。
 
 不死の人間は美しくもなく、美しくなくもない。

不死の人間は美しくないと言っても間違いではなく、不死の人間は美しいと言っても間違いとは言えない。不死の人間が本体を持たず、実在ではないからどちらも間違いではなく、どちらも正しいといえる。自我という対象が本体を持たないものであるからこそ、矛盾はない。自我は空であるからこそ矛盾しないのである。そして、釈迦の教えもどれも正しい。
*この段落はどう考えてもが腑に落ちない。例の言明がp→q∧⏋qと表現できるなら、⏋pが導出でき、確かに不死の人間はいないので、この言明はいつも真である。あるいは、いつも偽であるpを前提すれば、どんな言明でも導出できる。このような意味の言明と、釈迦の待機説法は同じではない。空であることと矛盾することは違うことなのである。
 説一切有部の哲学は苦というものを明確にし、その苦の消滅のための道筋を明確にして、一つ一つ修行によって達成していくと主張する。この人たちは龍樹の「空」思想に対して、全てのものが空であって生じることも滅することもないなら、修行も宗教も悟りもなくなってしまうではないかと批判する。従って、空はありえないと反論する。これに対し、龍樹は、批判者が空について、その目的と意味を理解していないからであり、空を誤って理解する愚か者は破滅すると言っている。そして、龍樹は「縁起という依存性のことを空と呼ぶのであり、その空と言う言葉は仮の名前にしか過ぎないし、釈迦の言う中道そのものである。縁なくして生じたものなど何もないのであるから、空でないものなどどこにもありはしない。」と答える。
 ここでは龍樹は空を実体のないものとしてではなく、縁起すなわち依存性としての見方で説明している。依存性を持たないということは、ある独立したものが他のなにものの影響をも受けることなくその存在を続けるられるということ。溶鉱炉の中に放り込まれても何の変化もしないわけである。すべてのものは、他のものから何らかの影響や作用を受けている。すべては依存性を持った存在。縁なくして存在するものはどこにもない。ものが空であるということは、ものが未来永劫変化しない本体として存在するのではなくて、原因になるものやその他のものの依存性、即ち縁によって生じていると言うことなのである。ものが生滅変化するのはとりもなおさず縁起によると言うことであり、空であるということに他ならない。空を否定するならば、生成や消滅変化は起こりえない。善とか悪とかも本体を持つならば善をなすとか悪をなすということも有り得なくなっていく。
 空と言う言葉は、常識的な解釈として、よく一般に、何もない無の世界であるとか、夢を見ているだけで実際にはそこに何も存在しないことを言っているのだなどと誤解されている。だが、言葉は本体を持っていませんから誤解されやすく、無理からぬところもある。だが、空でも、ものはそこに存在する。頭をぶつければ痛い。ただ、本体を持たない存在であると言っているだけである。 多くの部品から成り立っているある一つの製品は、多くの集まりであると言うことにおいて、その定義からして本体を持つものでないことは明らかである。車は多くの部品の集まりであり、本体を持つ持つものではないが、これを便宜上仮に車と呼んでいるに過ぎない。だが、車が無いのではない。同じように、空と言うのも本体を持つ存在ではないが、空が無いという訳ではない。空は、そのような本体の存在、あるいはそのような本体の滅、あるいはそのような本体の非存在のいずれをも越えるものであって、釈迦が説いた中道そのものである。
 すべてのものは縁起によっているのであるから本体を持つことがなく、したがって全てのものは空であり、空であるからこそ生滅変化しながら存在できる。その存在はあるのでもなく、その存在はあることがないのでもない。空とはこのようなことを言っているのかな、という理解は私なりにしてみたつもりです。残念ながら、それで空がわかったわけではなく、ましてや悟りには程遠いのです。龍樹にはじまる大乗仏教哲学、中観においても、この空が理解できても悟りにはならないと言われている。智恵は三つの方法によって得られる。それは、学習、批判、瞑想の三つ。学習とは仏陀の教えや哲学書の勉強のことであり、批判とは空の教えを元に実在論を論理を持って批判してみること、そして瞑想とは止心をもって観察することである。