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市民レース

 普通の人が一流のアスリートと同じように競技に参加し、自らの力を試すというのは今では当たり前のこと。色んな競技を普通の人が楽しみ、しかもレースに参加できる、これは誰もが経験してみたい事柄である。そんな試みの中の伝統的なものがマラソンや長距離のレース。最も基本的な「走る」ことを誰もが経験でき、しかも一流のアスリートと一緒に走ることができるとなれば、これはやらない理由がない、ということになる。

 私自身、昔は色んなレースに参加してみた。一流のランナーの走りを見て、その速さを知ると、何とかそれに追いつこうと頑張るのである。それは若気の至りそのものなのだが…

 今の季節、休日はランニングレースが多い。本格的なレースとは違って、そこには休日を楽しむという雰囲気が溢れている。それでも「競う」という人の本能はあちこちに顔を出している。

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公道でのレンタルカート

 最近道路でよく見かけるのがゴーカートの集団。それもほとんどが外国人で5~10名程でドライビングしている。お台場にカートのレンタルの店があり、主に外国人旅行者向けに営業しているらしい。画像を見れば、確かに外国人。もう一つ不思議なことは、誰もヘルメットもシートベルトもしていないこと。

 これはどうしてなのか。現在の道路交通法では、カートに乗るには普通自動車免許が必要となるが、二段階右折やヘルメット着用の義務はない。また、道路運送車両法によれば、カートは自動車でなく原動機付自転車の扱いとなり、シートベルト着用の義務はないという。これで一応納得なのだが、何ともカート天国といったところか。

 車高の低いカートはトラックやバスの運転手からは見つけにくく、早急に規則が必要。いずれ新しい規則が作られるのだろうが、今のところは自由に走り回ることができるのである。

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動物は美がわかるのか:審美眼は人にしかないのか(3)

 既述のハンディキャップ理論は人間についても適用でき、幾つもストーリーがつくられている。男性のほうが女性よりも背が高く、体格もよい点に目をつければ、このことをクジャクの場合と同じように物語化できる。男性は食べ物を確保する能力や肉体能力を女性に誇示するために大きく、逞しい体格になっていったと考えることができる。  だが、男性は酒やタバコといった習慣性の高いものを摂取する率が女性より高いことや、自らを危険にさらす行動も女性よりも好きだといったことも、ハンディキャップ理論によれば、何らかの進化した本能の表現ではないか、ということになる。

 このような研究に結論が出たわけではないが、ハンディキャップ理論に基づいた研究が進めば、近い将来人類の進化に関して驚くべきストーリーが発見されるかも知れない。男性が女性よりも大きいのはもしかしたら、精神的には女性よりも繊細でよりか弱い生き物であることのハンディキャップなのかも知れない。

 次々と新しいストーリーが現れるということ自体、人間はさらに進化しているということの証拠であり、ハンディキャップ理論という考え方が出てきたこと自体が人間の進化の証拠なのかも知れないと考えることができる。(一方でハンディキャップ理論自体が誤りだということになることもあり得るのである。)

 こうなると、ストーリーつくりができれば何でも説明できた気になってしまう。だから、ストーリーの裏付け、ストーリーからの予測等が不可欠になることは言うまでもない。ハンディキャップ理論は決して万能ではない。だから、ストーリーをつくるためのシナリオタイプのパターンは複数あった方がいいだろう。

 さて、話が散漫になってしまったが、常識的な性選択についてはまだきちんと説明していないので、それをこれからグッピーを例にして具体的に考えてみよう。これはハンディキャップ理論というシナリオタイプとは別のシナリオタイプと考えて構わない。  ダーウィン風の標準的な考えに従えば、動物の世界ではオスはメスに選ばれないと子供を残せない。常識的には、動物世界での繁殖に関するオスとメスの関係は、「メスがオスを選ぶ」という関係である。つまり、オスはメスに選ばれることによって繁殖が成り立っている。これはヒトの場合とは事情が違うように見える。というのも、「ヒトではイケメンのオスがメスを選んでいる」という意見が(最近は減ったとはいえ)必ず出てくるからである。だが、ヒトでもメスは子供を産みたいと思ったら相手になってくれるオスを選びさえすれば、どちらかに不妊症の問題さえなければ、必ず自分の子供は作れる。ところが、オスは自分の精子を受け取って子供を産んでくれるメスが見つからない限り、自分の子孫は残せない。オスもメスも生殖には不可欠というのが両性生殖なのだが、生殖の負担となれば圧倒的にメスが負うことになる。だから、オスを選ぶくらいはメス主導になっているというのが常識の考えなのである。

 こうして、動物の世界ではメスに選ばれるためにオス同士が争ったり、オスがメスの好む形態に変化したりと、メスに選ばれるということを基準として起こる「自然選択=性選択」が一般的に見られるのである。クジャクのオスの尾羽や派手な模様のオスの熱帯魚、オス同士が戦って一番強いオスがメスを総取りするゾウアザラシなど、広い範囲に渡ってメスをめぐる性選択が起こっていることが観察されている。

 この性選択では、クジャクの尾羽やキンカチョウのくちばしの色など、メスがオスの「見た目」の派手さなどはっきりと優劣のつくものを基準として、ある意味で客観的なモノサシでオスが選ばれることが多いと思われてきた。メスはオス選びを色や形、行動を通じた美的判断によって行っているという訳である。ところが、グッピーでは従来考えられていたような「美しい」という基準以外に「珍しい」という基準でメスがオスを選ぶ性選択が起こっていることが報告されている。

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 実験自体はきわめて簡単なもので、野生のグッピーが住む川でおおまかに見るとオスが2パターンの模様を持っているものがいる場所を探し、旧来の性選択理論ではより美しい方がメスに選ばれることによって、そちらのパターンのオスだけになっていくことが予想されるところを選び、野生の環境のまま実験を行った。従来の性選択理論だと、尾が派手なものがメスに選ばれて、こちらのパターンがどんどん増えていくことが予想されるのだが、この川ではいつまでたってもどちらもバランス良く生き残ってきていることから、研究者はグッピーでは、メスが「派手なオス」を選ぶという従来型の性選択以外に、数の少ない「珍しいオス」を選ぶという性選択も働いているのではないかというのが実験の前提となった「仮説」である。

 そこで、川の中でグッピーがほとんど行き来できない閉ざされた流域を選び、そこでふたつの模様パターンを持ったオスとメスの数の比率を調整し、派手なオスが多いグループと、地味なオスが多いグループの集団を作り、それぞれの集団で生まれてくる子供がどちらの模様パターンになるか(つまり、どちらのオスの子が多く生まれたか)を調べてみたところ、非常におもしろい結果になった。

 つまり、ここのグッピーでは派手なオスが多い集団ではメスが地味で珍しいオスを選んで子供を産み、逆に派手なオスが少ない集団ではメスが派手で珍しいオスを選んで子供を産む結果、派手なオスと地味なオスのバランスが保たれるような「性選択」が働いているということになる。

 「珍しさ」、「派手さ」、「美しさ」、「強さ」、「大きさ」、様々な指標とその判断はどこかで生存と生殖の有利さにつながっている。つまり、これら指標は最終的には生存と生殖に寄与しているのである。指標とその最終ゴールを実現する因果的な過程とその過程がなぜ存在するかを説明するストーリーの両方がないと私たちは「わかった、知った、理解した」気になれないのである。物理学にはこのようなことがない。物理学で前提にされるのは対象の存在だが、生物学で前提にされるのはそれだけでなく、さらに「生存と生殖」が前提されているからである。生存と生殖が因果的過程とその過程がもつストーリーの両方を求めるのである。

運河の楽しみ

 水上スキーといえば、私が若い頃は憧れの遊びの一つだった。なんだかとてもハイカラなレジャーという感じが強かった。スキーやゴルフが憧れのレジャーだった時代は去り、水上スキーも憧れの座に居座ることはなくなった。

 サーフィンは真面目に自然と戦えるし、カヌーやボートは立派なスポーツであるのに対し、水上スキーをオリンピックの競技に推奨したいと思う人はまずいない。

 そんな後ろめたさはあっても、楽しいことは確かだし、それなりの景色はもっている。波がなく、船も少なく、一人占めできるのが運河。だから、運河を疾走する水上スキーの姿は意外に多い。

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物語(ストーリー)による説明についてのメモ

 「一寸の虫にも五分の魂」と言うが、昆虫の魂や気持ちなど誰にも想像などつかないのではないか。というのも、同類の人間同士であっても意思の疎通ができない場合が圧倒的に多いからである。こんな呑気な話でなくても、大昔の人たちが様々な神を信じ、自然の力を畏敬し、拝んだことを現代人が完全に理解できるとは到底思えないし、大昔の人が現代人ののもつ個人主義、人権思想、世界観などを想像することは無理なことではないのか。人の想像力が働く範囲などたかが知れている。未来の人にとって今の私たちは謎だらけで理解できないということはほぼ間違いないことだろう。

 これまでの「動物は美がわかるのか:審美眼は人にしかないのか」の2回の話から、進化論的な研究が、如何にもっともらしい物語をつくる(story-making)か、説得力のある物語をつくるかという研究なのだということがわかったのではないか。だが、「物語の作成が科学研究なのだ」と明言されると、違和感を持つ人がほとんどではないだろうか。実験・観察とそれによって得られるデータを使っての仮説の検証が経験科学であると教えられてきた人には腑に落ちないに違いない。事実と小説は違うものという常識がなければ、「事実は小説より奇なり」とは誰も思わない。物語をつくることは事実を捏造することであり、事実の探求とは正反対のことだというのが常識となってきた。  確かに「科学研究が物語をつくること」という表現がもつ違和感は見かけ上は圧倒的なのだが、今風に言えば「モデルづくり、シミュレーションづくり」ということに過ぎない。モデルやシミュレーションは因果的なシナリオをもったもので、このシナリオは物語の形式をもっている。モデルやシミュレーションが科学研究の一部ということに何の違和感もない。それを昔風に表現したのが物語であり、それゆえ、神話、宗教教義、寓話、民話等々と繋がることになる。つまり、科学モデルと神話は世界を知るための基本的に類似した形式なのである。モデルと物語の共通点となれば、両方とも出来事や現象についての因果的な叙述が中核にあることである。

 では、説明のための物語(とモデル)とその変形にはどんな種類があるのか。それを分類してみると、次のように分けられそうである。(1)以外は神話や小説のような物語とは外観が異なる。いずれも世界の出来事をわかるように説明するという点では共通の目的をもっていて、その目的実現の方法が変形、あるいは広義の物語という訳である。

 

(1)出来事や事実が中心となる物語

ある出来事から別の出来事が生じる因果的な過程が説明、記述される。

(2)原理や公理が中心となる論証

原理や公理から特定の出来事が演繹される。

(3)注釈を中心とする解説

過去の哲学者の書物の注釈という形式を使って説明される。

(4)言語分析が中心

語源、文法、系統関係を使って説明される。

 

 では、私たちが普通に考える物語とはどんなものなのか。経緯、由来、道筋、そして歴史などを起承転結のあるまとまりとして表現するのが物語と思われている。物語やストーリーという観点からは、理論を使ってモデルをつくり、細部はシミュレーションによって詰め、実験や観察を行うプロセス自体が様々な物語を構成要素とした物語になっていると考えることができる。すると、ストーリづくりとそのストーリーの検証が科学研究ということになり、当初の違和感は少しは軽減できるのではないか。

 物語とは出来事の因果的な系列を描写したものだが、ユークリッド幾何学のシステムとその展開とは根本的に異なる。それは「物語は推論ではない」ということ。物語を支配する法則は因果的な法則であり、幾何学の定理の展開を支配するのは論理的な規則である。推論と物語を比べるなら、血沸き肉躍る展開は物語の独壇場である。幾何学の定理の展開に関しても論理規則の組み合わせの妙に憑かれる人は少なくない。普通の人、特に作家は自然言語によるストーリーの展開に、数学者は仮定からの推論の展開に、物理学者は因果的な変化の推論としての展開にそれぞれ関心をもっている。確かに、物語と推論は異なる。だが、物語の推論の展開、特に二つがミックスされた展開という場面では物語と推論の協働の作業が求められるのである。

 

 究極のストーリーづくりとなれば、万物の理論(TOE, Theory of everything)。自然に存在する4つの力、つまり電磁気力、弱い力、強い力、重力を統一的に記述する理論が万物の理論で、グランドデザインが様々に試みられているが、まだ今のところは夢のまた夢。別のストーリーづくりに「生物はどうして集団をつくるのか」がある。遺伝子情報の世代交代を通じての保存が適応であるが、静物画その仕組みを採用したことの説明はどのようになされるのか、そのストーリーを知りたい。そこから、人はどうして一人で生きられないのか、個人、家族、集団の間の違いとは何なのか、が説明できるのではないか。遺伝子と原子の存在の根本的な違いを描くストーリーがほしいのは私だけではないだろう。

 

*「物語」と「ストーリー」はほぼ同じ意味で使ったが、私の語感はかなり違う。私にはストーリーの方が「歴史的な意味をもたず」、「シナリオに近く」、「創造神話とは無関係」な意味合いが強い。

「はたらく おふね」

 仕事をする車を題材にした幼児向けの絵本は結構たくさん書店の書棚に並んでいる。実際、バス、消防車、救急車が好きな子供はたくさんいる。電車や飛行機も同じように子供の関心の対象となっている。だが、船となるとヨットやクルーザーは取り上げられても、働く船への関心はほとんどない。街中で簡単に見つからないからなのだろう。

 かつて江戸の物資運搬の主力は船だった。明治に入り、物資運搬は鉄道に移り、今はトラックが運搬の主力になっている。だから、働く船となれば外洋の貨物船くらいしか思い浮かばなくなっている。

 そんな経緯のためか、今や我が家の近くの運河を航行する貨物船はほとんどない。それでも色んな働く船が航行していて、運河は結構賑わっている。

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初夏の朝

 5月に入ると、朝が早くなる。月が取り残されるかのように白み出す。朝日で輝く人工物が海面に反照し、船や飛行機が湾に入り込んでくる。次第に光があちこちに満ちて、新緑の風景が現出する。

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