原爆という武器

(「原爆」という武器についてどう考えるかと問われ、まごつく人をさらにまごつかせる話)

 武器は素手の人間では生きられない状況でもそれを助けて生き残れるように自分や家族を守るもの。人類は様々なものを発明してきた。そして、その最もポピュラーなもの一つが武器。武器を手にすることによって人類は生き延び、繁栄してきた。武器とは人類の知識と物質が見事に統合された道具の一つ。武器のバリエーションは様々で、直接に相手を倒す武器だけではない。言語、文化、知識、宗教等はいずれも人類の生存のための武器としても利用されてきた。つまり、武器は正に生き残り(今様には持続可能)のための道具、手段なのである。宗教や倫理は集団を守るための教義や規律と、それを遂行する活動として強力な武器だった。

 このような話の種の一つが適応戦略論。生き物は(進化の結果として)環境に適応して生き残ってきた。だから、適応に失敗することは絶滅を意味している。適応は生存のための戦略であり、その戦略の実行には武器が不可欠である、というのが進化論的文脈で信じられていることである。

 さて、人類がつくった武器の一つに原子爆弾がある。昨日は広島に原爆が落とされた日で、その原爆投下は今でもアメリカでは戦争を終結させる武器だったとして正当化されている。アメリカの若者はこれを信じなくなりつつあるが、この説明では武器使用は善であることになっている。戦争は悪で平和は善ということは単純過ぎていても誤っていない。だが、武器は悪で宗教は善というのは誤っている。これは上述の話が暗示していることである。

 宗教はこれまでに多くの戦争を引き起こしてきた。宗教の違いは戦争の典型的な原因となってきた。人類がつくった武器はこれまでに多くの戦争を終結させ、中でも原爆は強力な戦争抑止の力になっている。となれば、上述の言明から、武器は善で、宗教は悪ということになる。この結論は私たちの常識とは矛盾する。

 ここまでの議論から、武器は悪で宗教は善というありきたりの常識が誤りであり、武器は善で宗教は悪ということになる。実際のところ、これを例示する例は珍しくない。何事も善悪二つにいつも分かれると考えること自体がおかしいことなのだが、私たちはいつの間にか常識の罠に囚われ、ものの見事に騙され、さらに悪いことにそれに気づかないのである。

 歴史学者政治学者には常識が求められ、それをもつことが教養だと思われている。たかが常識、されど常識なのだが、所詮常識で、文献を読み、史跡や遺物を調べ、知識に合わせて理解し、解釈する。だが、常識は真でもなければ学習の手段でもない。宗教が歴史的に大きな役割を果たしてきたことは否定できないが、それは大金持ちがたくさん浪費してきたことと似たようなもので、宗教が正しいことを何も証明していない。

 武器として強力な原爆は悪だと盲信されているが、それが真の信念であることを真面目に証明しなければならない。大量無差別殺人というのがその理由だと誰もが挙げるだろうが、原爆とは違って間接的に大量無差別的な手段で人類をコントロールする武器はあちこちに隠されていて、それに気づかないことを忘れてはならない。

 こんな話が9日の長崎への原爆投下について何か違う姿勢や態度をもたらすことを願っている。

熱気球

 東京臨海広域防災公園は首都直下地震等の大規模な災害発生時に、「災害現地対策本部」等が置かれ、首都圏広域防災のヘッドクォーター及び広域支援部隊等のベースキャンプ、災害医療の支援基地となる。

 平時は様々なイベントが行われているが、先週末は子供たちの熱気球の体験搭乗が行われていた。4つの熱気球が忙しく上がったり下がったりしていた。

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都会の茸?

  芝生には結構色んな茸が生える。梅雨の時期から夏にかけて公園の芝生には茸が珍しくない。最初は芝生の茸は都会の茸かと勝手に思い込んでいたのだが、そうではなく、田舎であれ都会であれ、芝生があるところには生えてくるようである。キコガサタケ、ホコリタケ、さらにはシバフタケなどが有名で、芝生に特有の茸と言われている。案外芝生と茸は相性がいいのかも知れない。

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信念と知識:科学の場合

 (信念、疑念に触発されて知識が生まれる)

 欲求や感情は、それについて私たちが欲求や感情をもつ意識の内容が事実を表現しているか否か、適切な行為であるか否かとは関係がない。欲求や感情の内容、つまり欲求や感情の志向的対象は現実離れした事柄や行為で一向に構わない。何かについての欲求、感情と言われるときの何かは世界で起こる出来事である必要はない。だから、欲求や感情は時空を超えて、悔やみ、悩み、望むことが自由にできるのである。

 だが、欲求や感情とは違って、信念と知識は外部世界の事実との関係が重要になってくる。信念の志向的対象が事実か否か不明でも、それは明らかに事実擬きの内容をもっている。信念の世界は高階の事象を積極的に許し、その結果、多くの文学作品が生まれ、そこに描かれる人間心理(特に、欲求や感情)は人々の生活、人生を形成してきた。人間心理の奥深さは高階の言語によって描かれ、それが人間の内面を表象してきたのである。知識とは異なり、信念は事実にも欲求や感情にも配慮して、第1階から高階に渡る事柄に対して適用される、幅広い認識的な述語になっている。

 この信念の一類型、あるいは変形が「疑う」という懐疑である。信念と懐疑は正反対の心的状態に見えるが、認識的な述語としてはよく似た振舞いをする。疑うものは事実であってもそうでなくても構わないという点で信じることと似ているが、懐疑は独特の地位を占めている。疑いの心理は実に微妙で、真理を追求する際の疑いから、相手の心を疑うことまで、疑いの内容は大変違っている。それを大変うまく使ったのがデカルトだった。

 哲学で議論されてきた疑いは真理追求のための疑いであり、それを最初に、しかも劇的に示したのがデカルトの『方法序説』。デカルトは、「私がこのように「全ては偽である」と考えている間、その私自身はなにものかでなければならない」と考え、これだけは真であるといえる絶対確実なことを発見する。それが「Je pense, donc je suis」。この原理は方法的懐疑を経て「考える」たびに成立する。さらに、「我思う、故に我あり」という命題が明晰かつ判明に知られるものであることから、その条件を真理を判定する一般規則として立てて、「自己の精神に明晰かつ判明に認知されるところのものは真である」という規則を設定する。そして、この規則を応用した試論が1637年の著作だった。その正確なタイトルは『みずからの理性を正しく導き、もろもろの学問において真理を探究するための方法についての序説およびこの方法の試論(屈折光学・気象学・幾何学)』(Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la verité dans les sciences(La Dioptrique, Les Météores, La Géométrie)で、個別科学がこの方法に基づいて展開されている。

 残念ながら、現在の自然科学はデカルト的な明晰判明なコギトからではなく、複数の科学者の信念(懐疑から)スタートする。その違いを大まかに例文を使って示せば次のようになるのではないか。

 

(1)I think, therefore I am.

(2)We think that P, therefore P.

(3)Some of us think that P, therefore all of us think that P.

((1)がデカルト、(2)が科学的実在論、(3)が科学的経験論の方法論をそれぞれ表明している。三つの主張の「therefore」の意味もそれぞれ異なる。)

 

 仮説という信念とその信念への懐疑が問いとなって、それを、解読、解消する実験や観察が工夫される。それが「仮説の験証としての実験」であり、その結果が知識として採用されることになる。これは正に科学の認識論、知識を獲得する方法である。高階の「信念や懐疑」の言明を第1階の言明に還元し、最後は実験や観察を通じて知識に至るということになる。

 真理は単純であり、単純という意味は事実に密着し、それだけを述べることに還元、集約されることである。

 

*現在の私たちの多くが信じるのは(1)や(2)ではなく、(3)であろう。ここで注意したいのは、(1)、(2)、(3)のいずれかを選び、そのいずれかが真だと信じることが私たちにできることであって、選ばれる(3)は仮説としての信念である。)

心の壁:論理と言語

  心の壁といえば、雲を掴むようなものと思われがちですが、実は簡単なことなのです。心の壁がつくられ、外の物理世界と内の意識世界が分けられることは、私たちが認識的な述語(epistemic predicate)を自ら使うことに起因しています。簡単には、心をもつとは壁をもつことなのです。認識的な述語は、例えば「知る、信じる、わかる、意識する、疑う」等の述語で、自分の心の態度や状態を表現するものです。心の中の状態、つまり意識は、このような認識的な述語を使って、外の世界について表現した内容が自分の意識の内容だとして表現されているのです。これまでのところ、意識内容は見たり、触ったりできないものですから、言葉を使って表現する以外にはありませんでした。

 認識的な述語を含まない平叙文には人の意図や欲求は直接的な仕方では述べられていません。ですから、通常の平叙文にはどこにも壁はなく、単純明解です。次の例文を使って考えてみましょう。

(1)I believe that it is red.

(2)It is red.

(1)と(2)の文は似ているようで違っていますが、その違いは「信じる」という認識的な述語の存在、つまり心の壁にあります。(1)の文は私の信念を表明していて、(2)の平叙文は事実を表明しています。(1)が真でも、(2)が真になる訳ではありませんし、(2)が真でも(1)が真になるとは限りません。つまり、(1)と(2)は壁に隔てられて、別の関係のない言明になっているのです。

 「これは赤である」が正しくても、私は「これは赤ではない」と自由に考えることができますし、私が「これは赤ではない」と考えても、実際には「これは赤である」は正しいことが始終あります。「これは赤い」と信じるのは彼女の勝手なのですが、「これは赤い」が誤りであることは十分あり得るのです。つまり、意識の中の事実は、世界の中の事実とは無関係で、独立しているのです。心は何からも束縛されずに、自由なのだと主張されることの核心の意味はここにあります。

 信念や欲求の世界と外部世界とが根本的に異なることは上記のような文の形の違いとして区別でき、多くの人はそれを経験的に知っています。私たちの言葉遣いが壁の存在を生み出し、保証しているのです。この壁は見ることができず、その意味では隠れた壁でありながら、はっきりと存在しているのです。

 でも、認識的な述語をもたない言語、例えば第1階の述語論理の言語は事実だけを述べる言語であり、壁は表現できません。述語論理の規則はこの言語によって形式化されており、したがって、論理も壁をつくりません。論理的に考えることは外部世界と内部世界とを区別しないのです。数学や物理学の理論は原理上この言語や論理によって形式化されていますから、数学や物理学では信念や欲求といったものはそもそも表現されないのです。

 見えないもの、わからないものへの対応は分かれます。すると、恐怖や不安と期待や希望と二つの異なる心的状態が生まれることになります。前者が悪へ、後者が善へとつながっています。壁はそれに応じて、何かを邪魔する壁、何かを守る壁という異なる役割をもつことになります。とはいえ、いずれも個人の精神的な自由を保障する壁になっています。

 感覚は壁の外側にあり、感情は壁の内側にあります。私たちは感覚は物理的な所与として壁を越えても変わらないと思っています。感覚を信じなくなるのは心の内側に入ったからではなく、誤って感覚する点にあります。感情は壁の外側にはありません。感覚は所与ですが、感情は私たちが生み出すものです。

 優れたAIは壁をもつAIのはずです。そこで、まずはAIの分類をデカルトに頼りながら、考えてみましょう。

(分類)デカルト的AI、反デカルト的AI、非デカルト的AI

  さて、デカルトの『方法序説』に登場するのが、「Cogito ergo sum.」。フランス語と英語ではそれぞれ、「Je pense, donc je suit.」、「I think, therefore I am.」です。こんな風に分類すると面倒なことのように見えますが、心の壁の話は実に簡単に理解できるのです。非デカルト的で、反デカルト的なAIが使う言語の一つは第1階の言語で、実に単純なもの。小学1年生でも「僕はAだと思う」と言うことができます。それができないのが第1階の言語なのです。高階の言語の典型はデカルトの議論によく登場します。コギトの話では「自分が疑うことを疑うことができても、疑うこと自体は疑えない」ので、疑う自分が存在する、という有名な議論では、高階の言語を操る「思考」が前提になっています。つまり、デカルトは彼の哲学の出発点から高階の言語を前提にして「私が考える」哲学と知識を組み立てようとしたのです。

 心の壁を前提にしたデカルトの哲学は第1階の言語で実在する世界を描こうとしたギリシャ以来の哲学とは違っていましたが、デカルトは二元論的立場で、両方を認めたのです。でも、心の壁と実在の世界、意識と実在の世界がどのように両立するのか、彼以後の哲学の大問題として残ることになります。

 第1階の事柄、事態だけが世界の事柄、事態だとして、高階の事柄、事態をすべて第1階に還元するのが科学的な知識の常道です。では、高階は無意味なのでしょうか。第n階とはどのような意味をもっているのでしょうか。nが大きくなると、nn+1の違いは次第に判らなくなります。でも、高階だけでなく、複雑さを増す様々な仕掛け、工夫がさらにあります。主語には一人一人の異なる個人がなることができます。さらに、時制の違いも存在します。個々の自我が、様々な場所や時間に認識的な述語を縦横無尽に使って表現される言明が描く世界はどれほど複雑か、自我も認識的述語もない言明と比べれば一目瞭然というものです。

 このように見ると、世界を叙述することに人間が入ると、途端に複雑になることがわかるでしょう。実際に複雑にしているのは人間です。世界を好き勝手に複雑にして頭を抱えているのは何を隠そう、人間そのものなのです。人間の言語とその使用が世界を瞬く間に複雑で、魑魅魍魎の世界にしているのです。

 逆に、第1階の言語で数学的な関係を論理的に展開して描かれる世界は実に単純で、それが科学的世界のモデルになっています。科学が単純明解な理由はここにあります。明晰にして判明なのは観念ではなく、第1階の述語論理とその言語で描かれる世界です。科学知識と人間や社会の知識の違いは高階の言語を使うか否かの違いなのです。  私たちが心の壁を意識し、高階の言語を使い、複雑さが増していくと、遂には私たち自身わからなくなります。この結果は自業自得というものです。「高階=壁=論理が通用しない=わからない」といった図式が歴然と存在しているのです。

 

*例外的な高階の述語は「…は真である」で、「Pは真である」と「P」はほぼ同じだと考えられています。

何が心の壁をつくるのか:悪の根源、悪の温床

  心の壁は悪につながるが、それを生み出すのは私なのか、それとも言葉なのか。「私が言葉で心の壁をつくる」というのが多くの人の答えではないのか。この言明の意味は後でじっくり考えたい。論理は心の壁をつくらないが、言葉を使うことによって心の壁ができる。だから、科学理論には心の壁は(ほとんど)ないが、それをつくり、扱う科学者にはある。論理と言語の違いは壁をつくるかどうかにある。そのような考えから、善人や悪人をつくるのは心の壁だということになる。

 AIの議論を離れ、このような話をもっともらしくする、印象的な文脈を過去に探ってみよう。それがグノーシス主義である。この世に満ち溢れる悪の支配、汚濁にまみれた世の中は、いったいなぜ続くのか。日本でもかつて「厭離穢土・欣求浄土」が唱えられ、それが旗印となったことがある。だが、それより遥か以前、この世は悪だと説いた世界観があった。

 紀元1世紀から4世紀にかけ、地中海世界で信じられていたこの思想がグノーシス。それは、知恵、知識を意味するギリシア語である。グノーシス主義はこの世が悪に支配されている理由を、この世を作った神が実は「偽の神」であって、それゆえに、悪の宇宙、狂った世界が生まれた、と説明する。もともと「真の神」の作った世界は充溢した世界であったが、この至高神のアイオーン(神性)の一つであるソフィア(知恵)が、デミウルゴスあるいは、ヤルダバオートという狂った神を作り出した。ヤルダバオートは自分の出生を忘れ、自分こそ唯一の神だと錯覚し、ヤルダバオートは人間の生存している悪の宇宙を作ったのである。そこで、グノーシス主義はこの狂った宇宙に叛旗を翻す(反宇宙主義)。

 ヤーヴェが偽の神であれば、旧約・新約につながる伝説も嘘ということになる。例えば、「アダムとイヴ」の話はキリスト教では、蛇(悪)の誘惑に負けてイヴが知恵の木の実を食べ、エデンの東に追放され、この「原罪」をイエスが死で償って、人類は許されたことになっている。だが、グノーシス主義によれば、この蛇は真の神が遣わした使者であり、人類に真実を見極めるための知恵を与えたということになる。だから、アダムとイヴの追放は原罪ではなく、真実を覆い隠すための刑罰である。

 グノーシスというと、善悪二元論、霊肉二元論が有名である。キリスト教は、善である神の聖性を一つの極みとする、一元論的な世界観をもつ。聖性の不足、欠如はあっても、神の聖性と反対の極にある負の頂点を認めない。グノーシスは、マイナス極とプラス極がある二元論的世界観であり、キリスト教は、ゼロからプラス極しかない一元論的世界観。キリスト教では、悪・地獄・悪魔といった負の概念は、神の絶対性に対峙するものではなく、聖性が欠けているに過ぎない。グノーシス主義の二元論では、精神や霊的な存在は善、物質や身体は悪とはっきり区別して捉える。この捉え方によれば、イエスの身体的存在は幻に過ぎず、イエスの霊的存在こそがグノーシスの顕現となる。物質や身体を悪とする捉え方は、神の「み言葉」の受肉や十字架の贖い(あがない)を否定するとして、教会は精神的存在だけでなく、物質や身体も本来聖なるものであると主張した。

 また、どうしたら神を知ることができるかという点でキリスト教とは違っている。キリスト教では、神は、神の方から人間に自身を啓示する。聖書の表現でも、常に神から人間に語りかける。この呼びかけに自らを向けることが、キリスト教的回心。一方、ギリシャ文化的なグノーシス思想では、人間自身による内面の探求により、神を知ることになる。グノーシスという言葉は「知識」や「認識」という意味だった。悪に満ちた自己の本質を「認識」することによって霊的善に至り、これが神との一致に繋がる。

 物質からなる肉体を悪とするグノーシス思想から、道徳に関して、二つの異なる立場が出てきた。一方では禁欲、他方では放縦である。前者は、マニ教に見られるように禁欲的な生き方を教える。後者は、霊は肉体とは別の存在であり、肉体が犯した罪悪の影響を受けないと説く。

 現在の私たちはキリスト教的なのか、それともグノーシス的なのか。心の壁をいずれの考えで捉えるかによってAIの振舞いは大きく変わってくるだろう。あるいは、これら二つだけでなく、善悪への別の捉え方(例えば、仏教)をAIに試してみることも面白いのではないか。

豊洲ぐるり公園

  7月7日に豊洲埠頭をぐるりと一周するように歩道を中心に整備された「豊洲ぐるり公園」が部分的に開園した。陸上競技選手だった為末さんがチェアマンとなって豊洲を「ランニングの聖地」にしようと、豊洲公園から昭和大学江東豊洲病院まで5㎞弱のランニングコースも設置されている。

 本来なら2016年11月7日に豊洲市場のオープンとともに公園の全域が開園するはずだったが、移転延期に巻き込まれ、開園が先送りされていた。予定から9ヶ月遅れながらも、公園の一部開園が実現した。そのため、ランニングコースも寸断されたまま。

 新市場の端は広場になっていて、レインボーブリッジや晴海埠頭がよく見える。ちょうどクルーザー(Costa Victoria、7.5万トン)が停泊していた。

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