隅田川に架かる重要文化財(清洲橋、永代橋、勝鬨橋)

  昔の隅田川はとにかく汚かった。川辺などなく、川と街は堤防で隔てられたままだった。田舎出の私には隅田川は大きなどぶ川。だから、当然のように川に架かる橋にも関心は向かなかった。そんな中で、唯一記憶に残る橋が勝鬨橋。月島で家庭教師を頼まれ、半年ほど銀座から勝鬨橋を渡って月島に通ったのだが、汚い川に比べ、橋は立派だったのを憶えている。勝鬨橋は可動橋だったが、今は開閉しない。橋は1940年に完成。

 清洲橋は既に紹介した永代橋と共に関東大震災の復興事業としてつくられた。「帝都東京の門」と呼ばれた永代橋に対して、「震災復興の華」が清洲橋。ドイツのケルン市にあった吊り橋ヒンデンブルグ橋がモデルになっている。

 2007年三つの橋は国の重要文化財(建造物)に指定された。

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清洲橋

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永代橋

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勝鬨橋

ユークリッド幾何学から非ユークリッド幾何学へ

  非ユークリッド幾何学と聞くと誰もが常識を超えた、不思議な空間を想像し、心躍るのですが、ユークリッド幾何学となると退屈この上ないという印象しか持っていない筈です。では、二つの幾何学の違いはどこにあるのでしょうか。二つの違いの根幹をはっきりさせてみましょう。

 

 ユークリッド(Euclid, 325BC-265BC)は紀元前300年ほど前に『原論』を書き、それは人類が書いた最も有名な一冊となりました。『原論』の中で彼は現在の公理にあたる仮定を5つ置いたのですが、最後の「平行線の公理」と呼ばれるものは他の公理に比べて複雑で、公理として最初から自明であるとは言い切れませんでした。後世の注釈家プロクルス(Proclus, 411-485)の定式化に従うと、5番目の公理は「直線とその上にない一点が与えられると、その一点を通り、その直線に平行な直線を正確に一本引くことができる」と表現できます。確かに文の長さだけでも以下に挙げる4つの公理より遥かに複雑に見えます。

 

1 任意の2点を通って直線を引くことができる。

2 有限の直線はある直線上を連続的に延長できる。

3 任意の中心、半径の円を画くことができる。

4 すべての直角は等しい。

 

そこで平行線の公理を上の4つの公理から証明できないかと多くの試みがなされました。後に証明の誤りが指摘された多くのものは平行線の公理に論理的に同値な言明を仮定していました。これは論点先取の誤り(petitio principi)です。極めて重要な証明は1733年になされたサッケリ(Giovanni G. Saccheri, 1667-1733)のものです。彼は平行線の公理が誤っていると仮定し、そこから矛盾を導き出そうとしました。これは帰謬法(reductio ad absurdum)*です。平行線の公理の否定とは「平行線を正確に一本引くことができる」を否定することです。すると、「平行線が一本も引けない」と「平行線が二本以上引ける」という平行線の公理の二つの否定形ができることになります。彼は「平行線が一本も引けない」という仮定のもとで、矛盾を引き出すことができました。「平行線が二本以上引ける」場合も多くの非ユークリッド幾何学の定理を証明できました。でも、彼はそれらが非ユークリッド幾何学の定理であることを認識できませんでしたし、前のように矛盾を引き出すこともできませんでした。

 

*帰謬法はその漢字表記が難しいということから、今では「背理法」と呼ばれています。背理とは文字通り「理に背く」方法ということになりますが、帰謬法は理に背くどころか、理に叶った方法です。

 

(問)平行線の公理の否定形が「平行線が一本も引けない」と「平行線が二本以上引ける」の二つあることを説明しなさい。

 19世紀初頭ユークリッド幾何学の妥当性に関する問いが数学者の間で出され、それに最初に取り組んだのがガウス(Carl F. Gauss, 1777-1855)でした。カントが亡くなった時、彼はユークリッドの4つの公理と平行線の公理の否定が矛盾を含まずに両立することを既に認識していたのですが、非ユークリッド幾何学の存在をそのまま認めることができませんでした。数は人間の心が生み出したものですが、空間は心の外にある実在であると彼が考えていたためです。

 その後、ガウスと同じ結果がボーヤイ(János Bolyai, 1802-1860)とロバチェフスキー(Nikolai I. Lobachevski, 1792-1856)によって独立に発表されます。彼らは一本の平行線の存在を否定し、「平行線が二本以上引ける」と仮定し、他の公理と矛盾しない非ユークリッド幾何学を展開しました。さらに、19世紀中葉にはリーマン(Georg F. B. Riemann, 1826-1866)がユークリッドの4つの公理に細工を施すことによって、「平行線が一本も引けない」という仮定のもとで別の非ユークリッド幾何学ができることを見出しました。

 こうしてカントの死後50年で三つの異なるタイプの幾何学が存在することになりました。それら幾何学は、「平行線が正確に一本引ける」ユークリッド幾何学、「平行線が二本以上引ける」非ユークリッド幾何学、「平行線が一本も引けない」非ユークリッド幾何学です。

 これまでの話をまとめてみましょう。最初は4つの公理から平行線の公理が演繹できないか試みられました。うまく行かないため、平行線の公理の否定が仮定され、そのもとで他の4つの公理と矛盾するかどうか調べられました。ユークリッド幾何学が無矛盾という仮定のもとで、平行線の公理の否定から矛盾が出るなら、平行線の公理は4つの公理から演繹されます(なぜでしょうか)。平行線の公理の否定は二つの形をもち、一方からは矛盾が得られました。でも、別の否定形から矛盾が出ないため、4つの公理からは演繹できない可能性が残っていました。つまり、平行線の公理は他の公理から独立している可能性があったのです。非ユークリッド幾何学のモデルがつくられることによって、平行線の公理が他の公理から独立していることの一部が示されました。さらに、4つの公理を僅かに変形すると、「平行線が一本も引けない」と仮定しても矛盾が得られず、別の非ユークリッド幾何学がつくられます。こうして、平行線の公理の残りの一部の独立性も証明されました。

 この一連の追求の道筋には推論の工夫と推論についての推論が積み重ねられています。このような純粋に論理的な追求と共に、ユークリッド幾何学は経験世界の空間を記述するための唯一の幾何学かどうかが問題になっていました。言い換えれば、ユークリッド幾何学アプリオリに成立するかどうかです。

 

(問)最後の文「ユークリッド幾何学アプリオリに成立するか」について、あなたの考えを述べなさい。

「知る」が加わると何がどのように変わるのか

 (「心が関わると何がどのように変わるのか」の改訂版)

 現実の世界で私たちの心がどのように振舞うかを知ることは今の私には無理難題というもので、単純この上ないモデルを使って思考実験でもしてみるしか手はありません。私が思うに、今のところ心の振舞いを物語として描く仕方で断片的に成功していると思われるのは一握りの文学者たちの作品に過ぎません。

 まずは現実世界のミニチュアとして「自然数からなる世界」をモデルにしてみましょう。この単純で明解な世界には自然数だけが存在し、0から始まり、1,2,3、…と自然数が続いている世界です。そして、それ以外の対象は何もありません。常識的にはこんな子供騙しのモデルは世界とは呼べない代物です。その世界の「事実」は自然数論の言明として表現されます。かつてウィトゲンシュタインが「世界は事実の集まりだ」と述べましたが、これはそのミニチュアです。それでも原理は同じで、事実とは設定された言語で表現される真なる言明のことです。でも、私たちはウィトゲンシュタインとは違って、世界ではなく世界を「知る」とは何かを問題にしようというのです。その世界について「知る」ことは知る主体の心の内の操作であり、明示的には表現されないのが自然数論の世界です。以前の例を使えば、次のような論証に登場する個々の言明が自然数からなる世界についての事実の記述です。これら事実は因果的な事実とはまるで違っていて、時間・空間を超えて成り立っているものです。

 

4は3より大きい。

4は8の半分である。

よって、8の半分は3より大きい。

 

これら三つの言明は事実のほんの三例に過ぎません。さて、知る主体の心の態度をこれら事実の集まりに加えてみましょう。様々な心的態度がありますが、「知る」という認知の態度を選んでみましょう。そして、「知る」を自然数論の言明と組み合わせて、高階の言明をつくることを許すことにしましょう。さらに、「知る」の主語の候補として、「神」、「数学者」、「小学生」の三者を考えてみましょう。

 自然数論の言明を第1階の言明と呼び、「知る」を1回使ってできる自然数論の言明を第2階の言明、n回使ってできる言明を第(n+1)階の言明と呼ぶことにしましょう。すると、ウィトゲンシュタインの事実の集まりとは第1階の自然数論の言明の集まりということになります。第2階以上の言明は、世界についての私たちの心の「知る」態度を表現していることになります。

 そこで、小学生のA君について次のような言明をつくってみましょう。

 

A君は4が3より大きいことを知っている。

A君は4が8の半分であることを知らない。

だから、A君は8の半分は3より大きいことを知らない。

 

これら言明はそれぞれ第2階の言明です。第1階の事実についての言明との違いは誰にも明らかです。世界の事実を表現した言明が第1階の言明、世界の事実を知ることを表現した言明が第2階の言明なのです。さらに、例えば「A君は自分が8+5=13を知らないことを知っている」は第3階の言明になります。

 まず、神が自然数の世界でどのように事実を知るか見てみましょう。神は全知全能ですから、例えばゴールドバッハの予想「6以上の任意の偶数は、二つの奇素数の和で表せる」について、私たちとは違って、その答えを知っています。その他の未解決の問題についても神にはそれが真か偽かわかっています。神にとっては、自然数の世界の事実とそれについて自分が知ることは完全に一致していることになります。ですから、神にとって次の二つの言明について違いはないことになります。

 

4は3より大きい。

神は4が3より大きいことを知っている。

 

これら二つの言明は神にとっては同じ言明になります。神は認知に関して誤りません。ですから、自然数についての事実なら、それを神が知り、自然数について神が知る事実は、自然数の事実であることになります。「存在する」こととそれを「知る」ことが完全に一致しているというのは正に神業で、だからこそ神なのです。これはまた、神については高階の言明は第1階の言明にスムーズに還元されることを意味しています。神の「知る」活動は世界を変えず、混乱を起こすこともなく無害なのです。

 これで神の完璧な「知る」はすべて了解だと思われそうなのですが、実は簡単な自然数の世界であってもゲーデル不完全性定理は成り立っています。ですから、その真偽を証明できない言明が必ず存在することになっていて、神がこの定理の適用外だとすると、私たちには神の知り方(認知方法)がわからず、神は非論理的、非合理的に知るということになってしまいます。というのも、神が合理的であるならば、自然数について知ることができない言明があることになるからです。

 次に、数学者はどうでしょうか。数学者も神に似て、「知る」をできるだけ使わずに自然数についての言明、つまり第1階の言明だけを使うことに徹しようとします。第1階の言明の中には真偽がわからない、いわゆる未解決の問題がたくさんあります。そして、それらの解決が数学者の仕事ということになります。そんな中で、哲学好きの数学者が高階の言明に関心をもつことになります。それらは「知る」やそれに類似の認識に関わる表現を含んだ言明で、真偽不明の言明が眼前にあって解決できないと、「知り方」自体を問い直すことになり、その際に高階の言明が登場するのです。

 さて、最後は小学生の場合です。神や数学者は直観や論証によって言明を扱えば済むのですが、小学生の場合は「知る」の実証レベルでの検証も必要になってきます。

 

A君は4が3より大きいことを知っている。

A君は4が8の半分であることを知らない。

だから、A君は8の半分は3より大きいことを知らない。

 

神や数学者と違って、A君の場合これら言明の真偽は直接彼に確かめなければわかりません。A君が悪意をもって騙そうとするかも知れませんから、そのような場合はうそ発見器を使うことも考えなければなりません。神や数学者の場合に現れなかった「知る」の本来の姿がここに現れてきます。まさに人間的な知り方です。「知る」は哲学的な思索から現実的な手練手管に変わるのです。このように考えると、小学生になって急速に増える認知的な言明とその実証テストは、確かに高階の言明が複雑でわかりにくいことを示してくれます。ですから、上の各言明の真偽ではなく、それらの意味や使い方が認知心理学の問題として実証レベルで研究されることになります。

 以上が三者三様の「知る」ことの違いです。さて、ここからが肝心なことですが、その複雑さの途轍もない増加によって、文学者なら知ることの迷宮に入ると形容するでしょうが、そのことによって自然数論の定理が増えるかと問われれば、驚くことにほとんど何も増えないのです。つまり、自然数論に「知る」という述語が加わることによる世界の拡大は自然数論自体には何の積極的な貢献もしないのです。これを一般化すれば、物理世界に「知る」を加えても物理世界は大して変わらないということになります。

 でも、自然数論の学習については相当の貢献をする筈です。子供たちが効率よく自然数について学習するための認知科学的な方法の開拓には大いに寄与するはずです。繰り返せば、心の働きの代表の一つが「知る」ことであり、それをつけ加えた上述の自然数論+「知る」では、その知ることの働きが具体的に想像できます。でも、心を知るためのこのモデルは自然数論自体には何の貢献もしません。

 これまで表象主義的な観点から第1階の言明を事実と考えて議論してきました。心とは意識であり、その意識は何かを表象することだと考えたのはデカルトでした。表象も志向的なもので、「表象する」だけでは判然とせず、「何かを表象する」必要があります。私たちのモデルは自然数でしたので、「何を表象するか」と問われれば、それは「自然数」でした。一般的に表象主義の「何か」は外部世界の事実なのですが、デカルトの表象は心的な事実や概念なのです。すると、デカルト流には、「Pを知る」のPは外的な事実ではなく、心的な事実(イデア、観念、心的イメージなど)ということになります。つまり、デカルト流では第1階の言明は心的な事実についての第1階の言明ということになります。

 このデカルト流の表象モデルは私たちの数についての一般的なイメージにうまく合っています。心に関するデカルトの支配、呪縛は強烈ですから、私たちがデカルト、さらに遡ればプラントンの影響を受けているために、数はイデアとして心的な対象として表象されると思われてきたのです。数は物理的な対象ではなく、イデアのようなもので、それは心的な存在として表象されるとなれば、これはプラトンデカルトの合作ということになります。

 これらのことから出てくるのは、「私が知る」という心の本質的な機能は知識の獲得に大した貢献をしていないということです。それどころか、単純明解の第1階の言明に高階の言明を混ぜ合わせて混乱を生む方が圧倒的に多いのです。自然数のモデルだけからでも、認識や信念に関する分析は暗礁に乗り上げること間違いなしということになります。ですから、実証的なテストという手段に頼るしかありません。「知る」ことの分析を実証的なテストに委ねることは、心の働きは実証的にしか明らかにできないことを意味しています。

 自然数の代わりに物理的な対象からなるモデルとそれに「知る」が加わった高階のモデルも容易に想像できます。自然数の場合とほぼ同様に、「知る」は物理モデルの第1階の言明を知るには必要でも、それは通常はメタレベルのものとして表には出ません。また、「知る」を含む高階の言明は混乱を引き起こすだけのものです。

 日常生活の中で使われる知識の重要な点は、知識の内容を正確に知ることではなく、それをどのように使うかにあります。知識を知ることとその知識を使うことは同じではありません。第1階から高階までの言明の巧みな使用によって、様々な場面で勝ち負けのために知識が利用されてきました。これは知識の驚嘆すべき利用であり、それが人間社会をつくってきたのです。「知る」ことと知ったものを「使う」ことは同じではありません。私たちが知識を学習するのは二つの目的があります。一つは学習した知識を使って新しい知識を手に入れるため、他は学習した知識を利用して生活するためです。ほとんどは生活のために使うのが知識であり、その際は小学生の場合のように実証的な仕方で「知る」の振舞いを知るしかないのです。

 

*私たちが知識を学習するのは、ほとんどの場合それを使うためであって、新しい知識をつくるためではありません。人は学習した知識を巧みに操ることに長けていても、新しい知識を生み出すことは苦手です。でも、「知る」には二つの役割があることを誰も否定しません。

渡れない大橋

  豊洲新市場はまだ閑古鳥が鳴いたままで、カビだらけらしいが、それ以前から使われないままなのが豊洲大橋豊洲と晴海を結ぶこの橋の本体架橋工事は何と2008年に既に終わっている。今は晴海のオリンピック・パラリンピック選手村の工事用トラックだけが通行を許されている。もう一つの橋は隅田川の最河口にある築地大橋。こちらは2015年に完成した。両方の橋とも環状2号線の橋だが、この道路が築地移転の延期によって開通できず、そのため橋も渡れないままになっている。

 残念ながら今は見上げるだけ。そうなると、早く渡りたくて仕方なくなるのが人の気持ちである。

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豊洲大橋

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豊洲大橋

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(築地大橋)

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(築地大橋)

芝生のキノコ

  このところ雨が多く、案の定公園の芝生にはキノコが育っている。ハラタケは草原のキノコで、欧米では古くから食用にされてきた。マッシュルームはハラタケと同属近縁種である。芝生のある公園にハラタケが増えているという。写真のキノコがハラタケかどうかは素人の私には自信がなく、だから、試食する勇気はない。

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心が関わると何がどのように変わるのか

  私たちの現実の世界をモデルにして心の振舞いを考えることは今の私たちには到底無理なので、単純この上ないモデルについて思考実験をしてみましょう。まずは世界のミニチュアとして「自然数からなる」世界をモデルにしてみましょう。この単純で明解な世界には自然数だけが存在し、0から始まり、1,2,3、…と続いている世界です。そして、それ以外の対象は何もありません。その世界の事実は自然数論の言明として表現されます。その世界について「知る」ことは知る主体のメタの操作であり、明示的には表現されないのが自然数論の世界です。以前の例を使えば、次のような論証に登場する個々の言明が自然数からなる世界についての事実の記述です。

 

4は3より大きい。

4は8の半分である。

よって、8の半分は3より大きい。

 

 知る主体の心の動きをこれに加えてみましょう。そこで、「知る」を自然数論の言明と組み合わせて言明をつくることを許すことにしましょう。さらに、「知る」の主語の候補として、「神」、「数学者」、「小学生」の三者を考えてみましょう。  自然数論の言明を第1階の言明、「知る」を1回使ってできる自然数論の言明を第2階の言明、n回使ってできる言明を第(n+1)階の言明と呼ぶことにしましょう。そこで、小学生のA君について次のような言明をつくってみましょう。

 

A君は4が3より大きいことを知っている。

A君は4が8の半分であることを知らない。

だから、A君は8の半分は3より大きいことを知らない。

 

これら言明はそれぞれ第2階の言明です。まず、神が自然数の世界でどのように事実を捉えるか見てみましょう。神は全知全能ですから、例えばゴールドバッハの予想「6以上の任意の偶数は、二つの奇素数の和で表せる」についてその答えを知っています。その他の未解決の問題についても神にはそれが真か偽かわかっています。神にとっては、自然数の世界の事実とそれについて知ることは完全に一致していることになっています。ですから、

 

4は3より大きい。

神は4が3より大きいことを知っている。

 

これら二つの言明は同じ言明になります。神は認知に関して無知なのです。あることとそれを知ることが一致しているというのが神なのです。これはまた、神については高階の言明は第1階の言明にスムーズに還元されることを意味しています。神の心の働きは世界を変えることはなく、無害なのです。

 これで神の「知る」は解決と思われそうなのですが、実は自然数の世界であってもゲーデル不完全性定理は成り立っていますので、必ずその真偽を証明できない言明が存在することになっていて、神が適用外だとすると、私たちには神の知り方(認知方法)がわからないということになります。

 次に、数学者はどうでしょうか。数学者も神に似て、「知る」をできるだけ使わずに自然数についての言明、つまり第1階の言明だけを使うことに徹しようとします。第1階の言明の中には真偽がわからない、いわゆる未解決の問題がたくさんあります。それらの解決が数学者の仕事ということになります。そんな中で、哲学好きの数学者が高階の言明に関心をもつのです。それらは「知る」やそれに類似の認識に関わる表現を含んだ言明です。

 さて、最後は小学生の場合です。神や数学者は直観や論証によって言明を扱うのですが、小学生の場合は「知る」の実証レベルでの検証が必要になります。

 

A君は4が3より大きいことを知っている。

A君は4が8の半分であることを知らない。

だから、A君は8の半分は3より大きいことを知らない。

 

これら言明の真偽はA君に直接確かめなければわかりません。A君が悪意をもって騙そうとするかも知れませんから、うそ発見器を使うことになる場合もあります。神や数学者の場合に現れなかった「知る」の本来の姿がここに現れてきます。「知る」は哲学的な思索から現実的な手練手管に変わるのです。このように考えると、小学生になって急速に増える認知的な言明とその実証テストは、確かに高階の言明が複雑でわかりにくいことを示してくれます。ですから、上の各言明の真偽ではなく、それらの意味や使い方が認知心理学の問題として実証レベルで研究されることになります。

 以上が三者三様の「知る」ことの違いです。さて、ここからが肝心なことですが、その複雑さの途轍もない増加によって、自然数論の定理が増えるかと問われれば、ほとんど増えないのです。つまり、自然数論に「知る」という述語が加わっての世界の拡大は自然数論自体には何の積極的な貢献もしないのです。でも、自然数論の学習については相当の貢献をするはずです。子供たちが効率よく自然数について学習するための方法には大いに寄与するはずです。繰り返せば、心の働きの代表が何かを「知る」ことであり、それをつけ加えた上述の自然数論+「知る」では、その知ることの働きが具体的に想像できます。でも、心を知るためのこのモデルは自然数論自体には何の貢献もしません。

 これらのことから出てくるのは、「私が知る」という心の本質的な機能は知識の獲得に大した貢献をしていないということです。それどころか、単純明解の第1階の言明に高階の言明を混ぜ合わせて混乱を生む方が圧倒的に多いのです。自然数のモデルだけからでも、認識や信念に関する分析は暗礁に乗り上げること間違いなしということになります。だから、実証的なテストということになるしかないのです。「知る」ことの分析を実証的なテストに委ねることは、心の働きを実証的に明らかにすることを意味しています。

 自然数の代わりに物理的な対象からなるモデルとそれに「知る」が加わった高階のモデルも容易に想像できます。自然数の場合とほぼ同様に、「知る」は物理モデルの第1階の言明を知るには必要でも、それは通常はメタレベルのものとして表には出ません。また、「知る」を含む高階の言明は混乱を引き起こすだけのものです。

永代橋

  ドイツのライン川に架かっていたルーデンドルフ鉄道橋をモデルにした永代橋は見栄えのする橋で、好きな橋の一つである。1926年関東大震災復興事業としてつくられたが、近年周りが再開発され、橋自体もライトアップされ、見事な夜景を生み出している。

 永代橋が架橋されたのは1689年で、5代将軍綱吉の50歳を祝したものだった。長さ110間(約200m)、幅3間余(約6m)、隅田川で最下流にあり、多数の廻船が通過するために橋脚は満潮時でも3m以上あった。

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歌川広重永代橋佃しま」名所江戸百景)

 1807年深川富岡八幡宮の祭礼の日(深川祭)に詰め掛けた群衆の重みで落橋。橋の中央部よりやや東側の部分で崩れ、後ろから群衆が次々と押し寄せ転落。死傷者、行方不明者は1400人を超え、史上最悪の落橋事故となった。落橋事故後、橋の維持の重要性に気づいた幕府により再架橋された。

 1897年道路橋としては日本初の鉄橋として鋼鉄製のトラス橋が現在の場所に架橋された。だが、橋底に木材を使っていたため、関東大震災の時に炎上、またまた多くの焼死者、溺死者を出した。

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