植物の発生と成長についての私的見解

 生き物を分けろと言われれば、つい動物と植物に分けてしまう。この反射的な反応が「常識」のもつ恐ろしさなのだが、今の生物分類によれば、まず真正細菌古細菌からなる原核生物と真核生物に分けられ、その真核生物の中に植物と動物があり、その他に原生生物と菌がある。つまり、科学的な知識によれば動物と植物は六つの基本クラスの二つに過ぎないのである。それを背後において、私たちの常識的な生命観を支える動植物について植物中心に眺めてみよう。

 私たちの常識的な動物となれば脊椎動物脊椎動物は胚発生が終わった時には既に成体とほぼ同じ器官をもっている。つまり、胚発生後に新しい器官がさらにつくられることはない。だが、植物の発生は動物と異なり、胚発生から死までずっと続く。被子植物の胚発生は種子の形成であり、胚発生が終わると発生をいったん停止する。そして、種子は発芽に適切な条件が来るまで休眠する。種子の中には当然茎も花もない(だから、植物のホムンクルスはいない)。種子から発芽した植物では発芽後に地上の分裂組織から茎や葉がつくられ、地下の分裂組織からは根がつくられる。この分裂組織による発生は植物の一生を通して止まらない。成長と発生は対概念とみられ、成長は量的な増大を意味し、発生は質的な分化を意味する。脊椎動物は胚発生の時に発生がほぼ完了していて、後は増大するだけと時間的にに分かれているが、植物は既にある構造の上に新しい器官をつくる発生を行うため、質的にも量的にもその形態は変貌を続ける。また、動物の成長には一定の限度があるが、植物の限度は遥かにいい加減である。地球上で最大の動物であるシロナガスクジラは体長30m、体重200t程度までしか成長できないが、ヨセミテ公園のジャイアントセコイアは樹高80m,総重量1200t を超え、屋久島の縄文杉は数千年以上たっても成長を続けている。植物は生きているかぎり新しい器官を積み上げ、高く大きくなろうとする。そして、それを可能にしているのが細胞を支える細胞壁で、これは動物の細胞にはない。
 生物の形は遺伝的要因と環境要因の両方で決まる。ブロックを積み上げていくように生長する植物の形態形成も遺伝的要因と環境要因の二つによって決まる。同じ種であれば個体全体の形態や枝分かれのパターンは同じ。数千年も生きる屋久島の杉はどんなに大きくなろうと杉のままである。つまり、種の基本的な構造は遺伝的に決まっている。そして、植物はそれぞれの環境に応じて枝を伸ばすタイミングや枝の長さ、葉や花の数を変える。だから、全体的には種の特徴をもち遺伝的に完全に同一であっても、全く同じ形の個体は存在しない。日本人が大好きなソメイヨシノがその具体例で、この桜は江戸時代に偶然つくられ、接ぎ木でしか増やすことができなかった。だから、日本中に存在するソメイヨシノはたった一本の樹から増やされたクローン植物。当然ながら、遺伝的には完全に同一である。だが、日本中の桜並木の中に全く同じ形をした樹など存在しない。
 植物は繰り返し構造をもつ。動物は一個体がもつ器官の種類は多いが、個々の器官の数は僅かしかない。例えば、脊椎動物は眼や耳など多くの重要な器官を左右二つしかもたず、心臓も胃も一つしかない。これらの器官のほとんどは胚発生の時期につくられ、成体になってから新たにつくられることはない(現在、コピーを増やす技術が進んでいるが)。一方、植物の器官の種類となれば、根、茎、葉など僅かに過ぎないのだが、それら個々の器官の数はすこぶる多い。そして、その多量の器官はすべて発芽後に形成される。
 植物の発生は具体的にはどのように行われるのか。植物の地上部はすべて、茎の先の頂分裂組織またはシュート頂分裂組織とよばれる未分化の細胞群(幹細胞)からつくり出され、その発生は葉、茎、芽からなるユニットの繰り返し構造をとる。この繰り返し構造が植物の発生の特徴で、植物は環境に応じて繰り返し構造のユニットの形や繰り返し回数を変え、同じ種でも異なる形状、形態を示すことができるのである。
 植物では茎頂分裂組織が地上部のすべての器官をつくりだす。最初の茎頂分裂組織は胚発生の時期に形成される。成長するにつれ、新たにつくられた葉のつけ根にも分裂組織が形成され、枝分かれが生じる。花を構成するがくや花弁、おしべ、めしべは葉が変形したものである。茎頂分裂組織が茎を伸ばさずに自分のつくり出した葉に囲まれた状態が「芽」である。例えば、キャベツや白菜などはすべて巨大な芽である。キャベツや白菜を縦切りにすると、私たちが芯とよぶ固い部分が茎であり、その先端に小さな茎頂分裂組織が存在し、それを囲むように葉が生えていることがよくわかる。
 多くの植物が寒い冬には芽の状態で生育に良い季節が来るのをじっと待つ。枝につく葉のつけ根には腋芽が形成され、その芽が伸びて新しい枝をつくる。その枝に葉がつくられるとそのつけ根にはまた腋芽が形成され、次の枝分かれのもとになる。新しい枝はもとの枝と同じ形を示し、そのため植物はフラクタル構造をもつことになる。和紙の原料となるミツマタは、その名の通り三叉に分かれる特徴的な枝分かれをするが、他の樹や草も種固有の枝分かれパターンをもっている。
 被子植物の花は、がく、花弁、おしべ、めしべの四種類の器官から構成される。古くから、これらの花器官は葉が変形したものと考えられてきた。ゲーテは 『植物変態論』(1790年)の中で詳細な観察をもとに、花は葉の変形だと主張している。花は葉をつける通常のシュートに比べ茎の部分が非常に短く、器官と器官の間がつまっていて、がく、花弁、おしべ、めしべが外側から花の中心に向かって、四つの同心円状に位置する。1990年代に、花器官がホメオティック変異とよばれる形態異常を示すシロイヌナズナキンギョソウの突然変異体を用いた研究から、花器官の形成と並び順が三種類の遺伝子(ABC)によって決定されていることがわかった。この仕組みは被子植物全般に共通する花の形態形成の基本モデルと考えられていて、このABCモデルは今では広く受け入れられている。ゲーテが花は葉であると提唱してから約200年で、葉から花への転換はわずか数種類の遺伝子の発現の組み合わせで決まることが明らかになったのである。
 私たちが身近に目にするABC変異体は、ヤエザクラやバラなど、C遺伝子が失われておしべやめしべが花弁やがくに変わった、いわゆる「八重咲き」とよばれる植物である。C遺伝子がなくなるとおしべとめしべがつくられないため、種子をつけて次の世代を残すことができないが、偶然生まれた八重咲き変異を人は栽培種として大切に守って来た。ゲーテは『植物変態論』の中で「一重の花が八重の花に変わるのはたいてい、花糸と葯の代わりに花弁が発達する場合である」と述べている。これはまさにABCモデルが証明したことである。ツバキやサクラを見ても、八重咲きの花のすべてが完全におしべとめしべを失っている訳ではなく、おしべだけが花弁または花弁のような器官に変わっているものが多い。

 植物と動物は同じ真核生物なのに違いばかりを私たちは感じるようなのだが、他の四種類の生物は動植物からはさらに大きく異なっている。だが、私たちにはその大きな違いがよく見えないし、感じることなど日常経験の中ではとてもできないのである。つまり、私たちが知っている生き物は生き物の僅かな部分に過ぎず、しかもとても偏っているのである。こうなると、原生生物と菌だけでなく、原核生物についてもその本性を知りたくなるのが人の好奇心であり、それが自然というものである。

ユウゲショウ(夕化粧)

 道端や空き地、川原に多く、普通は高さ20cm程だが、時には50cmにも成長する。茎には柔毛があり、葉はやや広い披針形で互生する。原産地は北アメリカ南部から南アメリカで、明治時代に観賞用として渡来。現在は野生化し、関東地方から西に分布している(全国という説明もある)。
 和名は夕方から咲くことに由来するが、現在では昼間から咲いている。5月から9月にかけて茎上部の葉の脇から薄紅色で直径1.5cm位の花をつける。花弁は4枚で紅色の脈があり、中心部は黄緑色である。やや紅を帯びた白色の葯を付ける雄しべが8本あり、雌しべの先端は紅色で4裂する。
 私の子供の頃の記憶にはまるで登場しないのだが、今はあちこちに咲いていて、とてもポピュラーな雑草である。外来種の侵入情報によれば関東から西日本に分布するとのことで、新潟は入っていない。だから、私の記憶にないのは当然かも知れないのだが、別の説明では全国に分布するともあり、世情を考えれば、記憶の有無と事実の関係を解明したいと思ってしまう。妙高にはユウゲショウが実在するや否や?実在すれば、いつ頃からか?

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ブッドレア

 ブッドレアは長い円錐形の花穂が甘く香り、それに誘われチョウが集まるため、英語名は「バタフライブッシュ」。藤色を基軸に様々な花色があり、ほかに葉に斑が入るもの、小型のものなど、数多くの園芸品種があります。
 ブッドレアの仲間は、約100種で、アジア、南北アメリカ、アフリカに分布します。日本にもフジウツギとウラジロフジウツギが自生しています。一般に栽培されるのは、中国原産の落葉低木のブッドレア(フサフジウツギ)で、花の少ない7月から10月までの長期間開花します。

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古典的世界観はどのような世界観なのか(2)

<これまでの議論への歴史的コメント:ライプニッツモナド、連続性>
 17世紀の機械論哲学から生じた困難に「連続体の迷宮」と呼ばれるものがある。それは、「事物の究極的な要素は存在するのか」という問題に対し、物体的原子を主張する原子論の仮説をとっても、原子を否定し非物体的な単位を仮説としてとっても、いずれであれ連続体をつくり出せない、というアポリアを指す。これは、運動という物理的(時間的、空間的)現象が連続することを、点と線に関する幾何学的な連続によって扱おうとして生じた「ゼノンのパラドクス」の再発、あるいは別表現と考えることができる。「連続体の迷宮」によれば、(1)線分を限りなく分割しても点をつくることはできない、および(2)点を限りなく集めても連続する線分をつくることはできない。その議論は次のように再構成できる。

(前提)[物体の定義]すべての物体は何らかの空間的な広がり、すなわち延長をもつ。
(A)今、事物の究極的な構成要素が物体的な原子であるとすると、前提よりそれは延長をもち、延長をもつならば限りなく分割可能である。よって、その物体的な原子は自らより小さな部分へと果てしなく分割でき、(1)より、真に究極的な要素を特定することはできない。(B)そこで、事物の究極的な構成要素が、物体的な原子ではなく、いかなる大きさも、また形も部分ももたないほど小さいとする。つまり、延長をもたない非物体的なもので、点と同じとする。しかし、(2)より、点を無際限に組み合わせていっても点は点のままであり、点の集合から線分を構成できないのと同様、非物体的な原子から連続体を構成することはできない。さらに、何らかの別の仮定なしには、非物体的な次元から物体的な次元への移行を説明できない。

 ライプニッツは単に原子論の矛盾を指摘するだけでなく、さらに独自の理論を展開して、実在する世界がどのようであるかを説明しようとする。その理論こそ、物体を真に構成する単位は「原子」ではなく「モナド」でなければならない、というものである。(アリストテレスと同じように)ライプニッツは、数学的には実無限を拒否し、可能無限のみを認める構成主義的な立場をとる。ライプニッツは「1/2, 1/4, 1/8, ...」という無限級数からは、どんなに小さくとも有限な分数しか存在し得ない、と答えている。つまり、線分は限りなく分割可能であり、無限小は存在し得ない。同様にして、事物の分割も限りなく行うことができる。したがって、延長を本性とする物体と、分割不可能な原子を結合した物体的原子の仮説は矛盾している、ということになる。
 この論証とは別に、ライプニッツは数と量の本性に訴えずとも、実無限は拒否されねばならないと考える。というのも、「自然数全体の数」および「最大数」などの概念は、「全体は部分よりも大きい」という公理と両立しないからである。
 ライプニッツは、モナドが表象という仕方で実在的な世界全体を内的に含んでいると考えた。連続体という見かけ上の大きさは、現象世界にのみ当てはまる。それゆえ、モナドは、形而上学的に言い換えられた点ないし無限小にすぎないと批判されるかもしれないが、現象世界にしか属さない連続体をいかにして構成しうるかという問題は、実在世界には持ち込まれない。つまり、実在世界には連続体は存在せず、現象世界にはモナドは存在しないのだから、連続体の迷宮もない。モナドが属する実在世界と、モナドによって展開される連続体が属する現象世界を混同したところに、連続体の迷宮の起源がある。
 ライプニッツは「連続体の迷宮」を解決するために、世界を現象世界と実在世界とに二分し、後者に属する実在的な構成単位であるモナドが、実在世界すべてを表象という形で、すなわち現象世界として含んでいるとした。現象世界は、連続的世界としてあり、それは人間の認識活動と不可分な「観念的な世界」で、そこでは全体が部分に先立つ、すなわち、部分はそれより大きい全体の可能的な分割としてのみ存在しうる。それゆえ連続体すなわち物体は、その部分の分析のために、観念的なある全体を単位として前提せざるを得ず、果てしなく分割可能とされた。他方で実在世界は、モナドで充満している離散的世界としてあり、人間の認識している物理現象とは次元の異なる世界と考えられた。そこでは部分が全体に優先する、すなわち構成単位たるモナドが、それらで充満している世界に優先する。このように、ライプニッツは現象主義的側面と形而上学実在論とを同居させているが、それら異なる世界間の橋渡しをしている概念こそがモナドであり、その概念には、無限に関する数学と形而上学が決定的に関わっている。

4現代の常識
 「現在の知識をもとに過去の哲学理論を捉え直す」、「過去の哲学を使って現在の知識を見直す」といったことがしばしば行われるが、大抵は過去のことを普通の人より知っている哲学者が試みる典型的なスタイルの一つである。しかし、そのような場合の「現在の知識」とはどのような知識なのだろうか。それは現代人が共有する常識的な知識なのか、それとも専門家がもつ非常識的な知識なのか。残念ながら、過去に詳しい哲学者が採用するのはほとんどの場合、彼が常識的な知識と考えるものである。では、その常識的な知識は文字通りの現代の知識から見て正しい知識と言えるのだろうか。そこで、次の問題から各自の「現代の常識」を点検してみてほしい。

(問)時間や空間をそれぞれ独立に考察することができるか。
(問)運動は運動する個体に内属する性質か。
(問)物理量と統計量は共に個体の性質か。
(問)不確定性関係は対象の性質か、それとも観測の限界なのか。
(問)粒子と波動は両立するものと考えることが可能か。
(問)ミクロな世界とマクロな世界とを区別する根拠は何か。

恐らく上の問に対する解答は分かれるだろう。「現代の常識」とは何かを決定することは意外と厄介なのである。そこで、現代の常識を少しでも知るために、点や線、連続性、確定性に関連する常識を考えてみよう。

5 原子論と虚空
 アリストテレスは「虚空」を否定したが、その理由は何だったのか。虚空中では物体の運動速度が無限になり、無限の速度など存在しないというのが彼の否定の理由である。誰もこの理由が正しいとは思わない。「虚空」はその後もしばしば哲学の議論に登場し、その存在を巡って多くの議論がなされてきた。「虚空」とは何もないことである。だが、誰も「虚空」を文字通り何もない「無」とは考えない。虚空は空間として存在し、そこに「もの」と呼ばれるものが一つもないというのが常識的な理解である。今までの原子論もすべてこの常識を採用してきた。そこには「虚空」に対する二つの異なる役割が混在している。
 虚空には二つの意味がある。それらは「対象としての虚空」と「表象するための虚空(モデルにおける虚空)」である。「零」の二つの意味をヒントにして考えてみよう。0と101を比べると、101の0は数の表記上の意味をもっている。0が何を指示するかではなく、0を使って何を表示するかがその意味を決めている。同じように、対象としての虚空は文字通り「無」であるが、モデルでの虚空は距離、面積、体積を表象するための役割を担っている。0と虚空はそれぞれ数の表記と時空の表記のために本来の指示対象とは異なる意味や使い方が必要となる。
 力学が運動理論であることから、単に物体がそこになければよいと考えるのが二番目の区別の理由である。「何もない」のは文字通り何もないのではなく、単に物体がないというだけに過ぎなく、それゆえ、時空はあっても構わないし、むしろあると考えるほうが力学には好都合であり、優れた表現装置として役に立つのである。
 力学では、虚空の中の運動とは時空の中の運動である。運動を明確に把握するためには時空が不可欠であり、時空がなければ運動はそもそも存在さえしない。また、虚空の中の運動は端的にあり得ない。運動の表象と表現のための時空は物体とは区別され、できるだけ無色透明に近い形で考えられている。そして、0が位取り表記に使われるように、時空は運動を表現するために使われる。そこで、現在の集合論を使ってこの議論を振り返ってみよう。簡単に3次元の空間R3を考え、3次元の座標系を想像してみよう。空間内のどの地点も(x, y, z)という点で表記され、3個の実数で表される点である。このような点が充満しているのが空間だと考えると、「虚空」は定義上どんなものも含んでいないのであるから、そのような点が一つもないことになる。そこで(x, y, z)という点をすべて取り除いてみよう。すると、R3-R3=φとなる。この結果から「虚空は空集合」ということになる。これが虚空の文字通りの解釈となるはずだが、現在の科学はそれを採用していない。
 この考えを時間に対して適用してみよう。すると、

瞬間がなければ、時間がない、

という命題が得られる。点を瞬間と解釈すれば、「瞬間がない」ことは「点がない」ことであり、結果として瞬間の集合である時間は空集合となり、時間がないことになる。この文の前件は古典的な前提「瞬間がある」の否定である。この否定が非古典的な前提「瞬間がない」であり、これが正しいなら、後件の「時間がない」も正しいことになる。非古典的な意味であっても、これを正しいとは誰も認めないだろう。では、何がおかしいのか。(実数、集合といった基本概念が疑いの対象になるだろう。)
さらに、「空間がない」ことも同じように推論でき、

地点がなければ、空間がない、

ことが成立する。これらをまとめれば、「瞬間や地点がなければ、時間と空間がない」ことになる。これらが正しいなら原子は運動できず、「運動がない」ことになり、パルメニデスの主張が論証されたことになる。つまり、虚空を空集合と解する限り、瞬間がない、地点がないという前提の下では運動を否定しなければならず、パルメニデスの主張が非古典性に関わっている可能性を示唆している。
 以上の話が本当かどうかは意見が分かれるのではないか。このように考えるべきでないとしたら、他にどのような考えがあるのだろうか。

6 原子論:二重基準による成功
二重基準
 物質と時空は異なったものであると明瞭に主張する(それゆえ、古典的な)原子論はパルメニデス的な不変を基本にした哲学を維持しながら、運動変化を説明しようとする大変優れた仮説だった。後に批判される基本概念の一つは「虚空(あるいは真空)」の存在だったが、それによって原子の運動や衝突が可能となり、パルメニデス哲学で否定される変化を救う重要な役割を負っていた。哲学的な原子論はその後の科学革命(ガリレオニュートン)で再び採用され、化学的原子論(ラボアジェ)を生み出し、物理的原子論(マクスウェル、ボルツマン)は統計力学の中心的な仮説となった。だが、原子の存在は20世紀に入りようやく確証される。この歴史的な経緯を垣間見るだけでも、他の物質仮説(四元素説イデア説、質料形相論、波動理論、カロリック説等)と比べ、自然の物性を説明する仮説として格段に優れた考えであったことを物語っている。このような原子論の評価は必ずしも定説ではないが、ギリシャ哲学の諸説の中で格段に優れた自然の説明仮説であったことは誰も疑わないであろう(遺伝子に基づく遺伝理論は、遺伝子の組み合わせによって生物の遺伝を説明する点で原子論によく似ており、やはり成功した理論である)。
 原子論は物質の不変的性質を原子のもつ性質に還元し、原子の集合である物質が連続的な時空を運動することを認める。連続的な時間、空間は限りなく分割でき、その中を原子が運動し、互いに衝突を繰り返す。不可分の原子は一定のサイズをもった対象であるから、物質と時空では分割の仕方が異なっていることになる。この対象に応じた分割の違いを二重基準double standard)と呼んだとすると、原子論は物質と時空に関する分割の二重基準を採用することによって運動変化を整合的に理解しようとした試みということになる。この基本方式は以後の原子論を採用した科学理論のほとんどすべてにおいて認められる原則である。ギリシャの原子論仮説が現在でも私たちを魅了する理由はこの点に尽きる(古典力学にも原子論の構成が強く影響している。古典力学は物質についての理論ではなく、運動についての理論なので、二重基準の一方の「物質の有限分割可能性」は表面には出ていない。力学では物体の運動の法則と物体が運動する時空の二本立てになっており、時空に関する法則、前提は明示的に表現されていない。それを表現すれば、「時空は非可算個分割可能(そして、連続的)である」となる。一方、非古典的な量子重力理論では二重基準そのものが正しくない。)。
 物質の有限分割性は、数学における有限加法性(finite additivity)のように無限への拡張(countable additivity, uncountable additivity)がなされるものではなかったし、現在でも物質は原子論的に、有限の範囲でしか分割できないものと考えられている。ただ、どこまで分割できるかは誰にもわからないため、有限分割の最後の段階は未定のままである。しかし、誰もそれが無限に拡張できるとは思わないだろう。少なくとも実数のサイズまで拡張できるとは誰も思わない。というのも、それが可能とすれば、物質はサイズのない点にまで到達し、「サイズのない物質」という点を時空の点の場合と同じように想定しなければならないからである(「サイズのない対象」は力学モデル内で「質点(point particle)」として意味をもつが、「サイズのない物質」は力学モデル内でも意味をもたない。運動の記述に物体のサイズは不用だが、化学的性質の記述・説明に物質のサイズは不可欠である。これが力学は運動理論だが、物質理論ではないと言われてきたことである。)。
 原子論の二重基準の内容をまとめれば次のようになるだろう。

物質=有限分割可能なもので、最小の単位をもつ
時空=無限分割可能なもので、サイズのない点が最小の単位
(物質と時空の分割には有限、無限以外にも違いがある。例えば、時空は任意のサイズにいつでも分割可能だが、物質はそうではない。分割が何に依存するかによって分ければ、時空の分割は比較的自由で認識的要素を多く含み、物質の分割は実在の要素を多く含む。いずれにしろ、二重基準がなければこのようなことは主張できない。)

(問)時空が任意のサイズに分割可能であることを、時空の無限分割可能性を使って示せ。(その際、どのような無限が必要か注意せよ。)
(問)「物質なら時空でなく、時空なら物質でない」ことは二重基準を使うことによって証明できる。また、プランクのスケール内で二重基準が成立しないことを示せ。

アップルミント

 アップルミントはミントの品種の一つで、地中海沿岸から西アジアに分布しています。シソ科でハッカ属となれば、典型的なハーブ。草丈は20~100cmほどに生長し、丸い葉っぱを持つことから、和名は「丸葉薄荷(マルバハッカ)」です。また、葉っぱの表面に毛が生えていることから、「ウーリーミント」という別名もあります。リンゴとミントを混ぜあわせたような甘い香りが特徴で、ハーブティーやポプリ、入浴剤などに利用されます。 花は白か淡いピンク色で、夏になると茎の先に花穂を伸ばして咲きます。
 アップルミントは、ほかのミント同様、胃腸の働きを整える、口臭予防、殺菌作用といった効能があります。また、リンゴのような甘い香りから、特にハーブティーとして利用されます。

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古典的世界観はどのような世界観なのか(1)

 まず、次の問いを考えてみよう。

0をどのくらい加えると0でなくなるのか。

この頓智クイズのような問いの答えと、この問いがなぜ重要なのかを考えてみよう。この問いは哲学の問いがどのようなものかの典型的な例でもあるので、哲学の問いの特徴を歴史的に復習した上で、問いの解答をじっくり考えてみよう。その過程で、ガリレオニュートンがつくり出すことになった古典的世界観とその基本的な特徴を見定め、さらに非古典的な世界観の可能性について思いを巡らしてみよう。

1懐疑:瞬間、連続、確定
 私たちは自分が生きる生活世界はこうだと勝手に思い込み、それを殊更意識などせず暮らしている。子供の頃とは違い、日々の生活の中で心と身体には多くの習慣がしみ込み、それらには無頓着になっている。中でも自然に関しては「環境」という流行語にでも結びつかない限り、その仕組みや原理は問題になることさえ滅多にない。「古典的世界観」と呼ばれてきた見方は、私たちが小学校以来学んできたお馴染みのものである。実際、高校までのカリキュラムは古典的世界観の習得にもっぱら費やされている。それは心と身体にすっかり同化し、言葉と同じように空気のような存在になっていて、問われればほとんどの人が同じように答えてしまうという点で、教育の成果という点では上首尾なのである。そこで、次のような問いにどのように答えるか試してみよう。

ディープインパクトがゴールした瞬間などあるのか。
走っているのぞみが突然消えることなどあるのか。
私の今の体重は決まってなどいないのか。

これらの問いの答えに誰も頭を悩ますことなどない。誰も、瞬間があり、のぞみの突然の消失などなく、今の私の体重は一つの値をもつに決まっている(この「決まっている」とはどんな意味かが実は問題なのだが…)と答えるだろう。では、躊躇なく答える理由や根拠はあるのか、あればそれは一体何なのか。その理由や根拠こそここで考え直してみようという古典的世界観の前提、仮定である。それら前提は上の例文から次のようなものだと推察できる。

瞬間がある。
運動変化は連続的である。
ある時の物理的な性質(とその値)は確定している。

いずれの言明も疑う余地などなさそうに見える。デカルトやヒュームの懐疑さえ免れてしまうほどに当たり前の主張に思われる。何よりそれらが正しいことを私たちは教えられ続けてきたのである。しかし、それでも古典的世界観の前提を疑ってみよう。

瞬間はあるのか?
運動変化は連続的なのか?
ある時の物理的な性質(あるいはその値)は確定しているのか?

これらの疑いが私たちの出発点であり、そこから疑いを生み出している時間や空間の謎の解明に挑んでみよう。

2点と線についての問いと二つの解答
 私たちが今でも共有する古典的世界観は歴史的、文化的に理解されるのが普通である。だが、そんな余計なものをすべて削ぎ落とし、掛け値なしに古典的世界観がどのような基本的前提に基づいているか曝け出してみよう。そのような前提探しに旅立つ準備として、次のような問いを考えてみよう。

点から線はつくれるか。線を分割(還元)すると点になるか。
線から面はつくれるか。面を分割(還元)すると線になるか。
面から空間をつくれるか。空間を分割(還元)すると面になるか。
*これらの問を一般化すると、次のような問が出てくる。
空間から時空はつくれるか。時空を分割(還元)すると空間になるか。
n次元空間から(n + 1)次元空間はつくれるか。(n + 1)次元空間を分割(還元)するとn次元空間になるか。
n次元空間から(n + m)次元空間はつくれるか。(n + m)次元空間を分割(還元)するとn次元空間になるか。
(ところで、次元のない空間はどんな空間なのだろうか。答は点であり、点は次元0で、それゆえサイズがない。)

 これら問いは目新しいものではないし、わざわざ参考文献を見なければわからないといった問いでもない。実際、私たちは既に幾何学を通じて点や線、そして面について考えてきた。だが、YesかNoかの解答とその理由は次のように分かれてしまう。

[解答1]
点には部分がなく、それゆえサイズがない。サイズのない点をいくら集めてもサイズが生まれるはずがない。点からスタートする限り、サイズの生まれる原因や理由がどこにも見当たらない。だから、「延長のないものから延長は生じない」、「何ものも理由なしに存在しない」といった形而上学の原理に従って、上の各問いについての答えはNoである。

[解答2]
区間[0,1]が0と1の間にある個々の点(=実数)からできているように、実数の集合は個々の実数を要素に含んでいる。点から線ができ、線は点に分解できる。線は点の集合であり、点は線の要素である。面や空間についても同様で、それゆえ、上の各問いについての答えはYesである。

*[解答1]の真意は「0をいくら加えても0のままである(0 + 0 +…+ 0 +…= 0)」という命題を思い起こせばわかるだろう。[解答2]は「サイズのない点を集めるとサイズ(長さ)のある線ができる」ことを納得できるかどうかが鍵となっている。

 もっともらしく見える二つの解答を示されると、私たちはいずれの解答が正しいのか、そしていずれが古典的世界観で認められている解答なのか迷い始める。二つの正反対の解答を見て、古典的世界観が明瞭に理解され、共有されているのではないことを示す証拠だと思う人もいるだろう。さらに、古典的世界観より古い世界観がまだ残っているからだ、あるいは新しい古典的でない世界観が侵入したからだと想像する人さえいるだろう。いずれにしろ、現在の正解は[解答2]である。

(問)0 + 0 +…+ 0 +…= 0という表現は一見何の問題もなさそうだが、どのような意味で「曖昧か」述べよ(加法の定義を思い出し、有限、無限の操作に注意してみよ)。

 どれかの問いにYes、別のどれかにNoと、問いごとに異なる答を出す人は僅かだろう。多くの人はすべての問いにYesかNoのいずれかを答える筈である。すべてYesと答える人の理由こそギリシャ人と私たち現代人を区別する古典的世界観の前提となっているもので、その理由の核心は「実数」概念にある。実数を使って線を解釈すれば、その線上の点は一つの実数値に対応することになる。例えば、区間[0,1]の中にあるすべての点を取り出し、再度集め直すことによって、その区間[0,1]を再現できる。つまり、区間[0,1]にある点を再びすべて集めれば区間[0,1]をつくることができるし、区間[0,1]を限りなく分割していけば点である個々の実数に到達できる。このように考える基礎にあるのは正に「実数、そして集合論による点や線の理解」である。具体的にどのように点を集めるか、どのように線を分割していくかの細部が曖昧だという漠然とした不安は残るが、点から線をつくることができ、線を分割し続ければ点に到ることは集合あるいは(集合論的な解釈を使った)実数に関する簡単な定理として証明できる。
*「細部が曖昧だという漠然とした不安」は、これら一連の操作が「構成的(constructive)」に可能か否かに関する不安である。この不安を重大な問題と考えた直観主義者は、不安は不確定なものの存在にあり、それを無視できないと考えた。私たちが数学的対象を具体的につくり出せるか否かという認識上の不安はあるが、それを無視することによってより広い範囲が射程に入り、広大な無限の世界を扱うことができると考えたのが通常の数学者である。既に、ユークリッド幾何学を図式を使った構成的な証明からなると考えるか、ヒルベルト形式主義に従って考えるかの違いを述べたが、「線を引く」ことと「線が存在する」こととの関係は、線を数学的に構成できるかどうかが判明しない限りきっぱり答えることができない。

 実数の性質は高校までに一応習ったことになっているから、それを覚えていれば答えはすべてYesとなる。さらに、ギリシャ人と私たちが違う答えをする理由も併せて説明できる。私たちのように実数を使って点や線を考えるならYesが答えとなり、少なくとも実数を私たちのように使わなかったギリシャ人なら答えはNoとなる。実数は連続体だが、自然数は離散的でしかない。これがYesとNoの違いを生み出している。

 これまでの話は直観的にわかりやすい。しかし、それを直観的にではなく、哲学的な理屈を与えながら、単なる話ではなく、理論化しようとすると相当に厄介である。また、既に登場した瞬間、連続、確定といった概念と解答がどのように結びつくのかも明瞭ではない。[解答2]の正しさが理論を使って誰もが納得できるようになるのに20世紀までかかったことからも、厄介だというだけでなく、多くの人の関心をかってきた興味深い問題であることも伺えるだろう。非古典的世界観が非古典的な物理理論(主に相対論と量子論)をもとに議論されて既に久しい。だが、それを支える非古典的な、新しい諸前提がどのようなものなのかは未だに判然としていない。それを思案するためにも古典的な諸前提の再分析は欠かせないだろう。その前に基本的な事柄を復習しておこう。

3 幾何学での点と線
 点にサイズがあり、延長をもつとしてみよう。その延長の半分も延長であり、かつ延長の半分は元の延長の一部分である。よって、点は部分をもつことになり、定義1に反する。それゆえ、点にはサイズがない。これは既に述べたことである。また、点にサイズがあれば線にもサイズ、つまり幅があることになる。だが、これは定義2に反する。よって、定義の1,2いずれからも「点にはサイズがない」ことが得られる。また、線を限りなく短くしていくと最後にはサイズのない点に至る。この<サイズの消失>を量から質への転換などと考えても何も得られない。量から値への転換なら有意義であるが…
 点に部分がないことから、サイズがないことがわかったが、そこに隠れていた前提は分割可能性である。自然に「サイズがあり、部分がない」ことは、自然に「サイズがあれば、部分がある」という主張と両立しない。ここでの違いは自然が「分割できない」ためである。原子論と全体論の関係を確認しておこう。原子論の下での原子の全体性と全体論の下での宇宙全体の全体性は異なっている。ユークリッドの定義を使った場合、原子が部分をもたないことから、分割性を使って原子がサイズをもたないことを証明できる。宇宙は当然サイズをもつ。しかし、それは部分をもたないというのが全体論の主張である。すると、原子論では「サイズがあれば、部分がある」という主張が正しいのに、全体論では「サイズがあって、部分がない」ことが正しい。この両立しない理由は原子論と全体論が異なることを主張しているというより、分割可能性が両者を分けているといったほうが適切だろう。分割可能性が成立する原子論ではそれを使って「サイズがあれば、部分がある」が証明されているが、全体論では全体は分割できないという主張から分割可能性が使えない。それゆえ、サイズがあるのに、「部分がない」と仮定しても矛盾は生じない。だが、分割可能性が使えないことの代償は想像以上に大きい。
ギリシャの原子論では「原子にサイズがあり、かつその原子は分割できない」ことが主張されている。上述の原子論とどこが異なるのか。上述の原子論では分割可能性が何の制限もなく成立することが仮定されているが、ギリシャの原子論、そして現代の原子論では分割可能性に制約がある。

夢の島公園の風景:自然と不自然

 人の都合と植物の都合が同じ筈などないのだが、それら都合が織りなした中間報告が今のところの夢の島公園の景観である。公園は2020年のオリンピック・パラリンピックに向けて今は改造中。外来植物、園芸植物の自然への介入が公園のあちこちに見られ、不思議な植生を目撃することができる。人はそれを間接的な自然破壊、自然侵入、自然破壊などと呼んでもきたのだが、その自然さが人々を寛がせてくれる。植物学や博物学の明暗が混り合い、園芸という文化の象徴がいつの間にか自然化、野生化しているのである。
 私たちが「自然(Nature)」と呼ぶものは本当に自然なのか。自然の景色、風景、景観と呼ばれるものは実は相当にいい加減なもので、ほとんどは不自然なのだが、にもかかわらず、擬似自然でも自然であることに違いないことを見事に示してくれる。その典型例の一つが正真正銘人工の埋立地である夢の島公園である。埋立地といえば、東京の下町の多くが埋立地につくられてきた。夢の島は謂わば新参者の埋立地であり、「人がつくった自然」としか呼べないのであるから、文字通りの自然ではないのである。だが、誰も不自然、非自然とは呼ばず、見た目は自然そのもので、公園には見事な森林さえつくられている。実際、私たちの自然認識などいい加減なもので、本物の自然を風景として見た人などごく僅かで、車窓から眺める自然のほとんどは人の手が入った自然に過ぎない。その上、人は人によって変えられた自然の方を好むようなのである。埋め立て地だと居直り、自然擬きを演出し、人心を誑かすのも悪くないと算段し、東京都と江東区は広大な緑地を自然であるかのように造り直した。自然を造成する際、人の錯覚を見事に応用し、自然を再生したのである。造園とは擬似自然の造成だったのだが、それを忘れれば、私たちは人のつくった自然を自然として満喫でき、実際観光はその擬似自然を利用しているのである。
 公園も庭園も人工のものだが、そこにある樹木、草花、土や水は当然自然のものであり、それらを材料として人がアイデアやプランを駆使して、自らの自然の表象として公園や庭園を実現するいうことになる。人が深山峡谷を見ることでさえ、私たち人が見るという知覚や認識の人工的な操作が入ることによって成り立っている。つまり、自然を認識する、表象することは自然が人工的なものになることを意味している。私たちに見られない、表象されない自然こそが文字通りの自然なのだと思えば、誰にも見られていない自然を一心不乱に探し求める気持ちがわかるというものである。
 自然には色々なものがある。公園は樹木、草花、土壌、建物等々からなっていて、それらは基本的に自然のものからできている。材料としての構成要素はみな自然的だが、それら構成要素に人の手が入り、自然にはないものをつくり出すことによって、不自然な世界がつくられることになる。では、私たちは本当に「自然」を認識できるのか、自然を知覚できるのか。何が「自然的」なのかわからない限り、その自然を知覚したり、意識したり、認識したりはできない相談である。「自然」は思案を重ねて私たちが生み出す概念であり、私たちにとって所与のもの(the given)などではないのである。そんな思弁的な話に没入する前に、現実を確認してみよう。

 江東区の「夢の島」は、東京湾埋立14号地のうち、湾岸道路より北の部分。夢の島公園が大部分を占める。14号地のうち湾岸道路より南は新木場。北は夢の島大橋で新砂と繋がる。西は曙運河を挟んで辰巳、東は荒川を挟んで江戸川区臨海町。埋立当時、飛行場が建設される予定だった。戦後間もない頃には遊園地などが計画され、海水浴場として人気があった。そのせいか、「夢の島」と呼ばれていた。これが自然と定着したためか、1969年には正式な行政地名としてこの名が採用された。
 1950年代、東京都内でごみが増え始め、それに対応するため東京都は夢の島をごみ処分場にし、埋め立てが開始された。それ以降、1067年まで埋め立てが続いた。1965年夢の島で発生したハエの大群が強い南風にのって、江東区南西部を中心とした広い地域に拡散し、大きな被害をもたらした。埋め立て終了から11年後の1978年、東京都立夢の島公園が開園。現在ではスポーツ施設が建設されるなど緑の島として生まれ変わった。
 公園には夢の島陸上競技場、陸上サブグランド、夢の島熱帯博物館、東京スポーツ文化館、地区の東端近くには新江東清掃工場、夢の島マリーナ、少年野球場などがある。それら施設の間にはユーカリやアメリカ・デイゴの大木が仲良く並んでいる。また、第五福竜丸展示館があるが、2018年7月1日から2019年3月31日まで改修工事のため休館する。2020年の東京オリンピックパラリンピックではアーチェリー会場になる。

 夢の島公園は昭和の雰囲気が漂う不思議な「異自然空間」なのかもしれない。熱帯植物園ではなく、熱帯博物館という名称の巨大なガラス館、最新のボートが係留されているマリーナ、ビキニ環礁被爆した第五福竜丸の昭和丸出しの展示、多くのスポーツ施設が無理やりでも収まった夢の島空間には多くの樹々と草花が自然擬きを生み出し、人々はその擬似自然を存分に楽しんでいる。熱帯の樹々や草花から寒帯の植物まで、植生など気にしなければ、妙に穏やかで心和む自然になっているのである。
 夢の島公園は周りの公園を含め、「自然とは何か」を不自然の中で考える最適の場所なのである。