e-myoko 「妙高を知る」1

妙高の風景

 

 「妙高」という言葉は私たちがふるさとに想いを馳せる際のキーワードになってきました。私たちは「妙高」に何を託し、何を期待してきたのでしょうか。私たちが妙高をどのようなものと想っているかを振り返り、妙高の未来をつくるための助けにしたい、それがこのエッセイを書く動機です。

 妙高市には国立公園が含まれています。しかも、2015年4月には上信越国立公園から妙高・戸隠地域が分離独立することが決まっています。妙高一帯が国立公園であることの意味は何なのでしょうか。国立公園とはそもそも何なのでしょうか。私たちが自然の風景に魅了されることはいつ、どのように始まったのでしょうか。

風景や景色とは一体何なのかを考え、それを基礎にして観光や公園について思いを巡らし直すのも一つのやり方ではないでしょうか。そこで、普通は考えることもない風景、景色、景観といった概念が何かを探ってみることからスタートしてみましょう。そして、妙高がもつ素晴らしき自然の「景色や風景」とはどのようなものか改めて考えてみましょう。

 

1景色や風景とは何か:景色や風景について哲学してみよう

 景色や風景について、少々哲学的な観点から眺めてみましょう。二つの古典的な例を通じて「見える景色、風景」についてどのように理解すべきなのか、その肝心の部分を考えてみましょう。人は優れて「見る動物」ですが、見ることそれ自体は実に含蓄のある行為で、大変人間的なのです。

1.1知覚の風景

 次の文章は全て引用です。「今眼に見えているもの」を知覚像と言いますが、それがどのようなものか以下の文章を読んで考えてみて下さい。

 

私がいま海岸に立って青い海の上を帆に風を一杯はらんで走っているヨットを見ているとする。私は首を横に廻して、今度は砂浜で石をひろっている子供たちを見る。知覚像の点からみれば、私が首を廻して砂浜をみた瞬間に海やヨットの知覚像は消失して、その代りに砂浜の子供たちの知覚像が生じるだろう。勿論、そのときの知覚像も一つの風景として生じるけれども、このばあい、前の風景は消失し、後の別の風景が見えているのである。更に私が後をふりむけば松林とその背後の緑の山々が私の新しい知覚の風景としてあらわれてくる。しかし実際には、私はこれら三つの別々の風景を別々に見ているのではない。最初に見ていた海上の知覚の風景は私が首を廻して砂浜の子供たちを見たときには知覚の風景としては消失しているけれども一瞬前に見ていたものの記憶のイメージとして残っており、この記憶のイメージによって補填されたより広い全体の風景のつづきにある砂浜の子供たちが、現在の私の知覚の風景となっているのである。さらに後をふりむいて松林やその背後の山々の風景を見ているときにも、海やヨットや砂浜や、そこに遊んでいる子供たちの風景は記憶のイメージとして私に現前しており、新しい松林やその背後の山々の知覚の風景の周囲の風景を補充することによって全体としての、今私が立って見廻している海岸の風景を形成しており、このような私を取巻く風景のなかに私は自分自身をおいて見ているのである。私の知覚の風景は部分的であり、断片的にすぎないが、私のイメージの風景はそれらを補填し、つなぎ合わせて私をとりまく環境の全体の風景をつくり上げているのである。[1]

1.2風土

 『風土-人間学的考察』(岩波文庫、1979)は和辻哲郎の名著です。これは和辻の倫理学に基づいて風土と文明の関係を考察した本です。20世紀を代表する哲学者ハイデッガーは「存在とは何か」という問いを発し、現存在としての人間存在を分析し、『存在と時間』を著しましたが、若き和辻はそれに強い衝撃を受けます。人は自らの存在について知っていて、自分に過去や未来があり、いつか死ぬとわかっています。ハイデッガーは、そうした人間の現存在を時間との関わりの中で論じ、存在の意味を時間の中に見出そうとしました。でも、和辻はこれに異を唱えます。人間存在は単に個人として生き、また死ぬのではなく、社会的な存在であり、他者と交わる空間の中で生きています。それゆえ、人間の存在は、時間性とともに空間性からもとらえる必要があるというのが和辻の考えです。簡単に言えば、「時間性とは歴史的、空間性とは風土的」ということです。そこで、和辻は人間存在の空間的な考察のために風土の研究を行いました。その成果が1935年に刊行された『風土-人間学的考察』なのです。

さて、和辻の「風土」とはどのようなものでしょうか。物理的な自然環境ではなく、風土は主体的な人間存在の表現であり、人間の自己了解の仕方です。何だか難しそうですが、例えば、寒気は、私たちの外に実在し、私たちに迫ってくる物理的なものではなく、私たちが寒さを感じ、私たちがそこに寒気を見出すのです。また、私たちは、他人と同じ寒さを感じ、共通の経験を持つことができます。寒さの感じ方自体が、間柄的で共同存在的です。「だから」と和辻は述べます。「寒さにおいて己れを見出すのは、根源的には間柄としての我々なのである」、「すなわちは『風土』において我々自身を、間柄としての我々自身を、見出すのである」と。要は、寒気は低温の気体のもつ物理的な性質ではなく、私たちが共同して持つ心理的で、文化的な性質だということです。[2]

さて、「人間の存在は歴史的・風土的なる特殊構造を持っている。この特殊性は風土の有限性による風土的類型によって顕著に示される」と和辻は述べます。そして、風土をモンスーン、沙漠、牧場の類型に分け、さらに、東アジア、南アジア、西アジア、ヨーロッパの風土的特性と民族・文化・社会の伝統的特質の関係について考察します。和辻は、日本の風土をモンスーンの特殊形態であるとします。モンスーン型は、インドから東アジア一帯に見られるもので、暑さを素直に受け入れる受容的な性格と、大雨による災害にもじっと耐える忍従的な性格を特徴とします。日本はユーラシア大陸と太平洋の間にあり、極めて変化に富む季節風が吹き、夏には台風が突然来て大雨をもたらし、冬は大雪をもたらします。言い換えると、日本の風土は、熱帯的とともに寒帯的であり、また季節的でありつつ突発的です。こうした気候の影響により、日本人の国民性には、モンスーンの受容性・忍従性に、熱帯のあきらめ、寒帯の辛抱強さなどが加わっていると和辻は考えます。同じようにして、和辻は様々な民族について、風土的特性との関係を考察します。これは、風土と文明の関係を論じ、文明の中核である精神と風土の関係を明らかにしようとしたものです。さて、和辻によれば、人間存在は時間的と同時に空間的存在であり、歴史的・風土的な特殊構造を持っています。それゆえ、地球上の地理的条件による風土の多様性が諸文明の多様性の基礎となっている、これが基本テーゼということになります。

1.3風景や風土とは?

 私たちは日常生活で物の形や色を断片的に見ているのではなく、まとまりのある風景を見ています。ですから、私たちの知覚像は風景なのです。木を見ているだけでなく、野原にある木や庭にある木を見ています。それら知覚像が風景の基本になって、眼を転じることに応じて刻一刻と変わる知覚像は記憶のイメージによって補填されて私がその中で暮らす環境全体の風景をつくり出しています。雑多な知覚像の集まりは記憶や知識に助けられて一幅の風景画のように景色や風景として認識されるのです。それが風景だと述べた沢田は私の師であり、哲学の先輩でした。そして、この環境全体を空間的に、そしてより俯瞰的に風土と捉えたのが和辻でした。さて、「ふるさと」を沢田の「風景」や和辻の「風土」を使って見直してみるとどうなるでしょうか。私たちがふるさとの景色、風景、あるいは情景として思い起こすのは、沢田の知覚の風景、和辻の風土を土台にして、見られ、感じられ、思い起こされる自然、街並み、行事などです。物理的な自然に私たちの生い立ちが融合し、土地と歴史と文化を含んだものが私たちの心の風景として醸成されていて、それが「妙高」という言葉に象徴されているのです。私たちが思い出す妙高山は宙に浮かんだ山ではなく、風景の中の妙高山なのです。

 では、私たちはどのように先人の風景を受け継ぎ、そこから自らの風景を生み出してきたのでしょうか。哲学的な能書きはこのくらいにして、歴史的に日本人の景色や風景を見直してみましょう。

 

2知覚から風景へ:日本人の景色、風景、景観

 以後の話に関連する基本的な英語の語彙を先に説明しておきます。土地全体の景色はscenery、個々の眺めは a view、a scene、陸地はa landscape、海はa seascape、美しい景色a picturesque(charming, lovely)viewです。景色、風景、景観の三つの言葉は基本的には scenery の意味を持っているのですが、風景は単純に目で見えるものだけではなく、社会構造の様子、という意味で用いられることがしばしばあります。「中世日本の風景」と言うと、中世日本の自然や建物についての話ではなくて、「中世日本の社会構造」を意味することになります。景色/景観はほぼ scenery の意味だけを持っていますが、景色の方が日常語です。景観は非常に文章的な表現で、公的な印象があります。「京都の景観保護政策」のような単語/文脈では、景色ではなく景観が用いられます。

 景観に関わる最初の言葉は「けしき」です。「けしき」、「気色」、「景色」などと書かれます。中国から入ってきた「気色」は平安初期に「けしき」という大和言葉になりました。近世になり、「景色」という漢字が使われるようになります。「風景」も中国からの輸入で、普及するのは明治以降、今でもよく使われています。「景観」は明治時代にLandshaft(ドイツ語)、Landscape(英語)、Paysage(フランス語)の訳語として登場します。以後「景観」は学術用語として使われ、1980年代以降は行政の流行語として重宝されています。

二つの「けしき」

「けしき」の最初の意味は、ものの外観や有様とそれから受ける感じです。外部の様子とそこから受ける印象を表現する言葉として「けしき」が使われてきました。例えば、「風雲のけしきはなはだ悪し」(『土佐日記』)とは、天候が悪くなってきた状態とそこからの印象の両方が表現されています。現代文でも「初冠雪の妙高の景色を見ると心が洗われる」という表現には妙高の姿とそこから受ける印象が見て取れます。「けしき」のもう一つの意味は、「心の内面の状態や様子」です。「院の御けしきのいといみじきなり」(『源氏物語』)というのは、院のご気分が大変すぐれていることを表現しています。人間の表情や気分を表現するのが「景色」だったのです。自然と心の状態を表す「けしき」は次第に分かれ、最初の意味は「景色」に、もう一つの意味は、「気色」(キショク)になっていきます。「キショクが悪い」という表現は今でも普通に使われています。

オギュスタン・ベルク(フランスの地理学者)は「景色として山を見るから山の景色があるのだ」と言いました。「山があるから山の景色があるわけではない。景色として山を見るから山の景色があるのだ」と。[3]今では山河を景色として鑑賞することに何の不思議もありませんが、西欧人がアルプスなどの高山を景色として眺めるようになったのは18世紀に入ってからのことです。景色は意識的に見る見方があって初めて見えてくるのだというのがベルクの主張です。最初から景色があるのではなく、それを見る私たちが景色を生み出すのです。民族、地域、時代などに応じて、異なる見方が存在し、その見方の違いによって世界に様々な景色があることになります。[4]

景色は見方をもち、その見方が違うと、見える景色も違ってくる、これは大袈裟な謂い方をすれば、認識論そのものです。景色は現象であり、現象は認識の仕方をもち、その認識の仕方が違えば、現象も異なったものとして認識される、つまり、現象は認識することによって生み出されるのです。景色は私たちの認識の仕方に応じて、異なる景色として生み出されてきたのです。

日本人の景色とその誕生

では、日本では景色はいつ誕生したのでしょうか。例えば、「さい川よ 雲たちわたり うねび山 木の葉さやぎぬ 風ふかんとす」(『古事記』、イスケヨリヒメ(神武天皇の妃))は、川から雲がたちわたってきて、うねび山の木の葉がざわざわと動きだし、今まさに風が吹こうとしている微妙な瞬間の景色を適確に捉えています。

大和絵は景色を美しく表現しますが、それがいつごろから描かれていたのでしょうか。あるいは、自然の風景をデザインした日本庭園はいつごろからつくられるようになったのでしょうか。日本で景色が誕生したのは、600年代、あるいは500年代にまで遡るのではないかと推察されています。日本人が大切に生み育ててきた景色を以下に挙げてみます。

(1)草木ものいふ、神々と祭礼の気色

まず、「草木ものいふ気色」は、「景色」になる前の世界です。『日本書紀』には「草木ことごとく能(よ)く言語(ものいふ)ことあり」とか「巖根(いわね)木の株(もと)、草の葉もなほ能(よ)く言語(ものいふ)」という表現が出てきます。自然が話していたというのです。これはキリスト教とは違う原始的な宗教の姿を表しています。古代の日本人は森羅万象に神が宿っているというアニミズムを信じ、自然の世界と人間の世界を分けて考えていませんでした。そういう多くの神々を迎えてもてなすのがお祭りです。戸隠の大杉にしめ縄が張ってあるのは、大杉そのものが神様だからです。奈良の春日山三笠山)は昔から神様がいると考えられ、「神奈備山」と呼ばれていました。山の麓には、春日大社などの神社が祭られ、年ごとにこの山から神様を里に迎えるお祭りが行われます。[5]また、鎌倉時代初期の絵巻物を見ると、神様の巡行行列を多くの人々が見物している姿が描かれ、お祭りは都市の景色になっていました。

(2)自然のけしき

文献を見ていると、高い所に登り、自分の住んでいる所の景色を褒める歌がたくさん残っています。これを「国見」と言いますが、古来よりよく行われていました。また、西行の『山家集』には次の歌があります。

「ねわたしに しるしの竿や立ちつらむ こひのまちつる 越の中山」 (吹きわたる風が雪を運んだので、木挽の入山を待つ越のなか山では、峰から峰へ竿を立てたことであろう。雪に埋もれた山路の目印として。)

この歌の「越の中山」は妙高山と考えられています。「中山」を「名香山」と書き表し、それを音読して「妙高山」になったという説があります。でも、異説もあるようで妙高山と断定するだけの資料はありません。「妙高山」とは、仏教の説く世界観の中で、世界の中心にそびえ立つ山という意味があることを注5で述べました。

昔の日本人は自然の世界と人間の世界を分けていなかったと言いましたが、都市も自然と一体のものだと捉えていたようです。一方、西欧人は、都市は人工的なもの、田園や緑地は自然のものと捉え、両者の間に明確に線を引きます。ヨーロッパの都市は人間の秩序でつくられた人工的な社会で、その外側にあるのが自然です。自然と一体化しようというかつての日本人の欲求は、自然と社会を分けることを拒んできたのです。

(3)四季、月並、名所

「四季や年中行事のけしき」こそが「景色」だとほとんどの日本人が思っています。持統天皇の有名な歌「春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干したり 天の香久山」は夏の到来を見事に表現しています。白栲の衣が山に干されているのを見て、夏が来たことを謳っている歌です。白栲の衣はけしきの変化を象徴し、天皇が自ら夏が来たことを祝福する歌を詠うことによって、季節の変化を告げたのではないかと思われます。ですから、景観計画を立てる場合、四季や行事が大切で欠かせないものということになります。

歌に詠まれた名所を「歌枕」と言います。そこを訪れて、歌に詠まれた景色を懐かしみ、故人を偲んで感動を新たに自分もそこで歌を詠むという習わしがありました。それが普及し、私たちもその文化を共有することによって日本の自然を理解してきました。西行や芭蕉は旅の文学者ですし、信濃には小林一茶がいます。歌枕を訪れ、古い歌に共感しながら、自らの歌を詠んでいくというのが日本独特の文学の伝統です。これは、西洋人の自らの独創性を重視する文学観や芸術観とは違うものです。自然と文化の区別がなく、自己と他者の区別も曖昧な日本独特の世界がここにあります。

名所の景色はやまと絵として描かれ、障子絵や屏風絵という形で残されています。やまと絵の画題は三つあったようです。 一つは、「四季絵」です。それから、「月並絵」は1月から12月までの行事の景色を障子や屏風に描きます。最後が「名所絵」で、「住吉の浜」など有名な場所が描かれます。この三つがやまと絵の画題ということは、日本人は風景をこの三つで捉えていたということになります。四季、月並(年中行事)、そして名所。この三つが「日本人にとっての景色」だったのです。

(4)洛中の景色

洛中(都市)の景色がいつごろから描かれるようになったか、まだ定説がありません。応仁の乱後の京都の絵を描いた「洛中洛外図」[6]は、1500年代にいろいろ描かれました。その絵を見ると、京都の四季と年中行事、それから、京都の名所も描かれています。もう一つ重要なのは、町の中を描いているということです。京都の町並みとそこでの人々の活き活きした生活が描かれていて、これは今まで描かれることがなかった主題です。初めて町の景色が登場し、家と店と通りの一体化した関係が生き生きと描かれ、それらが日本の町の原型、原風景となったと思われます。

京都の町は、非常に小さい単位で店が並んでいて、これが京都の通りの魅力になり、町のにぎわいをつくり出しています。絵図で見ると、町の中にたくさん木が生えていて、坪庭や前栽になっています。京都の人たちは、「市中の山居」と言って、町の中で山住まいをするのが好きでした。坪庭や前栽が町の中にあり、郊外にも山や川があり、そこには多くの人でにぎわう社寺などの名所が点在していました。

風景の発見=国立公園

18世紀に西欧の人たちはアルプスの山々を見て、それを美しい景色だと思ったと述べました。では、彼らはどのようにしてアルプスの風景を「発見」することができたのでしょうか。そこには地質学と植物学という二つの学問を中心とする自然史(natural history)の発達があったと言われています。[7]どうしてアルプスができたのか、という自然への好奇心は地質学的な研究を推進し、人々はアルプスの自然に関心を寄せるようになります。それから、植物の分布も、低地から高地に行くにしたがって変わっていきます。それらへの関心の高まりが一般化し、普通の人々も山に登っていくようになります。さらに、この時代は西欧で崇高美に関心が持たれるようになったと言われています。学問とこの新しい美学があって、アルプスの風景は自然の聖堂や祭壇のように考えられるようになります。

日本にもそのような知識が入ってきて、日本アルプスが「発見」されます。それまでは信仰の対象以外には関心を持たれなかった山々が、日本アルプスという形で意識されていくようになります。そして、登山家のメッカになるのです。山岳信仰からではなく造山の科学的な知識を使って妙高を見ればおもしろいわけです。そういうおもしろさは、ヨーロッパ人がアルプスの風景を「発見」したのと同じで、科学の発展があって、それで初めて自然環境が「風景」になっていったのです。信越の山々や野尻湖なども地学や古生物学の知識があってこそ、おもしろいのです。[8]

生活環境の景観

高度成長期が過ぎると「生活環境の景観」が注目されるようになってきます。公害問題がきっかけになり、水質汚染、騒音、大気汚染など身近な生活世界を大切にするようになります。自然保護、歴史的遺跡の保存など、高度成長の環境破壊に対抗する形で様々な活動が市民レベルで出てきます。日本中で景観条例などができていくのもこの時期で、1970年代から80年代のことです。この時期に「景色」あるいは「風景」という言葉の代わりに「景観」という言葉が使われ出します。街路の景観、都市の景観といった言葉は、身近なものの物質的な整備に関心が向いていった時期であることを示しています。従来の「景色」や「風景」は、自然の景色、風景を意味していたのに対して、「景観」という言葉には自然というイメージが希薄です。「住宅地の景色」という表現より「住宅地の景観」と言った方がスマートな感じがしたのです。

自動車が普及すると、道路の拡幅が必要になります。でも、両側の建物を壊さない限り、道路を拡幅できない、では壊そうということになり、古い町並みが日本中から消えていきました。こういう町並みを保存しようという運動が出てきて、古い城下町の町並みや近代化の遺産と言われる古い建物が保存されるようになっていきます。また、大都市では歩行者に対する配慮が進められ、広場や広い歩道が整備されていくことになり、それが日本中に広がっています。親しめる川にしようと川岸が整備され、親水公園がつくられていきます。水辺には桜が植えられ、ホタルも再生していこうということで生態的な配慮をした河川整備が行われました。[9]

 

3大自然への気づき:雲

 自然に気づくことの具体例となれば、景色や風景に気づくことです。ものに気づくだけでなく、環境や外部世界に気づいた結果を表そうとして、私たちは「景色」、「風景」、「景観」といった言葉をつくり出しました。それらの言葉は「自然」や「世界」という言葉とは明らかに違っています。自然や世界は気づかれるのではなく、気づかれる対象として存在しているのですが、景色や風景は認識された自然や世界であり、そこには私たちの知識や記憶、そして経験が色濃く組み込まれ、知覚像や世界像とも呼ばれ、視点や観点を含む主観的なものです。

 竹田直樹さんは「日本における大自然の風景の発見-「雲」を手がかりにして」[10]で以下のような主旨の主張をしています。彼の意見を紹介しながら、そこに私の考えも付け加えてみましょう。

 アマゾンのジャングル、流氷が漂う北極海、地平線の彼方まで広がるアフリカの砂漠…こんな大自然の風景は実際に見たことがなくても、テレビや写真などを通じて私たちの日常に入り込み、ありふれた映像になっています。私たちはそれら風景に関心をもち、稀少な風景と捉えます。では、これら風景に対する関心や価値観がいつごろどのようにして生じたのでしょうか。人為が及んでいない未開の風景は人類の生活に不都合で、ユートピアの風景とはいいにくく、最悪の風景と捉えられたとしても不思議はないはずです。極地や砂漠や熱帯雨林などの秘境の風景が関心をもたれるようになった背景には、一体何があったのでしょうか。アルプスの風景が美しいと認識されるようになったのは18世紀前半で、それまでアルプスキリスト教の教義の下で地球のイボやオデキのようなものと考えられていました。アルプスの風景が美しいものとなった背景には宗教、科学、哲学の諸分野での知識の革新、考え方の変化があります。大自然の風景の発見もこの延長線上にあります。  万葉の時代から日本人は、生活空間やその周辺の身近な自然に深い関心を示しながらも、奥深い山岳、高原などの大自然の風景は無視されていました。日本における大自然の風景の発見はヨーロッパの発見を待たねばなりませんでした。19世紀前半のヨーロッパでも極地などの秘境への旅行はまだ始まったばかりで、秘境の大自然はまだ想像の域を出ませんでした。でも、ロンドン、パリのような都市で暮らす人々の目の前にも大自然がありました。それが雲だったのです。

 色や形を変えながら流れて行く雲は、たしかに人為の及び難い神秘的な大自然の一部のように見えます。18世紀末までのヨーロッパの空は神聖な領域であり、天使の住む世界だったのです。絵画の雲も宗教画や歴史画の余白に僅かに描かれるにすぎず、イタリアやオランダでは17世紀に入ると風景画が台頭してきますが、ここでも雲が綿密に観察されて描かれるようなことは稀で、雲は絵画の対象ではありませんでした。  ところが、美術、文学、科学の分野において同時発生的に雲に対する熱狂的とも言える関心がイギリス、ドイツで突如高まります。まず、イギリスの気象学者のルーク・ハワード(1772-1864)は、「雲の変容について、またその生成、浮遊、消滅の法則について」という論文を1803年に『哲学雑誌』に連載し、予想外の反響と評価を受けます。雲は巻雲、積雲、層雲などに分類された上で、神と無関係に生成や消滅することが明らかにされました。ゲーテはこの論文に刺激され、雲の研究に熱中するようになり、「ハワードによる雲形」や「ハワードへの敬慕」と題する詩を書き、1817年に雑誌『自然科学一般のために』に公表します。こうして、ハワードの研究はゲーテを介してドイツ・ロマン派風景画家に知られ、大きな影響をもたらすことになります。その一人カスパル・ダーヴィト・フリードリヒ(1774-1840)は、1807年から1810年にかけて、「山上の十字架」や「海辺の修道僧」など、画面の半分を超える面積に空と雲を描いたドラマティックな風景画を発表していましたが、例えば1820年の「漂う雲」では風に流されながら形を変える山上の雲自体を描き、雲への関心はますます高まっていきます。一方、イギリス・ロマン派風景画家の中で、雲を最も多く描いたのは、「私は雲の男です」と自称したジョン・コンスタブル(1776-1837)でした。コンスタブルは科学的な視点から雲の正確な描写を追求し、そのスケッチには日時、天候、風向、風力などのデータが記録されました。コンスタブルは1820年代に膨大な量の雲の習作を描き、それらは科学的にも正確この上ないものでした。そして、イギリスを代表する画家ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775-1851)もまた、雲を主たるモチーフとしました。ターナーの1820年代から40年代にかけての多くの作品には光に満ち溢れたダイナミックでリアルな雲が漂う空が描かれています。

 なぜ人々は雲に魅了されてしまったのでしょうか。まず、当時の社会状況を把握しておく必要があります。1761年のルソーの『新エロイーズ』や1786年のゲーテの『イタリア紀行』において、アルプスの風景が賞賛され、18世紀半ばに入るとそれまでキリスト教教義の下で魔界だと考えられ、嫌われていた大自然は人々にとって関心の的になっていました。またこの時期、地質学が大きく前進し、岩石から推測した地球の歴史が、聖書に示されたものより大幅に古いことが判明します。聖書の天地創造は、当時「紀元前4004年10月22日の土曜日」とされていましたが、地質学の発展は聖域であった聖書の歴史を塗り替え、キリスト教の価値体系を根底から覆す推進力になりました。16世紀のコペルニクスの地動説、17世紀のガリレオの天体観測など、それまでにもキリスト教の権威を揺るがす科学的事件があり、それらはその都度なんとか封じ込まれてきました。18世紀後半に入ると、教会は科学が次々にもたらす新たな知見に簡単に対処できなくなり、19世紀初頭のこのタイミングに、ハワードの雲の論文が発表され、人々はそれに飛びついたのです。

 では、画家や文学者は雲を描くことにより何を表現したかったのでしょうか。フリードリヒは、その鋭敏な感性によって荘厳な自然景観の中で、大気、雲、植生、花崗岩に内在する「至高の創造主」すなわち神と交感し、コンスタブルは自然の生成力が織りなす調和を眼前にして、「神-人間-自然」というキリスト教的構造を超越した奥深い自然法則を認識しようとしました。ゲーテは汎神論者であり、ゲーテにとって雲は霊的なものが映し出されたものでした。ゲーテもまた前述の画家たちと同じように雲の中に「神」を見たのです。当時のロマン派の画家や文学者は、大自然を精密に描写することに価値を見出しました。科学という新たな領域が発達し、雲はもっとも身近な大自然として人々の心を捉えたのです。雲が注目されるようになる背景には、科学の台頭とそれにともなうキリスト教の動揺がありました。そして、今日のヨーロッパの人々が雲を見てその美しさに感動するとすれば、そのきっかけは19世紀前半のロマン主義にありました。これは、雲についてだけでなく、秘境の風景など大自然の風景全般に対しても言えることです。   

では、日本では、雲はどのようにとらえられてきたのでしょうか。清少納言(966‐1025?)は「枕草子」の中で、「春は曙。やうやうしろくなりゆく山際、少しあかりて紫立ちたる雲の細く棚引きたる」「雲は白き。むらさき。黒きもをかし。風吹くをりの雨雲」「月のいとあかきおもてにうすき雲、あはれなり」などと書いています。文学において雲は様々に述べられてきましたが、19世紀までの絵画や版画では雲は背景の文様に過ぎません。雲をリアルに描いた画家の一人が葛飾北斎(1760-1849)です。北斎は「富嶽三十六景」のうち「凱風快晴」(通称「赤富士」)に波状高積雲を精緻に描きましたが、この作品は1831年から1835年頃のものです。これはロマン派が雲を描いていた時期と完全に一致し、北斎はその頃から遠近法やヨーロッパの顔料を使用していることなどを考えると、ロマン派の影響があった可能性を否定できません。ターナー北斎は同じ頃に雲を同じように観察していたことになります。  ヨーロッパで雲の美しさが発見されたのは18世紀末から19世紀にかけてですが、日本でも1898(明治31)年から1900(明治33)年頃にかけて、浅間山山麓で始まっていました。ラスキンが1843年に刊行した『近代画家論』が読まれ始めていて、徳冨蘆花(1868‐1927)と島崎藤村(1872-1943)は、ほぼ同時期にお互いそのことを知らずに、ラスキンの「雲の真実」に触発されて雲に関する文章を徳冨は伊香保で、島崎は小諸で書き始めます。徳冨は1900(明治33)年8月に刊行した『自然と人生』の中で、島崎は同年同月に刊行された雑誌『天地人』に「雲」というタイトルで公表しました。

画家の大下藤次郎、武内鶴之助たちもまたラスキンに触発されました。大下は1904年に、地平線を画面の低い位置に設定し、画面いっぱいに穏やかではあるがアクティブな雲を生き生きと描いた「秋の雲」を発表し、武内は1911年に、灰色の雲間からわずかに水色の青空が垣間見える画面全てが空からなる「雲」を発表しています。それらは、まさにフリードリヒやコンスタブルの日本版です。これらの画家の中で特に重要なのが大下(1870-1911)です。大下は1905(明治38)年に、水彩画の団体会派「春鳥会」を創設するとともに、美術雑誌『みずゑ』を創刊し、現在、雑誌『美術手帖BT』を刊行する美術出版社を創業するなど、美術界に重大な足跡を残しただけでなく、森鴎外、志賀重昻、小島鳥水、田山花袋柳田国男国木田独歩などと広く交遊し、当時の文化に大きな影響力を持っていました。大下は当時の日本の秘境といえる、磐梯山上高地、尾瀬、甲州白峰(白根三山)、十和田湖などを周り、風景画を描きました。それらはロマン主義的な精緻な風景画で、自らの『みずゑ』に掲載し、広く知られるようになります。大下は1908(明治41)年に臨時増刊号『みずゑ』44号において、自らの風景画を掲載した尾瀬の特集を組み、尾瀬が広く知られることになります。  日本人はヨーロッパ人と異なり古くから雲の美しさを楽しんできました。しかし、ヨーロッパ人が19世紀初頭に発見した雲の美しさに20世紀初頭の日本人が鋭敏に反応した事実は、両者の雲に対する認識の仕方が異なることを示しています。19世紀までの日本の雲と20世紀以降の日本の雲の美しさは違うのです。清少納言が見た雲は伝統的な日本の雲であり、徳冨蘆花島崎藤村、大下藤次郎らが見た雲はそれとは全く異なるロマン主義の雲だったのです。そして、今日私たちが見ている雲もまたロマン主義の雲であり、そのロマン主義が、私たちに尾瀬や妙高のような大自然の風景を美しいものとして認識させる原動力になっているのです。

大木藤次郎 「秋の雲」1904(明治37年)島根県立石見美術館蔵

 

4公園:都市の公園、自然の公園

 これまで随分と遠回りしながら、景色や風景についてあれこれ考えてきました。やっとゴールに近づき、いよいよ本題である公園に到達しました。ここからが妙高に直接かかわる事柄です。

公園という概念

公園は一定の区域で自然の景観を保全育成し、人々の野外レクリエーションに使われるようにつくられた公共的な土地です。国や公共団体が設定し管理することになっています。公園を意味するパーク(park)はイギリスの王侯貴族が独占的に使用していた狩猟場や大庭園を意味していましたが、封建制度が崩壊するとともに、市民の要求によって一般に開放され、パブリック・パーク(public park)が生まれました。[11]

公園の歴史

公園は都市の施設として生まれ、都市とともに発達してきました。人々の共同の広場として生まれた公園は、都市の発達とともに成長し、重要な公共施設として多様な目的に応じて様々な形態がみられるようになり、防災、避難などの保安機能も持つようになってきました。20世紀に入り、都市計画や造園の立場から公園の類型化が行われるようになりました。1915年ドイツの都市計画学者マルティン・ワーグナーが、都市の自由空地論のなかで、(1)砂遊び場、(2)腰掛け場、(3)学校遊戯場、(4)野遊び場、(5)運動場、(6)遊歩道、(7)大公園、(8)都市林、の8つに都市の自由空地を分類し、市街地近郊にある都市林に都市計画上の施設として自然公園的な役割をもたせました。さらに、翌1916年にはアメリカの造園学者ジョン・ノーレンもその著書City Planningにおいて同じような公園の分類を行っています。1928年にはウェアーが名著Parksのなかで、アメリカの公園の体系的分類を試みていますが、これはいまだに公園に関する基本的指針を示すものと考えられています。

大都市がつくられ、都市にある公園のもつ意義、役割が重要になる一方、野外レクリエーションに対する市民の要求によって、都市近郊の自然風景地に公園的機能をもたせるようになります。その典型的な例は、19世紀末からアメリカで始まる大都市地域計画に伴う大都市地域公園体系(metropolitan park system)の考えです。ボストン、ニューヨークなどで、都市地域内の色々な公園とともに、都市近郊の自然地域に設定される郡立公園(county park)などを一つの公園体系のなかに組み込んだのです。その後、都市近郊の優れた自然風景地を含めて都市公園体系を計画する考え方が定着していきます。ワシントン、ロンドン、アムステルダム、パリ、ボン、キャンベラなどの欧米大都市には豊かな公園緑地が設定され、美しい快適な都市環境をつくりあげています。ロンドンのハイド・パーク(146ヘクタール)、パリのブローニュの森(800ヘクタール)、ワシントンのロック・クリークパーク(2000ヘクタール)などは、大規模な公園が市街地の内外に設けられ、都市公園としての機能を十分に発揮しています。  都市の公園とは独立に、自然公園が生まれる契機がありました。産業の発達によって天然資源の消費が増え、その結果、自然の姿が急速に姿を消して行きました。それに抗して、18世紀からヨーロッパに芽生えた自然保護や郷土保護の思想から、残り少なくなった自然地域を画して、人為的な改変から守り、それを市民の野外レクリエーションの場として確保するような考えが生まれてきました。自然風景地をそのまま公園にする新しい考えが生まれ、自然公園として世界的にほぼ統一された概念が確立されるのです。1872年アメリカで初めて設置されたイエローストーン国立公園は、国の設置する90万ヘクタールに及ぶ大自然公園という新しい範を示し、世界的な国立公園運動のスタートとなりました。アメリカはじめ世界各国の国立公園はほとんどが自然公園のタイプです。 日本の公園

日本に公園が生まれたのは明治に入ってからのことです。江戸時代、江戸、京都などの近郊の景勝地が庶民の遊覧の場所でしたが、本来民主的な社会施設である公園が、封建的社会にはなく、支配者の恩恵的な施設として存在したに過ぎません。例えば、水戸の偕楽園のように先見的な大名によって庶民に開放された庭園は、一種の公園的な施設とみることができます。1873年(明治6)の太政官布告第16号「社寺其(そ)ノ他ノ名区勝跡ヲ公園ト定ムル件」によって「公園」が公的施設として明記されたのが始まりです。明治維新は、欧米の文物・制度の導入を積極的に図った時期ですが、公園に関しても、すでに欧米において公共施設として定着していた公園の制度を取り入れたのです。布告によって定められた当初の公園は、(1)これまで多くの人々によって野外レクリエーションのために利用されていた名所旧跡、(2)国有地、(3)公衆の野外レクリエーションの地区として県が選定し、大蔵省に申請し、許可を得て、営造物として設置管理するものでした。  この進歩的な制度の創設はきわめて現実的で、先見的な公共団体は迅速な対応をしました。東京府の金竜山浅草寺(きんりゅうざんせんそうじ)、三縁山増上寺(さんえんざんぞうじょうじ)、東叡山寛永寺(とうえいざんかんえいじ)、富岡八幡社(とみおかはちまんしゃ)、飛鳥山(あすかやま)の5か所、大阪府の住吉(すみよし)、浜寺(はまでら)の2か所、広島県厳島(いつくしま)、鞆(とも)の2か所、高知県の高知公園、金沢の兼六園、高松の栗林(りつりん)公園などが、わが国の先駆的な公園として設置されました。これらには都市公園的なものと自然公園的なものとが区別なく含まれています。 都市の公園

都市公園については、1888年(明治21)の東京市区改正条例以降、都市計画的な見地から整備が進み、1919年(大正8)の都市計画法の制定によって都市施設としての公園の概念が確立されて、1923年の関東大震災の復興事業などを契機として体系的な整備が図られました。  戦災復興事業として都市の再建が計画され、公園の整備計画は都市環境の改善のために意欲的に進められました。しかし、その実現のためには強力な法的措置が必要で、そのため1956年(昭和31)に都市公園法が制定され、都市公園の設置および管理に関する規準を定め、その健全な発達を図ることが目指されました。都市公園法は、公園、緑地の性格を明確にし、その配置および規模に関する技術的基準を示しました。また、公園施設として設けられる建築物の面積総計は、原則として公園の面積の2%を超えてはならないことや、みだりに都市公園を廃止してはならないことなどの基本的な制約が設けられました。さらに、1976年の改正によって、本法に基づいて国が設置管理する都市公園として、国営公園の制度が設けられました。

自然の公園

日本の自然公園は、太政官布告に基づいて設置された道府県立公園のなかから明治初期から大正時代にかけて設置されました。日本三景(天ノ橋立、厳島、松島)を含む著名な景勝地などが選ばれました。  明治中期には、近代自然科学の移入によって、人々の自然観にも変化が現れ、風景の科学的な見方に基づく客観的な風景観が成長してきます。1894年(明治27)の志賀重昂(しげたか)による『日本風景論』は、近代風景論を確立した画期的な著書です。その後新たに多くの優れた自然風景地が紹介され、近代的な自然保護の思想も芽生え始めてきます。一方では野外レクリエーションとしての登山、キャンピングなど新しい利用形式も欧米から移入され、自然風景地の利用の新しい局面が開かれます。これらの道府県立公園は、すべて国有地に設定される営造物であったため、地域も限定され、一般に面積も比較的小さいものが多いのですが、新しい風景地として雲仙、青島、大沼、榛名などの名がみられるようになり、新たな自然公園の発展の兆しを見て取れます。  大正年代に入り、それまで自然発生的に設定されてきた自然公園に関して、近代造園学に基づく理論的な体系化が図られます。1918年(大正7)の田村剛の『造園概論』は、近代造園学の確立に大きく貢献した名著ですが、とくに公園に関して新たに「天然公園」という名称を用いています。その後、森林風景を基調とした自然の風景計画に関する研究も進められ、森林公園、天然公園、自然公園、国立公園という名称が用いられ始めて、自然風景の保護を図るとともに、野外の休養地として開発整備を図る目的をもって設定される自然公園という考えがつくられていきます。このようにして、道府県立公園のシステムのなかで、自然公園が分化してくるにしたがい、優れた自然の風景地について国家的な立場から適切な方策をとることへの要望が高まってきました。イエローストーン国立公園の設置に関する情報も早い時期にもたらされ、明治末期には国立公園制度を創設しようとする動きが具体的に現れました。  国立公園について明確な概念の確立がないまま、1921年(大正10)以降議会に対する請願が活発になってきました。わが国の国立公園をどのように考えるかについての論議がにわかに高まるのです。国立公園に類する用語についても、国民公園国営公園、国設公園などが、それぞれいくらか違った意味合いをもって提案されました。また、国立公園は自然公園であるべきか、あるいは自然保護地域であるべきかという基本的な性格論争も激しく行われました。公園行政を所管する内務省において国立公園に関する検討を始め、1930年(昭和5)国立公園調査会を設置して、正式に取り組むことになりました。主としてアメリカの国立公園を参考に、国の設定する自然公園として制度化する方針が定められ、制度の内容および地域の選定について検討が進められました。翌1931年の国立公園法の制定により国立公園制度が発足しました。世界的にも画期的な「地域制」に準拠したもので、公園行政に対する新局面を開いたものでした。全国12の候補地について12の国立公園の指定が完了しましたが、第二次世界大戦勃発のため事実上停止されました。  終戦後、GHQ(連合国最高司令部)の指示もあって、国立公園行政は強力な再建が図られ、1948年(昭和23)には当時の厚生省に国立公園部が設置されました。国立公園の新設に対する全国的な要望が強くなるなかで、翌1949年、国立公園に準ずる地域として新たに国定公園に関する制度を設けるための国立公園法の改正が行われました。さらに、国立公園国定公園都道府県立自然公園を一つの体系のなかで整備管理するために、1957年、国立公園法を廃止して新たに自然公園法が制定されました。昭和40年代に入って環境問題に対する関心が高まり、1971年(昭和46)環境庁の発足とともに、自然公園の行政は自然保護局の所管に移り、自然公園行政も自然保護に重点が置かれることになる。なお2001年(平成13)の省庁再編に伴い、所管は環境省自然環境局となった。2012年現在、国立公園30か所、面積209万ヘクタール、国定公園56か所、面積136万ヘクタール、都道府県立自然公園は2011年現在で313か所、面積197万ヘクタールとなっています。

 

5アメリカの国立公園

 日本の国立公園は実質的には第二次世界大戦GHQの指示のもとにスタートします。肝心のアメリカの国立公園の制度や歴史はどうなっていたのでしょうか。

1803年、当時のトーマス・ジェファーソン大統領は、ルイジアナを買収します。ジェファーソンはこの未開の地を調査する必要があると思い、主に軍人からなるルイス・クラーク探検隊を組織しました。1804年5月に調査を開始し、1805年11月、現在のポートランド付近の太平洋岸に達し、アメリカ大陸の陸路横断に成功します。その帰路、隊員のジョン・コルターが1807年、白人として初めてイエローストーンを発見しました。

19世紀後半、イエローストーンヨセミテの自然保護のために内務省のハイデン博士は、これらの地域の国有化を働きかけ始めました。しかし、議会や一般の人たちは、イエローストーンヨセミテの光景はホラ話と考えていました。そこで、ハイデン博士は画家モーランと写真家ジャクソンを隊員に加えた探検隊を組織します。1859年から2年計画で、イエローストーンを始めとするミシシッピ川上流域の調査を始めます。悪天候や南北戦争の影響で全計画の遂行はできませんでしたが、ジャクソンが撮影した写真とモーランの絵はイエローストーン公園法の公聴会で人々の心を捉えます。それまで金の無駄と反対していた議員たちも態度を軟化し、1872年に大統領グラントがイエローストーン公園法に署名、世界で初めての国立公園が誕生しました。でも、国立公園に指定されたイエローストーンの管理はほぼ何もなく、動物の密猟や観光客の破壊が発生していました。

1800年代後半ヨセミテに巨大ダムを作る計画が持ち上がります。当時ヨセミテに住み着いて動植物の研究をしていたジョン・ミューアが反対運動を始めます。1890年ヨセミテ国立公園に指定され、ダム計画が廃止されます。この運動は、世界初の自然保護運動と言われています。

ルーズベルトは歴代大統領として初めて、アメリカ西部の国立公園を視察しました。彼は、この視察旅行で自然保護と国民による自然景観の共有が必要と判断し、道路や宿泊施設の整備などに予算をつけました。1910年グレイシャーが国立公園に指定されます。1916年国立公園実施法が制定され、内務省国立公園局が設置されました。

 さて、自然保護の先駆者とも言えるジョン・ミューアについて述べておきましょう。彼は、1838年4月2l日、スコットランドのダンバーで生まれた。農夫、発明家、牧夫、ナチュラリスト、探検家、作家、そして環境保全主義者と多彩な顔をもっています。1849年、ミューア一家は合衆国に移民します。まずウィスコンシン州のファウンテンレイクに、そして後に、ポートエイジ近くのヒッコリーヒルファームに移り住みます。厳しい修業が人格を形成すると信じた父親のもとで、ミューア一家は明け方から日没まで働きました。農作業のあいまに、ミューアは弟を連れて自然に恵まれたウィスコンシン州の森や野原を散策しました。成長するにつれて、ミューアはいっそう深い愛情をこめて自然を見つめるようになっていきました。彼はまた、発明や木工にも才能を発揮し、正確に時を刻む時計や愉快な目覚まし装置などを考案し、州の品評会に出品し賞賛を受けました。同じ1860年にウィスコンシン大学に入学。成績は優秀でしたが、3年後マディソンを去り、さまざまな仕事で日々の糧を得ながら、まだ自然が損なわれていない合衆国北部やカナダを旅しました。[12]  1867年、ミューアはインディアナポリスにある馬車の部品を扱う店で仕事中に目を負傷し、一時的に失明します。1ヶ月後に視力は回復しましたが、このできごとはミューアのその後の人生を大きく変えることになりました。この時ミューアは、彼が本当に見たいものは自然界そのものなのだと認識したのです。それからミューアの放浪の日々が始まります。インディアナポリスからメキシコ湾まで、1600キロもの道のりを歩き、キューバまで航海し、パナマ地峡を渡り西海岸に到達、1868年3月にはサンフランシスコに上陸しました。ミューアを心底から魅了したのが、シエラネバダ山脈とヨセミテでした。1868年に彼は初めてサンホワキンバレーを徒歩で横断し、腰まで届くワイルドフラワーの群落を抜けて初めて山間部に到達しました。彼はその自然に魅了されます。そして、その夏ミューアは羊を率いてヨセミテに移ります。  1871年までにミューアは、シエラ山脈に今も息づく氷河を発見し、後に議論の的となるヨセミテの氷河作用についての学説を発表しました。彼の名は国中に広まり、当時の著名人たちがヨセミテの彼のキャビンを訪れています。1874年の初めには、「シエラ研究」と題した一連の記事によって、ミューアは文筆家としても成功します。ヨセミテを去り、しばらくの間カリファルニア州オークランドを拠点として旅を続けますが、1879年には初めてアラスカの土を踏み、そこでグレイシャー湾を発見します。1880年にはルイ・ワンダ・ストレンツェルと結婚し、マーティネスに新居を構え、2人の女児、ワンダ、ヘレンに恵まれました。それから10年の間、家族との生活にほぼ落ち着きながら、ミューアは義父とともに果樹園を経営し、大きな成功を収めました。  しかし、ミューアの放浪癖はそれではおさまらず、アラスカに幾度も舞い戻り、オーストラリア、南アメリカ、アフリカ、ヨーロッパ、中国、日本へと旅を続けました。もちろん、彼の愛したシエラネバダ山脈にも数えきれないほど足を運びました。後年、彼は執筆にさらに力を入れ、300にのぼる記事と、10冊に及ぶ主要な著書を出版し、幾多の旅について詳述し、彼のナチュラリストとしての哲学を説きました。  ミューアは、『センチュリー』誌に一連の記事を掲載して、放牧によって荒廃した山間部草原地帯の危機を訴え、これが世間の注目を浴びます。彼は同誌の編集者であるロバート・アンダーウッド・ジョンソンの助力を得てその救済に取りかかりました。そして1890年には、ミューアとジョンソンの多大な努力によって、ヨセミテ国立公園の制定が国会で決議された。ミューアは他の国立公園の制定にも携わりました。彼がよく「国立公園の父」と尊敬をこめて呼ばれる所以です。1901年にミューアは、『私たちの国立公園』を出版しました。これがルーズベルト大統領の関心を呼び、1903年に大統領がヨセミテを訪問。ルーズベルトはミューアと共に、ヨセミテの木々のもとで、彼の革新的で注目に値する自然保護政策の原案を形づくったのです。   

トレッキング(trekking)は、山歩きのことで、登頂を目指すことを主な目的としている登山に対し、特に山頂に到達することにこだわらず、山の中を歩くことを目的としています。山の中の道として有名なのがアメリカの長距離自然歩道、ジョン・ミューア・トレイル(John Muir Trail)です。カリフォルニア州内を、ヨセミテ峡谷(ヨセミテ国立公園)からマウント・ホイットニーまで340キロメートルにわたって縦走する道です。トレイルの大部分はパシフィック・クレスト・トレイルの一部になっています。[13]この名前は、「自然保護の父」ジョン・ミューアにちなんで命名されました。

ヨセミテ国立公園の面積は3081平方キロメートルで、シエラネバダ山脈の西麓に広がっています。公園には年間350万人以上が訪れ、そのほとんどが集まるのは公園全体の1パーセントにも満たないヨセミテ渓谷(約18平方キロメートル)です。1984年に世界遺産に登録され、そそり立つ白い花崗岩の絶壁、そこを流れ落ちる多くの巨大な滝、谷や木々の間を流れる澄んだ大小の川、ジャイアントセコイアの巨木の林、生物多様性が世界的に知られることとなりました。公園全体の約95パーセントは原生地地域に指定されています。ヨセミテは、第1号の国立公園であるイエローストーン国立公園より指定は遅いのですがジョン・ミューアらの先達の貢献により、アメリカの国立公園の発展の上では中心的な役割を果たしました。

ヨセミテ国立公園は、シエラネバダ山脈の中で最大規模の、最もまとまった動植物の生息地であり、生物の多様性を育んでいます。公園は高度600メートルから4,000メートルの地域を含み、大きく分けて次の5つの植生帯から成っています。低木・オーク林帯(chaparral/oak woodland)、低地・低山植生帯(lower montane)、高地・低山植生帯(upper montane)、亜高山帯(subalpine)、および高山帯(alpine)です。カリフォルニア州には7,000種の植物が生えていますが、そのうちの50パーセントがシエラネバダ山脈にあり、20パーセント以上がヨセミテ公園内に見られます。160種以上の稀少植物の植生地域があり、その形成にはヨセミテ独特の地質学的形成過程と、特異な土壌が寄与しています。また、アメリカグマや、アライグマなどの哺乳類が約100種類、鳥類が200種類以上生息し、セコイアの大木も有名です。

ヨセミテを地質学的に見ると、花崗岩が大部分を覆い、それより古い岩石が残りの部分を占めています。およそ1000万年前にシエラネバダ山塊が隆起し、その後傾斜したことにより、西側には緩やかな高原が、東側には急峻な山肌が生まれました。この隆起に伴って、川の流れは急になり、流れにえぐられて、深く、狭い渓谷が形成されました。次いで、約100万年前に、降り積もった雪と氷が氷河となって高山の草原帯を覆い、谷に沿って流れ下り始めました。氷河期初めには、ヨセミテ渓谷を埋め尽くした氷の厚さは約1200メートルに達したようです。この氷河の流れに削られ、U字谷が現れました。

5シラネアオイ、ブナ、オオルリ

このタイトルは妙高市の市の草花、樹木、鳥ですが、まさに妙高市の自然環境の象徴になっています。新しく分離独立する国立公園妙高・戸隠地域の50%強が妙高市に属し、多くの山々に囲まれています。そのために日本でも有数の豪雪地帯として知られてきました。それらの山々は次のような名前で親しまれてきました。

信越(北信)五岳

山名

標高

備考

妙高山 みょうこうさん

2,454

北信五岳の最高峰 活火山 日本百名山

斑尾山 まだらおやま

1,381.81

日本三百名山

黒姫山 くろひめやま

2,053

日本二百名山 複式火山

戸隠山 とがくしやま

1,904

日本二百名山

飯縄山 いいづなやま

1,917.37

日本二百名山

 

頸城三山

焼山 やけやま

2400

日本三百名山

火打山 ひうちやま

2462

日本百名山

妙高山 みょうこうさん

2454

日本百名山

       

 

また、妙高には日本の滝百選に選ばれた惣滝と苗名滝があり、その雄大な姿は多くの人に感動を与えています。

<惣滝>

日本の滝百選に選ばれた惣滝は、妙高山から流れ出る大田切川の源流部・大倉谷にあります。標高は1300mで、周囲は「つばめ溶岩」と呼ばれる輝石安山岩が切り立っています。80mの高さから流れ落ちる豪快な眺めは、訪れる人々の感動を誘い、特に紅葉の時期には一層の鮮やかさを見せてくれます。

<苗名滝>

長野県との県境にあり、関川にかかる落差55mの滝。柱状節理の玄武岩壁から水が落ち込むさまは迫力があり、日本の滝百選に選ばれています。雪解け水が流れ込み水量がます春、10月中旬の紅葉の時は特に美しい眺めを見せてくれます。この滝は妙高高原自然歩道の出発点になっています。

 

 これまで述べてきたを背後に置いて今一度妙高を捉え直してみて下さい。妙高の自然がこれまでとは違うように見えてきたらこのエッセイの目的は果たせたと思っています。国立公園としての妙高(そして戸隠)はどのような存在であり、どのような姿を保つべきなのかが見えてくるはずです。自然を自然のままに保つことは実は大変な努力が求められます。「放置するのではなく、保全する」ことは簡単なことではなく、持続しなければ意味のないことなのです。

 このように豊かな自然に囲まれた妙高市は当然ながら自然だけではなく、日本の他の地域と同じように独特の歴史と文化をもっています。妙高市の歴史と文化については次の機会に譲りたいと思います。

 

(補足)

新井駅の歴史的風景

新潟県妙高市にある駅はJR信越線の新井駅で、妙高市の玄関となってきました。開業は明治19年(1886年)8月15日で、直江津、高田、関山の各駅と共に新潟県内最古の駅の一つです。開業当初、新井駅は中頸城郡大崎村にありましたが、同村から分離した新井村に住所が変わりました。その後、村は明治25年に町制を施行して新井町となり、さらに周辺諸村を合併編入して町勢を拡大、昭和29年に更なる合併編入によって市制を施行して新井市になります。私が7歳の時で、市制を祝うちょうちん行列をかすかに憶えています。町勢拡大には、新井駅北方のダイセル新井工場の誘致成功(昭和10年)が大きく貢献したようで、新井駅から工場へは専用線が敷かれて近年まで貨物輸送が行われていました。さらに平成の大合併によって新井市妙高市の中心地域となり今日に至ります。なお、妙高市の人口は、2011年12月現在で約3万5千人。新潟県内30自治体中18位の人口規模です。 

JR東日本によると、新井駅の2010年度一日平均乗車人員は1,294人で同社新潟県内有人75駅中32位。新井駅と一日平均乗車人員がほぼ同じ羽越線中条駅胎内市)や、やや少ない磐越西線五泉駅(五泉市)が自動改札化されていますから、当駅が自動改札化されても全く不思議はないのですが、その辺は2015年3月の信越線新幹線並行区間第三セクター化との絡みがあるのでしょう。ともあれ、現状では自動改札化されていないJR東日本新潟県在来線駅で、実質的に最も利用が多いのがこの新井駅なのです。

先日新井駅のキオスクのおばさんと話すと、「この売店も年内で終わりです」と随分寂しそうでした。北陸新幹線のスタートは、目立つことなくひっそり消えていくものを生み出していることを心のどこかに記憶しておきたいものです。

 

 

 

[1] 沢田允茂『認識の風景』岩波書店、1975年、69-70

[2] ガリレオ、そしてロックやヒュームは私たちが経験する性質を第1性質と第2性質とに分け、第1性質は客観的な物理的性質、第2性質は主観的な心理的性質としました。第1性質は物理量と呼ばれるもので、質量、運動量、エネルギー、エントロピーといったものです。一方、第2性質は色、音、味のように感覚器官によって感じられる性質で、感覚器官が生み出したものとみなされました。感覚器官を通じて気づく世界は最初から主観的なものを色濃くもっていると考えられてきたのです。和辻の「寒気」は単に主観的なものではなく、私たちが皆感じることのできる共同主観的なものです。

[3] ベルク、A.『日本の風景・西欧の景観:そして造景の時代』篠田勝英訳、講談社現代新書、1990(原著、訳書とも)

[4] ベルクの主張は既に述べた沢田、和辻の考え方と同じであることを改めて確認しておきましょう。

[5] ついでながら、「妙高山」は漢字の音訳「須弥山」の意訳で、古代インドの世界観の中で中心にそびえる聖なる山のことです。この聖山はバラモン教、仏教、ジャイナ教ヒンズー教に同じように登場します。妙高山の麓には関山神社があり、奈良時代より妙高山を霊山と仰ぐ修験道道場になっていました。関山神社の火祭りでは「仮山伏の棒遣い」、「柱松行事」が行われます。

[6]洛中洛外図は、京都の市街(洛中)と郊外(洛外)の景観や風俗を描いた屏風絵で、戦国時代から江戸時代にかけて制作されました。1点が国宝、6点が重要文化財に指定されていて、文化史的・学術的な価値が高く、美術史や建築史、および都市史や社会史の観点から研究されてきました。

[7] 18世紀の科学研究は自然哲学(natural philosophy)と自然史に二分されていました。自然哲学は現在の物理学、自然史は生物学におよそ対応しています。

[8] 自然環境が風景として受け入れられることは、次の「3大自然への気づき:雲」により詳しく書かれています。

[9] e-myokoは最初の活動として池の平でホタルの再生活動を行い、それが今では育成活動に発展しています。

[10] http://www.awaji.ac.jp/gs-ldh/project/teachers-column/staff_column/staff_column_8_2/

[11]私はかつてボストンで二年程暮らし、ボストンコモン(Boston Common)と呼ばれる公園を何度も訪れました。一風変わった名前ですが、マサチューセッツ州ボストン市中心部にあり、ボストンを代表する公園で、アメリカ最古の都市公園です。もともとこの土地はウィリアム・ブラックストンが所有していて、市に買い上げられ、独立戦争まではイギリス軍のキャンプとして利用されていました。独立戦争の始まりであるレキシントン・コンコードの戦いは、ここから出発したイギリス兵によって火蓋が切られたのです。

[12] 私は1年間ウィスコンシン大学マディソン校にいました。ウィスコンシン州は北海道の北部のような自然環境にあり、酪農中心の農業地域で、森と湖が多く、キャンパスのあるマディソンン市自体が自然の中にあるという印象をもちました。家の前に自然を利用した小さな動物園があり、北部アメリカを代表する様々な熊が飼育されていました。

[13] 妙高とその周辺にも自然歩道があり、毎年その道を走るランニングレースが行われています。2014年で第6回目になります。信越五岳の裾野を駆け抜ける110kmのトレイルランニングレースで 、9月14日5時30分に斑尾高原スキー場をスタートし、累積標高差4670mの難コースに、約600人のランナーがゴールを目指し、熱い戦いを繰り広げました。