e-myoko 「妙高を知る」

 

 

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新井別院-妙高市の歴史的断片に連なるものたち

 

 妙高市の歴史を知るために新井別院を探訪することはローカルな歴史の一コマに関心をもつだけでなく、その歴史の一断片が実は世界の歴史につながり、仏教やキリスト教という世界宗教の一部を私たちが今でも共有していることを改めて知らされることになります。ローカルな事柄とグローバルな事柄は互いに交錯しながら互いを支え合い、補完し合っているのです。このエッセイを読むことによって、「妙高は浄土真宗を通して日本だけでなく世界につながっている」というメッセージの意味を知ってください。

 

新潟県のお寺一覧」(www.nokotsudo.info/list/nigata.html)によれば、妙高市の寺院の宗派別の数は下の表のようになっています。

 

浄土真宗本願寺派西本願寺

23

真宗大谷派東本願寺

53

天台宗

1

真言宗醍醐派

1

曹洞宗

1

単立

1

 

浄土真宗が妙高市をほぼ独占していることは一目瞭然です。浄土真宗が全体の9割を超え、その浄土真宗の7割近くが真宗大谷派です。新潟県全体の浄土真宗の寺院数が5割弱であるのに対し、妙高市はほぼ浄土真宗一色、正に浄土真宗の牙城となっています。さらに、浄土真宗の中でも真宗大谷派の数が浄土真宗本願寺派の2倍を優に越し、その勢力の強大さがわかります。実に妙高市の4分の3の寺院が「お東」なのです。このような特徴ある分布には当然ながら歴史的な原因があります。その原因を探りながら、妙高の宗教が世界とどのようにつながっているか調べてみましょう。

 

東西の本願寺

 浄土真宗の「お西」と「お東」という呼称は妙高市では当たり前のように使われてきました。でも、浄土真宗に西や東があるとは一体どのようなことなのでしょうか?

本願寺は東西に分かれていますが、どうして分かれたのでしょうか。まず、西本願寺豊臣秀吉が造りました。そして、次に東本願寺を造ったのは徳川家康です。東本願寺西本願寺は通称で、西本願寺は正しくは龍谷山本願寺といい、浄土真宗本願寺派の本山です。一方、東本願寺は正しくは「真宗本廟」といい、真宗大谷派の本山です(本廟=墓所)。ですから、「西本願寺東本願寺」があるのではなく、「本願寺真宗本廟」があるのです。もっとも、昭和62年までは東西とも本願寺を名乗っていましたから「西本願寺」「東本願寺」という区別が実際にありました。  さて、織田信長による大坂石山本願寺攻略から話を始めましょう。信長は何故そんな途方もないことをしたのでしょうか?当時、天下取りにとって重要な問題は社会的な影響力の大きい宗教勢力をどのように扱うか、ということでした。それに信長の出した答は「叩き潰す」というものでした。信長は比叡山延暦寺も焼き討ちにしています。信長による大坂石山本願寺攻略と言うのは簡単ですが、実際は元亀元年(1570)から天正8年(1580)まで丸10年にわたる長期戦で、宗教勢力相手に戦うのは実に大変なことだったのです。  石山本願寺は防戦及ばず信長に敗れ、法主顕如をはじめ浄土真宗の面々は紀州に流れ、不遇を囲っていました。そこへ、天下を取った豊臣秀吉が、突如として「寺を潰された真宗のために寺を建てましょう」と申し出ます。もちろん、秀吉は顕如はじめ真宗一団を本当に心配したわけではありません。信長に本拠地を潰されたとはいえ、浄土真宗の社会的影響力はまだ大きく、そこで秀吉の考えた対処法は信長とは正反対に懐柔策だったわけです。  こうして天正19年(1591年)に秀吉から現在地を寄進されて本願寺となり、東西の分裂以後は「西本願寺」と呼ばれるようになりました。これで一件落着のはずが、さらに東西に分裂します。秀吉に新しい寺を建ててもらった浄土真宗の面々は顕如の死後、派閥争いを起こします。順当なら大坂石山本願寺攻防戦を戦った功労者である教如が後継者になるはずなのに、弟の准如を後継者にしようという一派が現れ、教如が敗れたのです。この勝敗に関しては秀吉が「顕如の遺言」を持ち出して裁定を下したのですが、その遺言書というのがどうも胡散臭く、「武闘派」教如を排斥したいという秀吉の意図が背後にあったようです。  さて、教如一派も内心では不満があるものの、寺を追い出されたら行くところがなく、仕方なく准如一派に従っていました。ところが、関が原の戦いが終って2年後の慶長7年(1602)、今度は徳川家康が「無理矢理隠居させられた教如のために寺を建てる」と言って建てたのが東本願寺です。もちろん、家康も本気で教如が可愛そうだと思ったわけではありません。家康は関が原で勝ったのですが、豊臣家はまだ存在し、豊臣シンパの大名もたくさんいます。この状況で家康にとって一番怖いのは、豊臣家が本願寺と手を組んで徳川に対抗してくることだったのです。  そこで家康が考えたのは、「本願寺は内部で二派に別れている。ならばこれを完全に決裂させればよい」ということでした。それまで寺を追い出されたら行くところがないので仕方なく准如一派に従っていた教如一派も、新しい寺が出来たら安心して袂を分かつことができます。そして、一つにまとまっていれば力を出せる集団でも、二つに割れてしまうと半分の力も出せません。しかも、二つのうち一つは徳川の味方になってくれるのですから、家康にとっては一石二鳥の実に見事な作戦でした。さらにもう一つ、家康の凄さを示す企みが潜んでいました。本願寺分割に関して徳川家康が仕掛けた「心憎い」措置は、二つの寺を直線距離で約500メートルという、ごく近いところに配置したことです。新しい寺を江戸にでも持って行ってしまえば、遠く離れてお互い相手のことなどどうでもよくなったことでしょう。しかし、二つを目と鼻の先に並べることにより、対立するもの同士が毎日顔をつき合わせるように仕向けたのです。これによって対立がずっと続くようにしたのです。対立の持続によって、外側に向かって出てきたら怖いエネルギーを内側へと向かわせたのです。家康は実に狡猾な政治家です。  本願寺の立地関係から、西と東という通称がつけられるようになりましたが、本願寺派大谷派の違いは、政治的に無理に起こされた分裂であり、教義からではありません。それゆえ、東西の交流が戻るのもさほど時間はかからなかったのですが、両者には当然違いがあります。本願寺派中興の祖、蓮如上人の五帖御文の呼び方が、本願寺派が「御文章(ごぶんしょう)」といい、大谷派が「御文(おふみ)」ということ、日常の勤行で読まれる「正信念仏偈」の節回しが微妙に違うこと、「南無阿弥陀仏」が本願寺派では「なもあみだぶつ」に対して大谷派では「なむあみだぶつ」と唱えます。焼香の回数が本願寺派は1回、大谷派は2回。さらに、お仏壇の様式が微妙に違うところがあります。とはいえ、その差は些細な差に過ぎません。

浄土真宗の宗派

 浄土真宗が妙高市を独占する宗教だとすれば、妙高を考える上で不可欠なのが浄土真宗、つまり、妙高を知るにはまず浄土真宗を知らなければならないことになります。

宗教には必ずと言っていいほどに分立する宗派が登場します。浄土真宗にも多くの宗派が存在します。一つの教義に対して複数の解釈があること、それが大抵の場合の分派の理由です。一つの理論に複数の解釈があり、それら解釈が対立することは宗教だけでなく、科学の世界にもあります。量子力学には複数の解釈が併存しますし、確率という数学的な概念にさえ複数の解釈が存在します。浄土真宗の代表的な宗派を以下に挙げてみます。

 

1浄土真宗本願寺派

西本願寺

本願寺十一代目法主顕如の時、石山戦争の和戦派と抗戦派の対立から次男の准如西本願寺となった。

真宗大谷派

東本願寺

本願寺十一代目法主顕如の時、石山戦争の和戦派と抗戦派の対立から長男の教如東本願寺となった。

真宗高田派

専修寺

親鸞が関東で布教した時の弟子真仏から始まる。

4真宗仏光寺

仏光寺

真仏の弟子源海の系統。蓮如の時代に興正寺と分かれた。

真宗興正派

興正寺

真仏の弟子源海の系統。蓮如の時代に仏光寺と分かれた。

真宗木辺派

錦織寺

覚如の長男存覚の流れを汲む。滋賀県

真宗山元派

証誠寺

福井県高田門徒の流れを汲み、山元派、三門徒派、誠照寺派の3派に鎌倉時代末に分裂した。

真宗出雲路派

毫摂寺

元々京都にあった毫摂寺が福井に移転した。

真宗三門徒派

専照寺

福井県高田門徒の流れを汲み、山元派、三門徒派、誠照寺派の3派に鎌倉時代末に分裂した。

10真宗誠照寺派

誠照寺

福井県高田門徒の流れを汲み、山元派、三門徒派、誠照寺派の3派に鎌倉時代末に分裂した。

11浄土真宗親鸞会

親鸞会

他派が衰退する中、葬式法事ではなく伝統的な浄土真宗の教えを伝え、唯一急速に伸びている。

 

妙高市の浄土真宗

 妙高の信仰を支え、組織してきた浄土真宗内部での教義論争

真宗大谷派東本願寺新井別院は妙高市下町、旧北国街道沿いにあります。新井掛所、新井御坊とも呼ばれていました。願生寺はかつて越後ではなく信濃国水内郡平出村にあり、平出の願生寺と呼ばれていました。願生寺の由来については、『日本名刹大事典』に「新潟県新井市除戸。真宗大谷派、大高山。本尊は阿弥陀如来。開山は親鸞。開基は尊願坊。寺伝によれば、開基尊願坊は建久6年(1195年)法然の教化を受けて仏門に入ったが、のち健保2年(1214年)親鸞に帰依して下総国下河辺庄に一宇を建立。のち応仁2年(1468年)信濃国水内郡平出村に移り、九世英賢の天正年間(1571-1591年)上杉氏に招かれて新井に移転した。」と記されています。つまり、願生寺のルーツは下総国(千葉県)です。15世紀に信州の平出村に移転します。そして、第9世英賢の時に越後の新井に移転し、新井では願生寺と呼ばれました。実は、北信州から越後上越地方にかけての有力な真宗寺院は、願生寺と同じく関東に起源をもつ大寺院が数多く存在しています。彼らは磯辺門流と呼ばれ、初期真宗門徒の有力な集団でした。

越後と北信濃に触頭寺院(ふれがしらじいん、寺社奉行に任命された特定の寺院で、地域内の寺院の統制を行なう)として絶大な教勢を誇っていた新井の願生寺と親鸞聖人の居多ケ浜上陸以来のゆかりの有力寺院だった高田の浄興寺との間に教義論争が巻き起こります。それは十五世英誓の時で、いわゆる異安心(いあんじん)事件です。新井願生寺方と高田浄興寺方に分かれ、多くの末寺門徒と本山東本願寺を巻き込んで大論争に発展し、その裁定に寺社奉行が乗り出すまでになりました。真宗では教義の解釈、受取り方の違いを「異安心」と言います。では、どんな問題で論争になったのでしょうか。それは「小児(15歳以下の者)は往生して仏になれるか、なれないか。」という問題です。この問題を巡って「小児は往生できる」という浄興寺方と「小児は往生できない」という願生寺方との主張が対立したのです。

あくまでも強硬な願生寺方に困り果て、浄興寺方は本山に訴え出ます。双方が本山に呼び出され、吟味され、その結末は願生寺方の敗北でした。首謀者は追放、願生寺は取り潰しと決まったのです。願生寺に加担した寺院は東本願寺の末流に留まるものと、取り潰しの難を逃れて仏光寺派に変わるものとに分かれました。  しかし、願生寺は本山の一方的な処分に納得せず、翌年、江戸の寺社奉行に上訴するのです。そこで、大詮議が始まります。詮議の結果はまたも願生寺方の負けで、本山に逆らった不届き者という裁定が下りました。信心のあり方、教義の解釈の問題は不透明で真偽の決着がつかないまま、願生寺側の訴えは却下されました。浄土真宗では、古来より小児往生論が議論されてきました。これは「ものの分別もつかない幼児が浄土へ往生することができるのかどうか」について論争したものです。 寛文年間(1661‐1673)に議論の記録があり、当時の学匠の意見は『往生可能説』と『往生不可能説』に二分されていたようです。 この論争の中、第四代能化(本願寺派の宗学を統率する職)法霖(1693‐1741)は、「小児の往生は不定と知るべし。不定とは往生ならぬということにあらず。なるともならぬとも凡見にては定められぬという事なり」と述べて、判断を中止しています。

異安心論争の裁定を取り持った東本願寺は貞享二年(1685)敗れた英誓を追放し、その後を新井道場としました。元禄元年(1688)東本願寺十六世一如上人が荒井掛所と改称し、以後教化統制に力を入れ、高田別院や稲田別院(光明寺)などの支院や願楽寺、聞称寺、照光寺などの寺院を合わせて60を越える寺をまとめる中心道場となり、明治9年(1876)に新井別院と名前を改めました。何度も災害にあい、現在の本堂は明治11年(1878)に雷による火災で焼失後、明治28年(1895)に再建され、桁行き、梁間それぞれ十八間は木造建築として新潟県最大級を誇っています(写真)。[1]

歎異抄:異安心を歎き、憂える

 浄土真宗の開祖である親鸞の教えに反する考えを嘆き、憂い、正すための本、それが『歎異抄』です。

歎異抄』(たんにしょう)は、鎌倉時代後期に書かれた仏教書で、作者は親鸞に師事した唯円とされています。書名は、その内容が親鸞滅後に浄土真宗の教団内に湧き上がった異義・異端を嘆いたもので、『歎異鈔』とも書かれます。

その内容は、「善鸞事件」の後に作者が親鸞より直接聞いた話からなっています。建長8年(1256年)5月、親鸞が実子である善鸞を勘当・破門したのがこの事件です。事件から遡ること約20年の嘉禎2年(1236年)頃、親鸞が東国から京に帰った後の東国では、様々な異義が生じ、異端を説く者が現れ、東国門徒が動揺するようになります。それに対し親鸞は、息子の善鸞を事態の収拾のために送ります。しかし、善鸞は異端を説く者を説得しようと試みますが、それに応じなかったため、自ら親鸞より真に往生する道を伝授されたと称し、自らの教えが正しいと説きました。善鸞が異端を説いていると知った親鸞は、秘事を伝授したことはないと東国門徒に伝え、善鸞に義絶状を送り、親子の縁を切り破門しました。その後、関東から上洛して親鸞に事を質したのが、唯円を含めた一行でした。親鸞の死後も、法然から親鸞へと伝えられた真宗の教え(専修念仏)とは違った教義を説く者が後を絶ちませんでした。唯円は、それらの異義は親鸞の教えを無視したものであると嘆き、『歎異抄』を著したといわれています。編集された時期は、親鸞没後30年の後(鎌倉時代後期、西暦1300年前後)と考えられています。この短い著作は以下のような構成になっています。

 

  1. 真名序
  2. 第一条から第十条まで - 親鸞の言葉
  3. 別序 - 第十一条以降の序文
  4. 第十一条から第十八条まで - 唯円の異義批判
  5. 後序
  6. 流罪にまつわる記録

 

真名序は、この文を書いた目的・由来が記されています。すなわち、「先師の口伝の真信に異なることを歎く」のです。関東の教団は、善鸞の事件もあり、異義が起きやすい土地で、親鸞の入滅によりますますそれが加速しました。主な異義を挙げてみましょう。

(1)どんな悪を犯しても助けるのが弥陀だからと、少しも悪を恐れない者は往生できないとする異義。

(2)経典を学ばない者は弥陀の浄土へ往生できないとする異義。

そこで、親鸞唯円に語った言葉を副え、なぜそれが異義であるかを説明するのが本書だと述べます。そこでは嘆くのは唯円ではなく、親鸞です。

第一条 - 第十条

第一条から第十条は、親鸞が直接唯円に語ったとされる言葉が書かれています。第一条では弥陀の本願はただ信心が要であることが説かれています。第二条は、唯円はこの言葉を、関東から上洛して善鸞事件について親鸞に質す僧侶の1人として聞いています。親鸞は彼らに対し、弥陀の本願念仏以外に往生極楽の道はないが、念仏を取捨選択するのは各々の自由であると答えています。第三条は、悪人正機説を明快に説いたものとして、現在でもよく引用されています。第四条は、聖道仏教と浄土仏教の慈悲の違いが説かれています。また、念仏は阿弥陀によって為されるものであるため、自分自身の弟子は一人もいないと説いています。他力不思議の念仏は言うことも説くことも想像すらもできないものであるため、「無義をもて義とする」ものであると、念仏を定義します。

別序

親鸞の弟子から教えを聞き念仏する人々の中に、親鸞の仰せならざる異義が多くあると述べられます。

第十一条 - 第十八条

第十一条以降は、異義をそれぞれ取り上げ、逐一異義である理由を述べています。経典を読まず学問もしない者は往生できないという人々は、阿弥陀仏の本願を無視するものだと論じています。また、どんな悪人でも助ける本願だからといってわざと好んで悪を作ることは邪執だと破った上で、悪は往生の障りではないことが説かれています。

後序

後序は、それまでの文章とは間を置いて執筆されています。親鸞法然から直接教え受けていた頃、「善信が信心も、聖人の御信心もひとつなり」(自らの信心と法然の信心は一つである)と言い、それに対し他の門弟が異義を唱えました。それに対し法然は、「源空が信心も、如来よりたまわりたる信心なり。善信房の信心も如来よりたまわらせたまいたる信心なり。されば、ただひとつなり。」(阿弥陀仏からたまわる信心であるから、親鸞の信心と私の信心は同一である)と答えました。唯円は、上記のように法然在世中であっても異義が生まれ、誤った信心が後に伝わることを嘆き、本書を記したと述べています。

 

契約としての洗礼:小児洗礼、小児往生

 異安心の一つである小児往生とキリスト教の小児洗礼はよく似た問題を含んでいます。宗教は違っても同じような教義についての異なる解釈が議論されて来たのです。

 異安心を巡って願生寺方と浄興寺方が論争し、新井別院が生まれたことから『歎異抄』まで話が及びました。「小児往生」についての議論は「小児洗礼」というキリスト教の重要な儀式を思い起こさせます。「小児は往生できるか」と「小児は洗礼できるか」はよく似た問題で、当然その答えもよく似ています。すると、キリスト教の場合はどうなるのか知りたくなります。そこで、次の兼子牧師の説教を聞いてみましょう。少々長い引用ですが、丁寧に読んでみて下さい。

 

2012年7月1日 礼拝説教 聖書 創世記17章1-11節

説教 兼子洋介 牧師 題目 「契約としての洗礼」[2]

 

カテキズム:続明解問15

「幼児(小児)にも洗礼は授けられるべきですか」

「はい。洗礼はすべて神さまの恵みであって、わたしたちのわざによるものではありません。神さまの救いは、幼児にも初めから約束されています。だから、大人も子どもも、神さまの選びによって、神の恵みにより無償で洗礼へと導かれているのです。」

カテキズム:続明解問16

「そのような恵みに教会と幼児(小児)はどのようにして応えればよいのでしょうか」

「洗礼を受けた子どもたちは、やがて自分に与えられた神さまの恵みをはっきりと自覚し、自分の口で言い表す信仰告白のときが訪れます。それが、神さまの恵みへの応答です。そのために、子どもたちの保護者はもちろんのこと、教会は子どもたちを教会の肢として養い育てる責任があります」

 

 洗礼とは何か。それは、神さまから与えられる、一方的な恵みによって、神さまの民とされる、ということです。神さまとの契約を結んだ共同体に入る、ということです。ですから、神さまから来る恵みとして洗礼は起こります。1人1人に、等しく与えられる契約関係として、神さまから提示されます。洗礼は、人間の決心や、努力の結果、到達するゴールではありません。今よりのち、あなたはわたしの子である、イエス・キリストと同じく、神の子である、という宣言を、わたしたちが受け入れる、その始まりのとき、スタートの瞬間なのです。呼びかけが、神さまによってなされてきた経緯があった上で、神さまから一方的に差し伸べられてきた恵みの手に、これまた神さまの働きにより、わたしたちが応えることができるようになる。応答する方向へと、人生の舵を切る。その道のりがスタートする瞬間なのです。 

 このことを、最もよく表している出来事として、わたしたちは小児洗礼(幼児洗礼)を行います。わたしたちの教会では、信仰をまだ、自分の言葉で言い表すことの出来ない子どもに対しても、洗礼を執行してきました。ただの祝福ではなく、聖礼典としての洗礼を、子ども対象にも行ってきたのです。これは、わたしたちの教会の姿勢を表す、重大な意味を持っています。わたしたちが、信仰というものをどう理解しているのか、洗礼が執り行われるのにふさわしい対象とは、いったいどういう人だと信じているのか。こういう大きなテーマに対して、わたしたちの教会が、どういう答えを出しているのか。それがてきめんに表れるのが、小児洗礼なのです。 

 わたしの育った教会もそうですが、この世界に存在しているキリスト教会の中には、この、小児洗礼ということを行わない教会というのが、少なからずあります。自分の言葉で信仰を言い表せない者に対して、洗礼を執行すべきではない、することはできないと、考えている教会があるのです。逆に言えば、自分の言葉で、自分の意志で、信仰を言い表し、洗礼を希望するようになったら、その時こそ、洗礼を受けるにふさわしい時。神さまが良しと言ってくださっている時なのだ。そう理解しているということです。この考え方からすれば、小児洗礼をするよりも、洗礼にふさわしい時、神さまが良しと言ってくださっている時まで待った方がいい、ということになります。洗礼を受けるのに、ゴーサインが出ているということを、明確に、わたしたちの理性と知性でも確認できるようになったら、そこで洗礼を執行すればよい、というわけです。[3] 

 この考え方は、なかなか理に適っていますので、プロテスタント教会のうち、改革派系の、スイスに端を発している教派の中には、小児洗礼は認めず、本人による信仰告白がなされて初めて、洗礼を施す、という教会が、少なからず存在しています。日本基督教団の中にも、この考え方に立つ教会はありますし、それこそ、基本的な信仰理解において、わたしたちと一致している教会、使徒信条やニカイア信条といった信仰内容を共にできる教会の中にも、こういう考え方の教会は存在しています。だから、小児洗礼を行わない教会だからといって、わたしたちとは異質な、話の通じない相手であるかのように思うのは間違いです。あくまでも、重んじているものの違い、アクセントの違いの問題なのです。小児洗礼に対して、否定的な立場をとる教会は、信仰について、洗礼について、個人が自分の口で告白をする、ということに重きを置いているのです。では、わたしたちのような教会、小児洗礼を行うことをよしとしている教会は、何を重んじているのでしょうか。何が大事だから、信仰を自分の口では言い表せない子どもにも、洗礼を施すことを重んじているのでしょうか。それが、最初にお話しした、神さまからの一方的な恵みとしての信仰、ということなのです。そしてさらに言えば、神さまからの一方的な恵みとして与えられたことを、契約としての洗礼によって、はっきりと確認することを重んじている、と言うことが出来ます。今日はその、そもそものルーツとなる出来事を、わたしたちは聖書から、聴いているのです。アブラハムの、割礼による契約以来、わたしたちは神さまとの関係を、神さまから差しのべられた手としての、契約という形によって、回復されてきた。神さまがわたしたち人間を救おうとする時、それは常に、神さまから与えられる、契約によってきた。罪人に対し、破格の待遇で、契約関係に入ることをよしとされた、神さまの一方的な恵みにより、今日に至るまで、人類の救済計画は進んできた。この、歴史の上に、わたしたちは子どもに対しても執り行うことが赦されていると信じる洗礼の恵みを、受け継いでいるのです。     

 信仰をもって生きていくということ。わたしたちが、洗礼を受けて、神の民として生きていくということ。それは、個人の告白によるのではなく、個人の決心によるのでもなく、ただ、神さまの恵みによる、恵みの選びがその人を捉えたから、その人に信仰は芽生え、その人に洗礼は施される。そう考えているからです。告白も決心も、神さまからの恵みがあって初めて、生まれるのです。 

(中略) 

 信仰が生まれたから洗礼を受けるのか、洗礼を受けたから、信仰をもって歩めるのか。この2つのことがらの関係について、実は考え方が割れていて、信仰が生まれたから洗礼を受けると考える教会は、小児洗礼には否定的になる。洗礼を受けたから、信仰生活は始まると考える教会は、小児洗礼の恵みとしての意味を重んじる。こういうことになるのです。この指摘に基づけば、わたしたちの教会は洗礼から信仰へ、という受け止め方をしている、ということです。洗礼という、教会共同体における業が、わたしたちの信仰を成り立たせている。そしてそこには、教会の主であられる神さまの、わたしたちに対する一方的な恵みの業が働いている。人間の側にある、何らかの要素によってではなく、神さまが選び出し、探し出して洗礼へと導いてくださるから、わたしたちは信仰をもって生きることができる。そう信じているのです。 

 大人だから、知性が高いから、立派な証しを語ることができるから…。こういう理由で、クリスチャンは選抜されたわけではありません。今ここにいるクリスチャンの1人1人は、自分でも説明できない、神さまにしかわからない理由によって、選ばれたのです。皆、分からない理由によって選ばれた、という点に、クリスチャン同士の共通点は、実はあるのです。選ばれた、ということを語る時に、わたしたちはその、選ばれた理由を同時に語ろうとするところがあります。それも、人間の知性で理解できる、説明のできる、言葉で表現できる理由を、何とか探し出そうとします。けれども、わたしたちが、この教会で選びということを語る時、自分が神さまに選ばれたということを証しする時、そこには、人間同士の間で、客観的に確認のできる理由など、ないということ。そして、分からないけれども神さまがわたしを選んでくださった、ということ。このことをこそ証言する言葉が出てくるはずなのです。これこそが、律法による、行いによって認められる義ではなく、信仰による、恵みによって与えられる義なのです。わたしたちの教会は、このことを重んじます。神さまの、わたしたち、選ばれた者には分からない選考理由によって、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と言うよりないわたしたちが、信じられるようになるのです。 

 マルコによる福音書9章に出てくる、悪霊に取りつかれた子どもの父親の言葉は、「信じます」、と言って始まりつつも、「信仰のないわたしをお助けください」と、すぐに続きます。論理的には矛盾しているとも見える言葉です。文字にして見ると、信じているのか信じていないのか、どっちなのかと突っ込まれそうな言葉です。でも、ここに、全てのクリスチャンの、信仰のスタートが見えます。わたしたちは、教会と出会い、聖書と出会い、自分が飢え渇きながら生きてきた中で、実はこれに飢えていたのだということを、知らされます。神さまとの関係が断たれていたから、わたしはあれもこれも足りなくて、満たされていないように感じてきた。あれもこれも手にしても、どれもパズルの最後の1ピースではないように感じてきた。神の言葉の前に立つとき、わたしたちは、自分が飢え渇き、病み、痛みを抱えて生きてきたことを、思い知るのです。だから、これらを癒し、慰め、満たすことの出来るものを、信じたいと思うのです。

  でも、信じて生きることが出来るようになるためには、父親が言うように、「助け」が必要なのです。それも、わたしがやることを助けて、という意味ではなく、わたしが信仰を持ちうるようにする、決定的な力を求める意味で。自分の内にはまだ信仰がない、ということを認めた上で、神さまに助けを求めるよりないのです。そしてこの神さまは、聖書に記されている通り、助け主として、聖霊を送ってくださる。そう信じて、身を委ねるよりないのです。わたしのうちには信仰がない、神さまに選んでいただき、義と認めていただくのにふさわしいものがない。それを告白させる聖霊の力、そして、助けてくださいと神さまに求めさせる聖霊の力。そうやって導かれて、洗礼を受けるから、そこで初めて、わたしの内に信仰がある。神さまが与えてくださった。そう言い表すことが出来るようになるのです。

  この、救いに至るまでのステップを、てきめんに表しているのが小児洗礼です。小児洗礼の、一番の特徴は、いわゆる洗礼の場面で完結していない、ということです。全ての洗礼が、神さまからの恵みによって始まり、わたしたちの応答を、最終的に促す、という点で、共通しています。これは、小児の洗礼であろうと、大人の洗礼であろうと、同じです。けれども小児洗礼は、神さまの恵みの選びがあり、それは洗礼を受ける人間の、持っている資質や行いによるのではない、ということが明らかにされる形で、まず洗礼を行います。小児洗礼は、洗礼を受ける者が、というよりも、その洗礼の場面に、礼拝者として立ち会う者が、ただ、神さまからの恵みによって、この子は洗礼を受けている、ということを、実感せずにはおられない瞬間です。教会において、神の民の公の場において、わたしたちを神の民として選んでくださったお方が、今また、何もない、何もできないに等しい者を、神の子として憐れんでくださっている。そう体感するのです。

  そして、これは実は、小児洗礼だけでは本当はないのですが、小児洗礼の時に特に感じ取ることが出来ることとして、洗礼というのは個人的な出来事ではない、ということです。人が、神さまのことを信じて生きるようになる、それも、イエス・キリストによって、神さまとの関係をゆるされたと信じて生きるようになる。このことが起こる舞台は、神さまと神の民が向き合う礼拝なのです。神さまとわたし、という1対1の舞台が、信仰生活のスタートを形作っているのではないのです。信仰生活には、確かに他の人と共有できない、言語化することも、可視化することもできない側面があります。これについて、わたしたちの教会でも、牧会において向き合っています。1人1人に違った事情が与えられていて、それについて、プライバシーを大事にしながら、祈りの課題としています。何でもかんでも、やたらめったら情報として共有したらいいとは考えていません。大事なのは、人に知られることではなく、神さまに知られていることです。それを祈りにおいて、とりなしていく、ということが大事なのです。

  そのことを一方において大事にしつつ、けれどもわたしたちは、信仰を個人の私物に、矮小化してはならないのです。信仰は、教会という共同体において、神さまの恵みによって、生じます。個人の持っているもの、実績、潜在能力。こういったものは、信仰が芽生える要因ではありません。逆に言うと、それがなければ信仰者として生きられない、などということはないということです。神さまが出来事を起こされる、教会という共同体。先祖から子孫に至るまで、神さまが救いの出来事を起こされる、歴史の舞台としての共同体。そこで、神さま主導で与えられる信仰の歴史に、わたしたちは加えられていくのです。

  小児洗礼を受けた子どもは、信仰共同体の歴史に、今まさに入ったところです。この歴史の中、人は、ついに自らの口で、信仰を公に言い表すことさえできるようになる。罪深い人間も、そのように、神さまによって変えられていく。その入り口に立ったところなのです。教会の使命、クリスチャンたちの使命は、後から信仰の歴史に加えられた者が、ついには自分の口で、信仰を公に言い表すことが出来るようになることを、切に祈ることです。神さまが、この子どもを、あるいは、この洗礼を受けたばかりの人を、神さまについて証言できる人として、完成させてください。そう祈るのです。今より始まる教会員としての歩みにおいて、神さまの霊を受けるのを妨げる思いを取り除けられ、神さまから受けたままを告白し、応答することが出来るように、御言葉によって絶えず改革していってくださいと、祈りをもってとりなすことです。そして自分たち自身が、少々早く、この歴史に加えられた者として、少し前をその通りに歩んでいき、こっちにおいでと招くことなのです。

  洗礼は、契約です。先に契約を取り交わした者も、後からこれに加わった者も、皆、契約の条文は同じです。朝からぶどう園で働いた者も、夕方から働いた者も、受け取る報酬が同じであるというたとえ話の通りです。そしてこの契約の特徴は、神さま対、個人ではなく、神さま対、神の民であるところにあります。閉じられた契約ではなく、後から同じ内容の契約に、加わる人間が存在しうる、ということです。最後の裁きの時まで、この契約に加えられる民は、増え続け、それぞれにステップを踏んで、歴史を刻むのです。

  このことがはっきりと語られ始めたのが、創世記17章の、アブラハム契約なのです。代表者としてのアブラハムに対して、神さまが一方的に約束なさった祝福が、子孫の繁栄と、彼らの住む土地の保証でした。神さまとの間に、このような契約を結び、従って歩むことを約束した者、神さまのお与えになるものによって生きることを約束した者には、期間限定のではなく、永遠の祝福が約束されたのです。この時、アブラハムは99歳。99歳にして、彼は改名し、アブラハムと名乗るようになり、神さまとの間に契約を、それも破格の祝福に満ちた契約を、結ぶことになったのです。

  この、アブラハムの年齢が、わたしたちに、1つのことを教えています。それは、神さまとの契約関係に入るのに、年齢は関係ない、ということです。現役バリバリで、いよいよこれから、という時に、神さまからの祝福の約束、それも永遠の約束をいただくのではなく、人間的な物差しで測れば、もう人生の曲がり角、どころか、晩年に近いと言わざるを得ないところで、アブラハムは神さまとの間に契約を結びました。それも、この契約を履行しようとしたら、神さまの方がだいぶ、この世の常識からすると異例な、とてつもない偉大な業を起こさないといけないような、契約内容になっていました。99歳のアブラハムには、同じく高齢の妻、サラとの間に、未だ子どもがありませんでした。常識的には、もう授からない、ということで、16章では女奴隷のハガルによって、子どもを授かろうとしていました。これをもって、神さまからの祝福、と言うこともできるにもかかわらず、神さまは、この後を見ると分かるように、サラのお腹から男の子が生まれ、彼女をこそ、諸国民の母とすると、約束されたのです。ここに、この世の経験則や、生物学的な知識は当てはまりません。神さまがことを起こされる。神さまが、契約を結び、人を、神さまとの交わりのうちに生かすようにされる。このことが、強烈な仕方で、はっきりと示されているのです。

  99歳の高齢者に対して与えられた、子を授かるという祝福。0歳の子どもに対して与えられる、洗礼という祝福。いずれもが、わたしたち人間の、常識的な可能性によって、実現するものではありません。しかし、神さまの愛に限界はなく、神さまの主権の及ばない領域もなく、ただ、神さまが望まれれば、神さまの御心ならば、それは成る。神さまの言葉は、必ず実現する。神さまは、契約を100%、履行される。このことを、聖書はわたしたちに伝えているのです。

  そして、割礼として、アブラハムに血のつながった子孫に対してのみ、結ばれていた契約は、今やイエス・キリスト以降、洗礼という形で、あらゆる民族に開かれました。神の国という、永遠の所有地を、神さまの子どもとして相続する恵みを、アブラハム以来、アブラハムに血のつながった子孫と共に、イエス・キリストという、アブラハムの子孫として来られたお方を介して養子にしていただくことで、わたしたちも受け継ぐことを赦されるに至ったのです。いったいどうして、わたしたちがアブラハムの子らと、自称することが出来るでしょうか。石ころからでもアブラハムの子らを生み出すことの出来る神さまの、一方的な恵みを受けたから。ただこの一点において、わたしたちは神さまと契約を結び、神さまの民の一員とされることが出来るのです。わたしたちには、たいした持ち物はありません。でも、それでも、神さまは、神さまに身を明け渡して、聖霊の働きに身を委ねる者に、洗礼を授け、信仰を芽生えさせてくださるのです。だから、何もなくとも心配することはありません。神さまの恵み。一方的な愛。破格の契約の提示。これさえあれば、わたしたちは皆、同じ契約を結んだ者同士になれるのです。同じ神の国を、永遠の相続財産として、約束されることが出来るのです。わたしたちが何を言えたからではありません。わたしたちが何を行えたからでもありません。0歳だろうと99歳だろうと、その人の置かれている状況の如何を問わず、神さまの恵みにより、わたしたちは洗礼を受けることが出来るのです。無償の恵みとしての洗礼を信じ、守っていく教会でありたいと思います。

(兼子牧師の文章はほぼそのまま載せてあります。長い文章ですが、それを読むことによって、キリスト教が世界や社会、そして人間についてどのように考え、神への信仰をどのように捉え、表現しているかがわかってもらえると考えたからです。)

 

中世カトリック世界の異端騒動

 異安心論争で敗れた方は破門、追放という罪を受けることになりますが、その際立った例にカトリック教会の異端審問があります。教会は多くの人々に異端の烙印を押しましたが、ジャンヌ・ダルクコペルニクス、ガリレオも異端とされました。

 浄土真宗の「異安心」に相当するのがキリスト教の異端です。キリスト教における「影の部分」と言えば、中世カトリック世界に起きた「異端騒動」です。これは社会的にも大きな騒動となり、結局バチカンによって撲滅されていくのですが、何故、そうしたものが生まれ大騒動となったのか、考えてみましょう。

 

カタリ派

 1000年代の半ばに「ローマ教会」が東方の伝統的教会から分派・独立して「カトリック」を形成していきます。その後、カトリック教会は西欧社会に君臨・支配していくことになります。しかし、そのカトリック教会の封建制的な教会組織とカトリック至上主義的な教義、何より皇帝権力と争い、その権力まで取り込んでいく「俗化」に疑問を感じる人々もたくさんいました。そうした人々はカトリックとは離反した教えと組織を持つようになります。やがて1500年代にそれがプロテスタント運動となって現れるのですが、それ以前から反カトリックの運動がありました。それらはカトリック教会に弾圧され、「異端」と烙印を押され、闇に葬られます。

 プロテスタント運動以前の中世の「異端」の中で有名なのが「カタリ派」です。これは、12世紀後半から13世紀にかけて南フランスからスペインとの国境沿い地域、北部・中部イタリア、さらにライン河流域からヨーロッパ中に展開した、非常に大規模な集団でした。特に勢力の強かった南フランスの一派を「アルビジョア派(略してアルビ派)」と呼んでいます。「カタリ」はギリシャ語の「カタルシス・浄化」という言葉からきている言葉で、非常に厳しい禁欲的な戒律をもっていました。思想的には「マニ教」や「グノーシス思想」の流れにあり、10世紀ブルガリア地方に生まれた「ボゴミール派」の影響を受けて形成されたようです。カタリ派マニ教グノーシスの主要教義に則って、世界を「善と悪」の抗争と捉え、人間は本来善神の下にあったいわば「天使」のような存在だったが、悪神(旧約の神はこの世界の創造神であるが、絶対的最高神ではなく、低次の劣った邪悪な神であり、だからこの地上には災厄と邪悪が充満している)に捕らわれて牢獄としての「肉体」の中に封じ込まれてしまった存在と考えます。そこからの脱却と救済を告げたのが「イエス」ですが、このイエスは救世主キリストたる「神の子」ではなく、「御使いの神」であって、この世に「教師」として赴いたのであり、その教えに従って禁欲と清貧とによって自己覚醒をし、救済へと赴こうと説いたのです。これはまさしく古代に「異端」とされたマニ教グノーシス思想そのままで、正統なカトリック教会にとっては大問題でした。

 しかし、生活態度・精神的態度として、彼らは非常に厳しい戒律をもち、低劣・悪徳の「肉体」に奉仕しないように肉食・性交・結婚・財産などを拒否し厳しい禁欲生活を送りました。当然、「清貧」を尊び、「瞑想」の内に神との出会いを願うという原始キリスト教の精神が復活しているのです。しかし、当時の権威であるカトリック教会と思想的に衝突していますから、徹底的にローマ教会に憎まれ弾圧されて、「十字軍」まで結成され、武力によって壊滅させられてしまいます。

<ヴァルド派>

 「カタリ派」以外にも多くの「異端とされた集団」が生じており、その一つに「ヴァルド派」があります。リヨンの商人であったヴァルドの始めたもので、1173年頃に彼は旅芸人が聖アレクシウス伝を語るのを聴いて感動し、回心します。商品ばかりか自分の持ち物を一切売り払って貧者に施し、それからは清貧の修行者のような生活に入ったといいます。そして彼はフランス語訳の『聖書』を用いて人々に語るようになり、多くの聴聞・追従者がでるようになりました。

 ところが、彼は正式の聖職者の資格はもっていなかったので、1178年にリヨンの大司教がこれを問題視して「説法を禁止」しました。しかし、彼の教えに反カトリック的なものも教会に対する反抗の気持ちもないことから教皇アレクサンドル三世は、翌年に条件付きでの説法を許可しました。そして、再びヴァルドは説法をはじめたのですが、リヨンの大司教はそれが不満で迫害をはじめ、1181年には教皇を動かして再び活動を禁止させてしまいます。しかし、追われた弟子たちは各地に散って活動し、彼らは「リヨンの貧者たち」と呼ばれ民衆の支持を得ていきます。これがリヨンの教会だけではなくバチカンの不興を買い、1184年の会議で「異端」とされて破門になりました。その後1212年には、先代教皇の後を継いだ教皇イノケンティウス三世の取りなしで一部はカトリック教会への復帰が認められましたが、一部はこれまでの活動を継続し、現在でもイタリアなどに存続しています。

 彼らは教義の上でかつてのマニ教グノーシスの異端思想を持っていたわけではなく、またカトリックの教えに反する思想を持っていたわけでもありません。ただ「清貧にあって神のみを想う」集団で、教義の上で「異端」とは言えません。ですから、ヴァルドの当時の教皇もその説法を条件付きながら許可してきたのですが、問題は「正統教会の枠の外での活動」であった点にあり、地元のリヨンの大司教はそれを理由にヴァルド派を迫害し、バチカンによる破門にまで持ち込んだのです。この事件は、イエスの教えや使徒たちの共同体のあり方、初期の教父たちの教えを顧みず、自分の組織や権力に固執する中世カトリック教会の体質をよく示した事件です。

<ベギン派>

 上記の二つに少し遅れ、13世紀から14世紀にかけてヨーロッパ中に広まった異端で、やはり「清貧な生活」にこだわったのがベギン派です。生活は労働と托鉢により、快楽からは遠く、徳を重んじる生活を旨としました。目指すところは、神と魂を一致させることにあり、そうした境地に至った人にはもはや教会生活や宗教儀礼は必要なく、「自由な霊」となった人は永遠であり、罪も知らず、何物も必要としなくなり、神すら必要ではなく、至福の境地に至るというような教えをもっていました。これは「教会」を否定したと受け取られて、正統教会のバチカンに憎まれ、「異端」とされ弾圧されました。

 

 カトリック社会に異端が蔓延する理由として考えられるのは、本来のキリスト教は「イエスの権威」による救済であったのに、カトリックでは「バチカン教会の権威」による救済になってしまったということ、本来のイエスの教えは「魂の救済」にあって世俗的物質的救済にあったわけではないのに、カトリック教会の権威は世俗社会も支配し、「世俗権威」と変わらず巨万の富を地上に積んで「贅沢と驕奢」に流れ、「魂の救済」という側面が忘れられてしまったことではないでしょうか。そのため、反カトリックの「異端」とされた集団はどれも「清貧と禁欲と瞑想」という原始キリスト教にあった精神を重要視しました。そして、その根拠としてバチカンの教えよりも『聖書』そのものに描かれているイエスや使徒たちの姿を重んじたのです。つまり、客観的には「異端」とされた方が初期のキリスト教の精神に則っており、バチカンの方こそイエスの精神や使徒たちの共同体のありかたから遠く離れてしまったのです。

 以上のような教派的異端の他に中世西欧社会には「秘密結社」がありました。カトリック教会からひどく嫌われたという点で「異端」と通ずるところがあります。その団体は「儀式的」で、これがまた文学的・芸術的想像力を駆り立ててさまざまの伝承が作られていきました。モーツゥアルトの「魔笛」やゲーテの『ウィルヘルム・マイスターの修行時代』などが有名な例です。「秘密」結社ですから、その数や実態などが良く分からないのは当たり前ですが、とにかく会員相互の非常に強い結びつきが特徴で、同時に強い閉鎖性を持っていたとされています。こういう秘密性をカトリックは嫌い、とりわけ「異端思想」の伝播の媒体になっていると疑われたことから、後には教会法に秘密結社への加入を禁ずる条項まで入れました。

その秘密結社の中で有名なのが「フリーメーソン」で、秘密結社でもその内容が知られている団体です。もっとも、知られているのは初期のフリーメーソンではなく18世紀以降の近代のフリーメーソンです。その発祥は「フリーメーソン(自由な石工)」という名前が示しているように、「石工職人」の団体であったと考えられています。彼らはヨーロッパ各国を「自由に」行き来して教会堂や宮殿などを建設していましたが、そのために「職人組合」としての規律の確保や連絡・交流・救護所などの目的で各所に「ロッジ」と呼ばれる場所を作っていました。共通の規律や伝統・慣習を持っていた彼らは共通の儀礼や儀式を持ち、共通の道徳性を要求されていたわけで、当然閉鎖性も持っていました。18世紀頃になると様相が大分変わり、イギリスを中心に新たな展開を見せます。石工の団体ではなくなって、この団体に忠誠を誓う者なら誰でも入れるような組織に変わっていきます。これが「近代フリーメーソン」で、ここには貴族や役人、そして思想家までが加入していました。ただし、入団には推薦その他の資格が問われ、儀礼を経て入団が許され、秘密の合図がなければロッジに出入りすることはできませんでした。そして、1700年代の初頭には総会が開かれ、貴族社会的な組織構造が作られました。表向きは「神への信仰と博愛思想による相互慈善活動」が掲げられましたが、実態はかなり「自由思想」的なところがあったと見られ、そのために教皇による結社の禁止命令が出されていました。この自由思想には神秘思想や無神論まであったと考えられ、プロテスタントからも強い忌避感情を持たれました。

 もう一つ「薔薇十字団」というものが秘密結社の中で知られています。これは1600年の始め頃、突然ドイツからヨーロッパ全体にわたって現われ、実在した団体なのか架空の団体なのかもはっきりしません。「秘密結社」なのですから当然です。ただ、『化学の結婚』という著作を含む三つの著作がこの団体の名で出版され、多くの知識人の興味と関心を引いていきます。著作名からも分かるように「錬金術」や、あるいは「カバラー」とよばれるユダヤ教神秘思想を内容としていて、「知の拡大」「自然と社会の再生」といった思想は後の近代思想に影響を与えることになります。これは後にフリーメーソンに受け継がれたとされます。一方、18世紀以降、この「薔薇十字」を名乗る結社が多く出現し、「オカルティズム」への発展や、文学や芸術の「象徴主義」へと発展していきます。

「秘密結社」は社会から閉鎖的であったために、社会的権威から自由であるという側面を持ち、そこに「自由思想」が育まれる素地がありました。そして、それが近代思想を生む力の一端になったのです。

 

 ここまで目まぐるしく話題が変化し、とらえどころがないように感じる向きもあるかも知れません。妙高という一地域の小さな出来事が現在の妙高の運命を握っていただけでなく、その小さな出来事が実は世界の大きな出来事と同じような内容をもち、同じような結末をもっていたことがわかってもらえたと思っています。ローカルなことはグローバルなことと共通する内容をもっているということです。妙高は世界に通じ、世界は妙高に通じることの一例が新井別院と異安心事件なのです。妙高市は浄土真宗に独占されてきたと最初に述べましたが、その浄土真宗とはどのような仏教なのでしょうか。この問題が新井別院からスタートした私たちの探究の最期の問題です。妙高を支配してきた浄土真宗の正体を仏教の一派として探ってみましょう。

 

仏教とは何か

仏教は紀元前5世紀頃、インドの釈迦(ブッダ)の「悟り」によって開かれた宗教で、「真実に目覚めて悟りを得る」ことを目的としています。釈迦は29歳で出家し、36歳で真理に目覚め、80歳で入滅するまで45年間、仏教伝道の旅を続けた実在の人物です。仏教の原点は、難行苦行の末に苦楽を乗り越えた釈迦が中道の精神にたどりつき、菩提樹の下で瞑想によって正覚(悟り)を開いたことにあります。「悟る」とは、「心の中にある障壁を取り除き、真理を知る」ことです。一方、神から真理が示されることが啓示であり、啓示によって信仰が成立する宗教が「啓示宗教」です。「神の啓示」を受けてつくられたキリスト教イスラム教とは異なり、仏教は一人の人間が真理に目覚めて悟ることから出発し、修行を完成して成仏(如来となること)することを目的とします。[4]仏教の核心は、菩提樹の下の釈迦の境地を自分自身の中にも実現するために悟りを求めて修行することにあります。しかし、釈迦の悟りは宇宙に存在する原理や法則をあるがままに認識したものであり、釈迦が独自の瞑想によってつくり出したものではありません。釈迦の悟りは、誰でもが釈迦と同じように追体験でき、さらにそれらを深めていくこともできるのです。仏教の原点は真理を求める心にあります。悟りの浄土に至る強い信仰心をもつことによって解脱が可能となるのです。

釈迦は悟りを開いたばかりの時、世間を見渡し、人々の能力を見て、この悟りを理解できる者がいないと判断し、説法するかどうか迷いました。しかし、梵天の勧請によって、釈迦は最初の説法(初転法輪)を決意することができました。ヒンズー教の最高神である梵天の懇願を釈迦が受け入れるという形をとっていますが、これは仏教がヒンズー教より優位にあることを暗示しています。初転法輪に選んだ相手は、かつて難行苦行の修行仲間の5人でした。5人は釈迦の悟りを容易に認めず、緊迫した場面や厄介な議論が続きましたが、それが功を奏して仏教が誕生しました。釈迦の生前には今日のような仏教経典はありませんでした。インドでは、「尊い教えは声に出すのがよい」とされ、教えの内容は師から弟子へ口伝で継承されました。しかし、口伝では正確な内容が伝わらないことが問題となり、紀元前383年頃に第1回の結集が行われました。同様に、第2回目の結集が紀元前283年頃に行われ、第3回目の結集が紀元前244年頃に行われました。結集とは、自分が受けた教えを互いに暗誦し合い、皆で記憶することです。皆が教えの内容を表現し、比較することで教えの整合性を図り、伝えるべき内容を確認し合ったのです。第3回結集後の紀元前3世紀末に、修行の在り方、日常の生活態度の在り方、教団の在り方を定める律の考え方などについて、これを厳格に守るか、緩めるかの対立が生じ、固守派の上座部と柔軟派の大衆部とが分裂します。これ以降、上座部南伝仏教)と大衆部(北伝仏教・大乗仏教)はそれぞれ別の道を歩むことになりました。

その後の簡単な流れは次の表の通りです。

 

1世紀

インドから中国に大乗仏教が伝わる

4世紀

中国から朝鮮に大乗仏教が伝わる

538年

朝鮮(百済)から日本に大乗仏教が伝わる

646年

インドからチベット大乗仏教が伝わる

13世紀

イスラム教によってインドの仏教は消滅

 

仏教には伝統的な手法があり、仏教の内部で何か新しい運動が起こると、それがブッダの事蹟にどのように関連しているかということが必ず検討されます。大乗仏典の多くはこのように伝統的な仏伝を意識して、これに独自の解釈を施し新たな仏陀観を打ち立ててきました。仏典は釈迦の成仏とこれにまつわる様々な事象をどのように整合的に解釈したかの説明なのです。

ブッダの「悟り」の内容については、古来より多くの弟子たちが頭を悩ませてきました。例えば、原始仏教の教典(『阿含経』)だけでも15種類の異なった伝承があると言われています。これに加えて、大乗仏教の膨大な教典で語られる「悟り」は一体何種類あるのか。般若教典には、悟りの同義語として「空」や「深遠」が語られています。「般若の智慧」も同様です。このように、釈迦の説いた「悟り」の内容がこれを聞いた人によって異なるのは、釈迦が聞く者の理解力に応じて教えを説いた対機説法(病気に応じて薬を変えるように、相手の能力に応じて変える説法)にあると考えられています。この他にも情報を正しく伝達する難しさがあります。情報伝達の難しさは、何人もの耳や口を伝わる間に間違って伝わってしまうことにあります。人から人に伝播するうちに、聞いた者の理解力、伝える者の表現力によって情報内容が少しずつ変化して間違った内容を伝えてしまうのです。文字によって記録されることのない時代でしたから、正確な伝達は困難でした。各人は正しく伝えたつもりでもそこには限界があります。各人が理解した主観的な内容がそのまま正しい教えということになりかねません。

紀元前2000年頃、古代インドに侵入した初期アーリア人は、カースト制度と呼ばれるインド固有の社会制度をつくり、インドを支配しました。アーリア人は、高度な宗教哲学を持っていましたが、文字をもっていませんでした。その哲学は文字や記録として残されたものではなく、人々の暗唱によって伝承されてきたものでした。釈迦の時代にも文字で記録することはありませんでした。インドの文字の起源は、紀元前3世紀の阿育(アショーカ)王の国家統一以降のカローシュテイ文字(右から左に横書きする表音文字)やブラーフミー文字(左から右へ横書きする表音文字で、サンスクリット文字の起源)と考えられます。インドでは、人間は生まれた瞬間に、自分の帰属するカースト制度によって社会生活が決定され、生涯変わることのない生活を営まなければなりませんでした。カースト制度の中で人間が自由を求めることを釈迦はどのように考えたのでしょうか。釈迦は人間の自由を社会の変革に求めるのではなく、人間の精神の変革に求めました。これが釈迦の仏教です。大乗仏教になると膨大な教典の中からどれが最高教典かという形で優劣を比較する状況になって行きました。特に、インドから中国に伝播された大乗仏教にこれが典型的に現れました。中国人の「本物探し」気質がこれに拍車をかけることになりました。中国人の特質の「中華思想」(中国は世界の中心という思想)の一つに、他国の優れた文物を取り入れても、中国人の気質に合わせて受容する姿勢を守り、他国語が中国語に翻訳される段階から中国的な解釈に書き直されます。この瞬間から原文の本来の意味が失われることになります。日本にもたらされた仏教はほとんどが中国仏教です。中国では釈迦と同時期の紀元前5世紀頃にはすでに春秋戦国時代諸子百家により道教儒教といった中国人の精神文化の中核を形成した思想が花開いていました。中国に仏教が伝わったのは、漢の武帝匈奴を追い払い、シルクロードを開いた1世紀頃と考えられます。最初に伝承された教典は「空」の思想の大乗仏教であったと考えられています。敦煌遺跡の発掘調査などから、中国に伝えられた仏教は、当初は宗教というよりも新奇な外来哲学の一つとして受けとめられました。中国には紀元前から儒教道教という独自の社会道徳が定着していて、仏教はこれらとは相反する教えを含むもので社会的に受け入れにくい側面を持っていたのです。

儒教の目標は「社会の秩序」であり「礼・仁・孝」の実践です。道教の目標は「不老不死」であり「正しい生活」の実践です。「悟りと解脱」を目標とし、個人的な修行を実践する仏教との間には大きな違いがあり、仏教側は儒教道教との類似性(隠棲は出家に通じる、など)を強調しなければなりませんでした。また、儒教道教側には、時代の変化に対応するために古びた教義の刷新を、仏教思想を取り入れて計らなければならない事情があったのです。2~3世紀頃には、インドの竜樹(ナーガルジュナ)の「空」の思想や『大智度論』などが中国に伝えられたと考えられます。4世紀後半~5世紀初頭にインド系の僧・鳩摩羅什によって大乗仏教の「空」の概念を体系化した中観派の教典が中国にもたらされました。中国ではインドからの渡来僧によって次々に仏典が漢訳され、その内容の矛盾が目立つようになります。そこで、直接に本場インドで学ぼうという機運が生まれ、5世紀には法顕、7世紀には玄奘などの僧がインドに赴き、多くの経典を中国にもたらしました。儒教道教と仏教は、互いに国の庇護を争う立場になりますが、反発と受容をくりかえしながら、中国社会に適した形で融合(三教合一)していきました。629年、唐の玄奘が、仏典の原点に触れるべくインドに旅立ち、「経(教義・教典)」「律(規則)「論(教典の解釈)」の三蔵を中国にもたらしました。日本では「大化の改新」が行われた年です。

日本仏教は中国人の考えた仏教解釈に影響を受けていることを認めなければなりません。仏教は中国で研究され体系化されましたが、道教儒教の思想の影響を受けながら、中国人の受け入れやすい仏教に書き改められた部分があることを忘れてはなりません。仏教は中国人が変質させ、更に日本で日本文化との習合が図られました。特に、末法思想の浸透した鎌倉期の仏教は、インド仏教や中国仏教からの教義の縛りを受けることなく、日本独特の複数の鎌倉新仏教が成立し、大衆の支持を得て定着しました。鎌倉新仏教の登場によって、日本仏教の勢力関係に庶民の獲得という新たな構図が生まれ、激しい変化が起こりました。幕府の宗教統制が無力となった明治時代に入ると、檀家制度の下で固定化されてきた宗教の改宗が可能となり、新興宗教が多発する激動期が訪れます。これに加え、昭和の新憲法の下で更なる信教の自由化が急速に拡大し、新興宗教が乱立し、信者の獲得競争を繰り返しました。その結果、鎌倉新仏教系の信者の合計が仏教徒の過半数を占めるまでになりました。

 

念仏の始まり

念仏の始まりは、986年(寛和2年)に比叡山の横川で結成された「二十五三昧会」にあります。念仏は天台宗の修業道場で生まれました。この会の目的は、毎月15日に集まり念仏三昧を行い、臨終を迎えた会員を極楽往生させるために皆で念仏を唱え送葬することでした。夢や幻、白昼夢でもいいから、自分が往生したなら「往生した」、地獄などに堕ちたら「落ちた」と往生の結果をお互いに知らせ合うことを約束するものでした。参加者は花山法王などの皇族、貴族、学識豊かな僧侶などです。このメンバーに恵心僧都源信などがいましたが、この結社の指導原理は源信の著作『往生要集』でした。

念仏が比叡山で関心をもたれたのは、比叡山に蔓延していた末法思想によるものです。末法思想とは、人間が迷いに迷い転生を繰り返すのは時代や因果によって予め定められ、解脱不能という世界観です。仏陀はこの迷いの世界からの解脱を説きましたが、平安末期から鎌倉時代に生きた人々はこれを知る由もなく、末法の世では人々の心は煩悩と罪悪にまみれ、心身ともに悟りを得るための能力が落ち、成仏できる保証が全くない世界になると考えたのです。このような荒れ果てた世界では、唯一の救いは阿弥陀如来にすがり、念仏しかないと比叡山天台宗有識者たちは考えたのです。

『往生要集』は、法然(1133-1212)に決定的な影響を与えました。法然は、13才で比叡山に出家、43才で日本の浄土宗の開祖となります。法然は、保元・平治の動乱の中に生き、平家の台頭と滅亡、源氏の鎌倉幕府体制の成立など社会が混迷する中で末法思想を真正面から受けとめて生き抜きました。さて、『往生要集』の特徴は、人間が迷って輪廻転生を繰り返す世界を壮絶に描写しています。特に、様々な地獄の生々しい描写は人々の無常観や不浄、苦を増幅させるものでした。末法の人々は救いのない死後の世界から救われる方法を切に求めました。末法思想の特徴は「劣悪な素質しか持ちえない末法の衆生はどんなにあがいても往生の縁がなく、自力での往生・解脱は望めない」というものですが、この思想は天台宗の僧によって世に広められました。  比叡山から末法思想が生まれ育ったのは、まさに逆説です。比叡山に始まる末法思想天台宗の僧侶によって流布され、民衆に伝播されて社会に蔓延し、それが鎌倉仏教の誕生の契機になったのです。一切の法が滅して人々に救いがなくなるという末法思想に、この世の終わりを予言する終末思想が結びつき、鎌倉時代特有の思想ができあがり、人々は救いようのない絶望感にさいなまれました。その中で法然が日本の念仏宗(浄土宗)を開きました。

法然が専修念仏を説いたのは、中国浄土教の善導(613-681)の『観経正宗分散善義』巻第四の影響によるものです。法然は、この『観無量寿経疏』「散善義」の中の「一心に弥陀の称号を専念して、行住坐臥に、時節の久近を問わず、念々に捨てざる者は、是を正定の業と名づく、彼の仏願に順ずるが故に」という文に着目して、阿弥陀如来の救済が専修念仏と他力本願にあることを悟りました。どうにも救いようのない末法の衆生を浄土に救いあげることができる仏は阿弥陀如来以外にはない、と考えたのです。善導は、中国・天台宗の開祖・智顗(538-597)の弟子であった道綽(562-645)の弟子です。浄土教に帰依した道綽に師事して『観無量寿経』学び、『阿弥陀経』の思想から「散善義」の上記の文を著したと考えられています。天台宗には他の宗派の教えを学ぶことを推奨してきた伝統があり、浄土思想を学ぶ僧がたくさんいたことから、問題なく受け入れられたものと考えます。

法然が『選択本願念仏集』で説いた他力本願とは、自ら菩提心を求めることは素質や能力がなく、また継続的な努力を続けられない人にはできないことだから、すべてを阿弥陀如来に委ね、無条件で阿弥陀を信じ切ることによって「即得往生」の救済が得られるというものです。

法然の思想は、阿弥陀如来の慈悲を際限なく拡張解釈して、他力本願を強調することによって、誰もがもれなく西方浄土阿弥陀如来に救済されるというもので、釈迦の教えとは異なる主張です。「末法の非常時の救われ方」を説く法然の思想は、釈迦や大乗仏教の思想とは本質的に異なるものです。

親鸞(1173~1262)は法然の弟子です。親鸞は公卿・日野有範の長男として生まれ、9才の時、京都の青蓮院で得度し比叡山に入り常行三昧堂の堂僧となりました。浄土真宗の開祖となりますが、生前は流罪後に非僧非俗の生活を送ります。親鸞は20年間念仏修行に専念しましたが、悟りを得られず、絶望の中で本山のエリート僧の道を捨て、29歳で比叡山から下山します。当時の比叡山は、熾烈な派閥抗争に加えて、僧兵が比叡山の中だけでなく京都市中でも乱暴狼藉を繰り返すことが度重なり、目も当てられない喧噪の中にありました。寺院の特権を護るために神輿を担いで朝廷や権門勢家に強訴するというのは比叡山延暦寺が始めた悪弊です。

親鸞は京都の六角堂で百日間の参籠中の95日目に救世観音の夢告を得たと言われています。「お前が宿報(前世で行った善悪の行為による報い)により女犯の罪を犯すときは、私が妻となって犯されよう。一生の間、お前の身の飾りとなり、臨終には極楽へ導こう」という内容だと伝えられています。女性を観音の化身にして、女犯の罪から逃れる親鸞の姿に痛々しい情念を感じますが、世俗の中にあっても往生の道は開かれている、という発想の転換には親鸞の苦悩が透けて見えます。親鸞の妻帯女犯は当時の仏教界の伝統から見れば間違いなく破戒僧の宣言と受け取られる性質のものですが、当時の仏教界は隠れ妻帯や稚児の男色などが横行し、親鸞だけを破戒僧として糾弾できる状況にはありませんでした。さらに、親鸞が還俗したことから、彼の行いを荒立てる必要が無くなったとも考えられます。これは親鸞自身が一番よく解かっていたことですが、抑えられない性欲に対して観音菩薩の化身を持ちだしても実は何の解決にもなっていません。今日の私たちなら口に出して語り合えますが、当時の僧侶にはこのような問題を語ることなどあり得ないことで、この点親鸞は真面目な性格ゆえに口に出したと思われます。

法然は智慧に満ちた円満な人柄でしたが、親鸞は一生貧しく、世に知られず、心情も障り多く、信仰・思想はがむしゃらに一途で、煩いと暗さとを含む性格であったと言われています。親鸞は生まれながらに宿業を背負った自分を自覚してこれを受け入れ直視したのです。法然は妻帯しませんでしたが、親鸞は三度も結婚し、抑えきれない愛欲の炎が自分の中に存在する事実を受け入れました。法然親鸞に対して「一人で念仏できないというなら、妻帯して念仏申しなさい。僧では念仏できないというなら、俗のまま念仏申せばよく、俗ではできないというなら僧になって念仏申せばよい」と教えています。親鸞は最初の妻とは越後に流罪になったときに別れ、二番目の妻とは死別し、三番目の妻・恵信尼とようやく落ち着くことができたといいます。しかし、親鸞は各地に残した子供たち、別れた妻の貧窮、妾になる娘に対する心労、裏切った息子との対立や縁切りなど、様々な煩悩から解放されることが終生ありませんでした。

平安・鎌倉の時代、末法や地獄は心の中にあるものだという認識がありませんでした。これらは心の外に実在する事実として受け取られ、ほとんどの宗教家は自己の内面の問題、意識の問題として受け止めませんでした。

 

念仏の救済思想

 念仏を唱えることによって何が起こるのでしょうか。そもそも念仏を唱えるだけで往生できるのでしょうか。それは釈迦の教えと同じものなのでしょうか。

災害、大地震などの天変地異、戦争・動乱で大勢の死者がでる、凶作、物価の急上昇、生活苦、価値観の喪失または崩壊などが、宗教が社会に広まる理由です。人心が荒廃し政治が信頼できなくなると人々は心身の救済を宗教に求めるようになります。

浄土教には「厭離穢土、欣求浄土(穢れたこの世を厭(いと)い離れたいと願い心から欣(よろこ)んで平和な極楽浄土を冀(こいねが)うことで、平安中期の高僧源信(恵心僧都)が著した『往生要集』の中の言葉)」の思想的背景があります。実は、徳川家康三河の領主として独り立ちを始めた頃、浄土宗寺院と争い、多くの家臣が寺院の味方になって家康に叛旗を翻して謀反を起こしました。家康の家臣団は主家思いの者が多く、忍耐強い団結力がありました。家臣たちが主家に弓引くことなど考えもしなかった家康は窮地に陥りました。彼らが家康を見限った理由は、主人に背くことよりも阿弥陀如来に背く不信の方が恐ろしかったからですが、戦場の死よりも地獄行きの方が恐ろしいと思われたことは家康に大きな衝撃を与えました。家康が浄土宗を認めて檀家となることで和解が整いましたが、この騒動は家康の生涯の戒めとなりました。これ以降、家康は、「厭離穢土、欣求浄土」の軍旗を作って本陣に立て、家臣たちはこの旗の下で忠勤に励みました。  徳川家は治世の為に天台宗(上野寛永寺[5])と浄土宗(芝増上寺)の檀家となり、将軍、家族の遺骨を分散して菩提を弔わせました。「厭離穢土、欣求浄土」の思想は、現世を苦界とみて離れ、浄土を願う思想です。この思想は日本で変質し、ごく普通の人間は自力で解脱できない、劣悪な素質しかもたない民衆は解脱し往生することができない、だから、自力を捨てて阿弥陀如来に浄土に救い取って貰うほかに道がないという他力本願が強調されました。あわれな衆生を救いあげてくれるのは阿弥陀如来以外にない、と固く信じるのが浄土教です。  この考えは釈迦の教理とは相反しています。信者の向上心(菩提心)を喪失させておきながら、成仏を願うことは自己矛盾でしかありません。法然は、末法に生まれ合わせた自分の存在を「罪悪深重の凡夫」と捉えました。末法意識は特に当時の知識人、支配層に浸透しました。宇治平等院は栄耀栄華を極めた藤原道長の浄土思想を表す建造物として有名です。浄土を表現した壁一面に阿弥陀如来の来迎図が鮮やかに彩色されています。臨終の間際に高僧に見送られ、阿弥陀如来の来迎を望み、それでも不安を感じて阿弥陀如来の手と自分の手を五色の蓮糸で結んで浄土に救い取られることを切に望み、極楽往生を願いながら冥土に旅立つ姿と伝えられています。

浄土思想は平安貴族の欲望の果てに花開いた極楽浄土の展開でもありました。現世の権力も栄耀栄華もあの世まで持っていくことはできません。彼らは死後の世界でも生前と同様に、むしろそれ以上に変わらぬ栄華を維持しようと心を砕きました。浄土思想が平安貴族を魅了してやまなかったのは、華麗な極楽浄土が実は一握りの権力者の栄耀栄華を霊界の世界に持ち込むことで実現すると思われたからです。しかし、院政の失敗と貴族の没落で、政治の混迷の中から台頭した武士が権力を握る時代を迎えることになります。

現世の悲惨な境遇は前世の報いとする「因果応報」の思想が蔓延します。この思想は農民などが飢餓、貧困、病気に苦しむのは前世の報いであると考えます。生き地獄に置かれ、差別される人々は身から出た錆びということになります。あらゆる社会悪や矛盾、身分差別は前世の悪業によるものです。このような社会状況を背景にして念仏信仰が急速に広まります。  法然の『選択集』の思想的な背景には、『無量寿経』を、(末法になって)法滅尽の後、100年間(この経を)世間にとどめ置くとあることを絶対的な預言として受け入れ、末法には『無量寿経』だけしか効果がないと受け止めたことがあります。この『選択集』は法然66才の時、外護者の九条兼実五摂家)の懇請により撰述された書ですが、「称名念仏は仏の本願にかなう」とする唐僧・善導の著作『観経疏』の一文を根拠とするものでした。念仏は全ての人々を極楽往生させる万能薬であり、これを聞いた人々が狂喜して受け入れたこと、このような信仰の在り方の連鎖が阿弥陀如来の仏力を曲解するという途方もない新宗教を生み育てました。

でも、肝心の臨終の場で念仏を唱えれば誰でも本当に極楽に行けるのでしょうか。人の臨終、いわゆる「お迎え」を考えるときに直面するのは「譫妄(せんもう)」の問題です。譫妄とは臨死期の精神錯乱状態で、意識混濁に加えて幻覚や錯覚が見られるような状態です。医学的には、認知機能の全般にでる意識障害ですが、一般的には情動の不安定性、幻覚をともない、不適切な衝動、非合理的、暴力的行動をともなうものです。そのほとんどが急性で可逆的な精神疾患です。発生率は70~80%とされています。その原因は各人異なりますが、医学的には酸素不足、内臓疾患による毒素の蓄積、脳の委縮や病変が考えられます。終末期の患者のほぼ70%が譫妄状態になるといいます。譫妄の影響は、突然に暴れだす、凄まじい恐怖感に襲われる、または、とても楽しい気分になる、ことなどですが、譫妄状態の内実は外から見ても分からないことから周囲の人々に衝撃や不安感を抱かせます。四分の三以上の遺族が苦痛を感じる経験をしています。

浄土宗の教義である『念仏名義集』の下巻に臨終行儀が記されています。その中に「よくない様子の臨終では三悪趣地獄道、餓鬼道、畜生道)に堕ちること必定」という記載があります。臨終がどのような様子であろうと、みな極楽浄土へ往生できると主張する人がいるが、それはあきらかな間違いであると言っています。医療の現場では、譫妄状態の対処を依頼された医師は、まず向精神薬を投与しますが、それでも効かない場合は麻酔を投与します。こうなると、患者は意識のないまま最後を迎えることになります。このように臨終正念とは言葉だけの世界に漂っている不安定で切ないものに感じます。人は最後を迎えると「ありのままを受け入れる」淡々とした精神状態を作ることがほとんどの場合できないのです。

 

ユニークな念仏思想

 法然親鸞の念仏を唱える仏教はインドの本来の仏教と異なるだけでなく、釈迦の仏教とは異なる仏教として多くの人の信仰の対象となりました。

浄土宗の法然は「他力本願」の専修念仏の思想を打ちだして、急速に広まった終末世相の中で生きる無力な民衆の共感を集めました。法然は、阿弥陀仏を信じ「南無阿弥陀仏」と唱える者は誰でも極楽浄土に救い取られるのだから、自ら厳しい修行を積まなくても阿弥陀仏の力によって悟りを開くことができるとして「他力本願」を人々に勧めました。これは、自力を主体とする伝統的な修行を否定する大胆な主張で、大きな驚きを持って民衆から迎え入れられました。

唐の道綽(562-645)は『安楽集』に自力の行を励んでこの世で悟りを開くことを目指す「聖道門」(釈迦の教え)を否定して、阿弥陀の本願を信じて念仏して浄土に生まれ来世に悟りを得ようとする凡夫の道の浄土門を勧めました。浄土教を大成した善道(613-681)の『観無量寿経疏』の「散善義」に「一心に阿弥陀如来の名号を称えるならば、阿弥陀如来は決してその人を捨てず、救ってくれる。なぜなら、それが阿弥陀仏の願だからだ」とあります。阿弥陀仏はすべての人々を救い上げる義務があるから誰でも救われるはずだ、というのがその根拠です。末法思想を背景にして日本の中で広まった他力本願の思想は、仏教の修行の伝統を根底から否定する新しい思想でした。末法では、聖道門は悟りがたく、浄土門は容易だ、とするのがその根拠です。しかし、これは事実ではありません。釈迦は修行方法として浄土門を説いていません。浄土門は釈迦の精神に相反するもので、釈迦滅後のインドの大乗の菩薩が説いた『無量寿』、『阿弥陀教』の思想です。

法然は、『選択集』で念仏至上の核心を述べました。唐僧・善導の私論である『観経疏』の一文によって、これまで大乗の諸菩薩が積み上げて来た大乗仏教の叡智の方法論の全てを尽く捨て去り、阿弥陀仏の本願によってのみ救われるとする思想を選択しました。法然の弟子、親鸞は『教行信証』を著して、「自分の罪を減らそうとするのは、阿弥陀仏の本願、力を信じていない証拠である。そのような善人(自力の向上心を持つ人)は、疑いの心が残っている以上極楽に入れない。」「すべてに自力を捨てて、弥陀の前に自分を投げ出せ。その瞬間に極楽浄土が確約される。生きたまま弥陀にすくい取られるのだ。」と「絶対他力」を主張しました。

親鸞の弟子唯円は、親鸞思想の真意が正しく伝わらず、師の意志と異なる信仰を正して信心の本質を語るために『歎異抄』を著し、伝統的な仏教とは明らかに異なる「悪人正機説」という衝撃的な説を唱えました。それによれば、親鸞の真意は「真実心(自力の向上心)を持てない凡夫(悪人)ほど阿弥陀仏が救い取ってくれるはずだ」という主張にあります。なぜなら、こういう人ほど阿弥陀仏の救済があるはずだと親鸞は考えたのです。法然(浄土宗)と親鸞(浄土真宗)の違いは、法然阿弥陀如来にすがりつき、称名念仏、専修念仏することによって救済が得られると考えますが、親鸞は、称名念仏さえ思うに任せない人がいる、だから、「阿弥陀如来の力を信じること」が信心の第一歩だと考え、(剃髪しない)在家仏教を中心に考えました。

親鸞は善と悪を自問自答し続け、「自分が性欲に悩んだように、人はどうしようもない煩悩とともにあり、善悪の判断は条件や環境により変化する不安定なものだ」と考えました。親鸞の生きた時代は朝廷から武家への政権交代が始まる動乱の中にあり、権力争いや反乱が多発し上皇天皇が流刑されるなど末法の始まりという世相を反映したものでした。親鸞の思想は明らかに釈迦が否定する性質の宗教です。浄土宗では「声に出して念仏する」ことに意味があるとしますが、浄土真宗では「阿弥陀仏にすがる心(信仰を心に限定)」にこそ意味がある、と考えます。親鸞の門下は、その当初から肉食妻帯を許し、管長職は世襲制でした。日本の浄土真宗は本家の中国浄土宗とは全く異質のものになってしまったことは確かです。  日本では、明治維新の改革で太政官が僧の妻帯を許可したことで、どの宗派でも寺院の世襲と私物化が始まり、その中には僧の質の低下が問題視されるケースがあることが指摘されています。浄土思想は日蓮思想と相反する概念を持っています。浄土系の思想の特色は、「この現世では救われるはずがないから、阿弥陀仏の手で極楽浄土に救い取ってもらい、来世で成仏する」というものです。現実を否定するこの浄土思想は、現実肯定主義の日蓮から激しい攻撃を受け、また、為政者から弾圧を受けました。しかし、すべての人々をもれなく救う「阿弥陀如来の誓願」が次第に人々の心を捉えました。

日本の浄土思想は、釈迦にない思想で、釈迦仏教の理念に相反する思想です。大乗仏教の特徴的な思想である菩薩行道の修行とも大きく異なる特異性を持つ思想です。浄土教は、『無量寿経』、『阿弥陀経』、『観無量寿経』の浄土三部経を根本経典としています。浄土教が成立したのは2世紀初頭の紀元100年頃に編纂された『無量寿経』、『阿弥陀経』に始まります。しかし、インドで流布された形跡はなく、インドでは阿弥陀如来像が発見されていないこと、宗教以外に銘文や文献に浄土経典の引用や言及が全くないことから、インド人には受け入れられなかったことが分かります。  『観無量寿経』はインドではなく4-5世紀頃の中央アジアで編纂された経典です。翻訳の途中で中国色が加味され、いわゆる中国仏教色が濃厚ですが、この経典は、特に、中国と日本の浄土教思想の考え方に決定的な影響を及ぼしました。法然はこれら三部経のいずれかに比重をかけることはありませんでしたが、他の念仏者を見れば、親鸞は『無量寿経』を、証空は『観無量寿経』を、一遍は『阿弥陀経』を、それぞれ重要と位置付けました。

浄土思想は、古代インドで広く展開した「仏国土」に由来する思想です。インドでは紀元前後の大乗仏教運動の中で救済仏思想が次々に生まれました。特に、西方の極楽浄土の教主・阿弥陀如来の48願の徳目に人気が集中しました。本来的には多くの仏の存在とその仏の国土(浄土)を意味するものでしたが、中国、日本の阿弥陀仏信仰が広まってから、一般的には阿弥陀仏の浄土を示すものと受け取られるようになりました。

インドの浄土思想は、釈迦仏教の精神を継承するものであり、中国の変質した浄土教とは異なります。日本の浄土教のように菩提心(自力の向上心)を否定する称名念仏や専修念仏の思想をもっていません。釈迦の仏教精神を継承するインドの大乗菩薩の中に中国や日本のような称名念仏や専修念仏を広める者は存在しませんでした。日本特有の浄土思想は、釈迦仏教の精神や教理の縛りがある中で自然に発生する思想ではなく、釈迦仏教の拘束を受けない者にしか持てない思想だと考えられます。菩提心を否定する称名念仏や専修念仏の思想は、仏教といえるかどうかという基本的な問題を含むものであり、実に悩ましい事柄を多く抱えています。中国で大きく変質し、日本でさらに変貌したのが日本仏教(鎌倉新仏教または祖師仏教)なのです。

浄土教は、中国に2世紀の後半に伝えられ、5世紀初めに慧遠が白蓮社という念仏結社をつくり、曇鸞浄土三部経から『往生論注』を著し、道綽が『安楽集』を著し、善導が『観無量寿経疏』を著して称名念仏浄土教が確立しました。中国では、中国で生まれた「念仏」と「禅」が融合して「念仏禅」が誕生し、中国禅の大勢を占める大きな勢力に育ちました。中国禅は中国仏教の基盤を形成する大きな勢力に発展しました。

日本では、7世紀前半に浄土教が伝えられ、9世紀前半に円仁が中国・五台山の念仏三昧法を比叡山に移植しました。良源が『極楽浄土九品往生義』を、源信が『往生要集』を著して天台念仏教が誕生しました。これが末法思想の影響により、一遍が時宗を開き、良忍融通念仏宗を開き、法然が『選択集』を著して称名念仏を主張して浄土宗を、親鸞が『教行信証』を著して専修念仏を主張し浄土真宗を開いたのです。

 

布教と発展

 妙高の宗派分布の実態に驚き、それがこのエッセイの動機になったのですが、浄土真宗の拡大の一端を述べてみましょう。

浄土真宗(本願寺教団、一向宗)は、教団運営と人心掌握に抜群の才能を発揮した第8世・蓮如(1415-1499)が出るまでは、本願寺は参詣の人もほとんどない窮乏のどん底状態にありました。蓮如は、第七世・存如の庶子でしたが、跡目争いに勝ち残りその地位を掴みました。蓮如は27人の子供(13男14女)を本願寺教団の拡張の布石として利用しました。5男の実如に第9世を継がせ、12男を重要地点に配置し、14女を有力寺院や新たに帰属した重要寺院に嫁がせるなど、本願寺中心の絶対的な専制体制を維持するために利用しました。蓮如の布教拡大は、御文(御文章)と呼ばれる独自の文書伝道でした。これは消息文(手紙)の形式による念仏指導で、読む者に絶大な効果がありました。その布教の主な対象は農民でした。農村部に一向宗が浸透した結果、その後に誕生した日蓮宗は農村地域への布教が困難となり、町衆といわれた商工業者をターゲットとして対照的な棲み分けをせざるをえなかったのです。そして、一向宗徒と日蓮宗徒が同一地域に混在することがほとんどない社会環境が形成されました。

この頃、真宗門徒仏光寺派は、名帳絵系図による布教活動で勢力をのばしていましたが、名帳に名前を記された者は往生が決定されるとし、それは異安心の疑いがありました。また他派でも同様の異安心が蔓延して混乱が起こりました。蓮如はこれを徹底的に攻撃排除するために、仏壇の本尊や名号に裏書きを自著し布教活動を行いました。各地に本願寺勢力が扶植され、門徒が組織化され他派に競り勝つ実力を持つようになると、比叡山衆徒は本願寺を仏教の敵と見做し、1465年に京都大谷本願寺を襲撃しました。蓮如は近江に逃れ、各地に布教活動の場を移していきます。1471年、越前の吉崎に拠点となる「御房」を建て、北陸地方を地盤としていた真宗高田派(天台系の諸行を取り入れていた)を一掃して、本願寺勢力を北陸地方に定着させました。蓮如の布教で本願寺門徒は各地で講を組織し、やがて自治単位に膨張し、一向一揆の組織的な基盤になりました。

来世の往生が約束されている一向宗徒は、親鸞の教えを守るために、死をも恐れず殉教の為に徹底的に戦う決意をしています。一向宗(浄土真宗)の法主や有力寺院の代表者の地位は世襲制で妻帯です。信者は法主や代表者を尊敬して仰ぎ、多額の金銭を寄進しました。今風に言えば、当時の一向宗はオカルト教団です。この時代は兵農の分離がなかったので農民は何時でも武装できる状態にありました。しかも、農民は各地の戦国大名に強制的に駆り出されて従軍させられていましたので、戦闘経験者が多数存在し、武装蜂起すればいつでも強力な即戦力となることができました。一向一揆の勢力が戦国大名に匹敵する軍事力を所持して強力な戦闘力が発揮できた秘密はここにありました。しかし、一向宗徒の前途は多難でした。実は本願寺を絶対支配者とする専制体制の中では、屍を野に曝すのはいつの場合も門徒であり、寺院や僧から蓄えを収奪されるのも門徒でした。門徒は、往生をカタにとられ、自身の生死の権利まで法主に握られるようになっていきます。一向宗は北陸に進出した17年後に、蓮如の指導のもとに加賀国の守護大名富樫政親と戦い、これを破り、加賀に門徒農民の自治国「百姓の持ちたる国」をつくりました。富樫氏の治世の在り方に反感を持つ小領主や土豪・寺院勢力を結集して、農民や小領主・土豪のためにという大義名分を掲げて戦ったのです。戦国大名を驚愕させた一向一揆の影響は各地に波及し、宗教勢力の侮りがたい軍事力の存在を示しました。

蓮如は、1487年京都山科に本願寺を再建し、1497年には摂津(大阪)の石山に石山御坊(石山本願寺の前身)を建立し、1499年、85才で往生しました。顕如(1543-1592)は、12才で第11代法主となり、正親町天皇勅命で最高寺格の門跡となります。当時、本願寺は日本一の裕福な寺でした。朝廷が経済的に困窮して即位の式典が行えないことから、顕如を門跡にする条件で式典の費用を本願寺が提供する政治的取引を行ったのです。

この頃、織田信長の勢力が破竹の勢いで膨張し、地方の一向一揆を武力弾圧し、顕如を圧迫しました。それに対して、顕如は伊勢や長島、加賀や越前、紀伊や雑賀などの一向一揆を率いて織田信長と対峙しました。しかし、織田軍に一揆が平定されると、反織田勢力の朝倉氏や浅井氏、安芸の毛利氏、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信などと盟約を結び織田包囲網を形成しました。1570年から最後の砦である本拠地の石山御坊で10年間の包囲戦が勃発しますが、同盟軍の諸大名が次々に敗退して石山本願寺は孤立します。織田信長の軍団が本願寺の巨大な包囲網を破り大勝を収めた秘密は、織田家の軍団が専門職の戦闘集団で構成されていたことにあります。織田軍団の特徴は信長の先見性と合理性によっていつでも戦える専門職の武士団で構成されていました。農民兵を徴用しない信長軍は自領の農民の怨嗟の対象になることなく、状況に応じて長期滞陣が可能な軍団でした。機動力に優れた軍団を複数所持していたことから同時に多方面の戦力展開が可能でした。信長は若年の頃から、家臣団の兵農分離を推進して戦闘員を居城の城下に集めて配置し、いつでも戦闘ができる体制を整えていました。当時の最強軍団であった越後の上杉軍や甲斐の武田軍は、臨時に徴用された農民軍で足軽(歩兵)軍団を構成していたので、農繁期には戦争を継続することができない欠点がありました。ほとんどの戦国大名は、戦時のつど自領内の農民を徴用して軍団を編成せざるをえなかったので、急場に間に合わず、手間取ったり、雪の降る冬は動けないなど出兵は困難を極めるのが通常でした。特に、農繁期になると戦闘を継続することができず、和議を結んで撤退するほかありませんでした。

信長の領国は産物が豊かなうえ、楽市楽座を奨励して領内の通行税を廃止するなどの政策を実施して商業活動を活性化させていました。堺、京都、大阪を直轄地として戦費を調達し、鉄砲など武器や鎧兜の強化と軽量化などの武具の最新化に積極的に取り組み装備が優れていました。信長は富国強兵の方策をかぎわける能力と部下を戦略的に使いこなす能力が卓越していました。強固な石山本願寺の包囲網が完成して本願寺勢力が孤立していたので陥落は目前に迫っていました。和議か徹底抗戦かで揺れる中、顕如は和議を決意しますが、長男の教如(1558-1614)は和議に反対して義絶されました。正親町天皇の仲介により退去しましたが、その後も本願寺は退去派と籠城派が対立し分裂しました。顕如紀伊に退去し、泉州、天満を転々としますが、1592年、豊臣秀吉から京都の土地を寄進され本願寺(現在の西本願寺)を再興しました。

その後、本願寺は相続問題がこじれて家騒動が治まらず、秀吉や家康の介入を招き西本願寺准如)と東本願寺教如)の二派に分裂しました。これにより、歴史に初めて存在した戦う武闘宗教集団としての本願寺勢力は政権に従う教団となりました。本願寺は他の教団・宗派と同様に政権に寄り添う道を選択したのです。

 

神道とは何か[6]

 ここまで浄土真宗の特徴を述べてきましたが、妙高市に限らず日本中に見られるのは寺院と神社です。寺院の中に神社があるのも普通に目にします。浅草寺の境内には浅草神社があります。すると、気になるのはこの神社の存在です。仏教と並んで私たちの生活に関わってきたのが神道です。妙高市にも歴史的に重要な関山神社や斐太神社があります。そこで、最後に神道について簡単に見ておきましょう。

神道は日本固有の宗教です。「八百万(やおよろず、「多数の」という意味)の神々を認め、受け入れる多神教ですが、その原型はどのように生まれたのでしょうか。

神道」という呼び方は、仏教が日本に伝来した後に仏教と区別するためにつくられました。神道の特徴は、万物に霊魂が宿っているという精霊崇拝(アニミズム)にあります。神道には仏教のような理論的な教説や倫理、戒律などの体系はありません。原始神道は、自然や神に対する畏敬の念から始まり、人の生きる道と自然の変化とが融和することを目指していました。地縁、血縁などで結ばれた村落や部族の共同体の守護と安楽、共同体としての意識の統合を目的にするところに神道の特徴があります。

神道は、社会の単位である氏族の地縁、血縁集団の生活習慣の中で生まれた素朴な信仰に基づいています。古神道では神々が鎮座する山や川などの自然領域を「神奈備(かんなび)」として神聖化しました。神霊が降臨する場所を「依り代(よりしろ)」、降臨した神霊が宿る神聖な物を「御霊代(みたましろ)」といいますが、鏡、剣、玉石などが神社の御神体とされました。神の住む山「神奈備(かんなび)」や森などの神聖な場所に置かれた巨岩、巨石の御座所は「磐座(いわくら)」、樹木の御座所は「神籬(ひもろぎ)」と呼ばれますが、常世(神の世界)と現世(この世の世界)の境界線の役割を果たす装置と考えられるものです。「神奈備(かんなび)」や「神籬(ひもろぎ)」は神の降臨を仰ぐ「御座所」として崇拝されましたが。古代のシャーマンはこの御座所で秘術を用いて神の信託を受け取りました。

やがて神道の神々を祭神として祭る社殿がつくられ、拝殿や本殿を持つ祭殿が信仰拠点の建物として常設化され「神社」が登場しました。次第に生活の節目や農作物の生育や穫り入れなど重要なタイミングに合わせて祭壇を設けて厳かに祭祀を執行するようになり、日常的な常設の祭場として神社が普及したと考えられます。神社で祭祀されている祭神には①自然事象に由来する自然神、②神話伝説に由来する伝記神・霊能神(天照大神大国主命など)、③人間に類似した神体や性格を持つ人格神(英雄・功労者、皇祖神、祖先神など)があります。神道宗教的な教義体系を持っていませんが、本地垂迹説による神仏混淆を受け入れ、修験道と相互に影響し合ってきました。

神は、大いなる存在であり、人の知識ではとても知ることができない存在であると思われてきました。人の知識ではわからないのが神と考えられたことから、一般の人から見れば、神を祭祀する王や司祭者は特別な人、神に準ずる人、さらに神そのものとみなされて、王権の民に対する支配権が確立されていったと考えられます。古代の神道は、原始神道の精神を継承しなら、興亡する部族、氏族の支配者が共同体の統率の手段として司祭者を置いて神の言葉を聞き、それを共同体の人々に伝え受け入れさせるという支配の手段として使われるようになりました。司祭者の地位が向上し、巫女が配置されて儀礼化が整えられていきます。王権が確立するとともに、神道は支配者の政治的な権威を高め、神社を通じて人々を支配するようになります。

日本古代の創世神はスサノオです。古い神社の祭神スサノオオオクニヌシが圧倒的に多く、アマテラスは少数派で、平安以降の神社に偏っています。全国の神社を分類すれば、新羅系がほぼ80%の圧倒的多数を占めていることから、日本古代の創世期に活躍した渡来系の人々は圧倒的に新羅系が多いことが分かります。古代の霊場として尊崇された三輪山祭神は大物主)の時代に終わり告げる目的で伊勢神宮が創建されたと考えられています。アマテラスの古代創世期の神話や顕彰は、スサノオオオクニヌシの業績を切り取って付け替えられたものです。『古事記』によれば、伊勢神宮の創建は第10代崇神天皇記と第11代垂仁天皇記に伊勢神宮を祀ったとありますが、実在する天皇は第15代の応神天皇が最初とみる立場からは、創建を紀元前にまで遡らせて権威付けしていると推察考されています。応神天皇を河内王権の初代天皇とみる説が有力です。古代・葛城王権から政権を奪った崇神天皇から始まった三輪王朝(イリ王朝)が応神天皇から始まる河内王朝(ワケ王朝)と交替して天皇の血脈が変わったとみる立場(三王朝交代説)から見れば『古事記』の説明は荒唐無稽な作為にすぎないと考えられます。日本古代の建国は370‐390年頃と推定されます。その根拠は三韓の建国にあります。新羅が356年、百済が346年、加羅が369年に建国され、それに刺激を受けて建国されたと考えられます。3世紀から7世紀の間に有力王権の綱引きと興亡が行われ最後の勝者が統一王権を奪取した継体天皇(新王朝=越前王権=現皇室の祖)です。

明治維新によって、天皇を頂点とする国家神道明治政府神祇官によって推奨され、日本民族の新しい中央集権国家の形成に利用されました。それによって「神国思想」と「神風」に守られた特別の国家観が国民に刷り込まれ、浸透することになります。敗戦により国家神道は否定されましたが、伊勢神宮明治神宮靖国神社などにはその残滓が見られます。神道は古代でも近・現代でも政治的に利用されてきた負の歴史を濃厚に持っていますが、国家神道原始神道の概念とは根本的に異質なものでした。本来の神道の特徴をいえば、融通無碍であり、自他の宗教の違いに強いこだわりを持つという態度はなく、一神教のように唯一絶対の神を信じることなどなく、必要に応じて同時に複数の神々を礼拝することが普通でした。神道は仏教や山岳信仰修験道と自然に混淆し、他宗教を拒絶するようにはなりませんでした。

多神教一神教も長所が同時に短所になるという二重構造を色濃く持っています。一神教の決定的な欠陥は、相手の宗教を否定しなければならず、教義の上で共存共栄の道が閉ざされていることです。一神教の間には克服できない相克関係が生まれます。神道が持つ多神教的な態度は他の宗教の信仰態度を否定しないところに長所があると考えられます。

 

 新井別院は取り立てて有名な寺院ではありません。妙高市にあるローカルな普通の寺院です。でも、長い歴史をもち、新井での浄土真宗布教の要になり、妙高の人々の信仰を支えてきました。浄土真宗の宗教活動が妙高で展開され、そしてそれが一地方の宗教活動としてだけでなく、宗教教義や思想を通じてより広い地域につながり、世界の中での妙高の位置が浄土真宗を通じて見えてくるのです。過去の妙高地域が日本のローカルな地域として宗教という側面で日本全体、ひいては世界にどのようにつながっていたのかの一端を述べてきました。ローカルな妙高と広い世界の交流は時代を超えて存在していて、それは私たち人間が「一個人である私から人類全体につながっている」ことの反映なのです。

 

 

[1]この異安心論争の影響の一つを挙げておきます。安了寺は文政年間の火災により古文書を消失し、開基、開創年代共に不明です。一時期、無住の年代がありましたが、寛文8年(1668)頃、三島郡夏戸本光寺住職玄昌が次男了学をともなって入寺、中興の祖となりました。その頃、異安心問題(本文の論争)を端緒とする宗門紛争が起こり、貞享年間(1684‐1687)、他の数十の寺と共に真宗大谷派を離脱し、真宗仏光寺派に転派しました。この異安心論争に連座して詮議を受けた寺院は信越両国で89寺に及び、そのうち48寺が改派を余儀なくされました。5年後の元禄4年(1891年)本山の指令で越後末寺門徒の教化と統理を目的とした三条掛所が村上領三条の地に設けられます。さらに12年後の元禄16年(1703)に三条御坊が完成し、教導の司令塔となる三条別院300年の歴史が始まりました。

[2] キリスト教信仰が認められ、時代を経るにしたがって、「カトリック教会の教え」は、幼児洗礼を受けた子どもたちが一定の年齢に達したときに、キリスト教信仰の基礎を教えるものになっていきました。16世紀の宗教改革後に開催されたトリエント公会議は、カトリックの信仰を正しく教える「カテキズム(教理指導書)」に重きをおいたものでした。この時代、聖ペトロ・カニジオや聖カロロ・ボロメオ、聖ロベルト・ベラルミノたちがカテキズムを著し、これが全世界のカトリック教会に広まっていきました。第2バチカン公会議まで、日本のカトリック教会で使われていた『公教要理』も、これらの教理問答書をもとにしたものでした。

 

[3] アーミッシュ(英語: Amish、ドイツ語: Amische)はペンシルベニア州・中西部やカナダ・オンタリオ州などに居住するドイツ系移民の宗教集団です。アーミッシュの子供は16歳になると一度親元を離れて俗世で暮らす「ラムスプリンガ(rumspringa)」という期間に入ります。ラムスプリンガではアーミッシュの掟から解放されます。子供たちはその間に酒・タバコ・ドラッグなどを含む多くの快楽を経験し、成人になる際に、アーミッシュであり続けるか、アーミッシュと絶縁して俗世で暮らすかを選択します。ほとんどのアーミッシュの新成人はそのままアーミッシュであり続けることを選択するといわれています。

 

[4] これまでの表現に従えば、キリスト教イスラム今日のような「啓示宗教」は「他力宗教」で、釈迦の仏教は自ら真理を悟る「自力宗教」ということになります。そして、浄土真宗は他力仏教の一つです。

[5] 関山神社は明治以前「関山権現」と呼ばれていましたが、その関山権現の別当寺が宝蔵院で、宝蔵院は上野寛永寺末寺でした。

[6] 神道については、e-myoko 「妙高を知ろう」3 斐太神社と関山神社、を参照して下さい。