e-myoko 「妙高を知ろう」

e-myoko 「妙高を知ろう」3

斐太神社と関山神社

 妙高市に限らず日本中に見られるのは寺院と神社です。寺院の中に神社がある光景は珍しいものではなく、普通に目にします。浅草寺の境内には浅草神社があります。すると、気になるのはこの神社の存在です。仏教と並んで私たちの生活に関わってきたのが神道です。妙高市にも歴史的に重要な関山神社や斐太神社があります。そこで、これら二つの神社を取り上げ、そこから神道や神社について考え、神話や物語に眼を転じてみましょう。

 

神道は日本固有の宗教です。まず、「神道」という呼び方ですが、これは仏教が日本に伝来した後に仏教と区別するためにつくられました。「八百万(やおよろず、「多数の」という意味)」の神々を認め、受け入れる多神教キリスト教イスラム教一神教)ですが、その原型はどのように生まれたのでしょうか。

神道の特徴は、万物に霊魂が宿っているという精霊崇拝(アニミズム)にあります。神道には仏教やキリスト教のように理論的な教義や倫理、戒律などの体系がありません。原始神道は自然や神に対する畏敬の念から始まり、人の生きる道と自然の変化とが融和することを目指していました。地縁、血縁で結ばれた村落や部族の共同体の守護と安楽、共同体としての意識の統合を目的にして神道が始まったと考えられます。

神道は、古代社会の基本単位である氏族の地縁、血縁の集団の生活習慣の中で生まれた素朴な信仰に基づいています。神道の歴史を遡ってみましょう。まず、神々が鎮座する山や川などの自然領域は「神奈備(かんなび)」として神聖化されました。神霊が降臨する場所は「依り代(よりしろ)」、降臨した神霊が宿る神聖な物は「御霊代(みたましろ)」と呼ばれますが、鏡、剣、玉石などが神社の御神体とされました。また、神の住む山を「神奈備(かんなび)」、森などの神聖な場所に置かれた巨岩、巨石の御座所を「磐座(いわくら)」、樹木の御座所を「神籬(ひもろぎ)」と言いますが、それらは常世(神の世界)と現世(この世の世界)の境界線の役割を果たす装置と考えられました。「神奈備(かんなび)」や「神籬(ひもろぎ)」は神の降臨を仰ぐ「御座所」として崇拝されましたが。古代のシャーマンはこの御座所で秘術を用いて神の信託を受け取りました。これが神話の世界の舞台です。

やがて神道の神々を祭神として祭る社殿がつくられ、拝殿や本殿を持つ祭殿が信仰拠点の建物として常設化されて、「神社」が登場しました。次第に生活の節目や農作物の生育や穫り入れなど重要なタイミングに合わせて祭壇を設けて厳かに祭祀を執行するようになり、日常的な常設の祭場として神社が各地に普及したと考えられます。

神社で祭祀されている祭神には①自然の出来事や現象に由来する自然神、②神話伝説に由来する伝記神・霊能神(天照大神大国主命など)、③人間に似た神体や性格を持つ人格神(英雄・功労者、皇祖神、祖先神など)があります。神道宗教的な教義体系を持っていませんが、本地垂迹[1]による神仏混淆を受け入れ、さらに修験道と相互に影響し合ってきました。

神は、大いなる存在であり、人の知識ではとても知ることができない存在であると思われてきました。人の知識ではわからないのが神と考えられたことから、一般の人から見れば、神を祭祀する王や司祭者は特別な人、神に準ずる人、さらには神そのものとみなされて、王権の民に対する支配権が確立されていったと考えられます。古代の神道は、原始神道の精神を継承しなら、興亡する部族、氏族の支配者が共同体の統率の手段として司祭者を置いて神の言葉を聞き、それを共同体の人々に伝え、受け入れさせるという支配の手段として使われるようになりました。司祭者の地位が向上し、巫女が配置されて儀礼が整えられていきます。王権が確立するとともに、神道は支配者の政治的な権威を高め、神社を通じて人々を支配するようになります。

日本古代の創世神はスサノオです。古い神社の祭神スサノオオオクニヌシが圧倒的に多く、アマテラスは少数派で、それも平安以降の神社に偏っています。全国の神社を分類すれば、新羅系がほぼ80%の圧倒的多数を占めていることから、日本古代の創世期に活躍した渡来系の人々は圧倒的に新羅系が多いことがわかります。古代の霊場だった三輪山の時代に終わり告げるために伊勢神宮が創建されたと考えられています。『古事記』の創世期神話は、スサノオオオクニヌシの業績をアマテラスに置き換えたものです。『古事記』によれば、伊勢神宮の創建は第10代崇神天皇、第11代垂仁天皇となっていますが、実在する天皇は第15代の応神天皇であるという歴史的事実からは、創建をそれより前に遡らせて権威づけしていると考えられます。応神天皇を河内王権の初代天皇とみると、古代・葛城王権から政権を奪った崇神天皇から始まった三輪王朝が応神天皇から始まる河内王朝と交替したとみる説(三王朝交代説)が考えられます。その説から見れば、『古事記』の説明は作為的なものということになります。日本古代の建国は370‐390年頃と推定されます。その根拠は朝鮮半島での三韓の建国にあります。新羅が356年、百済が346年、加羅が369年に建国され、それに刺激を受けて日本が建国されたと考えられます。3世紀から7世紀の間に有力王権の綱引きと興亡が行われ、最後の勝者として統一王権を奪取したのが継体天皇(新王朝=越前王権=現皇室の祖)です。

明治維新によって、天皇を頂点とする国家神道明治政府神祇官によって推奨され、日本民族の新しい中央集権国家の形成に利用されました。それによって「神国思想」と「神風」に守られた特別の国家観が国民に刷り込まれ、浸透することになります。敗戦により国家神道は否定されましたが、伊勢神宮明治神宮靖国神社などにはその残滓が見られます。神道は古代でも近・現代でも政治的に利用されてきた負の歴史を濃厚に持っていますが、国家神道原始神道の概念とは根本的に異質なものでした。本来の神道の特徴をいえば、融通無碍であり、自他の宗教の違いに強いこだわりを持つという態度はありませんでした。一神教のように唯一絶対の神を信じることなどなく、必要に応じて同時に複数の神々を礼拝することが普通でした。神道は仏教や山岳信仰修験道と自然に混淆し、他宗教を拒絶するようなことはありませんでした。

多神教一神教も長所が同時に短所になるという特徴を色濃く持っています。一神教の決定的な欠陥は、相手の宗教を否定しなければならず、教義の上で共存共栄の道が閉ざされています。異なる一神教の間には克服できない相克関係、緊張関係が生まれます。神道が持つ多神教的な態度は他の宗教の信仰態度を否定しない寛容性をもっています。

 

斐太神社[2]

斐太神社は頚城郡延喜式出雲系の社です。[3]妙高山から続く矢代山地が丘陵となる位置に南葉山があり、その一角籠町南葉山東面の矢代川左岸支流である青田川、内川に挟まれた山麓に延喜式内社斐太神社が建っています。矢代川左岸は平野につながり、豊かな穀倉地帯です。旧頚城郡には13の式内社があり、高田平野の中心部を流れる関川本流の東に5社、西に8社と言われています。この地域の盆踊り、秋祭りで謡われる「八社五社(やしゃごしゃ)」はこの13社に関係したもので、広く地域の人々に親しまれてきた民謡です。  斐太神社は斐太地区宮内集落にあり、上杉謙信から大変な崇敬を受け、鮫ヶ尾城を築城した際には当社を近郷128村の総社と定め、宮内、神宮寺、乙吉、籠町、十日市、雪森、青田、飛田、稲荷の各村を神領として寄進したと伝えられています。末社が216社余りもあり、その数は日本一といわれ、秋の祭祀は頚南を中心として、北信濃の一部を含む広い地域に及んでいます。  二つの鳥居と歴史を感じさせる石段の参道は、やや狭くても、神様に御参りするには充分な杜の道です。現在、神社周辺は県民休養地としていろいろ整備され、観音平・天神堂古墳など斐太遺跡群が広がっています。山麓丘陵初夏のカタクリの群生は見事で、多くの人々が訪れ、花と周辺景観を楽しんでいます。  拝殿は他の有名神社に比べれば大きくはありません。右手に廻れば本殿を拝することもできます。出雲の神である大国主命オオクニヌシノミコト)を主祭神に、事代主命コトシロヌシノミコト=矢代大明神)、建御名方命タケミナカタノミコト=諏訪大明神)が祀られています。三柱ともに、出雲神話天つ神の「国譲り」に関わった神様です。矢代大明神は旧矢代村岡沢山、諏訪大明神は青田南葉山の頂上から合祀されたと伝えられています。  境内社には、天地のはじまりとなる伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)を祭神とする雁田神社と、稲荷社、八幡社の石祠があり、雁田神社には女陰に模した二つの石塊があります。  神社創建は平安初期の大同2年(807)で、第60代醍醐天皇時代の延喜式(927)に名を残す、古くから朝廷が格式を認めた神社です。明治6年村社に列し、昭和17年郷社、同20年11月3日には県社昇格の予定でしたが、敗戦のためにそのまま留めおかれました。社伝によれば大国主命が御子神を従えて当地方へ神幸し、民に稲作の業を教えた故事に因んで創祀され、その折に当地を越ノ国の「日高見(ひだかみ)の国」と名付けたことから「斐太」という地名が生まれたと言われています。また、大国主命と建御名方命は山野の開拓や田畑の開墾にあたり、事代主命は池沼や河川を治めて水路を開削したと伝えられています。古くは神社で中風に効く薬を製造していて、その社格とともに病の神様としても信仰を集めました。  天正7年(1579)、鮫ヶ尾城落城の兵火によって炎上し、また明暦2年(1656)やその後の時代にも火災に遭っていて、その際社殿や社務所と共に古文書類も焼失したために詳しい縁起沿革は不明です。例祭は3月3日火祭り、5月3日春季大祭、8月20日雁田神社例大祭、11月3日秋季大祭、毎月1日、15日が月次祭です。  宮司は倉科家が世襲しています。倉科氏は本姓藤原氏であり、順徳天皇佐渡国へ配流された際に京都との連絡役として信濃国更埴郡倉科村(現長野県千曲市倉科)へ下向、土着。その後越後へ移って当社の神職となりました。

関山神社[4]

 

 妙高市の文化的遺産の第一番は文句なく関山神社です。妙高市文化遺産は決して多くなく、それは次の一覧からも実感できます。しかも、驚くことに1件を除きすべてが関山神社に関わる遺産なのです。その関山神社について私たちは何をどれだけ知っているでしょうか。関山神社を知らずして妙高は語れないのです。

 

日本国指定重要文化財

銅造菩薩立像(妙高市大字関山、関山神社)朝鮮式(7世紀)平成21年7月10日

日本国指定名勝

旧関山宝蔵院庭園(妙高市)2013年3月

新潟県指定文化財

銅造阿弥陀如来立像〔妙高市大字関山〕 1978年12月26日指定 ※関山神社

関山石仏群 附 仏足石 一基〔妙高市大字関山〕 1980年4月15日指定 ※関山石仏保存会

十二光仏名号本尊妙高市大字小出雲〕 1963年3月22日指定 ※照光寺

関山宝蔵院跡〔妙高市大字関山字新林〕 1980年4月15日指定

妙高山雲上寺宝蔵院日記 2014年3月

(民俗芸能無形文化財

関山の仮山伏の棒遣いと柱松行事〔妙高市大字関山〕2013年3月26日※関山神社 

 

1 関山神社概観

妙高山と関山神社

妙高山は古来より山の神と仏教思想とが習合した山岳信仰霊場でした。妙高山の山名は、仏教の須弥山から由来しているとされ、大鷲が両翼を広げたように見える山の姿は古代インドで釈迦が説法した「霊鷲山」に似ているといわれています。   妙高山信仰の歴史は、和銅元年(708年)に裸行上人の開山が始まりとされています。妙高山の里宮である関山神社(妙高市)には、かつて「関山三社大権現」(現在の関山神社)と神社の祭祀や管理などの支配権をもった別当[5]「宝蔵院」があり、修験の場として信仰を集め、木曽義仲上杉謙信も崇敬していました。   安土桃山時代天正十年(1582年)、戦国の戦乱で宝蔵院・関山三社大権現の堂塔、伽藍、社殿はことごとく焼き払われ、一時衰退しますが、江戸時代に入り、天海の弟子俊海によって宝蔵院が再興され、徳川幕府から百石の朱印地が与えられます。このころの宝蔵院の支配範囲は、妙高五山(妙高山、神奈山、茶臼山、火打山、不動山)を含む東西三里余り・南北六里余りに及び、関山三社大権現の別当寺として新たな隆盛をみることになります。 明治時代になると神仏分離令により全国的に廃仏毀釈の運動が高まり、神仏習合妙高信仰もその嵐の中に巻き込まれます。別当寺である宝蔵院は、廃仏毀釈により廃寺となり、このころ関山三社大権現から現在の「関山神社」に名称が変わりました。菩薩立像が箱に納められ人目を避けて保管安置されたのもこの頃です。この像は、天正10年に寺が焼かれた後、灰の中から拾いだされ、社殿に安置されていました。江戸時代に宝蔵院は幕府の庇護のもとに再建され、仏像は再び、その寺の本尊となりました。江戸時代は神仏習合が認められ、寺と神社は共存していましたが、明治時代に入り政府が神仏分離政策をとり、廃仏毀釈の中で関山神社が残され、宝蔵院は廃寺となり、多くの仏像が破壊され、本尊を破壊から救おうと、箱に入れて封印し、秘仏として神社の奥に秘匿したのです。そのため、昭和32年に文化庁の調査が行われるまで、仏像が収められた箱の中は不明のままでした。こうして、貴重な菩薩像は破壊を免れ、現在は国の重文に指定されています。

旧関山宝蔵院庭園  関山神社は旧妙高村にあり、隣は長野県の飯山市です。関山神社の鳥居をくぐり、右へ向かうと石垣と水路に囲まれた平坦な土地があり、そこに宝蔵院がありました。現在建物はありませんが、その西側に庭園がほぼその当時の姿で残っています。江戸時代に宝蔵院は妙高山信仰の拠点でした。宝蔵院は上野の天台宗寛永寺を本山とする寺院で、江戸時代を通して、妙高山、神奈山、茶臼山、火打山、不動山一帯を支配する領主として幕府から領地を認められ、妙高山と関山神社の祭礼を行ってきました。明治に入り神仏分離政策により廃寺となり、建物は明治11年に解体され新井別院に移築され、現在は敷地と庭園が残るだけです。  宝蔵院の庭園は妙高山の姿を背景にした池泉式庭園です。庭園は池を中心につくられ、地形を利用して高さ5メートルの滝があり、御膳清水と呼ばれる冷水が流れ落ちていました。妙高山を背景とした庭園で、文化庁からは妙高山という信仰の山を組み込んだ素晴らしい庭園で、日本の庭園文化の奥深さを示していると評価され、現在は国の名勝に指定されています。

仮山伏の棒使い、柱松神事  2013年に新潟県指定の無形文化財(民俗芸能)に指定された仮山伏[6]の棒使いと柱松神事は、関山神社の火祭りに行われます。これらは宝蔵院の時代から仮山伏によって行われてきました。仮山伏の棒使いは関山神社境内で、6人の仮山伏と呼ばれる若者が、2人1組で長刀(薙刀)・太刀・六尺棒を使って22種の演武を奉納します。柱松神事は、棒使いを終えた仮山伏が、上(かみ)と下(しも)に置かれた2本の柱松に点火して、その速さを競います。太鼓橋の上で代官役が合図をして柱松に駆け付けた仮山伏たちが火打ち石で点火します。なかなか付きにくく、上の柱松に先に点火されると稲作が、下の方が早いと畑作物がそれぞれ豊作だと言い伝えられています。柱松に火が付くと、倒されて松引きとなります。仮山伏、子ども、地域の人たちが一緒になって宝蔵院前まで引っ張っていきます。通称『宝蔵院日記』は宝蔵院の役人が記した日記ですが、そこにはこの神事が詳しく述べられています。[7]

関山神社火祭り調査報告書 : 仮山伏の棒使い・柱松引きを中心として

仮山伏保存会, 妙高市教育委員会編(妙高信仰調査報告書, 第1集)

仮山伏保存会 : 妙高市教育委員会, 2006.3

 

 ここまでの話は妙高市の神社に関する単なる紹介に過ぎなく、特新しいものも何も含まれていません。神道そのものがしっかりした教義をもつわけではなく、宗教上の面白い論争もありません。そこで、ローカルな観点を横に置き、神話や物語のもつ意味を捉え直してみましょう。そこから今一度妙高の神社を考える助けにしましょう。

 

神話、物語、ナラティブ

 神話、物語、ナラティブはいずれも科学とは異なる原始的で素朴なものと考えられています。何かを探求する物語は、人生観や世界観の具体的な範例として人間の生きざまを描く場合には多くの読者に感動だけでなく、目標や指針を与え、人生を左右するほどの力をもっています。人生は何かを追い求め、何かを成し遂げるものだという風に考えること自体が、実はこれまで色んな物語によって与えられてきたのです。それが物語のもつ力であり、物語が人を動かすと言われてきた理由です。

疑問をもったり、反抗したりすることは、新しい物語を求めること、あるいは物語とは異なる別のタイプの「理論」を求めることにつながります。新しい物語を求めることに飽き足らず、物語と異なる新しいタイプの探求装置を求めることがギリシャで哲学として始まったことは特筆すべき事柄です。ギリシャが最初かどうかは別にして、ギリシャで実現し、それが成功したことは確かなことです。ギリシャの哲学は近代科学を生み出し、現在の私たちは科学の理論を信頼して社会を維持・運営しています。理論は物語と異なる、新しい対応の試みであり、世界探求の新機軸、新装置となりました。

創造神話や文学作品が人に与える感動と夢は、何かを探求する姿を通じて私たちに伝わってきます。理論とは新しいタイプの探求で、物語ではなく物語の材料、要素に関する探求です。子供が好きな物語と大人が関心をもつ理論の間には表面上大きな違いがあります。

不思議なことに、物語には始まりがあり、因果的な歴史、経緯といったものが物語の基本となっています。時系列の出来事の展開が主人公の物語の展開として表現されて、探求、目的、ゴールが存在します。それに対して、理論は非因果的で、「前提」からスタートします。その内容は演繹的な論証からなっていて、その典型は数学的な証明です。物語と数式の違いは見た目だけでなく、私たちが世界について考え、説明するときの二つの違った方法なのです。

神話や物語がもつ目的、世界や人生の目的という共通の構造は目的論的な仕組みのもつ重要な特徴を示しています。理論も目的をもちますが、それは共通の真理の探究という抽象的な目的より、その理論を応用することによって何が実現できるかが具体的な目的として考えられてきたように思われます。

神話、物語がもつ一般的な構造と科学的な探求との共通点が「探求」である場合、何を探求するかという点で違いが出てきます。それは、何を実現するか、何を実行するか、といった意志や欲求の探求と、知的な探求の違いです。世界の中の事柄を使っての探求と、世界の中の事柄が何かを知る探求とは、行為と認識という違いに行きつきます。行為のためには世界の出来事は背景でしかなく、主役は自ら行動する自分自身です。知るためには主役は世界そのものであり、信じるのではなく疑う対象という役割を担うのが世界ということになります。

 

神話学の歴史:瞥見

 神話に関する研究は神話学と呼ばれますが、その歴史は二つの時代に分けられます。一つは19世紀型神話学、もう一つが20世紀型神話学です。19世紀型神話学はダーウィンの進化論の影響を受け、その価値観に歴史主義の影響があり、20世紀型神話学はソシュールの構造言語学フロイト精神分析の影響を受け、非歴史的な特徴をもっています。21世紀型の神話学がどうなるか、これは大変興味深い課題であるだけでなく、21世紀に生きる私たちがどのような神話を求めているのかに大きく依存しています。では、私たちは現在どのような神話を求めているのでしょうか。

 

マックス・ミュラーと自然神話学(19世紀)  マックス・ミュラーは神話学の先駆者で、神話の全ては自然現象にあるというのが彼の主張です。比較言語学の手法を用い、最古の資料と言われる『ヴェーダ神話』を中心に神々の名前の比較を行うことから始め、各地の神話の神々(特に最高神や主神)が天体や自然現象を司ることから、天体の動きの反映が神話であると考えました。ミュラーは次のように推測しました。「原人類は抽象的な概念を表現する言語を持っていなかったため、天体現象から受ける畏敬や畏怖を人格的な表現でしか表せなかった。これが後に、本来の意味が忘れられ人格的な存在が登場する神話となった」と考えたのです。この言語疾病説のもと、彼は神話の起源を自然現象に求めたのです。しかし、神話の起源を自然現象のみに求め、それだけで全てを説明しようとしたミュラーの考えは、神話を下位の未発達な文化、より劣った存在だという前提で議論を展開していて、これが19世紀神話学の特徴となっています。

フレイザーと儀礼  マックス・ミュラーと同時代の神話学者がジェームズ・G・フレイザーです。彼はミュラーと同じく進化論的な神話の捉え方をしていますが、神話の起源に対しては異なった考えを持っていました。ミュラーが神話の起源を天体の自然現象に求めたのに対して、フレイザーは地上の文化現象に求めています。彼の神話儀礼説とは、神話は宗教の儀典や儀礼の説明をしている二次的な存在にすぎず、儀礼から取り出されたのが神話であって、その逆ではないという説です。その理由として、儀典、儀礼は宗教においては強制的な義務ですが、神話の信仰は礼拝者の自由であったことが考えられています。フレイザーはこの説に基づき、ネミの森で行われていたという王殺しの風習と死んで甦る神々の神話に注目し、『金枝編』[8]において詳しく述べています。神話は呪術的な儀礼を説明するために生まれたのであって、その起源は人々の社会構造に起因すると捉え、社会の変貌を呪術-宗教-科学の三段階に分け、神話は呪術と宗教の中間に位置するものと考えました。

デュメジルパラダイムシフト  進化論の影響を受けた神話学は、次第にその考え方から脱却していくことになります。そのちょうど変換期ともいえる時代に登場したのがジョルジュ・デュメジルです。彼は世界中のインド・ヨーロッパ語族の神話を対象とし歴史言語学の立場から神話を研究しました。デュメジルはインド・ヨーロッパ圏の神話の比較から、「伝承圏」という概念を提唱しました。それはアンブロシア伝承圏と呼ばれる、不死の飲料を巡る神々とその敵対者の争い、それをあらわす神話と儀礼のセットに代表されます。これは印欧語族に特有の神話のタイプだと考えられました。彼は神話と儀礼を同地位のものと捉え、両者の複合を探し、重要な証拠として語源の一致を探求しました。この後、三機能体系という世界観の提唱によって彼は一躍著名人の仲間入りを果たします。彼はインド、ローマそしてゲルマンの神話が共通に持つ世界観を探し、それらが神聖性、戦闘性、生産性の三つの観念が世界を構成している神話であると考えました。インド・ヨーロッパ語族に固有の世界観を求めていたデュメジルは、ゲルマン神話をこれに当てはめることで説明しようとしたのです。  そして19世紀の風潮を引きずっていたデュメジルは次第に変化し、後期には 20世紀の神話学に近い立場に立つことになります。彼は19世紀と20世紀の分岐点にいて、歴史と構造という二つの立場の両方に属していました。最後にデュメジルが指摘したのは、神話が他の物語へと変容する可能性があるということでした。

レヴィ・ストロースと神話的思考(20世紀)  最初の20世紀型神話学者はレヴィ・ストロースです。彼は普遍性と無意識という概念を最初に明確に使って考えた神話学者です。しかし、同時に神や英雄が持つその個別の名前や役割よりも、神々や登場人物たちの関係から導かれる「体系」を彼は重視します。そして、言語学を駆使して神話の構造分析を行いました。その結果として神話の普遍性を強く主張するようになりました。この普遍性といった面では、フロイトの発見した無意識、そしてその弟子であるユングが提唱した普遍的無意識と元型に影響を受けています。しかし、レヴィ・ストロースは、ユングの唱えた深層心理学と非常によく似た考えをしている反面、ユングが軽視している論理的な構造や体系性を強く意識しています。神話という骨董無形な一見混沌とした存在、そこには様々な対立や矛盾を見て取ることができますが、彼はこの矛盾や対立といった論理的な関係が神話を解く鍵なのだと考えたのです。自然に存在する事象を分類して体系化、構造化することによって世界を理解するという思考を、レヴィ・ストロースは「神話的思考」と名付けました。この考え方は無意識と同時に20世紀の代表的特徴ともいえる歴史主義との対立を表す考え方なのです。

エリアーデと非歴史性  20世紀を代表する神話学者の二人目はミルチア・エリアーデです。キリスト教が世界を席巻していた時代、彼はアルカイックな宗教こそが現代において重要なのだと考えました。歴史主義のもとで発展した唯一神への信仰ではなく、様々な神々が存在する神話の世界が宗教の代わりとなると考えたのです。そして、神話は起源神話であるべきだとエリアーデは主張します。つまり、全ての神話は何らかの始まりを説明している存在なのだと。神話とは存在を基礎付ける模範的な典型例であると主張したのです。ノスタルジーが人間にとって必要不可欠だとする彼は、偉大なる過去への回帰として、起源神話が存在するのだと考えます。これは現代における歴史の代わりと言い換えても良いかも知れません。彼は歴史主義もしくは歴史そのものに対して否定的で、現実世界と区別して、神話の世界は非歴史的で無時間的なのであり、古代における宗教を現代にも呼び覚ます必要があると唱えたのです。

キャンベルと英雄神話  無意識という概念を取り入れた神話学は、19世紀のように文化や言語といった形而下としての神話より、人間の思考やその精神的な存在の在り方といった、精神世界に視点を移していくことになります。多分にオカルト的な傾向を含み、形而上的な側面を強く現すことになるのです。その傾向が最も強く現れている神話学者はジョセフ・キャンベルです。彼はアメリカ人で、アメリカンドリームの洗礼を受けて育ちました。そのためか、彼の理論や学説は理想主義的な部分が見て取れます。エリアーデと対照的に、キャンベルは英雄神話こそが神話であると考えます。しかし、エリアーデとキャンベルが取り上げる神話には共通するものが多く見られます。それは、エリアーデが神話の始まりに注目するとしたら、キャンベルは主人公に注目するといった、視点の相違に過ぎないからです。彼の著書『千の顔を持つ英雄』で神話とは真実を覆い隠す仮面であると述べています。キャンベルによれば、英雄とは普遍的規範を掴み取り、それを実現することに成功した人物です。

この普遍性の探求は当時の人々にとって関心の高いことでした。だからこそ、宗教的な側面を持っている神話学を唱えたキャンベルは神話学者の中で最も人気が高いのです。理想主義者であったキャンベルは、自らの学説の中にも願望や希望を惜しげもなく取り入れています。

このように代表的な神話学者を見てくると、神話学は    

自然現象 → 文化現象 → 人間社会 → 人間心理

という軌跡を描いてきたように思えます。またそれぞれの神話学者を見ると、ほとんどの学者が他の明確に確立された学問の中で神話を扱っています。そして、それは    比較言語学 → 文化人類学 → 構造言語学 → 精神分析 という学問の変遷を含んでいます。

少々堅苦しい神話についての話になってしまいましたが、では肝心の日本の神話はどのようなものなのでしょうか。

 

日本の国づくり神話

 『古事記』は日本最古の歴史書で、元明天皇勅命を受けて和銅5年(712年)に太安万侶(おおのやすまろ)によって献上されました。神代の天地の時代から推古天皇(592年即位)の時代までが上・中・下の全3巻に描かれています。驚異的な記憶力を持つ稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗誦していた『帝紀』(天皇系譜)と『旧辞』(昔の伝承)を太安万侶舎人親王が書写したと推測されています。

日本書紀』は舎人親王らの編集で養老4年(720年)に完成した日本最古の正史で、神代から持統天皇(697年即位)の時代までを漢文・編年体によって記述しています。全30巻・系図1巻の長編で、その続編として『続日本紀(しょくにほんぎ)』が菅野真道(すがのまさみち)らによって延暦16年(797年)に完成しています。『続日本紀』は文武天皇元年(697年)から桓武天皇延暦10年(791年)まで95年間の奈良・平安時代の歴史を扱っており、これも全40巻の大著です。

  1.  では、『古事記』と『日本書紀』はどう違うのでしょうか。わずか8年ほどの間に同じような書物が何故2冊つくられたのか謎めいています。二つの神話の世界観は全く異なり、編集目的も異なっています。二つの違いを簡潔にまとめてみましょう。

 

(1)『古事記』は、語り部によって伝えられた伝承を、忠実に記述したもので、大王家が歴代統治してゆくことの正当性を述べようとしたものです。

(2)『日本書紀』は、白村江の大敗で失われた日本のアイデンティティを再構築するために、中国風の史書を作ることを目的としたもので、王権にとって不都合なものを隠蔽すべく、意図的な取捨・改竄が随所に行われています。

 

では、『古事記』の世界に入ってみましょう。神武天皇ニニギノミコトの曾孫(山幸彦の孫・ウガヤフキアエズノミコトの子)とされますが、ニニギノミコト天照大御神(アマテラスオオミカミ)の孫なので、神武天皇は神々の血統を引くものとして位置づけられています。日本神話は天地と神々の始まりを物語的に語り、天つ神の命令でイザナギイザナミが日本の国生みをする神秘的な場面を描き、死んだイザナミが送られた黄泉国(死後の世界)までもおどろおどろしく表現しています。

 どのような物語なのか、現代文で書くと興ざめな気もしますが、最初の部分の口語訳をみてみましょう。

 

イザナギイザナミの国造り(『古事記』の内容)

その昔、世界はまだ混とんとした、定まることのない状態でした。そこに天と地ができて、天上の世界を高天原(タカマガハラ)といい、そこには多くの神々が現われました。まずアメノミナカヌシノカミ、次にタカミムスヒノカミ、次にカムムスヒノカミ。これら三柱の神々はいずれも独身のままお隠れになりました。次に、地上世界が若く、油が浮いたように、くらげが漂っているような状態の中、葦が芽吹くようにすっと生まれ出た神の名は、ウマシアシカビヒコヂノカミ。次にアメノトコタチノカミ。この二柱の神も独り神であらせられ、そのままお隠れになりました。これら五柱(いつはしら)の神々を天の神々の中でも特別な存在という意味で別天つ神(ことあまつかみ)と呼んでいます。「別天つ神」の後、クニノトコタチノカミ、トヨクモノノカミという二柱の独り神があらわれ、またお隠れになりました。

その後ようやく夫婦の神が現われます。五組十柱の双び神です。これら二柱と五組十柱の神々をあわせて神世七代(かみよななよ)といいます。その神世七代の最後にあたるのが、男神イザナギノミコトと女神のイザナミノミコトでした。イザナギノミコトとイザナミノミコトは、高天原の神々からアメノヌボコという矛を授けられ、それで世界を造ることを命じられます。イザナギイザナミはまず世界を高いところから見下ろそうと、地上と高天原の間にハシゴのようにかかっている、天の浮き橋(アメノウキハシ)にのぼります。すると、足元に大海原が広がっていて、そこへアメノヌボコをおろし、突き立てました。そして、矛を引き上げると、ドロドロしたものがその先についてきました。それが海の中にしたたり落ちて、島の形となり、これが最初の島、オノゴロジマとなりました。

「あなた、よい足場ができましたね」

「うむ。降りるとするか」

イザナギイザナミは手を取り合って、オノゴロジマに降り立ちます。イザナギイザナミに尋ねます。

「お前の体は…どんな具合だい?」

「はい。私の体はだいぶ整ってまいりましたが、一つ足りない所があるようです」

「そうか。私の体もだいぶ整ってきたが、一つ余分な所があるようだ。そこで、私の余分なところで、お前の足りないところを塞いで、 国を生もうと思う。生むとはどんなことか、わかるね」

「はい。よろしいですわ」

そして太い柱を立て、宮殿を造ります。宮殿が出来上がると、今度は結婚式です。結婚の儀式として柱の周りを周ります。イザナギは柱の左側から、イザナミは右側から周り、真ん中で出会ったところで、まずイザナミが声をかけます。

「まあ!なんて素敵な殿方」

次にイザナギが声をかけます。

「おお!なんと愛しい乙女」

その時、イザナギが言いました。

「女のほうから先に声をかけるのはよくない」

こうしてイザナギイザナミは子作りをはじめます。最初に生まれた子は体がぶよぶよして蛭のようで、とても子とはいえないものでした。

「さしずめ蛭子といったところですわね」

「これは、無かったことにしよう」

蛭子を葦の舟に乗せて流しました。次に生まれた子は体が泡のようで頼りない感じでした。

「さしずめ淡島といったところですわね」

「これも、無かったことにしよう」

ここに至り、イザナギイザナミの夫婦は話し合いました。

「どうもうまくいかないね。どこか間違っているのかなあ」

「あなた、高天原に上って、天つ神々に相談いたしましょう」

イザナギイザナミ夫婦は高天原に上がり、天つ神々に相談します。天つ神々が言われることには、

「女が先に言葉を言ったのがよくなかったのだ。もう一度、言い直しなさい」

こうしてイザナギイザナミ夫婦はオノゴロジマに戻り、結婚の儀式をやり直しました。天の御柱を中心に、イザナギは左側から イザナミは右側から回ります。出会った所でまずイザナギ

「おお!なんと愛しい乙女」

次にイザナミ

「まあ!なんて素敵な殿方」

こうして結婚の儀式が正しくやり直されました。イザナギイザナミはめいっぱい愛し合い、たくさんの子供をつくりました。まず生まれてきたのは日本の元となる島々でした。最初に淡路島、次に四国が生まれ、隠岐の島、九州、壱岐の島、対馬佐渡島と生まれ、最後に本州が生まれます。国の基礎ができ上がると、次に神々を生みます。石の神、土の神、建物の神、海の神、風の神、木の神、山の神、野の神、霧の神、谷の神、船の神、食べ物の神…まだまだたくさん生まれました。

「愛しい妻よ、あんまり頑張りすぎじゃないのか」

「なんのこれしき。さあ、もう一ふんばりしますわよ」

イザナミが力を込めると、下半身がとても熱くなってきました。生まれた子は火の神カグツチでした。その強烈な炎で、母イザナミの身体は焼かれ、黒こげになって死んでしまいました。

「ああ!なんてことだ。愛しき妻よ、お前は自分の命を、子供一人に変えようというのか」

妻の亡骸の横で嘆き悲しむイザナギをよそに、生まれたばかりの火の神カグツチは全身から炎を出しながら楽しそうに駆け回っています。それを見てイザナギはイライラしてきました。

「お前のせいで、妻は亡くなってしまった!」

イザナギは腰に帯びていた十拳の剣をすらりと抜き、火の神カグツチの首をはねました。その返り血が岩にほとばしって、そこからもタケミカヅチノカミなど、幾柱かの神々が生まれました。カグツチは討ちとったものの、イザナギの悲しみは癒えません。

「もう愛しい妻に会うことはできないのか、今頃黄泉の国でどうしているだろうか」

ガックリと肩を落とすイザナギ。その時イザナギは思いついたのです。

「そうだ、黄泉の国に妻を訪ねよう!」

こうしてイザナギノミコトは、イザナミノミコトを訪ねて黄泉の国に続く長く暗い洞窟を降りていくのでした。

 

さて、上述のイザナギイザナミの夫婦神の神話には、『天父神・地母神の結合‐分離』と『兄妹神的な近親相姦の問題(原罪)』というモチーフが関っており、近親相姦的な神々の交わりによって初めは不具(奇形・動物)の子どもが生まれるというテーマは、中国や台湾、東南アジアの『原始洪水型の神話』としても広く見られるものです。

イザナギイザナミは二度目の性の交わりによって、淡路島・四国・九州・隠岐壱岐対馬佐渡・本州という『大八洲・大八島(おおやしま)』を産み、日本列島が誕生する『国生み』が行われました。イザナミはその後も森羅万象を担当する自然神などを生みます。

黄泉国では、黄泉国の竈(かまど)で炊いた食物を食べる『黄泉戸喫(よもつへぐい)』をしてしまうと現世には戻れないというルールがあり、イザナミは既に黄泉戸喫をしてしまっていました。イザナミは何とか現世に戻して貰えないか黄泉の神々に相談してみると言い残して別室に入っていきますが、いくら待っても戻ってこないイザナミを待ちきれなくなったイザナギは櫛の歯を折ってそれに火を灯し、部屋の中を覗きこむと、美しく可憐だったイザナミの姿はそこに無く、腐敗して蛆が湧き悪臭を放っている死体の変わり果てたイザナミがいました。『よくもこんな姿を覗き見て、私に恥を掻かせてくれましたね』とイザナギに激怒したイザナミが追いかけてきます。イザナミ黄泉醜女(ヨミノシコメ)という鬼女を差し向けてイザナギを追跡しますが、イザナギは櫛や髪飾りをタケノコ・ブドウに変えて投げつけ、黄泉醜女らがそれを食べ漁っている間に逃げてしまいます。

イザナギは現世と黄泉国の境界にある『黄泉比良坂(よみのひらさか)』でイザナミに追いつかれますが、そこを巨大な岩で塞ぎこみ、イザナミとの離婚を宣言しました。離婚を一方的に宣言するイザナギの態度に激昂したイザナミは『黄泉国の神となってあなたの国の人間を一日に千人殺す』と脅しを掛けますが、それに対してイザナギは『ならば、私は一日に千五百人の子どもを産んで更に産屋を立てよう』と返しました。黄泉国の竈で炊いた食物を食べる『黄泉戸喫(よもつへぐい)』をすると現世に帰れなくなるというルールは、『同じ釜の飯を食べた人間は仲間・同族血族である』という共同飲食の信仰に根ざしたものであり、ギリシャ神話にも冥王プルートに攫われたペルセフォネー(豊穣神デメテルの娘)が冥界のザクロを食べて地上に戻れなくなった説話などがあります。

日本の神話はこのくらいにして、キリスト教の聖書を眺めてみましょう。キリスト教は宗教ですから神話ではありませんが、聖書の旧約部分は神話、物語という性格を色濃く持っています。聖書はキリスト教聖典で、旧約聖書 (Old Testament) と新約聖書 (New Testament) からなっています。キリスト教では、イエス・キリスト以前の預言者と神の契約を旧約と言い、キリスト以降のキリストの言葉や奇蹟を弟子たちがキリストの死後書いたものを新約聖書と称しています。

「旧約、新約」の “約”は「契約」の“約”を意味しています。また、『聖書』は「旧約」と「新約」という独立した2つの部で構成され、更に『旧約聖書』は39もの異なった書物の複合体であり、その一つ一つが独立した本として存在しています。一方、『新約聖書』は27の異なった本(ほとんどが手紙という形式)で構成されています。

ユダヤ教は『旧約聖書』だけを「聖なる書」とし、キリスト教は「旧約」、「新約」を全体として『聖書(The Bible)』としています。ユダヤ教にはもちろん「旧約」などという呼び方はなく、それはあくまでも「新約=神との新しい契約」という概念を持ったキリスト教側の分類に過ぎません。新しい契約はイエス・キリストによってなされた契約です。旧約の内容は5つに要約されます。

(1)神が天地万物を創造し、人間を「神のかたちとして、神に似せられ」他の動植物と区別して特別に創造された。

(2)神は、現在でも天地万物を支配しています。

(3)ユダヤ人の歴史とユダヤ人を通しての神の行いが書かれています。

(4)神の教えと知恵が記されています。旧約聖書は神との旧い契約の書です。

(5)同時に、新しい契約について預言されています。つまり、イエス・キリストの到来を預言しているのです。新しい契約では、イスラエル人と異邦人が共に真実なる神を礼拝するようになると預言されています。

 

創世記からの物語:イサクの燔祭

旧約聖書の『創世記』22章1節から19節のアブラハムとイサクの逸話を取り上げてみましょう。アブラハムの試練物語で、その内容は不妊の妻サラとの間に年老いてからもうけた一人息子イサクを生贄に捧げるよう、神が彼に命じるというものです。この試練を乗り越えることによって、アブラハムは敬虔な信仰者としてユダヤ教徒キリスト教徒、さらにイスラム教徒から敬われることになるのです。22章を新共同訳で読んでみましょう。

 

22:1 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。 神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、22:2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」  22:3 次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。  22:4 三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、22:5 アブラハムは若者に言った。  「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」 22:6 アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。  22:7 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。 「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」  22:8 アブラハムは答えた。 「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。  22:9 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。22:10 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。  22:11 そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、22:12 神の御使いは言った。  「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」  22:13 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。  22:14 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。  22:15 主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。22:16 御使いは言った。  「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、22:17 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。22:18 地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」  22:19 アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバへ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ。

 

1節から14節及び19節と15節から18節までの文体が(原文では)異なっていて、研究者の間では、15節から18節は後から付加されたという説が有力です。個性的な訳で知られる次の中澤治樹訳では、15節から18節が省かれています。

 

 22:1それからしばらくののち、神はアブラハムを試みて言った。  「アブラハムよ」 「はい」と彼が答えると、22:2 神は言った。 「おまえの息子、おまえがかわいがっているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行け。その地の、わたしが示す山の上で、彼を燔祭(の犠牲)としてささげよ」  22:3 アブラハムは翌朝早く起きて、ろばに鞍を置いた。そして、燔祭の薪を割り、二人の若い者と息子イサクを連れ、神に示された所をさして旅立った。  22:4 三日目になって、アブラハムが目をあげると、はるかむこうにその所が見えた。22:5そこでアブラハムは若い者に言った。  「おまえたちは、ろばといっしょにここで待っておれ。わしとせがれは、あそこまで行って礼拝をし、またここにもどってくるから」  22:6こう言ってアブラハムは燔祭焼の薪を取り、それを息子イサクの背に負わせた。自分は手に火打ち石火と刃物を持ち、父子はいっしょに歩いていった。  22:7 イサクはアブラハムに言った。 「お父さん」。 「なんだね、おまえ」とアブラハムが答えた。  イサクがたずねた。 「ねえ、火打ち石と薪はここにあるけど、燔祭の羊はどこにあるの」  22:8 「燔祭の羊は、神さまがちゃんと用意してくださるよ、おまえ」とアブラハムは答えた。そして、二人はなおいっしょに歩いていった。  22:9 やがて、神に示された所に着いた。アブラハムはそこに祭壇を築いた。それから、薪を並べ、息子イサクを縛った。そして、彼を祭壇の上に横たえ、薪をまわりにおいた。22:10 アブラハムは手をのばして刃物を取り、あわや息子をほふろうとした。22:11 そのとき、天からヤハウェの使いが、彼に呼びかけて言った。 「アブラハム、アブラハム」 「はい」と彼が答えら。22:12 すると天使が言った。 「その子に手をかけるな。指一本ふれてはならぬ。今こそ神を畏れるおまえの心がわかった。おまえは、自分の子、ひとり子さえ、わたしのために惜しまなかったのだから」  22:13 アブラハムがふと眼をあげると、なんと一匹の雄羊が木の茂みに角をひっかけているではないか。さっそく行って彼はその雄羊をとらえ、息子のかわりにそれを燔祭(の犠牲)としてささげた。22:14そしてアブラハムは、その所の名をヤハウェ・イルエ呼んだ。〔それゆえ今日でも「この山でヤハウェ現わる」と言う。〕  22:19 やがて、アブラハムは若い者たちの待っている所にもどって、ともにベエルシバに向かった。アブラハムはベエルシバに住んだ。

 

神が命じたモリヤの山を上りながら、父子の間では燔祭についての短い会話が交わされています。イサクは献げ物の子羊がないことに戸惑うのですが、アブラハムは多くを語りません。この時点でイサクはすでに、自分が燔祭の子羊として捧げられることを認識していたのでしょう。しかし、彼は無抵抗のまま父に縛られ、祭壇の上に載せられます。この間の両者の心理状態については具体的には何も描写されていません。「お父さん」と呼びかけるイサクの言葉と「なんだね、おまえ」と応えるアブラハムの言葉からそれを推し量ることはできるのですが、それがかえって物語のもつ不条理性を際立たせています。

 神の命令は「あなたの子孫はイサクによって伝えられる」という21章12節の約束と矛盾しているにもかかわらず、アブラハムは盲目的に神の言葉に従っています。ところが、イサクの上に刃物を振り上げた瞬間、天から神の御使いが現れることになります。

神が燔祭を命じた動機については、伝統的に三つの解釈があります。

  • アブラハムの信仰心を試すため。
  • 燔祭の場所として指示されたモリヤの山が神聖な地であることを示すため。
  • イスラエル民族から人身御供の習慣を絶つため。

当時のイサクの年齢については様々な議論があります。ハザル、及び一部の注釈家は、当時のイサクの年齢は37歳であったと述べています。つまり、この出来事はサラが死ぬ直前に起きたというのです。祭壇にくべる薪を彼に背負わせる記述があるので、イサクはある程度の年齢であると思われます。アブラハム・イブン・エズラは上記の説に反論するに及んで、13歳とする自説を紹介しています。これはバル・ミツヴァの年齢であり、イシュマエルが割礼を受けた年齢でもあります。ハザルと同様、イサクがすでに成人であったとする別の説では、神の命令はアブラハムに対してだけでなく、イサクに対しても試練として立ちはだかったとしています。  

イサクの燔祭の物語は、論理的な解釈を通じてキリスト教の主要なモチーフに影響を与えています。それは、イエスがイサクと同様、神に捧げられる犠牲として描写されているからです。また、イサクは穢れなき子羊の代わりとして燔祭に供されたのですが、一方のイエスは洗礼者ヨハネによって「神の子羊」と呼ばれています。十字架上の死という受難も、祭壇の上で縛られたイサクのそれとよく似ています。イサクの燔祭に関するこれらの解釈はキリスト教の伝統の中で教義化しましたが、それによって、イサクが捧げられたとされる神殿の丘から、イエスが捧げられたとするゴルゴタの丘へ聖地が移されたのです。

世界各地のイスラム教徒によって毎年盛大に行われる犠牲祭(イード・アル=アドハー)はこの故事を由来としています。『クルアーン』においてもイブラーヒーム(アブラハム)が息子を屠るという主題が見出せますが、イスハーク(イサク)、イスマーイール(イシュマエル)のいずれを神に捧げようとしたのかは明確ではありません。一部のイスラム神学者はイスハークであったと主張していますが、スンニー派の大多数はアラブ人の祖先とされているイスマーイールであったとする説を支持しています。また、燔祭に供された場所もエルサレムではなくメッカであったとしています。一方、シーア派ではイスハークであったとする説が受け入れられていますが、これは彼らの多くがアラブ人はでないことによって蒙るスンニー派からの差別が関係していると見られています。

ギリシャ神話にも、娘イーピゲネイアが父アガメムノーンによって生贄にされるという、イサクの燔祭と似たテーマの物語があります。そして、イサクの燔祭では最後には雄羊が屠られますが、イーピゲネイアは雌鹿と引き換えにアルテミスによって救われます。

イサクの燔祭は数千年にわたって様々な議論を呼び起こし、各々の思惑に基づいた多彩な解釈をもたらしました。こうした各派間の力学の中で、人身御供をタブー視する信仰が生み出され、それらを悪習として排除するようになりました。そして、一人息子をも惜しまないアブラハムの献身的な心構えが神の心を打ったことにより子孫の繁栄と全地の祝福が約束されたという思想が形成されたと言われています。

アブラハムの熱烈な信奉者であった哲学者セーレン・キルケゴールは、その著書『おそれとおののき』(白水社版著作集第5巻)において、イサクの燔祭におけるアブラハムの心理状態を考察し、不条理な信仰と懐疑論に陥らない人生の可能性について考察し、それを成し遂げたアブラハムを信仰の英雄として讃えています。アブラハムは無限の諦念を通じてその無限を飛び越えた舞踏者に見立てられていますが、それは奈落の底を通じて至高の境地に達するという発想です。キルケゴールによれば、アブラハムには最も背徳的ともいえる手段、すなわち自殺という選択肢もあったのですが、その絶望の境地から一躍、信仰の父としての評価を勝ち取ったとしています。キルケゴールは、アブラハムのイサク奉献を論じたて、次のように述べています(同書、p.190, p.197)。

 

もしこの言葉がなかったら、この出来事全体には何かが欠けていることになるだろう。もしこの言葉がこれとは違っていたら、おそらくすべては混乱に陥ってしまうであろう。

そこでたとえば、アブラハムが最後の瞬間に、イサクに向って、それはお前なのだ、と言ったとしたら、それは弱さを示すにすぎないであろう。なぜなら、もしいやしくも彼が語ることができるのであったら、彼はずっと前に語らねばならなかったであろうし、…そのときもしアブラハムが、わたしは何も知らない、と答えたとしたら、彼は非真実(いつわり)を言ったことになるであろう。彼を何事かを言うことができない、つまり、彼は彼の知っていることを言うことができない。そこで彼は、子よ、神みずから生贄の子羊を供えてくださるであろう、と答える。

彼はなんら非真実(いつわり)を言っているのではない。しかしまた、彼は何かを言っているわけでもない、なぜなら彼は異邦人の言葉で語っているのだからである。

 

キルケゴールの解釈では、アブラハムのこの言葉は「異邦人の言葉」、つまり、イサクやその家族、つまり共同体の中で生きる同胞には通じない、別の次元の言葉です。キルケゴールは「倫理」の次元と「信仰」の次元を峻別します。「倫理」の次元で言えば、アブラハムは、家族にも黙って息子を殺そうとした犯罪者であり、殺人者です。でも、「信仰」の次元では、「個別者が個別者として絶対者に対して絶対的な関係に立つという逆説」(p.197)を生きる「信仰の騎士」です。「倫理」の次元では、アブラハムは語る言葉を持っていません。生贄の羊はどこ?とイサクに問われて、「それは、お前のことだよ」とも、「さあ、どこにいるのだろうね、私は知らないよ」とも言うことができません。ありうる唯一の言葉は、倫理を超越した異邦人の「子よ、全焼の供犠となる羊は神が見いだされよう」ということ以外にはないのです。

 

しかしアブラハムを理解することは何人にもできなかった。それにしても、彼は何をなしとげたというのであろうか? 彼はどこまでも彼の愛に忠実であり続けたのだ。しかし神を愛するものは、涙を必要としない、驚嘆を必要としない、彼は愛において苦悩を忘れる。いや、もし神みずからがそれを思い出させたもうのでなければ、彼が苦痛に悩んだことを夢にも感じさせるような跡を残さないほど完全に、彼はそれを忘れたのである。なぜなら、神は隠れたことを見たまい、苦悩を知りたまい、涙を数えたまい、そして、何ものをも忘れたまわぬからである。(p.197)

 

さすがにキルケゴールは見事な解釈をしています。しかも、最後の文章はマタイ伝から取られており、生贄に差し出したわが子を救い出すというイサク奉献の物語を、はるか後世のイエスの復活と重ねているようにも読めるのです。

 

イサクの犠牲 1635年頃(The Angel Stopping Abraham from Sacrificing Isaac to God) 193×133cm | 油彩・画布 | エルミタージュ美術館

巨匠レンブラント・ファン・レインの代表的な宗教画作品の一つが『イサクの犠牲』です。この作品は旧約聖書の記述とは異なり、アブラハムを制止する神の御言葉は、神の意志を伝道する天使の制止によって表現され、アブラハムの右手からこぼれ落ちる短刀が、本場面の緊迫した緊張感と瞬間の激動性を見事に表しています。また画面下部から上部へ、横たわるイサク、息子イサクを抑えるアブラハムの左手、天使によって制止されるアブラハムの右手、アブラハムを制止する天使と、この劇的な場面を躍動感と連動性によって示し、各登場人物に光彩を集中させ、ドラマティックな効果を高めています。

 

 

[1]本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)というのは、神道と仏教を両立させるために、奈良時代から始まっていた神仏習合(神と仏を同体と見て一緒に祀る)という信仰を説明するために考え出された説で、平安時代に成立しました。その基礎には仏教以前の山岳信仰修験道などの山岳仏教の結びつきがありました。仏教の伝来は538年(あるいは552年)ですが、仏教が国家の宗教となったのは奈良時代で、東大寺を建立した聖武天皇の時からでした。ところが、天皇というのは神道の神様を祀る中心的地位にあります。貴族も豪族も、みな先祖は神様ということになっていたので、神様と仏様が歩み寄る必要が出てきました。歩み寄ったのは神様の方で、神様の立場を「本当は仏教の仏です(本地)が、日本では神道の神として現れています(垂迹)」ということにして、両者を共存させました。仏教自体がヒンズー教から沢山の神を輸入していましたから、如来、菩薩などが名前を変えて日本の神様になるということに抵抗はありませんでした。一方、神道は教義も無ければ教祖もいない、八百万の神様がいるだけでしたから、本地垂迹と言われても何も支障はなかったと思われます。

[2] 斐太神社とその周辺については『斐太歴史の里の文化史-鎮守の森の文化財と斐太神社を訪ねて-』、妙高市教育委員会、2014を参照して下さい。

[3] 延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)とは、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧です。延喜式神名帳に記載された神社を延喜式内社といい、一種の社格となっています。神名帳に記載された神社(式内社)は全国で2861社、そこに鎮座する神の数は3132座です。

[4] 関山神社についての詳しい説明は『妙高山雲上寺宝蔵院日記の風景-関山権現別当寺からみた妙高山麓の地域社会-』、妙高市教育委員会、2010を参照して下さい。

[5] 神仏習合が行われていた江戸時代以前に神社を管理するために置かれた寺を別当寺(べっとうじ)と呼びました。神前読経など神社の祭祀を仏式で行い、その主催者を別当と呼びました。神宮寺(じんぐうじ)、神護寺(じんごじ)、宮寺(ぐうじ、みやでら)とも言われます。

[6] 仮山伏の「仮」がどのような意味かは定かではありません。関心のある方は、『妙高山雲上寺宝蔵院日記の風景』の第1章p.31を参照して下さい。そこには次のように書かれています。「…祭礼時だけの仮の山伏、という意味だと考えられ、戸隠から山伏を「借り」てきたから仮山伏なのだ、という旧説は誤りだったことになる。」(筆者は由谷裕哉)

[7] 通称「宝蔵院日記」は妙高市教育委員会によって調査され、校訂され、『妙高山雲上寺宝蔵院日記』(3巻)として出版されています。

[8]金枝篇』(The Golden Bough)はイギリスの社会人類学者ジェームズ・フレイザーが著した未開社会の神話・呪術・信仰に関する研究書です。「金枝」とはヤドリギのことで、この著作がイタリアのネーミにおける宿り木信仰、「祭司殺し」の謎に発していることから採用されました。完成までに40年以上を要し、フレイザーの半生を費やした作品で、13巻から成る膨大な著作です。