北国街道と小出雲坂

 北国街道は日本大百科全書(ニッポニカ)の解説によれば次のように説明されています。

 

本州中央部と新潟および北陸3県を結ぶ北陸道とを連絡する近世の街道で、二つある。一つは浅間山麓の信濃追分中山道と分かれ、小諸、上田、長野、高田を経て直江津北陸道に合流するもの。加賀・高田藩が江戸へ出仕のおり通行したが、江戸幕府の財政をまかなった佐渡の金を江戸へ輸送するのに利用され、五街道に次いで重要視された。また、長野の南方、篠ノ井から松本を経て木曽谷の北端、洗馬で中山道に合流するものを北国西街道(善光寺街道)とよび、善光寺参詣者が多く利用した。  他の一つは、近江(滋賀県)、美濃(岐阜県)西部と越前(福井県)を連絡する街道で、中山道彦根市街北東の鳥居本で分かれ、米原、長浜、木之本、栃ノ木峠を経て今庄へ通ずる。このうち近江国境の栃ノ木峠までは北国街道、峠を越え越前に入ると北陸道とよんだ。また、関ヶ原中山道と分かれ、伊吹山麓を通り、木之本で北国街道に合流するものを北国脇往還とよんだ。

 

 私の思い出話は上記の説明の最初の北国街道についてです。北国街道は旧新井市の真ん中をくねくねと曲り、その両側に主な旧家や商家が並び立ち、街道を中心に新井がつくられてきたことを示しています。北国街道以外の道は脇道か新道という判断が子供にもできました。

 私の生家は妙高市の小出雲にあり、その北国街道に面していました。子供の頃、その道はまだ舗装などされておらず、夏は車が通るたびに土ぼこりが勢いよく舞い上がり、そのためかよく水撒きの手伝いをさせられました。雨が降れば、水たまりがあちこちにでき、自動車が通るたびにたまった水を通行人に容赦なく浴びせる道でした。冬には雪のために1.5mほどの幅の道に狭まり、車など通れず、そりだけが物資の輸送手段になっていました。道路全体の除雪など誰も想像せず、冬にはバスも運行しないものと決まっていました。

 私の家の前あたりから坂道になり、頸城平野の終わりを実感させる地形になっていました。道に沿って小さな川が流れていて、冬には雪のために水がせき止められて、洪水がしばしば起こったものです。人々はこの洪水を「水突き」と呼んでいました。積もった雪の下を川から溢れた水が暴れ流れるため、どこに水が溢れ出るかわからず、突然に縁の下から水が溢れ出ることなど珍しくありませんでした。実際、新井の街がほぼ平地にあるのに対し、小出雲は傾斜地にあったのです。

 入村市長の生家は渋江川の傍にありました。上流で日曹の工場廃液が垂れ流されていたためか、いつも悪臭が漂い、時には魚の死骸が浮き上がるというのが渋江川でした。今なら大問題となっているはずですが、当時は大した苦情もなかったようです。その汚い川を渡ると、直に飯山への分岐の三叉路があります。それを過ぎると小出雲の集落で、新井の街とはちょっと違った感じで、田舎染みてきます。どの家にも屋号があり、共通の姓が多かったために、屋号で呼ぶ方が便利でした。勾配のきつい坂を上ると杉の巨木が天を突く賀茂神社が左手に見えてきます。尻尾をピンと立てた古い狛犬がいましたが、境内は静寂が支配し、子供には怖い感じさえしたものです。年代物の拝殿はなかなか立派なものでした。新井の街中にある白山神社は明るい境内ですが、賀茂神社は背後がすぐに山のせいか、薄暗く不気味な雰囲気がいつも漂い、子供の私には近づきたくない場所でした。  

 私の家の手前から始まる坂が小出雲坂だと思い込んでいましたが、それは間違いで、小出雲から次の板橋までの杉林の中の坂道が小出雲坂です。坂を登れば高田平野はもう見えなくなります。古来北国街道の旅人の感傷を誘った坂で、新井小唄にも歌われています。御館の乱では景虎を支援する武田軍2万がこのあたりに陣を張って景勝を牽制したとのことです。

 

   越後見おさめ小出雲坂で    泣いた昔は夢じゃない (新井小唄)  

 

 詩は相馬御風で、中山普平が曲をつけたもので、そんなに古い歌ではありません。ここで「ほろりと泣いた」というような馬子唄があったのかも知れません。今歩けばさほどの急坂とも思えないのですが、昔は相当な難所だったようです。