e-myoko 「妙高を知る」4 岡倉天心を巡って

 赤倉は岡倉天心の終焉の地です。赤倉には六角堂があり、天心は妙高市と深いつながりがあります。2013年には天心が書いたオペラ「白狐」が上演されています。そこで、岡倉天心という人物について今一度確認してみようというのが、以下の話です。怪物としか言いようがない天心は形容しがたい能力を持つためか、その伝記はたくさんありますが、次のものを先に挙げておきましょう。天心の息子、孫が書いたものです。

『父 岡倉天心』 岩波現代文庫

 中央公論社は、復刊にあたり、本文中に引用された明治期の新聞,雑誌など入手出来る資料は,全て照合し直しています。漢字語の副詞、接続詞は、平仮名にひらき、20篇ほどの天心の漢詩白文は、訓読文を新たに加えています。増補された一雄の長男古志郎の「解説」では、天心、一雄、岡倉家について、親族として新たな貴重な証言がされています。また、戦後発見された重要な新資料(晩年の天心が,最後のインド訪問(1912年)の際に知り合ったタゴールの遠縁にあたる閨秀詩人バネルジー夫人との間で交わされた「プラトニック・ラブ」の往復書簡)にもふれています。

 筆者の岡倉一雄(1881-1943)は号谷人、天心20歳、基子16歳の時の長男です。慶応義塾大学理財科中退。5年間アメリカに遊学。帰国後、「高田新聞」記者を経て、朝日新聞社会部記者となります。朝日新聞退社後、日印貿易会社を起します。天心の根岸時代の友人幸田露伴に師事。俳諧研究書に『嵐雪の名句』、『芭蕉の名句』、『太祇俳句新釈』があります。聖文閣版『天心全集』を編纂。著作に『父天心』(1941年)、『父天心を繞る人々』(1943年)などがあります。

 さらに、岡倉古志郎(1912-2001)は天心の孫で、一雄の長男です。東京帝大経済学部卒。国際政治学専攻。アジア・アフリカ研究所名誉所長、大阪外国語大学教授。著書に『非同盟研究序説』、『祖父岡倉天心』(1999年)、岩波新書死の商人』、『アジア・アフリカ問題入門』などがあります。

 

 『茶の本』は岩波文庫で、本文は60ページに満たない本です。しかし、そこに含蓄された判断と洞察は鋭く、なぜ天心がこれほどの判断と洞察ができたのか私には謎でしかありません。『茶の本』のエッセンスを私流にまとめると次のようになると思われます。

 

 鎖国して平穏な技芸に耽っていた日本を野蛮で無知な国とみなしていた西洋は、満州で殺戮を始めた日本を文明国と認めることになります。西洋の特徴はいかに理性的に「自慢」するかにあり、日本の特徴は直観的に「内省」するところにあります。茶は「生の術」であり、「変装した道教」なのです。宗教では未来が私たちのうしろにあり、芸術では現在が永遠になります。出会った瞬間にすべてが決まり、自己が超越されます。数寄屋は好き家で、そこには現象の通過(パッセイジ)しかありません。茶の湯は始まりも終わりもない即興劇なのです。私たちは「不完全」に対して真面目に瞑想をつづけるしか手立てを持たないのです。

 

 西洋の美術、歴史、思想に対して、日本や東洋が西洋とは異なる基準に基づく、しかし西洋に決して劣らないものを持っていることを主張するのが本書です。文明開化一辺倒の当時、東洋に注目したロマン主義的な主張は異彩を放っていました。そこで、ごく手短に天心の「境涯」を辿ってみましょう。

 天心が生まれ育ったのは横浜で、そこには和洋折衷のローマ字をつくったヘボンや西洋思想を説いたブラウン教父もいました。7歳の天心はヘボン塾とブラウン塾で英語を教わります。でも、9歳で母を亡くし、再婚した父の都合で10歳で神奈川の長延寺に預けられると、漢籍に夢中になります。天心は14歳で東京開成学校(東大)に入り、森春濤に漢詩を習い、奥田晴湖に大和絵の指導をうけ、山水思想を身につけます。天心は東大在学中にハーバード大学から来たアーネスト・フェロノサと出会い、英語力を認められて通訳になります。なんと18歳で結婚(妻の基子は14歳)。

 天心はフェノロサの美術調査に随行し、千年の眠りから覚めた夢殿観音と逢着します。それはフェノロサよりも天心を決定的に「東洋の夢」に走らせたようです。その一方、このときの調査団長が九鬼隆一であったことも天心の境涯を大きく左右しました。隆一は九鬼周造の父親であり、その夫人波津との恋愛事件こそ天心を東京美術学校校長の座から引きずりおろし、それが奇縁で天心らは日本美術院をおこして五浦に籠城することになるのです(後述)。

 明治19年、25歳の天心は図画取調掛主幹となって渡欧、イタリア・ルネサンスの絵画彫刻には感嘆したのですが、大半の近代美術には失望してしまいます。道元雪舟の入宋、入明体験とよく似ています。道元雪舟も「彼の地には学ぶものが少ない」と言って帰ってきました。  明治憲法の発布の明治22年、東京美術学校が上野に開校します。芸大の前身です。天心は校長となり、帝国博物館美術部長を兼任し、さらに高田早苗らとは演劇矯風会を設立します。さらに、高橋健三と日本で最初の本格的美術誌『国華』を創刊します。この時、彼はまだ28歳です。東京美術学校の独創的で奇抜不敵さは「日本画」という概念にあります。それまで日本画という言葉はなく、大和絵か国画か和画でした。  ともかくもこのころの天心の境涯はすこぶる隆盛で、一方において大観・春草らの学生に天才芸術教育を施し、彼らをあっという間に育てあげ、根岸に数寄屋を造ってここで森田思軒・饗庭篁村幸田露伴・高橋太華・宮崎三昧などの近所の文人と遊芸の限りを尽くし、また、文化行政のすべてにおいて新試行を繰り返します。  予期せぬスキャンダルの発端は初代のアメリカ全権公使となった九鬼隆一が、折から欧米美術視察中の天心がアメリカに立ち寄ったときに、妊娠中の夫人波津(星崎初子)を天心にエスコートさせて日本に帰らせたことにあります。夫人は異国で出産するのが不安で帰国を望み、海を渡って横浜港に帰るまでのあいだ、二人には何かが芽生えたようです。明治二十年のことで、結局、九鬼隆一と別れた波津が根岸に越して二人は炎上、それをすっぱ抜く怪文書が出回って、天心は校長の座を追われることになります。橋本雅邦、高村光雲、天心を慕う教官(下村観山・横山大観・剣持忠四郎・六角紫水ら)はみずから辞表を書いて、殉ずることになります。  これで学校は蛻(もぬけ)の殻、天心は困ったものの、谷中初音町に学舎をつくり、ここに日本美術院を創設しました。この日本美術院出現の快挙を見た高山樗牛「太陽」論壇にさっそく筆をふるい、「奇骨侠骨、懲戒免除なんのその、堂々男児は死んでもよい」と述べました。天心は大観・春草に日本画の究極的な探求を促したが、世間はこれを「化物絵{ばけものえ}・朦朧画{もうろうが}」と揶揄しました。また、インドに旅立ってロンドンに寄り、さらにボストンに入って、そのそれぞれの地で英文による『東洋の覚醒』、『東洋の理想』、『日本の覚醒』を書きます。『茶の本』はこの3冊の英文本の直後に、いったん帰国して五浦に静寂の地を見つけたあと、もう一度ボストンのガードナー夫人のもとにわたったときに書いて、ニューヨークで出版したものです。  ここで天心は明確に「アジアは一つ」という構想を表明します。その意味は西欧帝国主義に抗すること、アジア民族の自決を闘いとること、風景や花鳥や人物や精神の表現に先駆するものをさらに発展させること、黄禍{イエローペリル}のキャンペーンに退かない勇気を発揮すること、そのアジア構想の一環としての日本の覚醒を勝ち取ることなど、論旨はすこぶる明快です。でも、その含むところは多く、のちに大アジア主義の鼓吹とも、ナショナリズムの高唱とも、また日韓併合のお先棒をかついだとも批判されました。  どんな反応が世間からやってこようと、天心は一点の迷いもなく、五浦に六角堂を建てます。大観・観山・武山・春草の名画を次々に生んだ五浦は、大観によれば「赤貧を洗う日々」だったのです。

 この辺で天心の境涯に多大な影を落とす九鬼隆一について、記しておきましょう。彼は1852(嘉永5)年に生まれ、1931(昭和6)年に亡くなりました。

 1884(明治17)年夏、ほの暗い八角円堂の中、一つの厨子を前に押し問答が続いていました。厨子は秘仏を大切に納めたもので、その扉は数百年にわたり閉ざされていました。僧たちとの長く、根気強い交渉によって、扉はついに開かれました。秘仏を包む布が解かれていきます。やがて、端麗な姿の一体の仏像が現れました。これは仏像彫刻の名作、法隆寺夢殿「救世観音像」発見の瞬間で、和辻哲郎は『古寺巡礼』の中で「日本の古美術にとって忘れがたい記念」と記しました。また、発見者のアーネスト・フェノロサ岡倉天心は、この身震いする瞬間を特別の感激をもって語りました。この日の調査は、日本の文化財学術調査、保護を印象付ける伝説となります。このドラマの背後には、ある男の強い意志があったと和辻は言います。そして、和辻はその名を「九鬼」と記します。  その男こそ九鬼隆一で、明治の一時期、文部小輔として権力を一手に収め、「九鬼の文部省」と言われました。文化財を行政が守る体制の原形をつくったのが九鬼隆一です。彼は明治時代に文化財を調査し、体系づけ、近代的な法整備で保護するという一連の活動に尽力しました。  九鬼隆一は、1852 (嘉永5)年8月7日、三田藩 (現在の兵庫県三田市)の藩士、星崎貞幹の次男として生を受けました。故郷三田で幼少時代を過ごし、幼くして丹波綾部藩(京都府綾部市)家老九鬼隆周の養子になり、九鬼姓を名乗ることになります。1871(明治4)年、慶応義塾に入塾。翌年、文部省に出仕し、官僚生活が始まります。木戸孝允らに認められ、とんとん拍子で出世し、省内で絶大な権力を手にしました。

 当初は、福沢の教えに基づき、開放的な自由教育を推進しました。しかし、政府の方針が儒教主義に傾くと見るや転向。その結果、隆一と福沢の関係は冷却化をたどり、「明治四十年の政変」によって決裂します。1881(同14)年、薩摩長州の藩閥主流派が、進歩主義路線をとる大隈重信を政府から追放します。進歩的な福沢門下生も官職を追われました。そのころ文教の実質的な責任者となっていた隆一は、「修身」の導入など、主流派の意向実現に力を尽くします。福沢は隆一を「ただ交際の一芸にて今日まで立身したる」と厳しく批判し、生涯彼を許しませんでした。これは、隆一自身の本質が保守思想にあったことの証明かもしれません。この選択は隆一が語られる時の批判材料となり、官僚としての彼の姿を印象づけています。皮肉なことに、政府はすぐに開明的な学校制度を求めます。  1884(同17)年、開明派の森有礼が文部省入省。隆一は同省を去ります。駐米大使となり「日米犯罪人引渡条約」締結という成果を挙げました。彼はとりわけ、美術行政に強い関心を持っていました。フランス・パリ万博への出張経験などで欧州の手厚い文化行政を知り、日本の古美術を取り巻く現状に強い危機感を抱いていたようです。日本各地では、廃仏毀釈の嵐と旧物破壊の風潮が巻き起こっていました。重要作品の海外流出など、日本美術は最大の危機を迎えていました。当時、同じ危機感を抱き、日本の古美術の保護を声高に叫んでいた人物がフェノロサと天心です。文部省に入った天心は隆一と出会います。この出会いが巨大な力を生み出し、明治の文化行政の中で大きな役割を果たすのです。  1887(明治20)年、隆一は帰国します。その後、図書頭、宮内庁臨時全国宝物取調委員長、帝国博物館(現東京国立博物館)総長などを歴任します。美術行政の重鎮となった隆一は、その後に通じる文化財保護の道を切り開いていきます。自らも調査旅行に出るなど、古美術の調査を推進し、美術品の海外流出を防止します。また、帝国博物館の開設に尽力し、京都、奈良の帝国博物館の設置、運営にも敏腕を振るいました。1890(同23)年、「帝室技芸員制度」制定を指揮。伝統技術を持つ芸術家の地位を保護確立させました。また、「古社寺保存会」の会長に就任し、1897(同30)年に「古社寺保護法」を制定。全国古社寺の国宝、特別保護建造物の指定を初めて行いました。この流れは、現在の文化財保護法へと受け継がれていきます。  社会は、急激な欧化主義への反発が強まっていました。日本美術の地位を高める彼の行動は再び時流に乗ったのです。当時の隆一を 「閣議終了後の雑談には常に美術論に花を咲かせた」 と 「日本近代美術発達史」は伝えています。1896年には、一連の功績が認められ、男爵が授与されています。しかし、時代は再びうねります。東京美術学校で起こった日本美術派と西洋美術派の対立。日本美術に傾斜する学校長、岡倉天心の解任に続き、隆一は一線から身を引くことになります。

 <妻・波津子と岡倉天心

 天心と波津子の恋は今なら大スキャンダルとして世間をにぎわすことでしょう。隆一が特命全権大使として米国に赴任中、妻の波津子は四男周造を妊娠。体調を崩し、隆一に先立って帰国することになります。隆一に代わり、岡倉天心が波津子に同行。そして、二人は急接近することになります。波津子は隆一のもとを出奔しますが、この恋は波津子の発狂という悲劇に終わります。隆一とは1900年に協議離婚が成立。作家松本清張は、事件を題材に「岡倉天心 その内なる敵」を発表しています。また、周造は後に哲学者として『「いき」の構造』を著しました。