「えちご」を通して見えるもの:芭蕉、蕪村、一茶、良寛

「えちご」を通して見えるもの:芭蕉、蕪村、一茶、良寛

 越後には詩人が多い。越後で優れた詩歌が生まれる。実際、会津八一も相馬御風も、そして西脇順三郎も越後生まれの詩人である。越後出身だからといって、その文学が越後的、越後風などと言うつもりはない。彼らが求めた詩や歌の精神は人間の生存や自然の姿に根ざした普遍的なものだった。越後は彼らの文学の契機の一つに過ぎない。

 

 松尾芭蕉は越後生まれではないが、越後を旅して秀句を多く詠んでいる。

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図 1 『奥の細道」の自筆

芭蕉は1644年、伊賀国上の赤坂(三重県上野市)に生まれた。『奥の細道』の旅に出たのは、1689年3月20日、46歳の時である。門弟曾良を連れて江戸深川の芭蕉庵を出て、平泉中尊寺金色堂を拝み、6月27日、越後村上に入った。7月4日出雲崎を経て、鉢崎、6日、荒川(関川)を渡し舟でわたって今町(直江津)に着く。出雲崎では「荒海や佐渡に横たふ天の河」を詠んでいる。  8日、高田に入り、大工町(中町四)の医師細川春庵(俳号棟雪)宅を訪問、二日間滞在し薬草園の花に寄せて「薬欄(やくらん)にいずれの花を草枕」と詠んだ。11日は快晴、11時に高田を発って、国分寺、居多神社(五智六)に参拝し、旅の安全を祈願して越中に向かった。市振で「一家に遊女もねたり萩と月」の名句を残し、7月12日越中に入る。

 芭蕉がこの旅で詠んだ主な句を挙げておこう。

 

夏草や 兵どもが 夢の跡

五月雨を あつめて早し 最上川

荒海や 佐渡によこたふ 天河(出雲崎

 

 芭蕉の辞世の句は病床で推敲を重ねた結果である。最後まで俳人魂を貫いた様がそのまま句に凝縮されている。

 

旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る

 

 正徳6(1716)年は、尾形光琳が亡くなり、伊藤若冲与謝蕪村が生まれた。若冲は、京都にある青物問屋の長男として生まれ、23歳の時に家業を継ぐが、30代中頃には参禅、40歳で隠居、そして、絵に専念する。蕪村は、大坂の農家に生まれ、20歳頃に江戸へ出て俳諧を学ぶ。北関東や東北地方をおよそ10年間遊歴し、その後40歳頃から京都へうつり俳諧と絵画の両分野で活躍する。若冲は彩色鮮やかな花鳥図や動物を描いた水墨画を得意とし、蕪村は中国の文人画の技法による山水図や、簡単な筆遣いで俳句と絵が響き合う俳画を得意とした。

 

岩くらの 狂女恋せよ ほととぎす[1]

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図2蕪村の画

 

春の海 終日のたり のたり哉

菜の花や 月は東に 日は西に

鳥羽殿へ 五六騎いそぐ 野分かな

 

しら梅に 明(あく)る夜ばかりと なりにけり(辞世の句)

 

 良寛は1758年越後出雲崎の庄屋の長男に生まれ、18歳で出家、備中玉島の円通寺で参禅修行し、印可を受けた。全国行脚の後、故郷の地で草庵に身を寄せ、自適の生活を送る。和歌、漢詩、書に優れた作品を残す。そこには良寛の「本来無一物」という禅の教えに徹したところに、無垢で清々しい境涯が生まれた。良寛は行動も自由自在、子供たちとすべてを忘れて遊び続ける無邪気さをもっている。だが、良寛は厳しい禅の修行をした禅僧である。その一方、良寛浄土教に深い共感と理解を示している。

 

良寛に 辞世あるかと 人問わば 南無阿弥陀仏と 言ふと答えよ

草の庵(いお)に 寝ても覚めても 申すこと 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

我が後を 助け給へと 頼む身は 本の誓ひの 姿なりけり

(私が頼むこと自体が弥陀の誓いによって成就するで、親鸞の「如来より賜りたる信心」のこと)

 

 良寛の辞世の句は二つ挙げられている。

 

散る桜 残る桜 も散る桜

うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ

芭蕉の友人であった谷木因(たに・ぼくいん)に「裏ちりつ表を散りつ紅葉かな」という句があり、良寛の「うらを見せ……」の句はこの木因の句を踏まえて詠まれたものである。)

 

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図3雪裏梅花徒一枝

『雪裏梅花徒一枝』は「悟りは、雪の中に梅の花が一輪、綻び咲くところにある」という禅の言葉だが、汚れた木綿の布きれに書かれた良寛の字には、上手く見せようと言う気負がなく、真っ白な雪と一枝の梅の花の美しい情景を良寛自身が感じ、楽しんで書いている。 

 年ことに あふとわすれと 七夕の ぬる夜の数ぞ すくなかりけり
 

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図4 年ことに あふとわすれと 七夕の ぬる夜の数ぞ すくなかりけり

 「年ごとに 逢うとはすれど 七夕の 寝る夜の数ぞ 少なかりける」という古今和歌集の歌をもとにしていて、良寛が58歳の頃、遠く江戸の地に出向いたまま、なかなか戻れない7歳年下の維馨尼(いきょうに)を想って詠んだ、と思われる歌の墨跡です。歌の内容でも、僧としての立場や体面に囚われない大胆な感情表現で、自身の裏も表も隠さずに生きることが表れている。ぬる」には「寝る」の他に「濡れる」の意味も含んでいます。  融通無碍で、自由な良寛般若湯(酒)も嗜み、乞食で山を下りる時は懐に手マリを入れて日暮れまで子供たちと遊び、マリ突きやかくれんぼをしていた。

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図 5 天上大風(凧の題字)

この里に 手まりつきつつ 子供らと遊ぶ春日は 暮れずともよし 良寛の歌と書を知り、人柄に感銘を受けた貞心尼は、良寛に弟子なりたいと願い出る。良寛70才、貞心尼30才の時である。貞心尼が会ってくれるよう願い出ても、歌詠みの尼僧である貞心尼に会おうとしなかったので、ついに貞心尼は草庵に良寛を訪ねる。良寛は不在だったが、貞心尼は持参した手マリと歌を庵に残して帰る。

 

これぞこの ほとけの道に 遊びつつ つくやつきせぬ みのりなるらむ(貞心尼)

 

このことがあってから良寛は、貞心尼に興味をもち歌を返した。

 

つきて見よ ひふみよいむなや ここのとを とをとおさめてまたはじまるを(良寛

 

貞心尼は、初めて良寛に会った時の喜びを素直に歌にしている。

 

 

きみにかく あひ見ることの うれしさも まださめやらぬ 夢かとぞおもふ(貞心尼)

 

良寛と貞心尼は、良寛が死ぬまでの数年間、お互いを慈しみ敬愛する恋愛を続ける。

 

天が下に みつる玉より 黄金より 春のはじめの 君がおとづれ(良寛

 

 村人は、二人の仲を噂し心配するが、二人は一向に意に介さなかった。二人は、度々会って花鳥風月を愛で、仏を語り、歌を詠み、そして、良寛は貞心尼に看取られて亡くなった。

 

 形見とて 何か残さむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみじ葉(良寛

 

良寛は、貞心尼の愛に心からの感謝をこめた辞世の句を贈る。

 

うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ(良寛

 

良寛の死後、貞心尼は良寛の旅した跡を追い、良寛の遺した歌を集め『蓮(はちす)の露』[2]という良寛の歌集を自ら編んだ。

 

 一茶は宝暦13(1763)年、寒村柏原の中百姓の子として生まれた。3歳で実母と死別、産みの母の顔も姿も知らない。その後、8歳の時には継母がくるが、この継母と一茶の仲はすこぶる悪く、小さくか弱い動物や小鳥に一茶は常に同情を寄せた。孤独な一茶は15歳で江戸へ奉公に出される。奉公先を転々とかえながら、20歳を過ぎたころには、一茶は俳句の道をめざすようになった。一茶は50歳の冬、故郷に帰る。その時の句が次のものである。

 

 古郷や よるも障るも 茨の花 

(故郷は人を刺すバラの棘のようなものである)

ふるさとは はえまで 人をさしにけり

 

そして、52歳で28歳の常田菊と結婚した。やがて、長男千太郎、長女おさと、次男石太郎、三男金三郎と次々に子宝に恵まれるが、いずれ夭折。文政7年、62歳の一茶は再婚、64歳で再再婚した。文政10年6月1日、柏原の大火に遭遇し、母屋を焼失した一茶は、焼け残りの土蔵に移り住む。この年の11月19日、一茶は中風で65歳の生涯を閉じた。

 一茶の句に「木枯や隣というも越後山」があるように、彼の生れは柏原、越後との境である。前には妙高山、黒姫山、飯綱山が肩を並べ、後は戸隠である。この山々の裾野と、後に聳える斑尾山の裾との縫い目が柏原である。旧制新潟中学時代から有恒学舎の教師時代の会津八一は、短歌よりむしろ俳句に関心を寄せ、大学生時代から小林一茶に傾倒していた。有恒学舎に赴任したのを契機に、一茶の研究に打ちこみ、新井町の醸造家入村四郎宅から一茶自筆の『六番日記』の一部を見つけた。『一茶句帳』、『一茶句集』、『おらが春』にある従来知られている一茶の句は2,400~2,500句であったが、この八一の発見により、一茶の未公開の句が一気に2,500~2,600句ほど加わり倍増した。

 

焚くほどは 風がもて来る 落葉かな(良寛

焚くほどに 風がくれたる 落葉かな(一茶)

 

上の二句に於ける「もて来る」と「くれたる」の相異は何か。一茶の句が當時ひろく知れ渡り、良寛の耳にも入り、それが又良寛の口から多くの人々に伝わったのだとしても、「焚くほどは風がくれたる落葉かな」と「焚くほどは風がもて來る落葉かな」と同じ句とみることはできない。「くれたる」が良寛によつて幾度となく口ずさまれているうちに、いつしか「もて來る」と変わったと考えると、その転化にはかなり深い意味がある。深く味つて見ると僅にその一つの言葉の違いから二つの句全体が違ってくる。「くれたる」には自分に対して自然が計らってくれたという気持がある。しかし、「もて来る」は自然の変化だけで満たされている。自然は私に気を遣っていない。自然は自然のままで、その恵みにあづかり、感謝するのは私からである。一茶と良寛はやはり違う。

 53歳で「焚くほどは風がくれたる落葉かな」の心境にまで達した一茶の辞世の句は次のものである。

 

露の世は 露の世ながら さりながら

 

[1] 「岩くら( 岩倉)」とは京都の北部の地名で、そこの大雲寺境内の滝は古くから精神病患者の治療に効能があるとされていた。蕪村はそのことを念頭において、ホトトギスの鳴き声に、岩倉の狂女が恋人を慕って泣く声を重ねあわせて一つの句とした。その俳句の世界を、絵や書と融合させて総合的に表現したのがこの作品である。そのようにみると、紫陽花も恋を連想させる花として和歌などにしばしば詠まれたもので、単に季節感を表すものではない。

 

[2] 和田浩、「良寛と貞心尼の愛-貞心尼筆『蓮の露』訳考-、高松大学紀要、第47号、平成19年、75-92