生活世界を支える知識:哲学的な素描 1

はじめに

私が生きているこの現実の世界、それを「生活世界」と呼ぶなら、フッサールポパーの名前を思い浮かべる人がいるかも知れない。彼らの哲学的な見解はさておき、私が日々経験している世界、それが私の生きる「生活世界」で、一途に因果的で、それゆえ、私の一生も因果的で、さらにそこで起こる変化はみな徹底して個別的な変化(individual changes)である。[1]映画や小説の世界が登場人物の独特な個性や行為で私たちを魅了するように、私の生活世界も、私自身がユニークでかけがえのない存在であることを含め、個別的な出来事、対象、状態からなり、個別的なもの、唯一無二であることが私の関心や注意、興味を始終生活世界に強く惹きつけている。

歴史、物語、人生、生涯といった言葉はみな因果的な匂いに満ちている。それらが描く因果的変化からなる世界を私は知りたいと心底思う。その願いは、気取って言えば「生活世界についての知識」の探求と呼べるものであろう。生活世界はいつでも因果的であり、その「因果的」を正確に理解し、表現し、操作したいという痛烈な思いが古典力学を生み、古典的世界観をつくり、それは今でも私の生活世界を支える世界観であり続けている。矛盾のない非古典的世界観をもつことができるかどうか、今でも皆目見当もつかないことを考えれば、古典的世界観の安定性はこれまでの実績だけからでも自明である。

私の住む世界は、「数学化された(つまり、数学を使って自然を考え、表現し、理解する)自然科学」が描く世界とはまるで違った、命の通った感覚的なものが溢れる世界であると気色ばんで叫ぶことがあるにしても、生活世界とは平凡で、少々退屈でさえある日常のありふれた世界であるというのも偽らざる感想である。私たちは20世紀以来、科学的知識を基礎にして生活世界をつくり変え、そこで日常生活を送ってきた。ギリシャ人の生活した世界は中世のキリスト教徒の世界とは違っていたが、私が住む現代はそれら二つの世界とも違った世界である。時代とともに世界観は変化し、生活世界も変わり続けてきた。では、一体どんな世界だと言うのか。実は、私が生きる世界の大半は今でも古典的な物理学の知識を基本にした世界観に基づいているように見える。その世界観の基本構造を明らかにし、それをベースにしてどのように生活世界が成り立っているかを確認し、その後で古典的な世界観がどのような問題を孕んでいるかに触れてみたい。古典的世界観は科学革命によって生まれた古典力学に基づく世界観で、そんな古い世界観が今でも通用しているというのは解せないはずである。だが、その世界観を下敷きにして私たちは生活し、それが私たちの生活世界を支えている。通常の哲学的な常識とは逆に、古典的世界観こそが現在の生活世界を生み出し、それを支えていると私は考えている。古典的世界観の本性を確認し、その結果として、古典的世界観こそが私の生活世界の基盤となっていることを明らかにしてみよう。

述べたいことを先取りして話してしまうのは興ざめだが、古典力学が前提として疑わない数学は私の生きる世界の因果的な変化を巧みに描き出し、その結果が古典的世界観として受け入れられ、今でも私の生活世界を支えている、というのが私の言い分である。[2]古典的世界観は生活世界の骨格になるもので、明晰にして判明というデカルト哲学の目標を実現し、ラプラスの普遍的決定論がなり立つ世界観であった。それが夢でしかない、実際に完全な予測などできないと直ぐに気づくのだが、夢でしかない理由は「認識レベルの人間的な限界にあり、知ることがいつでも十分にできるわけではない」ゆえに魔物のようにはいかないという言い訳がまかり通ってきた。

世界は因果的、原子論的であり、個体からなる物語的な世界というのが人類の最初の理解の仕方だった。論証的な姿勢によって因果的な世界が考察され出し、「幾何学+時間と空間」が物理空間として定着する。その帰結が因果的決定論、論理的決定論だった。古典的世界観は古典力学による普遍的決定論をゴールにして考えられた世界観で、存在論から知識論への両方にまたがる決定論がその主張となっている。

私が暮らす世界には物理的な側面と心理的な側面の二つがあると考えるのが習慣的になってきた。この頑固な習慣は生活世界の安定性だと考えられることが多く、それを破壊しようという人は意外と少ない。物理的側面は古典的世界観、心理的側面は心の存在と呼ばれてきた習慣で、未だに私たちの世界観として生活する世界を支配している。私はどうして物理的なものを自分とは違ったものとして扱うことができるのか。私が物理的でないと思っているからなのか、知ることは物理的でないと考えているからなのか。物理的なものはそれだけで完結していると思いたくなるし、それで成功してきたのも事実である。そんな物理世界の特徴は古典力学が生み出した古典的世界観によって与えられ、実際に生活世界をつくり変えてきた。

普遍的決定論と心身二元論、この二つあるいはそれらの世俗化版が私の生活世界を支えてきた。言語、論理、数学はそれらを表現する装置であり、世界は原子論と因果的な時間、幾何学的な空間によって構成されている。古典的で明晰・判明な世界という牙城に反対する試みは確率・統計的な知識を使うことから始まったが、確率の古典的解釈が端的に示しているように、不確定性は私たちの無知に由来する、あるいは私たちの信念の性質とみなされ、量子力学が登場するまでは物理世界の確定性は傷がつかないまま残ってきた。

 

  • 確定的?それとも確率的?

 

 最初に、「確定的」とか「確率的」、あるいは「決定的」とか「非決定的」と言われる事柄がどのようなことかを具体的に取り上げてみよう。「確定的なのか、それとも確率的なのか」と問われ、一見するともっともらしい議論が展開され、それなりの理由が見出せそうなのだが、本当にそれが正しいかどうかが意外に判定が困難である、というのが私の実感である。曖昧で灰色の議論や結論を浮き上がらせることによって、何が問題なのかが見えてくるはずである。

 

1.1マクロな世界と確率

次のような還元主義的な推論は哲学では珍しいものではない。

 

(1)古典力学ラプラス的な普遍的決定論を含意する。

(2)生物学は古典力学に還元できる。

(3)それゆえ、生物学ではラプラス的な普遍的決定論が成立し、生物学における確率の使用は単に知識の不十分さの表明に過ぎない。

 

この推論は生物学だけでなく、マクロな特殊科学に対しても同じように成立する(化学、地学、気象学等)。そこから、マクロな世界で確率を使うことはミクロな世界で使うことと違って知識の不十分さによるものであり、確率の解釈は主観的な解釈で十分であることになる。だが、生物学者にとってはこの結論は歓迎すべきものではないどころか、強く反対する結論だろう。というのも、自らの研究が主観的なものだと言われるのと同じだからである。(3)の結論を否定するには、前提の(2)を否定するのが有力な方策である。遺伝の確率モデルが力学モデルに還元できないことを示すことができれば、この推論の誤りを示し、生物学の自律性を示すことができる。

 そこで以下に、集団遺伝学のモデルやコイン投げのモデルを通じて、確率モデルが力学モデルに還元可能かどうかを検討してみよう。

 

1.2任意交配モデルについての生物学者の主張

生物学者は任意交配モデルが確率的で、そこでのメンデル法則は確率過程を述べたものであると考え、その具体的な内容を1 遺伝子座2 対立遺伝子の場合を使って、次のように説明した。三つの遺伝子型(AAAaaa)について、両親の遺伝子型に応じて子供の遺伝子型の確率がメンデル法則によって計算できる。この任意交配のメンデル的な過程では親の遺伝子型から子供の遺伝子型の確率は計算できるが、その逆、つまり子供の遺伝子型から親の遺伝子型の確率は(特別な場合以外は)計算できない。同じ原因から同じ結果という古典実在論を支える因果律は、同じ原因から同じ確率の結果と一般化できそうであるが、同じ結果から同じ原因という逆の因果律古典力学では成立しても、メンデル法則による確率的な一般化では成立していない。このような事柄に注目してメンデル集団の任意交配はコイン投げと同じ型のモデルをもつはずだと生物学者は考え、コイン投げと、進化の要因が一切働いていない遺伝子プールからの任意交配を取り上げた。コインは区別がない二枚を同時に投げ、出た結果が表の場合をA、裏の場合をa と記すことにすると、次のようなコイン投げの系列が得られる。

 

  (Aa), (aa), (aa), (AA), (Aa),......

 

また、任意交配の場合も、それぞれの遺伝子をAa とすれば、

 

  (aa), (AA), (Aa), (AA), (Aa),......

 

といった系列が交配が進むに連れてできあがっていく。遺伝子A a の割合p、1 - p を0.5とすることで、公平なコイン投げの場合に合わせることができる。しかし、二つの実験は全く同じではない。遺伝子プールは有限個の遺伝子しか含んでいない。それに対してコイン投げは望めば何回でも行うことができる。そこで、遺伝子プールの遺伝子総数の半分の回数、つまりは同じ回数だけ一回の実験を行うようにした。したがって、一回の実験の二つの系列は同数の対からなっている。遺伝子プールのサイズは様々なので、それに合わせて異なるサイズの遺伝子プールについて同じ条件のもとで実験できる。さらに、適当な回数(集団の数の半数未満)をあらかじめ決め、その回数に合わせてコイン投げと任意交配の実験を行えば、浮動の効果を見ることができる。この簡単な実験を生物学者は二つのことを確かめるために行った。任意交配する、進化要因が全く働いていない集団でも遺伝的な浮動が働き、それは純粋に確率的な現象で生物にだけ特有な現象ではないこと、そしてその系列がMarkov chain [3]であることを示すことであった。サンプリングエラーである浮動は、「有限の集団に浮動がない場合」といった仮定が原理上できないという点で自然選択とは随分異なっている。実際,試行回数をあらかじめ決めた場合の何回かの系列の相対頻度は決して0.5 ではなく、その周りに散らばっていた。得られた系列の分布の特徴は独立試行のMarkov chain、つまりはrandom walk[4] になっていた。その裏付けは、コイン投げが確率論の教科書で代表的な例になるほどに、その構造がよく知られている点にあった。そこで生物学者は任意交配が独立試行であり、またMarkov chain と同じであることを次のように考えた。コイン投げも任意交配も系列の長さn に独立に、定常な遷移確率をもつMarkov chain となる。二つの状態で、Xnを時点n での状態とすると、

 

   P(Xn + 1 = 1 | Xn = 0) = p  P(Xn + 1 = 0 | Xn = 1) = q

 

がそれぞれの遷移確率となる(ここでp, q を0.5 とすればこれまでの場合に対応する)。初期分布P(X0 = 0), P(X0 = 1)が与えられれば、逐次各状態の確率が計算できる。例えば、初期分布P(X0 = 0) = q/(p + q), P(X0 = 1) = p/(p + q)から出発すると、

 

   P(Xn = 0) = q/(p + q), P(Xn = 1) = p/(p + q)

 

となる。コイン投げや任意交配は連続的に変化するのではなく、 1 から0 へ、あるいは0 から1 へと飛躍的に変化するのでMarkov chain のなかでも、純飛躍的な過程である。random walk は運動の変化や分布を拡散(diffusion)現象として捉える方向に、Markov chain は変化の確率的な分布を確率過程(stochastic process)として捉える方向にとそれぞれその展開のされ方は異なるが、基本的な立脚点は同じである。その立脚点とは、ある事象から次の事象が起こることの間には確率的なつながりしかないということである。生物学者にとって重要であったのはこの確率的なつながりであり、それが任意交配の場合にも成立するということであった。そこで彼女は次のように結論した。[5]

 

  有限集団の任意交配は、独立試行からなるMarkov chain であり、コイン投げや

  random walk と同じように確率的な現象である。そして、有限の集団ではいつも

浮動が存在する。

 

さらに生物学者は任意交配が確率的であることから、進化は確率的であると結論した。浮動は自然のどのような交配集団にも必然的に生じ、そのような交配集団が進化を生み出しているのであるから、生み出される結果はそこに確率的な過程を含むことになり、そこから「進化は確率的である、あるいは確率的な要素を含む」という命題は経験的に正しいと結論した。

 

1.3 生物学者に対する古典的無知からの反論

ラプラスの魔物はコイン投げについての完全な知識をもち、投げられるコインの物理的な運命について完全に予測できる。魔物によれば、生物学者はコイン投げについて十分な物理的知識がなく、正確な予測ができないために、確率的にしか捉えることができない。魔物はコイン投げでもそれが生じるときのバイアス(非対称性)は決して見逃さない。コインを投げるときの物理的な状態のバイアスが何であるかを的確に掴み、それが結果にどのようなバイアスを生むかを正確に予測できる。コインを投げて裏か表が出たということは、その結果にバイアスがあったということであり、それは原因であるコイン投げのどこかに最初からバイアスが潜んでいたためである。これは理屈の通った話に思える。というのも、これは実は物理学の基本原理であって、対称性の原理(Principle of Symmetry)と呼ばれてきたものの一例なのである。その主張は、

 

結果に現れる非対称性は、原因にそれを引き起こす非対称性がある[6]

 

ということである。この原理が成立している限り、魔物は結果の裏、表というバイアスの予測を原因のバイアスに注目することによって物理学的に遂行することができる。

以上のことから、魔物は物理的な状況に関して予測ができ、確率などに頼らなくても、個々のコイン投げを一回毎に正確に予測でき、したがって、すべての系列について正確な予測を行うことができる。つまり、コイン投げの過程は全く決定論的である。それゆえ、確率の使用を主張・擁護する者の理解は誤っており、自然の過程に確率的なものは何ら含まれていないことになる。この説明は確率の主観的解釈(Subjective Interpretation)と呼ばれてきたものに基づいている。その解釈によれば、私たちが確率概念を使う理由は私たちの古典的無知のためであり、もし十分な知識をもっていれば確率などに頼る必要はない。さらにメンデル法則の方向性についても、それは現象的な法則であり、時間対称的な物理学の法則とは違って派生的なものに過ぎないと魔物は結論した。対象の時間発展を述べる法則に対して、メンデルの法則は単なる収支決算の報告の仕方に過ぎず、厳密な意味で法則ではない。

そもそも確率が古典的無知の反映であるから、それを使っての確率的な法則は法則と呼ぶに値しない。幽霊はどこにも存在しないが、考え出された多くの幽霊についての一般法則はつくろうとすればできる。遺伝法則はそのような類の規則であるというのが魔物の結論であった。ラプラスの魔物は、任意の正確さで初期条件を測ることができ、未来の予測のためには瞬時に完璧な計算ができなければならない。これが決定手続きを考えたときの魔物に課せられる条件である。元来、決定論は実在の決定性を主張するものであり、私たちの認識とは何の関係もないものである。その決定論と予測可能性を同一視させる理由は古典力学の第2法則にある。第2法則と、微分方程式系の解が存在して、しかもその一意性を保証する定理とが結びつくことによって、系の初期条件が定まれば正確な予測が可能であることが数学的に証明できる。これによって現在の状態から演繹される未来や過去の状態が存在するということが保証される。さらに、この決定論は上の予測が実際に構成的に計算可能であるという定理によって強められる。ただ単に予測が可能というのではなく、実際に予測を計算できる。こうして古典的な決定論は予測可能性と同一視されることになる。そして、このような「決定論=予測可能性」という認識的な決定論理解が、私たちが魔物に対して与えてきた役割である。

 

1.4ラプラスの魔物は遺伝の確率モデルを扱えるか?

前節の議論はいかにももっともらしく見える。偏りのないコインであれば、各々裏表の出る確率は1/2 である。このコイン投げを力学的に扱ったらどうなるか。誰がいつコインを投げるか、どのくらいの力でどの方向に投げるか、着地する面や空気抵抗はどうか、等々の多くのことを考慮して、コインが投げられてから着地するまでの軌跡が描かれることになるだろう。仮にそのようなモデルがつくられたとしてみよう。コイン投げの確率モデルはこのような想像上の力学モデルに還元できるだろうか。(力学)還元主義者の主張はこの還元が可能というものである。確かに、想像上は可能のように見える。これが誤っているというのがこれから述べることである。コイン投げの力学モデルは想像できるが、コイン投げの確率モデルをその力学モデルに還元することは上手く想像できない。コインを投げると裏か表が出る。そこで今裏が出たとしてみる。すると、力学の鉄則に従って裏の出た理由は原因に求められる。これは物理学全般に成立している対称性の原理の一例であった。表ではなく裏が出たのであるから、そのバイアスのある結果の源は原因のバイアスにある。裏が出た場合、コインを投げるときの条件に裏を結果するものが含まれており、それゆえ、コイン投げというシステムの時間発展によって裏が出たと考えられる。これが裏の出るコイン投げの初期条件である。ここで忘れてならないのはこのコイン投げは特定のコイン投げであり、1 回毎にその力学的な記述は微妙に異なっている。2 回目にコインを別の人が投げた場合には、異なるコイン投げの力学的な記述が得られる。とにかく、このようにして私たちはコイン投げの力学的なモデルを確かに想像できる。このようなモデルとコイン投げの確率モデルを比べてみよう。

コイン投げの確率モデルは裏と表の基本事象からなっている。これら基本事象の集合を考え、その部分集合の全体が事象を構成し、それら事象に確率測度が与えられている。1 回の偏りのないコイン投げでは各基本事象は1/2 という確率測度をもつ。このモデルはコイン投げの時間発展を述べたモデルではない。コインをどのようにいつ投げるかといった具体的なことについては何も述べていない。コイン投げの時間的な変化は、したがって、このモデルからは何も言えない。このモデルから唯一言えるのは、偏りのないコインという記述だけである。まず、これら二つのモデルは互いに両立するのか。私たちはそれぞれのモデルを想像できるし、その想像は単なる想像ではなく、それぞれ力学、確率論という理論的な裏付けをもっている。地震がどのように起こるかという経緯とそれがどのくらいの確率で起こるかということは両立すると自然に考えられているし、毎日の天気もその時間的な変化とそれが起こる確率は同じように並列的に考えられ、そこに何か矛盾があるようには受け取られていない。その理由は、私たちが力学的なモデルと確率的なモデルを時間をずらして適用することによって両方が同時には適用されないように工夫しているからである。「元旦は晴れる」という事象は元旦以前には確率的な事象と解釈され、元旦、あるいはそれ以後には実現の経緯が記録として書き記されることになる。同時に二つのモデルを併用するのではなく、時間をずらして別々に使うことによって両立させている。もし時間をずらさなかったら、一つの現象に対して二つのモデルがあり、それらモデルは異なることを主張していることになる。一方は決定論的に現象が生じることを、他方は非決定論的に生じることを主張している。一つの現象に異なる二つのモデルがあることに対して次の二つの態度が考えられる。

 

1.5二つのモデルの関係

これら二つのモデルが両立することは、時間をずらして使うことだった。時間をずらさなければ、一つの現象に対して二つのモデルがあり、それらモデルは異なることを主張していることになる。一方は決定論的に現象が生じることを、他方は非決定論的に生じることを主張している。一つの現象に異なる二つのモデルがあることに対して次の二つの態度が考えられる。

 

(1)態度1:モデルの一方が正しく、他方は誤っている。大抵の場合、力学への伝統的な信頼から誤っているのは確率モデルであるとされる。そして、その誤りは文字通りの誤りというより、私たちが確率モデルを用いるのは事前に十分な情報をもっておらず、不完全な情報のもとに確率概念を不可避的に用いざるを得ないからであると説明される。

 

(2)態度2:二つのモデルは私たちの視点の相違であって、両立すると考える。視点の相違は、モデルの全く異なる組み立てから説明される。現象を眺める私たちの視点には今の場合、二つの異なる視点があり、それらは一方が正しく、他方が誤っているというようなものではない。錯視図形を見る際に、一方の見方が誤っており、他方の見方が正しいのではないように、それは単に視点の違いに過ぎない。

 

二つの態度のいずれに軍配を上げるか、あるいは第三の態度を取るべきか、その決着は確率モデルが力学モデルに還元できるかどうかを考えた上でつけることにする。

 

1.6公平なコイン

ところで、そもそも偏りなくコインを投げることはできるのか。もし、裏か表のいずれかが出て、かつ対称性原理が成立していれば、偏りのないコイン投げは不可能である。裏か表のいずれかが出るということが偏りの存在を含意するからである。これが意味しているのは、確率モデルの設定が力学モデルの設定と異なるということである。したがって、単純に確率モデルを力学モデルに付随させることはできない。確率モデルと力学モデルの出発点の違いが単純に一方を他方に付随させることを阻んでいる。「偏りなくコインを投げる」ということは力学モデルをどのように工夫してもモデルとして実現することはできないが、確率モデルではそれが可能となる。確率モデルにおける「偏りなくコインを投げる」という事象は物理的に実現可能なことではなく、私たちの約定(stipulation)である。この約定が経験的に正しいものかどうかは当の確率モデルがコイン投げの実験に合うかどうかに依存している。「偏りのないコイン投げ」という初期条件の設定は力学的なモデルのどこにも還元できない。これだけでも還元可能性に関しては致命的であるが、次の理由も同じように重要である。

力学モデルは個々のコイン投げについてのものであると述べた。それに対して確率モデルはどうであろうか。それは何回という指定を明確に含んでいない場合が多いし、コインを投げる順序は普通問題にしない。一方、力学モデルではこれらが必然的に付き纏う。一方は振る順序や回数が曖昧であり、他方はそれらが正確でなければならない。このような二つのモデルの間にどのような還元を考えたらよいのか思いもつかない。

結論に至る前に上の議論への反論を考えておこう。それは次のような反論である。

 

(反論)

コイン投げに使うコインに物理的に偏りがない、そして偏りなく投げるという仮定を置くことがそもそもできるのか。もし偏りのないコインの偏りのないコイン投げが、幾何学的対象としての三角形が物理的に存在しないように、物理的に存在しないとしたら、確率モデルの組み方自体が物理的に実現可能な組み方に制限され、「偏りなくコインを投げる」というモデルは取り除かれ、物理的にありえないことになる。したがって、力学モデルで「偏りなくコインを投げる」という初期条件がないのはむしろ正しいのではないか。実際にコインを投げる場合、コインの上の面は表、下の面には裏というように非対称の状態からコインを空中に投げなければならない。裏表の区別のあるコインは対称ではない。確率モデルは偏りのある、非対称的なコインを偏りがないとみなすという点で幾何学的な理想化によるモデルであるに過ぎない。

 

(返答)

個々の確率モデルをつくるのに「偏りなくコインを投げる」ということは不可欠でないどころか、モデルの定義上必要でさえない。バイアスのあるコイン投げでも一向にかまわない。バイアスがあれば、それを考慮した確率測度を定めればよいだけである。そのような多様な確率モデルの組み方の中に「偏りなくコインを投げる」場合が含まれているだけである。それが重要であるのは、力学の法則を思い出してみればよい。力学の法則はいずれも理想的な条件の下での法則である。実際には空気抵抗や摩擦、重力のために物理的な状態変化そのものの法則ではない。それはまさに理想化された条件の下での法則である。そのような理想化された法則をもとにつくられるのが力学モデルであった。確率モデルも力学モデルと同じように理想化された場合を考えることに躊躇する必要はない。それどころか、そのような理想化された条件は確率モデルを理論的に扱う際に不可欠である。「偏りのあるコイン投げ」の場合は反論が主張する通り、特定の偏りを初期条件にするような力学モデルをつくることができる。私が主張したかったのは、「偏りのないコイン投げ」という場合が特定の確率モデルでは必要でない場合もあるが、確率モデル全体について考える際には不可欠であるという点である。

 

1.7視点の相違

 以上のことは確率モデルを力学モデルに還元することが不可能であることを示している。「偏りのないコイン投げ」に象徴される確率的な事態、特に任意交配についての確率モデルを力学モデルに還元することは不可能である。したがって、情報欠如のみによる確率モデルの使用という考えは否定される。二つのモデルは根本的に異なるモデルであるから、力学モデルの不完全なモデルが確率モデルではない。では、この還元不可能性をもたらしたものは態度2で述べられた視点の相違であろうか。私は視点の相違であると思う。[7]しかし、視点の相違とはそもそもどのようなことを意味しているのか。視点という哲学者にとって都合のよい言葉は視点にまつわる問題の解決を阻んできたように思えてならない。力学モデルと遺伝の確率モデルに執着して、そこでの視点の相違とは何かをじっくり考えてみる必要がある。この視点の相違は、自然選択を力学的な力に似たものとし、力学モデルを手本にしたモデルで考える場合と、自然選択をバイアスのかかったサンプリングとし、確率的なモデルで考える場合とに大きく分かれるほどの重要性をもっている。

 

ここまでの議論を読んでくると、フラストレーションが溜るだけではないだろうか。コイン投げは一体確定的なのか、それとも確率的なのか、はっきりしない。また、確定的とはどのようなことなのか。確率的とはどのような意味なのか。読んでいるとわかる気になっても、つまるところすべてが曖昧模糊としている。コイン投げという実に簡単な出来事がどのようなものか、それがわからないというのはとても気になることである。

 

(1)確定的とはどのようなことか

(2)確率的とはどのようなことか

(3)二つの違いは何か

 

これらのことをこれからじっくり考えてみなければならない、ということになる。このような曖昧な事柄を合理的な論拠に基づき、明晰に議論を展開し、判明な結論を得るというのが哲学のギリシャ以来の伝統だった。その歴史を念頭に置きながら、真相に迫ってみよう。また、コイン投げについては後に再度取り上げ、ここで十分に解明できなかった多くの点を明らかにして見よう。

 

[1] 今は個別的な事柄はトークン(token)と呼ばれ、一般的な概念や事柄(type)と区別される。

[2] デカルト心身二元論が今でも常識として受け入れられ、人は心と身体をもち、二つは相互作用しながら密接に結びついていると信じられている。それと同じように、古典的世界観に基づく生活世界も常識として通用し、確定的な変化が連続的に起こり、因果的に繋がっていると想定されている。だが、この二つの常識が両立するかと問われれば、その答えは千差万別である。ところで、古典力学が前提とする数学とは、点を実数で表現し、点の運動変化の軌跡を実数曲線で表現する数学で、具体的にはユークリッド幾何学解析学、つまり解析幾何学を指している。

[3] 対象としているある量 a が時刻t1t2,…,tn で測定したとき,a0a1a2,…,an であったとする.次の tn1 における aan1 となる確率が anan1 のみによって定まるような過程をマルコフ連鎖という。

[4] ランダムウォーク(random walk)は、次に現れる位置が確率的に無作為(ランダム)に決定される運動である。日本語では乱歩(らんぽ)、酔歩(すいほ)と言う。視覚的に測定可能な現象で、そのとき運動の様子は一見して不規則なものになる。

[5] 世代交代は継時的ではなく、同時的だと考える人がほとんどで、確率過程という捉え方は適切でないと思うかも知れない。同じ人が同じコインを何回も投げ、表が出た回数の平均値が時間平均であり、ある時刻に多くの人が一斉に同じコインを投げたときに表が出た人数の平均値が空間平均である。同じ人がコインを投げていくうちに、コインが歪んで表と裏の出方が変わると、時間平均と空間平均は異なることになる。それが起こらないという仮定、つまり、時間平均=空間平均という仮定がエルゴード仮定(性)である。コインの表か裏かの確率を厳密に求めるには、「全く同じ」コインを「全く同じ」時間に多くの人が投げて、表か裏かが出た人数の平均値を求めなければならない。反復性とエルゴード性の関係は後述参照。

[6] Curie, P., 1894, “Sur la symétrie dans les phénomènes physiques. Symétrie d' un champ électrique et d'un champ magnétique”, Journal de Physique, 3rd series, vol.3, 393-417.

[7] 視点の相違とは介入の相違と言い換えてもいいだろう。私たちは世界への介入の仕方に応じて異なる知識を世界から得ている。世界への異なる介入によって「確定的」、「確率的」という異なる結果が生み出されるのである。