生活世界を支える知識:哲学的な素描 2

第2章

「神話、物語から哲学、科学へのパラダイムシフト」の意味

第1章のコイン投げの話題とはまるで異なるのがこの章の話題で、「因果的な変化」を私たちはどのように理解し、表現してきたか、それがこの章の内容である。「神話、物語」と「哲学的、科学的な理論」は根本的に異なると誰もが思っている。二つは全く別物で、それゆえ、それに気づいたターレスは人類最初の哲学者という栄誉を担っている。だが、実は二つには共通点がある。「唯一の」物語と「普遍的な」理論は、対照的に対立しているように見えるが、それは見掛けに過ぎず、欺かれてはならない。

 

2.1生活世界:因果的に変化する世界

 生活世界はどのような世界かと問われれば、それは物理学が描く、冷たい物理世界とは大違いで、愛や夢に溢れた世界だと答えるのではないか。だが、違いばかりに気を取られると、二つの世界に共通の特徴があることをつい忘れてしまう。二つの世界とも「因果的」なのである。[1]物語であれ、科学理論であれ、それらが描く世界は因果的に変化する世界である。物理世界も生活世界も出来事の因果的な生起を私たちが経験することからなっていて、私たちの意識や欲求、感情の経験も因果的である。私は生活世界という環境からの刺激に常に反応している。因果的な変化に反応すること、それが生きることであり、どんな行動も因果的である。私たちの祖先も世界の変化が因果的であることをまず知り、それを基礎にした生活世界をつくり出していた。

 世界の中で次から次へと変化が起きることと、そのような世界そのものが変質していくこととは違う。日々の変化だけでなく、その変化が昔とは随分違った変化になったという実感を多くの老人がもつ。日常起こる変化とその変化が変質することとは異なる。世界観の変化は連続的ではなく、連続的な運動変化とは異質のものである。生活世界をつくっている要素が変わる、変化に関わる要素が新たに加わる、新しい生物種が出現し、新しい生活習慣、生活用品が登場する、そのような契機が生活世界を変え、新しい世界観を生み出していく。古典的世界観は変質し、非古典的世界観が非古典的な科学知識や技術を基礎にして生まれようとしているが、今はその生みの苦しみの途上にある。

 私たちは遥か昔から狩猟、採集、そして農耕と異なる生活形態を生み出してきた。科学とは呼べないにしても、生活の知恵を巧みに使って生活を営むことを随分昔から行ってきた。それが私たち人間の文化進化の歴史である。私たちの生活世界は私たちの進化の中で生み出されてきた広義の「適応」である。生活形態が文化的適応だと考えられている現在、生活世界とは適応形態そのものであり、生物的な適応だけでなく、知識・文化の適応も含めたものと考えられている。運動変化から進化までを含む変化に共通するのは因果的な変化であり、それを明らかにしたいという探求は結局、因果性の探求ということになる。

私の関心は生活世界の現象的な姿というより、生活世界がどのようにつくられるか、その基本構造は何か、それがどのように変わるかにある。神話や物語では世界がどのようにつくられるか、どのようなものかが直接に告げられ、記される。哲学、科学はそれを人間が自ら行おうとする試みで、試行錯誤を繰り返しながら、世界の基本構造を解明しようと、私たちが考え、語り、つくるものである。そこから生まれる科学的世界像は生活世界と乖離していると断じられる場合がほとんどだが、科学的な知識や技術を含んだ現在の生活世界それ自体が実は二つが融合している確かな証拠となっている。

生活世界の特徴を具体的に挙げてみると、次のようなものが見出せる。

 

  1. 生活世界は私の生活世界、あなたの生活世界、… そしてそれらの集まりというように、唯一の生活世界から共通の一般的な生活世界まで多様で、しかも毎日変化している。
  1. 実在論も、観念論も、表象論も何でもその時々に認めるのが生活世界である。要は、生活世界の思想には一貫性がなく、適当だということである。私は朝実験室で実在論者として振舞い、午後将棋をしながら観念論者として相手の心を読むことができる。
  2. 生活世界で有用なのは「使う知識」である。生きるために使う知識が情報である。一方、生活世界をつくり、変えていく原動力の一つも知識であり、それは何かを「探求する知識」である。[2]
  3. 一様で均一でないのが生活世界である。生活世界での時空は濃淡をもち、可塑的であり、因果関係も融通無碍になっている。だが、時空の濃淡は一様な時空がないと無意味で、測ることもできない。
  4. 生活世界の因果性は物語のそれに似ており、推理小説の筋のような因果関係が生活世界を支配している。生活世界は因果関係が蜘蛛の糸のように絡まり合っている世界である。

 

 生活世界は常に因果的だが、時には推理小説の謎ときのように因果的でない仕方で因果的な過程を説明する場合がある。また、因果的でない内容を因果的に語り、行動するのも私たち人間である。

 

2.2物語(ナラティブ)としての因果的世界

 物語には必ずと言ってよいほど主人公が登場し、その主人公を巡る物語が展開する。主人公の大半は人間、それも特定の個人で、固有名詞で呼ばれ、架空の存在でありながら、私たちを虜にしてきた。科学理論は人間を構成するタンパク質や組織、器官について説明できても、個人そのものを全体として描き、語ることはまずない。一方、物語は特定の個人、特定の状況に焦点を当てる。物語はある個人の特定状況での独特な行為から成り立っており、一般法則などとはおよそ無縁である。では、特別の例しか描かない物語がなぜ人々を惹きつけるのか。物語が描こうとする対象、登場人物が目指すゴール、物語の中で追求される夢が、私たちを虜にする理由はと言えば、それらが私たちの人生での探求そのものだからではないのか。特定の物語やエピソードであっても、それらが一般的な真理そのものだと直観でき、私たちの感情、意思、願いといったものがそこに盛り込まれていると私たち自身が信じるからなのだろう。

 人は文学や芸術に大きな影響を受けながら成長する。物語や芸術作品は人生を変える力をもち、人生に介入できる。科学理論も人間を変えるが、物語とはまるで異なる物理的な仕方によってである。物語の精神的な影響に対して、科学理論はその応用による物質的な働きによって私たちを変えてきた。

 神話、物語はいずれも哲学や科学の対極にあるものと捉えられている。私たちは何かを探求する物語を読み、人生とは何かを追い求め、何かを成し遂げるものだということを学んできた。それが物語のもつ力であり、物語が人を動かすと言われてきた理由である。この世界に疑問をもったり、反抗したりすることは、新しい物語を求めるのでなく、物語とは異なる別のタイプの「理論」を発見することにつながる。実際、別の物語を求めることに飽き足らず、物語と異なる新しいタイプの「探求装置=哲学的理論」を求めることがギリシャで始まった。理論は物語と異なる、新しい適応の試みであり、世界探求の新機軸、新装置となった。このように書けば誰もが納得するのではないか。創造神話や文学作品が人に与える感動と夢は、登場人物の姿や振舞いを通じて私たちに伝わってくる。理論とは新しいタイプの探求で、私たちの好奇心は真理探求という形で、物語ではなく物語の構造、材料、要素が何であるか明らかにしようと一心不乱になる。

私たちの生涯が因果的で、始まりをもつように、物語にも始まりがあり、因果的な展開、経緯といったものが物語を構成している。それに対して、理論は非因果的で、「前提」からスタートする。その内容は演繹的な論証からなっている。その論証の典型は数学的な証明である。そして、因果的な変化を因果的でない論証によって説明する新機軸がギリシャで花開くことになった。また、人生に終わりがあり、目的があるように、神話や物語にも終わりや目的がある。理論も目的をもつが、それは真理の探究という共通する、抽象的な目的というより、その理論を応用することによって実現できるものの方がより強く目的として考えられてきたようである。

神話や物語で展開される因果的なプロットは、実際の時間の経過と矛盾しない範囲で濃淡があり、省略があり、隠れたプロセス、複数のプロセスの交差といったことが自由に起こるようになっている。一様で均一でない変化が神話や物語の内容の特徴であるが、大抵は過去、現在、未来の順序まで犯すものではない。

 

2.3神話学史瞥見:因果性の起源[3]

 物語の原型としての神話について考えてみよう。神話に関する研究は神話学と呼ばれ、19世紀の神話学はダーウィンの進化論の影響を受け、歴史的だが、20世紀の神話学はソシュールの構造言語学フロイト精神分析の影響を受け、非歴史的だと言われている。  神話学の先駆者マックス・ミュラーは、神話は自然現象に起因すると考え、比較言語学を使って最古の資料と言われる『ヴェーダ神話』の神々の名前を比較し、神話の神々が天体や自然現象を司ることから、天体の動きが神話を生み出したと考えた。私たちの祖先は天体現象から受ける畏敬や畏怖を人格的に表現したが、これが後に人格的な存在が登場する神話に変わったと彼は推測した。  ジェームズ・G・フレイザーミュラーと同じく進化論的な神話の捉え方をしているが、神話の起源に対しては異なる考えをもっていた。ミュラーが神話の起源を天体現象と考えたのに対し、フレイザーは地上の文化現象にその起源を求めた。神話は宗教の儀典や儀礼から取り出された、というのが彼の神話儀礼説である。フレイザーはこの説に基づき、ネミの森で行われていたという王殺しの風習と死んで甦る神々の神話を『金枝編』で詳しく述べている。神話は呪術的な儀礼を説明するためにつくられたのであり、その起源は人々の社会構造に起因し、社会の変貌を呪術-宗教-科学の三段階に分け、神話は呪術と宗教の間に位置すると考えた。  ジョルジュ・デュメジルインド・ヨーロッパ語族の神話を比較し、「伝承圏」という概念を提唱した。それはアンブロシア伝承圏と呼ばれる、不死の飲料を巡る神々とその敵対者の争い、それをあらわす神話と儀礼からなっている。彼は神話と儀礼を同地位のものと捉え、両者の複合を探求した。この後、三機能体系という世界観を提唱し、インド、ローマそしてゲルマンの神話では神聖性、戦闘性、生産性の三つが世界を構成していると考えた。インド・ヨーロッパ語族に固有の世界観を求めていたデュメジルは、ゲルマン神話をこれに当てはめることで説明しようとした。  レヴィ・ストロースは、神や英雄がもつ個々の名前や役割よりも、神々や登場人物たちの関係の背後にある「体系」に注目し、言語学を駆使して神話の構造分析を行い、神話の普遍性を強く主張した。彼はフロイトの発見した無意識、そしてその弟子ユングが提唱した普遍的無意識と元型にも影響を受けているが、ユングが軽視した論理的な構造や体系性を強く意識している。神話には様々な対立や矛盾があるが、彼はこの矛盾や対立こそが神話を解く鍵なのだと考えた。  ミルチア・エリアーデは、キリスト教が世界を席巻していた時代、原子的な宗教こそが重要で、歴史主義のもとで発展した唯一神への信仰ではなく、様々な神々が存在する神話の世界が重要だと考えた。彼は神話が起源神話であるべきだと主張する。エリアーデは歴史主義もしくは歴史そのものに対して否定的で、現実世界と区別して、神話の世界は非歴史的で無時間的であり、古代における宗教を現代にも呼び覚ます必要があると唱えた。  無意識という概念を取り入れた20世紀の神話学は、人間の思考やその精神的な存在の在り方といった、精神世界に視点を移していくことになる。オカルト的で、形而上的な傾向が最も強く現れる神話学者がジョセフ・キャンベルである。エリアーデと対照的に、キャンベルは英雄神話こそが神話であると考える。しかし、エリアーデとキャンベルが取り上げる神話には共通するものが多く、それは、エリアーデが神話の始まりに注目するとしたら、キャンベルは主人公に注目するといった、視点の相違に過ぎないからである。彼は著書『千の顔を持つ英雄』で神話とは真実を覆い隠す仮面であると述べている。[4]

 

(補足)日本の国づくり神話

 ここで日本の神話について振り返っておこう。『古事記は日本最古の歴史書で、元明天皇勅命により和銅5年(712年)に太安万侶(おおのやすまろ)によって献上された。神代から推古天皇(592年即位)の時代までが上・中・下の3巻に記されている。日本書紀舎人親王らの編集で養老4年(720年)に完成した日本最古の正史で、神代から持統天皇(697年即位)の時代までが記されている。全30巻・系図1巻の長編である。日本の起源神話がどのようなものか、振り返ってみよう。

日本神話は天地と神々の始まりの物語であり、天つ神の命令でイザナギイザナミが日本の国を生むという神秘的な場面が描かれ、死んだイザナミが送られた黄泉国(死後の世界)までも生々しく語られている。イザナギイザナミは二度目の交わりによって、淡路島・四国・九州・隠岐壱岐対馬佐渡・本州という『大八洲・大八島(おおやしま)』を産む。黄泉国では、黄泉国の竈(かまど)で炊いた食物を食べる『黄泉戸喫(よもつへぐい)』をしてしまうと現世には戻れないという決りがあり、イザナミは既に黄泉戸喫をしてしまっていた。イザナミは何とか現世に戻して貰おうと黄泉の神々に相談してみると言い残して別室にいくが、いくら待っても戻ってこない。待ちきれなくなったイザナギは櫛の歯を折ってそれに火を灯し、部屋の中を覗きこむと、美しく可憐なイザナミの姿は無く、腐敗して蛆が湧き悪臭を放つ、変わり果てたイザナミの姿があった。彼女を盗み見たイザナギに激怒したイザナミが追いかけてくる。イザナギは現世と黄泉国の境界にある『黄泉比良坂(よみのひらさか)』でイザナミに追いつかれるが、そこを巨大な岩で塞ぎこみ、イザナミとの離婚を宣言した。これに激昂したイザナミは「黄泉国の神となってあなたの国の人間を一日に千人殺す」と脅すが、それに対してイザナギは「ならば、私は一日に千五百人の子どもを産んで更に産屋を立てよう」と言い返した。[5]

 

 長々と「神話とは何か」についての答えを眺めてきた。これほど寄り道する必要はないのだろうが、科学だけに人々の関心が向かってきたのではなく、神話や物語にも多大な関心と興味が向けられてきたことを憶えておくためであり、何より因果性が生活世界の最初の原理であることを莫大な神話や物語の存在が示していることである。古代人の生活世界が因果的であることは因果的な神話や物語がその動かぬ証拠であり、その基本的性質は私たちの生活世界に至るまで遺伝的に保存されてきたようである。それゆえ、私たちは因果的でない変化を適確に理解するのが因果的な変化の理解に比べると得意ではない。はっきり言って、大変不得意である。

「神話とは何か」に関しても実に様々な意見がありながら、それら穿った解釈の根本には起源神話が歴然と存在している。因果的構造のもつ揺るぎなき安定性は生活世界の最も根幹に因果性があることの証拠となっている。因果性が私たちの生活そのものを支えている。因果的でない生活は神話や物語の存在そのものを否定するものであり、それゆえ、神話や物語をもつ私たちの生活世界は因果的なのである。

 「神話とは何か」に答えても、個々の神話が述べている内容がわかる訳ではない。同じように、「理論とは何か」という問いから個々の理論が何を述べているかはわかる筈もない。幸い、私たちが信頼できそうな理論は神話より遥かに少ない。また、理論同士の優劣の判定は神話同士のそれより遥かに単純である。それゆえ、神話から世界の有り様を探るより、理論から世界の有り様を探る方が余程信用できそうである。この辺のことを次に考えてみよう。

 

2.4理論か物語か?

理論と物語のいずれがより信頼されているか。古代人なら物語を、現代人なら理論を信頼するというのが誰もが出す答えである。世界の誕生から現在までを物語として受け入れ、盲目的に信じることと、世界の仕組みや構造に関して疑問をもち、それを考察し、基本的な原理や法則を探求することとの間には大きな違いがあり、ターレスは哲学的な疑問をエネルギーとして自ら世界を探求し始め、それが現在に至るまで私たちの習い性になったと言われてきた。[6]

 次の二つの表は月並みだが、私たちが常識として理解しているものを整理したもので、問題なく納得してもらえるのではないか。

  1. 理論:論証や証明の非因果的な表現様式

・普遍的な真理を無矛盾な仕方で探求する。

・真偽の判断は、論証や証明の論理的妥当性や正確さにある。

・正しい説明を探求する。

・仮説からの無矛盾な数学的推論によって結論が導かれる。

・経験的発見と推論を通じて、世界を描き、科学技術を生み出す。

  1. 物語:行為や出来事の因果的な表現様式

・個別の事実、真実を、シナリオの巧みな展開によって伝える。

・シナリオの迫真性が求められる。

・迫真の叙述を探求する。

・みごとなシナリオで人の心をひきつける物語がつくられる。

・シナリオは、人の行為と意識の様々な光景を描く。

 

 

神話や物語として描かれた世界の姿を素直に受け入れること、理論をつくり、論証によって世界の姿を探り、説明すること、これら二つは大変に異なった態度であり、その態度の変化が哲学、そして科学を生み出した、という考えは本当に正しいのだろうか。これら二つは「相容れない二つの態度」だとするなら、それはどこか違うと感じるのは私だけだろうか。その理由は、つまるところ、理論と物語は両立可能なものであり、世界についての対立する見方、両立しない考え方ではないからである。互いに両立するゆえに、神話や物語から理論への移行と、理論からそれらへの移行も同じように行われてきたのである。二つが相容れないなら、朝に理論を学び、夜に物語を楽しむなどということは至難の業となるはずである。

 これを確かめるために、次のような対について順次考えてみよう。これら三つの対の間には共通の特徴がある。それぞれの対は根本的に相入れない、両立不可能なものと(それぞれ別の理由から)考えられがちなものである。

 

 神話と宇宙論  歴史と進化論  個体発生と系統発生

 

世界や民族の起源を語る創生の神話、物語は実に多い。世界中のどこにも存在し、それが宗教につながっている場合がほとんどである。神話や物語では特定の人物や事柄が主人公として描かれ、神や英雄が登場し、奇蹟が起こり、それらが人々を強く惹きつけてきた。神話や物語は人々を支配し、それを信じることが生きることにつながっていた。それらが描く特定の内容は大変命令的であり、それを遵守することが人生のゴールにつながるように仕組まれていた。自らの起源、歴史が民族の歴史として語られ、それが常識として生活に組み込まれている世界では、それに対して疑問をもったり、反抗したりということは自らを否定することと同じことだった。

 一方、宇宙論創世神話に比べれば、随分新しいもので、現在新しい知見が増大している物理学の分野である。ビッグバン以降の宇宙の歴史が物理学の最新理論によってモデルとして構成されている。科学的な事実として宇宙の歴史を確定するのが宇宙論の目的である。創世神話が個別的で唯一の歴史物語であるのに対し、現代の宇宙論は歴史の再構成でありながら、そこで使われるのは物理学の一般的な知識、つまり物理法則と宇宙の物理状態である。

この科学的探求がより限定的、具体的に示されるのが進化論である。地球上の生命の誕生とそれ以後の生命の歴史が進化論の探求の範囲である。生命の進化は生命の歴史そのものであり、特定の惑星で起きた生命現象の歴史であり、これから起きると予想される未来の変化の予測に繋がっている。そして、私たちが歴史という場合は、人類の進化の歴史の僅かな部分を指しており、人類の歴史は生物進化の僅かな一部となっている。

最後の対は個別の問題として大変興味深い対である。個体発生とは各生物個体の発生、発達であり、系統発生とは生物種の進化のことである。人間の個人の成長と、人間という種の進化は、20世紀の最後まで根本的に異なるもの、混同すべきでないものと受け取られてきた。だが、21世紀に入り、二つの間の密接な関係が改めて議論され直されることになった。[7]

天変地異に見られるような急激な自然の変化を適確に理解し、対応するためには現実を因果的に見る必要がある。台風が去って平穏になったら、その爪痕をじっくり見定め、現実離れした上で、十分な情報と論証を通じて次の台風に備える手続きを考え出さなければならない。現実を掴むための因果性と現実離れすることによる論証は両者を巧みに組み合わせることによって、決定的な手続きを生み出すことができる。これは最終的に因果的決定論によって生活世界をコントロールしようとすることに繋がっていく。因果的決定論の最も精緻なスタイルが古典的世界観の中で主張されるラプラスの普遍的決定論である。決定性は論証のシステム化から導かれ、それが因果的な変化に適用されることによって生み出されたのが因果的決定論である。これは古典的世界観の成果であり、当然のように私たちの生活世界のあちこちに顔を出すものである。因果的決定論に支配される古典的世界観とそれを下敷きにした生活世界は、非古典的な物理学とそれが主張する世界観が議論され、断片的ではあって新しい世界の姿が垣間見えることによって、その真の意義が明瞭になってくる。つまり、古典的世界像の意味は非古典的世界像の提案によってよりはっきりしてくる、という訳である。

 

2.5プロットと因果過程(物語と現象)[8]

「自由と決定」と呼ばれる哲学では有名な問題がある。「決定論が成り立つ世界で私たちが自由に考え、振舞うことができるのか」という問題である。この難問を考える上で大切なのは、プロット、つまり、話の筋と、因果的な変化、出来事の関係とをはっきりさせることである。どのような経緯で物事が起こるかをプロットとして理解するのが私たち人間である。物語と物理的な因果過程は別のものという印象があるが、少し冷静に考えれば、因果的な展開こそが物語の命である。だが、ブロック宇宙モデル(Block Universe Model)に見られる構造的な理解と物語の因果的な理解は違っている。構造をわかることと因果過程を追うことの間には大きな違いがありそうである。

 因果的な系列の代表例が原因と結果の鎖だろう。一本の鎖のように因果的な現象を捉える典型例が力学モデルで、コイン投げの力学モデルではコインが手を離れ地面に到達するまでの軌跡が一本の線のように描かれることになっている。これは大変単純な因果過程の例で、コインが時間の経過に従って、分割されることなくその状態を連続的に変えていく。力学モデルの始まりや終わりは物理的に決まっているわけではない。始まりや終わりは恣意的で、系が孤立している限り、始まりも終わりもないというのが普通である。

 幾何学の証明に見られる論証では、因果系列に対応するのは命題の変形が証明図として書かれる姿であろう。変形の規則は論理規則で、時間のパラメータを含まないという意味で、変形は因果的ではない。いつも線形の系列ではなく、時には分岐が起こる。一つの証明に対して、一つの証明図が考えられるが、始まりは前提、終わりは結論である。二つ以上の定理がある順序に従って組み合され、証明の系列が考えられる場合、複数の証明をつなぎ合わせるのは私たちの巧みな論理規則の組み合わせであり、そこにはプロットの展開に似たものがある。

普通の物語では複数の因果系列が進行しており、それらが時には衝突し、分離し、それによって新しい因果系列が生まれるといった、因果系列の繋がり合いが物語の面白さを決めている。単純な力学モデルの過程ではなく、力学モデルが複雑に幾つも絡み合うところに物語の真髄があり、それが人生の絡み合いに通じている。[9]

あることが起こり、それが変化し、ついに決着がつく、といった言い回しに何の不思議も感じないのは、それが現象の起こり方だと信じられているからである。因果的なプロットにもいくつかの種類がある。だが、プロットとして現象や出来事、事態を理解するという点は共通している。では、論証や証明はプロットをもつだろうか。証明すべき命題をどのような順番で証明していくか、ある定理の証明のためにどのように個々の命題の証明を組み立てていくか、といった事柄にはプロットが必要と思われるが、個々の証明の中にはプロットはない(帰謬法はどうか)。先にプロットがあり、それに合致するような命題が探され、その命題の証明は演繹的に行われるというのが普通である。

私たちがどうしてプロットとして物事を理解するかという理由は、私たちの経験の仕方にあるようである。時間的な経過、流れの中での経験は、出来事を因果的な変化として捉える。因果的な変化とは、物事が並列して起こるのではなく、直列式の出来事の系列が図として浮かび上がるような仕方の経験である。この経験は物語のプロットの展開に似ており、私たちが自らの経験を理解する自然な仕方が物語としての経験なのである。日常の経験とは因果的な経緯の経験である。だが、因果的でない経験もある。純粋に色を見ている、一心にある音を聞いている、素晴らしい風景に見入っている、等々は因果的というより静的な情景の経験である。[10]

因果過程の途中に分岐が起こり、樹状の構造となるにしても、ある出発点から枝を辿ってゴールに達することができる。分岐は因果的ではない、というより因果性とは異質の概念である。分岐は複数の因果過程の併存を前提している。枝分かれしないで時間発展する系は単純で、決まる過程だけを記述し、説明すれば理解できる系である。分岐し、それゆえ、分岐点で選択が必要な系には因果的でない要素が含まれている。選択は因果の鎖を切らなければならないが、その選択の存在が物語には不可欠で、複数の因果過程の絡み合いこそ物語を興味深いものに仕立て上げている。

「自由と決定」問題の解決は分岐的過程の存在に結びついている。一つの過程を決定論的に説明する法則では分岐まで説明することができない。それを敢えてしようというのが非決定的な説明である。決定論的な理論は一つの過程を説明するためのものであり、分岐構造をもつ因果過程は「選択を含む因果過程」として説明されてきた。分岐について、次のような二種類の形態がある。

 

分岐が実在し、二つ以上の過程が共存する場合:遺伝法則に従う世代交代

分岐があっても、片方だけが実現する場合:自由意志による選択とその後の行為

 

これら二つの分岐過程は本質的に異なり、それが問題を厄介にしているようにみえるが、実はこれら二つの分岐過程は同じ一つのもので、見方の違いが二つに見せているに過ぎない。二つの選択肢の一つが自由意志で実現する場合、ある自由意志がAを、別の自由意志がBを選択するなら、ABの過程が共に存在するが、自由意志は特定の機会に二つ同時には選択できなく、いずれか一つを選択しなければならないなら、片方の過程は見えないことになる。

物語は、私たちの自由意志が働くことによるプロットの存在と、因果的な過程が上手く組み合されることによって、私たちを惹きつける力を獲得することができる。その力は、物語の世界がこの世界の出来事と同じようなことであり、いつどこで起こってもおかしくない、但し架空の出来事であることから来ている。一つの因果過程は物理レベルの出来事の古典的な特徴であり、時間的な出来事の系列である。そこには自由意志が働く余地はなく、したがって働いた痕跡はどこにもない。[11]

 

ここまではいわば能書きの部分でとても退屈な話と感じている読者が多いのではないか。ここまで我慢していただいた読者には以後の話が期待を裏切らないものであると確信している。因果過程の衝突によって誰かと知り合い、何かを忘れ、それが長々と続くのが人生である。それゆえ、以後の議論の展開も因果的な様々な衝突に依存し、そこに書き手の私の意志が反映していると考えてほしい。

 

2.6ターレスとパルメニデス

<ターレスの幾何学:論証による説明>

現在はトルコのミレトスで生まれたターレス(624-546 BC)は、気候や天体の変化は神ではなく科学者が説明すべきだと考えた。ターレスは物質がすべて水からできていると誤解したが、どんなものも同じものからできているという考え自体は誤っていない。事実、すべては素粒子からできていると今の私たちは認めている。ターレスは地球が丸く、月は太陽の光を反射して輝くと説き、日蝕を最初に予言したとヘロドトスは伝えている。[12]さらに、ターレスは数学、特に幾何学を生み出し、幾つもの定理を証明している。

アリストテレスはターレスの金儲けの話を伝えている。貧乏で、知識は役に立たないと批判されたターレスは、気象学を使って翌年の夏のオリーブの収穫は豊作だと予測し、オリーブの圧搾機を事前に借り上げ、大儲けできた。[13]知識を上手く利用して金儲けをするときの因果的な文脈と、ターレスが定理を証明するときの因果的でない文脈を見比べると、因果的な文脈では「利用される知識」が主人公になり、非因果的な文脈では主役が「探求される知識」であることが見事に浮かび上がってくる。

ターレスの合理的精神は、エジプトから持ち帰った知識を鵜呑みにせず、論理的に徹底的に吟味して結論を導くものだった。これがギリシャ数学を生みだす源泉になった。エジプトでは「円の直径はその円を二等分する」、「二等辺三角形の底角は等しい」、「対頂角は互いに等しい」ことなどが経験的に知られていたが、それらを最初に証明したのがターレスだと言われている。既に知られている事実を単に受け入れるのではなく,より基本的な一般原理まで還元し,そこから証明するという態度は神話による説明と大違いで、この点において,ターレスはギリシャの論証数学の第一歩を踏み出したのである。

 ターレスの定理と呼ばれる幾何学の定理を紹介しながら、論証がどのように展開されるかの一例を実際にこの目で見てみよう。まず、上の三つの命題を記しておこう。

 

円は直径によって二つの同じ部分に分割される。

二等辺三角形の底角は等しい。

二つの直線が交わったときの対頂角は等しい。

これらの命題が証明する必要のない自明の命題なのか、それとも証明する必要があるのかは微妙な問題で、その答えは一つに決まってはいない。だが、次のターレスの定理を見れば、それが何を使って証明できるかは誰にもわかるのではないか。

 

定理:ACが円の直径で、BACとは異なる円周上の点なら、角ABCは直角である。

証明: 下の図を参考にして、ターレスの証明を想い出してみよう。三角形の頂点から円の中心に線を引くことによって、二つの三角形ができる。いずれも円の半径を斜辺とすることから、二等辺三角形であり、それゆえ、それぞれの底角は等しい(前の命題を使っている)。それぞれの等しい底角をabとすると、a + a + b+ b = 180なので、 a + b = 90となる(算術の定理を使っている)。

 このような証明は経験的、直観的にわかることと論証によってわかることの違いを示すだけでなく、論証が因果的な変化を使ったものではなく、論理的な規則を使ったものであることを示している。物語の因果的展開とは異なる、証明の論理的展開が幾何学の本質であり、それをターレスが最初に具体化したのである。論証は前提と結論の間の論理的な展開であり、それゆえ、何を前提にするかが大切な事柄になってくる。誰が見ても疑うことができない、自明の前提から論証がスタートし、そこから結論が得られるなら、論証は大変優れた知識の獲得方法ということになる。だが、何が前提として相応しいかは最初から決まっている訳ではない。因果的な原因とは違って、論理的な前提は選ばれなければならないのである。この大問題は次の章でじっくり考えることにしよう。

経験的な測量術、因果的な変化の理解、日常的な知識の特徴と推論、論証、論理的な変化、探求する知識を区別する基本にあるのは、二つの「ならば」である。論理的な「ならば」と因果的な「ならば」とでも表現できる違いである。「ならば」は他の接続語句と比べても格段に重要である。演算と解釈できる代数的な接続詞に比べ、「ならば」は代数的であると割り切ることを躊躇させる。[14]世界の出来事を結びつけ、心の中の命題を結びつけるのが「ならば」に託された役割のようである。一つの「ならば」で二つの異なる役割を巧みに扱うことができるのは、それを使いこなす私たち人間の能力なのだろう。

「ならば」と必要条件、十分条件の関係の復習から始めよう。PQPならば、Q。英語なら、If P, then Q.)は条件法 (conditional)と呼ばれ、PQの真理関数である。その真理値は、Pが真でQが偽のとき偽になる以外は真である。この条件法PQが真のとき、PQ十分条件QPの必要条件と言われる。これは条件法が真のとき、前件が真なら必ず後件も真になり、後件が偽なら必ず前件も偽になるからである。

また、双条件法PQ (biconditional) は「PQかつQP」のことであるが、PQが真のとき、PQは互いに他の必要十分条件になっている

Aならば、Bである」という表現は単純であるが、原因-結果と前提-帰結の二つの (根本的に異なる) 関係を二重に意味している。それを次の例で実感してほしい。

 

(1) x + y = zならば、2z = x + y + zである。

(2)伊作が怒るならば、史門が泣く。

 

文(1)の「ならば」は論理的な「ならば」であり、前提x + y = zと帰結2z = x + y + zの含意関係を主張している。実際、変数xy自然数や実数であれば(1)は正しい文であり、含意関係が成立している。それに対して、文(2)の「ならば」は因果的な「ならば」で、伊作の怒るという心理状態と史門の泣くという行為の間に因果的な関係があることを主張している。二つの「ならば」の違いは極めて重要である。例えば、(1)の前提と帰結はそれらがいつ成立するかは考慮されないが、(2)の二つの状態は時間的な制約を受けている。伊作が先に怒り、次に史門が泣くのでなければ、因果関係は成立していない。日常的な表現である「ならば」が論理的、因果的の二つの意味を併せもつことは日本語だけの偶然的な特徴ではない。英語でも「if then」は二義的に使われている。

このような「ならば」の二つの意味は物理学と物理的な世界を考えてみると鮮明になる。例えば、力学は数学を使って表現されている。運動方程式は論理的な「ならば」を使って数学的に変形され,解が見つけられる。一方,そのような運動方程式によって記述される物理世界の変化は因果的な変化であり、その変化は因果的な「ならば」で表現される。数学が物理世界を表すのに役立つ理由の一つは、私たちがこれら二つの「ならば」を巧みに利用し,相互の関係をつけているからである。だが、概念上、二つの「ならば」は全く異なったものである。

 

パルメニデス哲学:不変性と次元>

ギリシャ哲学の最初の関心は自然に向けられ、自然の謎を既知の自然のものを使って考え、説明するという、いわゆる「自然主義」の原型が生み出された。ターレスが偽物の原因として退けたのは自然の中には存在しないものだった。変化を変化しない普遍のもので説明すること自体は疑われない中で、変化自体を全面的に否定する哲学者が現われた。それがパルメニデスである。存在するものはすべて不変で、生成も消滅もなく、運動変化も幻覚でしかない。この意表を突く主張を文字通りに信じ切れる人はいない。彼の主張を心底信じるには生命の進化や社会の歴史だけでなく、自分の誕生や死を含んだ生活世界そのものを否定しなければならないからである。このパルメニデスの無謀とも思える主張は仮説でも経験的事実でもなく、より基本的な前提からの帰結である。それを信じられないと思う人はパルメニデスの主張のより具体的表現であるゼノンのパラドクスに対峙し、それを解かなければならない、と言われてきた。確かにパルメニデスの主張とゼノンの主張は似ており、二人とも運動を否定する。だが、二人の否定の理由は異なっている。それゆえ、ゼノンのパラドクスを解決してもパルメニデスの主張が否定されたわけではないし、パルメニデスの主張が否定されてもゼノンのパラドクスが解決されたことにもならない。[15]

 物語ではなく論証からなるパルメニデスの哲学は、どのような筋立てなのか。彼の哲学は、次のような思考と存在の関係に関する基本前提からなっている。

 

対象を考えることができるなら、それは存在でき、その逆も成立する。

対象が存在しないならば、それは存在できず、その逆も成立する。

 

これら二つの前提から次の命題が得られる。

 

実際に存在しない対象について考えたり、語ったりすることはできない。

 

この命題から「存在する」⇔「存在できる」⇔「存在を知る」という同値関係が導き出され、いわゆる様相(modality)の無視が明らかになる。そして、次の命題が導出される。

 

生成消滅はなく、運動変化はなく、質的差異はなく、そして多数性もない。

 

どのようにこれらの命題が導出されるかは省き、哲学史家からは怒られるが、思い切って現代的な観点から彼の前提を見直してみよう。存在、存在可能性、思考可能性の間の区別を否定する点で、大変よく似ているのがブロック宇宙モデルである。パルメニデスの世界が数学的で、数学的世界には変化がないことを考えれば、数学的モデルであることがパルメニデスの前提をそのまま満たすことにまず注目したい。その数学的モデル内では彼の前提が正しいことを確認しよう。このモデルは物理世界を相空間(Phase Space)で捉え、それに時間軸を加えたものである。相空間に時間の次元を加えれば、絵巻物に描かれた対象のように、空間内のものはすべて静止したままとなる。そこでは運動変化が動いている形態では存在しない。このモデル内には変化がなく、ユークリッド幾何学的世界と変わらない。[16]これが運動変化は幻覚に過ぎないというパルメニデスの理由と考えれば、私たちもこの数学的モデルには運動変化がないことを彼と同じように認めることができる。[17]

過去のもの、現在のもの、未来のもの、あるいは可能なもの、現実のもの、語りうるものの区別はこのモデルには一切ない。すべては「ある」という述語で表現され、存在しないものは描かれていない。パルメニデスがこのモデルを採用したという証拠はないが、運動変化が幻覚に過ぎないという理由はこのモデルで十分説明できる。

だが、このモデルを実際に使っている物理学では変化を扱っている。そして、このモデルを物理世界に適用して変化を実際に説明している。このモデルでの変化の説明は、変化を見る視点をもつ私たちの経験の導入によってなされる。例えば、4次元の世界の軌跡は、その同じ世界を3次元で考えた場合、その軌跡上を動く運動として変化を経験することになる。つまり、時間軸を取り去るという次元の還元が運動を見る視点をもつ経験の導入によって補完される。また、時間軸を含む3次元の空間上の直線は時間軸を取り除いた2次元では一点から延び続ける線としてその先端が動いている。その動きはある視点から見られた空間内の運動で、「過去、現在、未来」と時制で表現される時間的な視点と協働している。3次元の世界で対象が運動する様子は「過去から現在まで描かれ終わり、未来はこれから描かれることになる」ように描写されるが、4次元の世界ではこのような時制の区別は登場せず、その必要もない。[18]これを図式化すれば、次のようになるのではないか。

 

4次元世界の記述 ⇔ 3次元世界の記述+視点をもつ運動変化の経験

 

私たちは時間軸を往来することなどできない。左右、前後、上下は移動できても、時間上の移動は不可能である。[19]こうして、「運動変化が幻覚に過ぎない」ことは、「次元(時間軸)の還元を補完するために運動変化が必要である」ことを意味していると解釈できることになる。完成された変化、完結した運動が記述・説明されるべきものであり、それは時間軸を加えることによって可能となる。運動変化を完全に把握するには完結した運動変化でなければならず、運動変化の途中の状態だけでは不十分である。次元を増やせば変化はなくなり、それゆえ、変化は時間軸の補完のための方便に過ぎなく、したがって、変化は幻覚に過ぎない。私たちは2次元に描かれた絵画を見て奥行きを理解でき、さらに遠近法を使うことによって3次元の構造がわかる。これは私たちが3次元を知っているからである。同じように3次元でも運動を経験することによって私たちは時間経過がわかる。遠近法と運動はいずれも高次の次元で表現できるものを巧みな工夫によって部分的に表現していると考えることができる。つまり、運動の経験は軌跡としての運動の不完全な表現と考えることができる。遠近法を使った絵が描かれた対象のすべての側面を同じ画面に表現できないという意味で不完全だとすれば、運動経験もすべての運動の特徴を理解するには不完全である。運動変化を完全に理解するにはそれを完結した形で捉えなければならない。運動の一部ではなく、運動の始まりから終わりまでを捉えることが運動の完全な理解に必要である。

 何かとても難解な話のようになってしまったが、以上のことが私の勝手に理解したパルメニデスの主張のアウトラインである。上述の数学的モデル内の不変性はモデル間の不変性、そして、より重要な対称性(Symmetry)につながり、それが現代物理学のきわめて重要な概念にまで成長することになる。ともあれ、パルメニデスの変化の否定はゼノンのパラドクスが主張する運動変化の否定とは異なっている。どう異なるかはゼノンのパラドクスを見た上で考えよう。[20]

 

 パルメニデス、ゼノンに共通するのは、エレア学派の形而上学には当然ながら運動の法則は一切なく、それゆえ、世界は永遠の相のもと、完璧に傍観者の立場から眺められ、その幾何学的な構造だけが世界として理解されることになる。運動は幻覚なので、運動の法則はない。法則がないのであるから偶然も必然もなく、変幻自在な私は世界のどこにも存在しない。既述のようなモデルで理解したとしても、やはり、自らが生きる世界としては納得いかない世界であることは確かである。

 

「経験と物語、あるいは因果的な経験」と「経験と構造、あるいは幾何学的な経験」についてまとめておこう。

 私たちの経験を外から俯瞰的に眺める場合も、経験する内容を内から意識する場合も、いずれの場合も何かの変化を経験していることについては共通している。経験すること自体、そして時には経験する内容も共に因果的な変化であり、その変化の最も基本的なものが運動変化である。物理学が運動変化を明らかにすることであるなら、物理学の目的は私たちの経験そのものの解明ということであり、それに異論を差し挟む余地などないだろう。だが、哲学という文脈で私たちが経験やその内容について語る際、物理学と経験の関係に関しては大変異なる関係が想定されてきた。例えば、物理学は私たちの経験を無視することによって成り立っている、と多くの人に思わせている幾つかの哲学的な思想が存在する。

 経験内容が運動変化である場合、その物理化は幾何学化からスタートした。それがターレスの果たした役割である。経験内容とは世界そのものであり、その世界の構造は幾何学的である。これがターレスの基本テーゼである。世界内の変化を直接的に操作する術はまだなく、そのためか数学化は形而上学化へと性急に転向していく。そして、それを具現したのがエレア学派のパルメニデス、ターレスだった。プラトンアリストテレスも経験内容を形而上学的に昇華(簡約化、単純化)することによって、経験内容の大雑把だが、合理的な客観化を目論んだ。

 経験内容をより包括的に数学化することは、ずっと下ってガリレオの登場を待たねばならなかった。運動変化の数学的な表現は最終的にニュートンによって解析学的に与えられる。「幾何学化が構造的で、解析学化が因果的」という表現は危険な表現だが、それを敢えて使えば、運動変化の経験の数学化が解析学だったと言っても誤ってはいないだろう。少なくとも解析的表現は運動の因果的変化を連続的、逐次的に捉えようとしている。そこに余分な形而上学の介在は必要ない。

 経験の数学的表現の最初の成功が世界の構造を捉える幾何学だったとすれば、二番目の成功が運動変化の軌跡を捉える解析学だった。恐らく、経験の三番目の成功は経験内容のもつ情報で、それは確率・統計的に表現されてきた。

 運動や歴史といった時間的な変化は、建物、仕組み、システムといった持続的な構造とは異なる側面をもっている。構造と物語、システムとナラティブといった対は対立するだけと受け取られ、物語、歴史は私たちの経験そのものに根ざすものであり、一方構造はその経験内容を俯瞰的に理解するときの基本となってきたものである。

 

 

第1章で「確定的」と「確率的」の区別の曖昧さがコイン投げの例で示され、この第2章では、因果的な生活世界が神話や物語で語られ、次に哲学がそれを論証的に説明したことが示された。

 

[1] 物理学の理論は因果的ではないが、理論が適用される世界は因果的である。少なくとも、生活世界は因果的であり、私たちは昔からそれを原理のように信じてきた。リンゴは木から落ちるが、その反対は起こらないことになっている。

[2] 生活世界で使われる知識は情報として機能している。神話や物語の内容をそのまま受け取り信じることは、相手から情報を受け取り、それを使って仕事をすることとよく似ている。

[3] 世界の変化は因果的であり、それを因果的に語るのが神話や物語、非因果的に説明するのが哲学や科学理論である、これが現在の一般的な理解である。

[4]映画「スターウォーズ」がキャンベルの考えに大きな影響を受けてつくられていることはよく知られていることである。

[5] 国生みの神話については次のものを参照した。戸部民夫『日本神話-神々の壮麗なるドラマ(Truth in Fantasy)』、新紀元社、2003。

[6] このような一般的な見解は哲学史の研究から出たようである。John Burnet’s Early Greek Philosophy is a reprint of the 3rd edition of John Burnet's famous study of Presocratic philosophy, Early Greek Philosophy, 3rd edition, 1920, London: A & C Black.

  1. K. C. Guthrie, A History of Greek Philosophy Volume I: The Earlier Presocratics and thePythagoreans(1962) A History of Greek Philosophy Volume II: The Presocratic Tradition from Parmenides to Democritus (1965) A History of Greek Philosophy Volume III: The Fifth-Century Enlightenment - Part 1: The Sophists; Part 2: Socrates (1971) A History of Greek Philosophy Volume IV: Plato - the Man and his Dialogues: Earlier Period (1975) A History of Greek Philosophy Volume V: The Later Plato and the Academy (1978) A History of Greek Philosophy Volume VI: Aristotle: An Encounter (1981) Cambridge: The University Press

Kathryn A. Morgan, Myth and philosophy from the Presocratics to Plato, Cambridge University Press, 2000.

[7] 最近流行しているのがEvo-devoと呼ばれる論争である。その原点は、「個体発生は系統発生を繰り返す」というヘッケルの生物発生原則にまで遡ることができる。進化と発生は異なる因果過程で、両者を混同すべきでないという伝統的な見解に対し、発生と進化をより密接に関わり合うものとして研究しようというのが近年の傾向である。代表的な著者や論文は文献を参照。

[8] 物語の基本はプロットの存在にあり、どんな現象、出来事も因果過程をもっていて、複数の因果過程がしばしば重なり、また離反するように変化し、魅力的なプロットが私たちを惹きつける。

[9] 前章で述べたように、因果的でないモデルにはコイン投げの力学モデルを複数考え、表と裏の結果だけを比べるモデル、つまり、コイン投げの確率モデルがあり、因果的でない頻度に関するモデルになっていて、コインの運動の軌跡は省かれている。

[10] 私たちが知覚する際、不変のものの知覚は変化するものを必要とするし、変化の知覚は不変のものの中でしかできない。静止したものと運動するものの知覚は互いに他を必要とする。

[11] より詳しくは後述のコイン投げの項を参照してほしい。

[12] ヘロドトスはその『歴史』の中でターレスの天才を描いている。

[13] アリストテレス『政治学』で言及されているが、デリバティブ取引、オプション取引の最初と言われている。

[14] 論理的に重要な接続詞は結合子と呼ばれ、「また(and)」、「あるいは(or)」、「でない(not)」と「ならば(ifthen)」で、それぞれ連言、選言、否定、条件法が論理学の用語である。最初の三つは代数的な演算と同じであることが直観的にも明らかである。

 

[15] ゼノンのパラドクスを分割自体が矛盾を必ず導くものと考えれば、パルメニデスの主張の別表現と考えることができるが、特別の分割について矛盾が出るというのでは、パルメニデスの擁護にはならない。ここでの論述は、パルメニデスの哲学を現代風に理解する態度がもつ危険をもっていると共に、パルメニデスとゼノンの関係についての再考の契機になると思われる。ファン デル ヴェルデン(Bartel Leendert van der Waerden), ‘Zenon und die Grundlagenkrise der griechischen Mathematik’ (「ゼノンとギリシャ数学の根底的危機」),Mathematische Annalen, Bd. 117, 1940. タンヌリ(P. Tannery), ‘Le Concept Scientifique du continu: Zenon d'Elee et Georg Cantor’, Revue Philosophique de la France et de l'Etranger, 20: 385, 1885.タンヌリによると、ゼノンは運動を否定しようとしたのではなく,むしろ,無限小概念を曖昧のまま使っていると,運動が起こりえないということになると警告したということになる。だが、パルメニデスエレの哲学では,変化・生成・運動は幻想に過ぎなく,学問の対象にならないとされているので,無限小を使うと運動が起こらないことになるという主張は,運動なるものの存在を信じている人ならばともかく,およそエレア学派のゼノンなら主張するはずがない。これがファン・デル・ヴェルデンの意見である。だが、パルメニデスとゼノンの運動否定の理由は同じではない、これが私の見解である。

[16] 幾何学的世界に運動があると考えることは不自然ではない。点や線、図形は空間内を動くことができるし、そう考えた方がユークリッドの考えに合っている。対象を表示するのに使われる点や図形は動かないが、それが数学的な対象である場合は動く。この註は本文と矛盾しない。

[17] パルメニデスの別の主張と言われている一と多の問題はモデルの世界全体が一つであり、相互につながり、全体論が成立していることから説明できる。運動はモデルの次元と深いかかわりをもっている。運動を変化しない形で捉えるために次元が使われ、運動の「動いている姿」は次元を取り去ることによって現れる。次元と運動の関係は後述参照。相空間の次元は粒子の数nに対し3n次元であるが、この3は時間を含まない空間であり、それゆえ、運動変化が空間内で変化する経過、動いている様として表現されることになる。通常の空間の各次元は運動ではなく、延長に関係し、上下の軸は高さ、左右、前後の軸は距離を生み出している。そのため、運動に関わっているのは時間軸ということになる。Ellis (2005, 2006), Ellis and Rothman (2010), Wharton (2008) 参照。

[18] しばしば時間と時制の違いが問題になるが、時間軸の還元された空間で補完される運動はマクタガートの言うA‐系列とB‐系列の区別に対して、いずれでの運動とも考えることができる。還元された時間軸を補完する仕方は特に決まっていない。それゆえ、日常生活ではA‐系列を、物理学ではB‐系列を使って補完される。補完は他の座標軸でも同じようにでき、ABの系列に対応する区別をすることができる。物理空間と生活空間、空間と場所といった区別ができるが、混合した組み合わせはメートル法の一部に尺貫法を使うようなものになる。Hartle, J.B. (2005) 参照。

[19] 時間の場合の視点と空間の場合の視点の具体的な違いは例を通じて知るのが適切だろう。また、「視点」は自然主義とどのような関係にあるのか。この問題は座標系の導入自体が自然主義にとっては最初から問題であり、実はユークリッド幾何学での図形の位置や他の図形との関係を考える際に図形を移動させる場合に暗黙のうちに気づかれていた問題である。座標系や視点が主観的であるとすれば、それらは認識的である。だが、座標系や視点そのものがモデルや図形に主役として登場しないのも確かである。視点はあるが、それはモデルの要素ではない。視点は座標系によって間接的に与えられ、次元の増減によってはっきり表現されるのは変化だけである。

[20] パルメニデスの前提が可能性を秘めた深遠な前提だとすれば、次に述べるゼノンのパラドクスが成立する前提は克服すべき障壁でしかなく、とても深遠とはいえない前提である。後述のゼノンのパラドクスは運動変化の否定というより、対象の分割可能性に関するパラドクスであると述べたほうが適切なのである。