生活世界を支える知識:哲学的な素描 5

 第5章 古典的世界観の本質は何か?

 神話や物語、哲学、そして次に登場するのが数学的に武装された物理学、これらが因果的な生活世界を理解し、説明してきた歴史的順序である。この章で私たちは科学的な説明による生活世界を取り上げ、その基本的な特徴を考えてみる。

まず、次の問いを考えてみよう。

 

0をどのくらい加えると0でなくなるか。[1]

 

このクイズか頓智のような問いの答えと、この問いがなぜ重要なのかを考えてみよう。この問いは哲学の問いがどのようなものかの典型的な例でもあるので、哲学の問いの特徴を歴史的に復習した上で、問いの解答をじっくり考えてみよう。その過程で、ガリレオやニュートンがつくり出した古典的世界観とその基本的な特徴を見定め、さらに非古典的な世界観の可能性について想像してみよう。

 

5.1懐疑:瞬間、連続、確定

 私たちは自分が生きる生活世界はこうだと思い込み、それを殊更意識などせず暮らしている。日々の生活の中で心と身体には多くの習慣がしみ込み、それらには無頓着になっている。中でも自然に関しては「環境」という流行語にでも結びつかない限り、その仕組みや原理は問題になることさえ滅多にない。古典的世界観と呼んできた見方は、私たちが小学校以来学んできたお馴染みのものである。実際、高校までのカリキュラムは古典的世界観の習得にもっぱら費やされている。それは心と身体にすっかり同化し、言葉と同じように空気のような存在になっていて、問われればほとんどの人が同じように答えてしまうという点で、教育の成果が上がっているものである。そこで、次のような問いにどのように答えるか試してみよう。

 

ディープインパクトがゴールした瞬間などあるのか。

走っているのぞみが突然消えることなどあるのか。

私の今の体重は決まってなどいないのか。

 

誰も答えに頭を悩ますことなど何もない。誰もが瞬間があり、のぞみの突然の消失などなく、私の今の体重は一つの値をもつに決まっている(この「決まっている」とはどんな意味かが問題なのであるが…)と答えるだろう。では、躊躇なく答える理由や根拠はあるのか、あればそれは一体何なのか。その理由や根拠こそここで考え直してみようという古典的世界観の前提、仮定である。それら前提は上の例文から次のようなものだと推察できる。

 

瞬間がある。

運動変化は連続的である。

ある時の物理的な性質(とその値)は確定している。

 

いずれの文も疑う余地などなさそうに見える。デカルトやヒュームの懐疑さえ免れてしまうほどに当たり前に思われている。何よりそれらが正しいことを前提にして私たちは様々な知識を教えられてきたのである。しかし、それでもそれら古典的世界観の前提を疑ってみることはできる。

 

瞬間はあるのか?

運動変化は連続的なのか?

ある時の物理的な性質(あるいはその値)は確定しているのか?

 

これらの疑いが私たちの出発点であり、そこから疑いを生み出している時間や空間の謎の解明に挑んでみよう。

 

5.2点と線についての問いと二つの解答

私たちが今でも共有する古典的世界観は歴史的、文化的に理解されるのが普通である。だが、余計なものをすべて削ぎ落とし、掛け値なしに古典的世界観がどのような基本的前提に基づいているか曝け出してみよう。そのような前提探しに旅立つ準備として、次のような問いを考えてみよう。

 

点から線はつくれるか。線を分割すると点になるか。

線から面はつくれるか。面を分割すると線になるか。

面から空間をつくれるか。空間を分割すると面になるか。[2]

 

これら問いは目新しいものではないし、参考文献を参照しなければわからないといった問いでもない。実際、私たちは既に第3章でユークリッド幾何学を通じて点や線、そして面について考えてきた。だが、YesかNoかの解答とその理由は次のように分かれてしまう。

 

[解答1]

点には部分がなく、それゆえサイズがない。サイズのない点をいくら集めてもサイズが生まれるはずがない。点からスタートする限り、サイズの生まれる原因や理由がどこにも見当たらない。だから、「延長のないものから延長は生じない」、「何ものも理由なしに存在しない」といった形而上学の原理に従って、上の各問いについての答えはNoである。

 

[解答2]

区間[0,1]が0と1の間にある個々の点(=実数)からできているように、実数の集合は個々の実数を要素に含んでいる。点から線ができ、線は点に分解できる。線は点の集合であり、点は線の要素である。面や空間についても同様で、それゆえ、上の各問いについての答えはYesである。[3]

 

 もっともらしく見える二つの解答を示されると、私たちはいずれの解答が正しいのか、そしていずれが古典的世界観で認められている解答なのか迷い始める。二つの正反対の解答を見て、古典的世界観が明瞭に理解され、共有されているのではないことを示す証拠だと思う人もいるだろう。さらに、古典的世界観より古い世界観がまだ残っているからだ、あるいは新しい古典的でない世界観が侵入したからだと想像する人さえいるだろう。いずれにしろ、現在の正解は[解答2]である。

どれかの問いにYes、別のどれかにNoと、問いごとに異なる答を出す人は僅かだろう。多くの人はすべての問いにYesかNoのいずれかを答える筈である。すべてYesと答える人の理由こそギリシャ人と私たち現代人を区別する古典的世界観の前提となっているもので、その理由の核心は「実数」概念にある。実数を使って線を解釈すれば、その線上の点は一つの実数値に対応することになる。例えば、区間[0,1]の中にあるすべての点を取り出し、再度集め直すことによって、その区間[0,1]を再現できる。つまり、区間[0,1]にある点を再びすべて集めれば区間[0,1]をつくることができるし、区間[0,1]を限りなく分割していけば点である個々の実数に到達できる。このように考える基礎にあるのは正に「実数、そして集合論による点や線の理解」である。具体的にどのように点を集めるか、どのように線を分割していくかの細部が曖昧だという漠然とした不安は残るが、点から線をつくることができ、線を分割し続ければ点に到ることは集合あるいは(集合論的な解釈を使った)実数に関する簡単な定理として証明できる。[4]実数の性質は高校までに一応習ったことになっているから、それを覚えていれば答えはすべてYesとなる。さらに、ギリシャ人と私たちが違う答えをする理由も併せて説明できる。私たちのように実数を使って点や線を考えるならYesが答えとなり、少なくとも実数を私たちのように使わなかったギリシャ人なら答えはNoとなる。実数は連続体だが、自然数は離散的でしかない。これがYesとNoの違いを生み出している。[5]

 これまでの話は直観的にわかりやすい。しかし、それを直観的にではなく、哲学的な理屈を与えながら、単なる話ではなく、理論化しようとすると相当に厄介である。また、既に登場した瞬間、連続、確定といった概念と解答がどのように結びつくのかも明瞭ではない。[解答2]の正しさが理論を使って誰もが納得できるようになるのに20世紀までかかったことからも、厄介だというだけでなく、多くの人の関心をかってきた興味深い問題であることも伺えるだろう。非古典的世界観が非古典的な物理理論(主に相対論と量子論)をもとに議論されて既に久しい。だが、それを支える非古典的な、新しい諸前提がどのようなものなのかは未だに判然としていない。それを思案するためにも古典的な諸前提の再分析は欠かせないだろう。その前に基本的な事柄を復習しておこう。

 

5.3連続的な無限が溢れる物理世界

1教科書風に考えると…

 どんな広大な砂漠の砂粒でもその数は有限である。というのも、砂粒には必ずサイズがあり、どんな微小な砂粒でも無限個集まったら、砂漠の面積も無限の大きさになってしまい、そのため有限のサイズしかもたない地球にはこのような無限の面積をもつ砂漠は収まり切れないからである。塵も積もれば山どころか、地球に入り切れなくなってしまう。そのため、地球の中にある砂漠の砂粒の数は有限である。この帰謬法(reductio ad absurdum)を使った簡単な議論と同じように考えれば、物理世界のどんなものもその個数や量は有限でしかないことになる。したがって、無限個の対象、あるいは無限量の塊は物理世界には存在せず、この物理世界は有限のものの集まりからなり、無限はそれを考える私たちの概念の世界にしかない、いわば数学的な存在であると結論できる。この推論は大変単純でも、物理世界と数学世界の特徴を明瞭に区別してくれるものとして多くの人に受け入れられてきた。その区別を念のために述べれば、

 

物理世界に存在するものは悉く有限で、無限のものは数学世界にしか存在しない、

 

となる。

有限、無限という言葉がたくさん出てきたので、それらに関連する用語を幾つか挙げておこう。

 

有限finite 、無限infinite、枚挙可能enumerable、denumerable、可算、可付番countable 、非加算、非可付番uncountable、連続体continuum、等々。[6]

 

有限であるとは、数えていくとどこかで数え終わることができるような性質である。自然数は小学校で最初に習う数のシステムだが、その自然数でさえ個数は無限個ある。自然数が有限で、その最大の数がnだとすれば、n + 1も自然数で、nが最大なので、n + 1 < nとなり、n < n + 1と矛盾する。そのため、自然数は無限である(これも帰謬法による論証)。自然数すべてを数え尽くすことはできないため、自然数をその一部として含む整数、有理数も無限になり、無理数も無限であるため(どうしてか?)、有理数無理数を含む実数も当然無限になる。つまり、私たちが習ってきた数のシステムはどれも無限のサイズをもっている。[7]しかも、無理数や実数の個数は自然数、整数、有理数の個数と違って、枚挙可能でも可算でもない無限、すなわち非可算の連続体になる。

 

(問)砂漠の砂粒が有限なら、ある瞬間の砂粒の個数は確定していて、特定の個数のはずである。始終風に浸食されているといった物理的な理由以外に「個数の確定性」を阻むものはあるだろうか。同じように、君の今の身長、体重、髪の毛の本数等は確定しているのだろうか。では、無限の自然数の個数は確定しているのか(確定しているとは特定の自然数として確定していることなら、無限の自然数の個数はどんな自然数になるのか)。また、確定していないものや性質はそもそも考えることができるのか。[8]

 

(問)有限で終わる数のシステムがあるなら、その数のシステムはものを数えたり、測ったりするには欠点があることを説明せよ。[9]

 

(問)実数を一つずつ枚挙していくことが無限にできるとしても、そのような枚挙の仕方では実数すべてを枚挙し尽くせないことを示せ。この問題は実数が有理数と異なるサイズの無限であることを示す大切な定理になっている。G. Cantorが有名な対角線論法(diagonal argument)と呼ばれる方法を使って、実数は枚挙し切れないことを証明した。[10]実数が何個あるかと尋ねられたとき、100までの自然数が何個あるか、自然数全体が何個あるかという場合の「何個」とどのように異なっているか、様々に想像してみよう。100個の実数、数直線の区間[0, 1]の間の実数の個数、実数全体の個数はそれぞれどんな集まりになるか、果敢に色々想像してみてほしい。

 

(問)ある実数の直前の実数と直後の実数はどのように表現できるか。ある実数をaとしたら、aの直前、直後の数はどのように表現されるか(aが実数ではなく整数なら、直前はa – 1、直後はa + 1と表現できる)。君が座っている座席の前と後ろの人を君はどう表現するかという問題と比較しながら考えてみよう。

 

2反教科書風に考えると…

ここまでは教科書通りの話である。だが、物理世界のどんな対象も本当に有限なのだろうか。物理世界に始まりや終わりがないとすれば、生まれ続けてきた生き物はこれからも生まれ続けていくはずだから、その個体数には限りがないことにならないのだろうか。3次元の空間も、それに時間の次元が加わった4次元の空間もどこかで座標軸が終わるということはない。実際、それは座標軸が両方向に限りなく延びる直線によって表現されていることからもわかる。無限の長さをもつ三本の直線によってつくられる空間は無限の広がりをもつ空間である。このような疑問が次から次へと頭をもたげてくる。

秀吉暗殺に失敗し、釜茹でになった石川五右衛門の辞世の句「石川や浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」や、それを下敷きにした弁天小僧の名せりふ「知らざあ言って聞かせやしょう。浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の種は尽きねえ七里ケ浜…」には、砂粒の有限な個数と、世代が続く限り、尽きることなくこの世に登場する盗人の人数の対比が見事に表現されている。石川五右衛門の辞世の句は教科書通りでなく、物理世界にも無限があることを実に見事に表現している。

 

そこで、最初に限りある長さ、大きさ、間隔であっても、そこに無限が存在できること、次に文字通りの無限の長さ、広がりをもつ時間や空間について考えてみよう。

 

5.4 幾何学での点と線

点にサイズがあり、延長をもつとしてみよう。その延長の半分も延長であり、かつ延長の半分は元の延長の一部分である。よって、点は部分をもつことになり、ユークリッドの定義1に反する。それゆえ、点にはサイズがない。これは既に述べたことである。また、点にサイズがあれば線にもサイズ、つまり幅があることになる。だが、これは定義2に反する。よって、定義の1,2いずれからも「点にはサイズがない」ことが得られる。また、線を限りなく短くしていくと最後にはサイズのない点に至る。この<サイズの消失>を量から質への転換などと考えても何も得られない。量から値への転換なら有意義であるが…

点に部分がないことから、サイズがないことがわかったが、そこに隠れていた前提は分割可能性である。自然に「サイズがあり、部分がない」ことは、自然に「サイズがあれば、部分がある」という主張と両立しない。ここでの違いは自然が「分割できない」ためである。原子論と全体論の関係を確認しておこう。原子論の下での原子の全体性と全体論の下での宇宙全体の全体性は異なっている。ユークリッドの定義を使った場合、原子が部分をもたないことから、分割性を使って原子がサイズをもたないことを証明できる。宇宙は当然サイズをもつ。しかし、それは部分をもたないというのが全体論の主張である。すると、原子論では「サイズがあれば、部分がある」という主張が正しいのに、全体論では「サイズがあって、部分がない」ことが正しい。この両立しない理由は原子論と全体論が異なることを主張しているというより、分割可能性が両者を分けているといったほうが適切だろう。分割可能性が成立する原子論ではそれを使って「サイズがあれば、部分がある」が証明されているが、全体論では全体は分割できないという主張から分割可能性が使えない。それゆえ、サイズがあるのに、「部分がない」と仮定しても矛盾は生じない。だが、分割可能性が使えないことの代償は想像以上に大きい。[11]

 

<これまでの議論への歴史的コメント:ライプニッツモナド、連続性>

17世紀の機械論哲学から生じた困難に「連続体の迷宮」と呼ばれるものがある。それは、「事物の究極的な要素は存在するのか」という問題に対し、物体的原子を主張する原子論の仮説をとっても、また原子ではなく幾何学的な点を単位とする仮説をとっても、連続体をつくり出せない、という問題を指している。運動が連続することを、点と線に関する幾何学的な関係によって考案された「ゼノンのパラドクス」の再発と考えることもできる。ライプニッツの「連続体の迷宮」によれば、(A)線分の限りない分割によっても点が構成できない、および(B)点を限りなく集めても連続する線分は構成できない。[12]その議論は以下のように再構成できる。

 

(前提)[物体の定義]すべての物体は何らかの空間的な広がり、すなわち延長をもつ。

事物の究極的な構成要素が物体的な原子であるとすると、前提よりそれは延長をもち、延長をもつならば限りなく分割可能である。よって、その物体的な原子は自らより小さな部分へと果てしなく分割でき、Aより、真に究極的な要素を特定することはできない。

そこで、事物の究極的な構成要素が、物体的な原子ではなく、いかなる大きさも、また形も部分ももたないほど小さいとする。つまり、延長をもたない点とする。しかし、Bより、点を無際限に集めても点は点のままであり、点の集合から線分を構成できないのと同様、非物体的な原子から連続体を構成することはできない。

 

ライプニッツは単に原子論の矛盾を指摘するだけでなく、さらに独自の理論を展開して、実在する世界を説明しようとする。その理論こそ、物体を真に構成する単位は「原子」ではなく「モナド」でなければならない、というものである。ライプニッツは、数学的には、実無限を拒否し可能無限のみを認める構成主義的な立場をとる。ライプニッツは‘1/2, 1/4, 1/8, ...’という無限級数からは、どんなに小さくとも有限な分数しか存在し得ない、と答えている。つまり、線分は限りなく分割可能であり、無限小は存在せず、単なる虚構に過ぎない。同様にして、事物の分割も限りなく行うことができる。したがって、延長を本性とする物体と、分割不可能な原子を結合した物体的原子の仮説は矛盾している、ということになる。この論証とは別に、ライプニッツは数と量の本性に訴えずとも、実無限は拒否されねばならないと考える。というのも、「自然数全体の数」および「最大数」などの概念は、「全体は部分よりも大きい」という公理を破っているからである。

ライプニッツは「連続体の迷宮」を解決するために、世界を現象世界と実在世界とに二分し、後者に属する実在的な構成単位であるモナドが、実在世界すべてを表象するという仕方で含んでいる、つまり、現象世界として含んでいると想定した。連続的な現象世界は人間の認識活動と不可分な「観念的な世界」で、そこでは全体が部分に先立つ、すなわち、部分はそれより大きい全体の可能的な分割としてのみ存在できる。そのため、連続体である物体は、限りなく分割可能とされた。他方で実在世界は、モナドで充満している離散的世界で、人間の認識している物理現象とは次元の異なる世界と考えられた。ライプニッツはこのように現象的世界と実在世界を同居させたが、それら異なる世界間の橋渡しをしている概念こそがモナドであり、そこでは無限に関する数学と形而上学が混在している。

「現在の知識をもとに過去の哲学理論を捉え直す」、「過去の哲学を使って現在の知識を見直す」といったことがしばしば行われるが、大抵は過去のことを普通の人より知っている哲学者が試みる典型的なスタイルの一つである。しかし、そのような場合の「現在の知識」とはどのような知識なのだろうか。それは現代人が共有する常識的な知識なのか、それとも専門家がもつ非常識的な知識なのか。残念ながら、過去に詳しい哲学者が採用するのはほとんどの場合、彼が常識的な知識と考えるものである。では、その常識的な知識は文字通りの現代の知識から見て正しい知識と言えるのだろうか。そこで、次の問題から各自の「現代の常識」を点検してみてほしい。

 

(問)時間や空間をそれぞれ独立に考察することができるか。

(問)運動は運動する個体に内属する性質か。

(問)物理量と統計量は共に個体の性質か。

(問)不確定性関係は対象の性質か、それとも観測の限界なのか。

(問)粒子と波動は両立するものと考えることが可能か。

(問)ミクロな世界とマクロな世界とを区別する根拠は何か。

 

恐らく上の問に対する解答は分かれるだろう。「現代の常識」とは何かを決定することは意外と厄介なのである。そこで、現代の常識を少しでも知るために、点や線、連続性、確定性に関連する常識を考えてみる必要がある。

 

5.5 原子論と虚空

アリストテレスは「虚空」を否定したが、その理由は何だったのか。虚空中での物体の運動速度が無限になり、無限の速度など存在しないと言うのが彼の否定の理由である。誰もこの理由が正しいとは思わない。「虚空」はその後もしばしば哲学の議論に登場し、その存在を巡って多くの議論がなされてきた。「虚空」とは何もないことである。だが、誰も「虚空」を文字通り何もない「無」とは考えない。虚空は空間として存在し、そこに「もの」と呼ばれるものが一つもないというのが常識的な理解である。今までの原子論もすべてこの常識を採用してきた。そこには「虚空」に対する二つの異なる役割が混在している。

虚空には二つの意味がある。それらは「対象としての虚空」と「表象するための虚空(モデルにおける虚空)」である。「零」の二つの意味をヒントにして考えてみよう。0と101を比べると、101の0は数の表記上の意味をもっている。0が何を指示するかではなく、0を使って何を表示するかがその意味を決めている。同じように、対象としての虚空は文字通り「無」であるが、モデルでの虚空は距離、面積、体積を表象するための役割を担っている。0と虚空は、それぞれ数の表記と時空の表記のために本来の指示対象とは異なる意味や使い方をもっているのである。

 力学が運動理論であることから、単に物体がそこになければよいと考えるのが二番目の区別の理由である。「何もない」のは文字通り何もないのではなく、単に物体がないというだけに過ぎなく、それゆえ、時空はあっても構わないし、むしろあると考えるほうが力学には好都合であり、優れた表現装置として役に立つのである。

力学では、虚空の中の運動とは時空の中の運動である。運動を明確に把握するためには時空が不可欠であり、時空がなければ運動はそもそも存在さえしない。また、虚空の中の運動は端的にあり得ない。運動の表象と表現のための時空は物体とは区別され、できるだけ無色透明に近い形で考えられている。そして、0が位取り表記に使われるように、時空は運動を表現するために使われる。そこで、現在の集合論を使ってこの議論を振り返ってみよう。簡単に3次元の空間R3を考え、3次元の座標系を想像してみよう。空間内のどの地点も(x, y, z)という点で表記され、3個の実数で表される点である。このような点が充満しているのが空間だと考えると、「虚空」は定義上どんなものも含んでいないのであるから、そのような点が一つもないことになる。そこで(x, y, z)という点をすべて取り除いてみよう。すると、空集合となる。[13]この結果から虚空は空集合ということになる。これが虚空の文字通りの解釈となるはずだが、現在の科学はそれを採用していない。

この考えを時間に対して適用してみよう。すると、

 

瞬間がなければ、時間がない、

 

という命題が得られる。点を瞬間と解釈すれば、「瞬間がない」ことは「点がない」ことであり、結果として瞬間の集合である時間は空集合となり、時間がないことになる。この文の前件は古典的な前提「瞬間がある」の否定である。この否定が非古典的な前提「瞬間がない」であり、これが正しいなら、後件の「時間がない」も正しいことになる。非古典的な意味であっても、これを正しいとは誰も認めないだろう。では、何がおかしいのか。(実数、集合といった基本概念が疑いの対象になるだろう。)

さらに、「空間がない」ことも同じように推論でき、

 

地点がなければ、空間がない、

 

ことが成立する。これらをまとめれば、「瞬間や地点がなければ、時間と空間がない」ことになる。これらが正しいなら原子は運動できず、「運動がない」ことになり、パルメニデスの主張が論証されたことになる。つまり、虚空を空集合と解する限り、瞬間がない、地点がないという前提の下では運動を否定しなければならず、パルメニデスの主張が非古典性に関わっている可能性を示唆している。[14]

 以上の話が本当かどうかは意見が分かれるのではないか。このように考えるべきでないとしたら、他にどのような考えがあるのだろうか。

 

5.5 原子論:二重基準による成功

物質と時空は異なったものであると明瞭に主張する(それゆえ、古典的な)原子論はパルメニデス的な不変を基本にした哲学を維持しながら、運動変化を説明しようとする大変優れた仮説だった。後に批判される基本概念の一つは「虚空(あるいは真空)」の存在だったが、それによって原子の運動や衝突が可能となり、パルメニデス哲学で否定される変化を救う重要な役割を負っていた。哲学的な原子論はその後の科学革命(ガリレオ、ニュートン)で再び採用され、化学的原子論(ラボアジェ)を生み出し、物理的原子論(マクスウェル、ボルツマン)は統計力学の中心的な仮説となった。だが、原子の存在自体は20世紀に入りようやく確証された。この歴史的な経緯を垣間見るだけでも、他の物質仮説(四元素説イデア説、質料形相論、波動理論、カロリック説等)と比べ、自然の物性を説明する仮説として格段に優れた考えであったことを物語っている。このような原子論の評価は必ずしも定説ではないが、ギリシャ哲学の諸説の中で格段に優れた自然の説明仮説であったことは誰も疑わないであろう。[15]

原子論は物質の不変的性質を原子のもつ性質に還元し、原子の集合である物質が連続的な時空を運動することを認める。連続的な時間、空間は限りなく分割でき、その中を原子が運動し、互いに衝突を繰り返す。不可分の原子は一定のサイズをもった対象であるから、物質と時空では分割の仕方が異なっていることになる。この対象に応じた分割の違いを二重基準(double standard)と呼んだとすると、原子論は物質と時空に関する分割の二重基準を採用することによって運動変化を整合的に説明・理解しようとした試みということになる。この基本方式はそれ以後の原子論を採用した科学理論のほとんどすべてにおいて認められる原則である。ギリシャの原子論仮説が現在でも私たちを魅了する理由はこの点に尽きる。[16]

物質の有限分割性は、数学における有限加法性(finite additivity)のように無限への拡張(countable additivity, uncountable additivity)がなされるものではなかったし、現在でも物質は原子論的に、有限の範囲でしか分割できないものと考えられている。ただ、どこまで分割できるかは誰にもわからないため、有限分割の最後の段階は未定のままである。しかし、誰もそれが無限に拡張できるとは思わないだろう。少なくとも実数のサイズまで分割可能とは誰も思わない。というのも、それが可能とすれば、物質はサイズのない点にまで到達し、「サイズのない物質」という点を時空の点の場合と同じように想定しなければならないからである。[17]

原子論の二重基準の内容をまとめれば次のようになるだろう。

 

物質:有限分割可能なもので、最小の単位をもつ

時空:無限分割可能なもので、サイズのない点が最小の単位

(物質と時空の分割には有限、無限以外にも違いがある。例えば、時空は任意のサイズにいつでも分割可能だが、物質はそうではない。分割が何に依存するかによって分ければ、時空の分割は比較的自由で認識的要素を多く含み、物質の分割は実在の要素を多く含む。いずれにしろ、二重基準がなければこのようなことは主張できない。)

 

(問)時空が任意のサイズに分割可能であることを、時空の無限分割可能性を使って示せ。(その際、どのような無限が必要か注意せよ。)

(問)「物質なら時空でなく、時空なら物質でない」ことは二重基準を使うことによって証明できる。また、プランクのスケール内で二重基準が成立しないことを示せ。

 

5.6無限について

The traditional view (Aristotle)

"... it is always possible to think of a larger number: for the number of times a magnitude can be bisected is infinite. Hence the infinite is potential, never actual; the number of parts that can be taken always surpasses any assigned number. [Physics 207b8]

This is often called "potential" infinity, however there are two ideas mixed up with this. One is that it is always possible to find a number of things that surpasses any given number, even if there are not actually such things. The other is that we may quantify over finite numbers without restriction. For example "For any integer n, there exists an integer m > n such that F(m)". The second view is found in a clearer form in medieval writers such as William of Ockham:

But every continuum is actually existent. Therefore any of its parts is really existent in nature. But the parts of the continuum are infinite because there are not so many that there are not more, and therefore the infinite parts are actually existent.

The parts are actually there, in some sense. However, on this view, no an infinite magnitude can have a number, for whatever number we can imagine, there is always a larger one: "there are not so many (in number) that there are no more". Aquinas also argued against the idea that infinity could be in any sense complete, or a totality.

Early modern views

Galileo was the first to notice that we can place a set of infinite numbers into one-to-one correspondence with one of its proper subsets (any part of the set, that is not equivalent to the whole). For example, we can match up the "set" of even numbers {2, 4, 6, 8 ...} with the natural numbers {1, 2, 3, 4 ...} as follows

1, 2, 3, 4, ...

2, 4, 6, 8, ...

 

It appeared, by this reasoning, as though a set which is naturally smaller than the set of which it is a part (since it does not contain all the members of that set) is in some sense the same size. He thought this was one of the difficulties which arise when we try, "with our finite minds", to comprehend the infinite. The idea that size can be measured by one to one correspondence is today known as Hume's principle, although Hume, like Galileo, believed the principle could not be applied to infinite sets.

 

Locke, in common with most of the empiricist philosophers also believed that we can have no proper idea of the infinite. They believed all our ideas were derived from sense appearance or "impressions", and since all sense impression is inherently finite, so too for our thoughts and ideas. Our idea of infinity is merely negative or privative. Famously, the ultra-empiricist Hobbes tried to defend the idea of a potential infinity.

Mathematical conception

The modern mathematical conception of the infinite developed in the late nineteenth century from work by Georg Cantor, Gottlob Frege, Richard Dedekind and others, using the idea of sets. Their approach was essentially to adopt the idea of one-to-one correspondence as a standard for comparing the size of sets, and to reject the view of Galileo (which derived from Euclid) that the whole cannot be the same size as the part. An infinite set can simply be defined as one having the same size as at least one of its "proper " parts.

Thus Cantor showed that infinite sets can even have different sizes, distinguished between countably infinite and uncountable sets, and developed a theory of cardinal numbers around this. His view prevailed and modern mathematics accepts actual infinity.

Our intuition gained from finite sets breaks down when dealing with infinite sets. One example of this is Hilbert's paradox of the Grand Hotel. An intriguing question is whether actual infinity exists in our physical universe: Are there infinitely many stars? Does the universe have infinite volume? Does space "go on forever"? This is an important open question of cosmology. Note that the question of being infinite is logically separate from the question of having boundaries. The two-dimensional surface of the Earth, for example, is finite, yet has no boundaries.

*Modern discussion of the infinite is now regarded as part of set theory and mathematics, and generally avoided by philosophers. An exception was Wittgenstein, who made an impassioned attack upon axiomatic set theory, and upon the idea of the actual infinite, during his "middle period".

Infinity is now separated into many kinds of infinite sets, such as , a countable series such as natural numbers, and uncountable series such as the number of possible arcs in a circle or the points on a line, and an infinite number of others.

"Does the relation m = 2n correlate the class of all numbers with one of its subclasses? No. It correlates any arbitrary number with another, and in that way we arrive at infinitely many pairs of classes, of which one is correlated with the other, but which are never related as class and subclass. Neither is this infinite process itself in some sense or other such a pair of classes ... In the superstition that m = 2n correlates a class with its subclass, we merely have yet another case of ambiguous grammar." (Philosophical Remarks § 141, cf Philosophical Grammar p. 465)

Unlike the traditional empricists, he thought that the infinite was in some way given to sense experience

"...I can see in space the possibility of any finite experience ... we recognise [the] essential infinity of space in its smallest part." "[Time] is infinite in the same sense as the three-dimensional space of sight and movement is infinite, even if in fact I can only see as far as the walls of my room."

"... what is infinite about endlessness is only the endlessness itself"

 

*Cantor's Diagonal Argument

(Cantor's Diagonal Method, Cantor's Diagonal Process and Cantor's Diagonal Proof)

We humans often have problems understanding concepts that have to do with infinity or infinitely large quantities. For example, something that startles many the first time they hear it is that two quantities, both infinite, do not have to be the same 'size'. One example of this is the integers versus the real numbers. The integers are what we call a countable set, because it is possible to count them all. This can be done by starting from 0, then going on with -1, 1, -2, 2, -3, 3, etc. The integers (or rather the positive integers) are sometimes even called counting numbers.

This kind of process is not possible among the real numbers, however. If we think about it, we quickly realise why: We could of course start from 0, but what would our next number be? 0.1? No, surely something smaller. 0.0000001 perhaps? There is no way of knowing, as we could have an arbitrary amount of zeroes before the 1, and it would still be possible to insert yet another one. As we cannot count all the real numbers, we say that they constitute an uncountable set.

As is always the case in mathematics, it is unfortunately not enough to realise that something is the case. It always has to be proven. This particular theorem was proven around the turn of the 20th century by a German mathematician named Georg Cantor. His proof is generally referred to as Cantor's Diagonal Argument.

Before looking at the actual proof, which is an example of an indirect proof (proof by contradiction), there is one thing we need to make sure that we understand: there are just as many real numbers in the interval [0,1] as there are from minus infinity to plus infinity or, in other words, that the numbers in this interval are also uncountably many. It is necessary to be aware of this, as Cantor's proof deals only with the real numbers between 0 and 1, but the result applies to the whole set of real numbers.

The Proof

What Cantor started out with was the assumption that the real numbers between 0 and 1 are countable (remember that we are dealing with an indirect proof). If they are countable, it should be possible to make a list of all of them. Such a list could begin like this:

0 . 1 2 3 4 5 6 7 8 9 ... 0 . 7 9 2 6 1 4 6 3 8 ... 0 . 4 4 2 9 7 2 5 1 8 ... 0 . 3 1 4 1 5 9 2 6 5 ... 0 . 2 7 1 8 2 8 1 8 3 ... 0 . 1 2 0 2 4 5 6 1 4 ... 0 . 9 5 1 3 8 2 7 7 3 ... 0 . 4 1 4 2 1 3 6 9 9 ... 0 . 1 2 1 6 2 3 2 4 3 ...

The ellipses (...) signify that the numbers have more than nine decimals, but that we won't bother to write them out, as they are infinitely many (and we don't need to know them all anyway). Also remember what we said above: that the list could begin like this; the list itself will, naturally, also be infinitely long.

What we want to do now is to prove that, if all the real numbers in [0,1] are really in this list, there must be an absurdity or contradiction somewhere. We will do this by looking at the diagonal which is formed by the first decimal of the first number in the list, the second decimal of the second number, and so on. It is the use of this diagonal that has given the proof its name.

The following table shows our nine first numbers again, this time with the diagonal in question highlighted:

0 . 1 2 3 4 5 6 7 8 9 ... 0 . 7 9 2 6 1 4 6 3 8 ... 0 . 4 4 2 9 7 2 5 1 8 ... 0 . 3 1 4 1 5 9 2 6 5 ... 0 . 2 7 1 8 2 8 1 8 3 ... 0 . 1 2 0 2 4 5 6 1 4 ... 0 . 9 5 1 3 8 2 7 7 3 ... 0 . 4 1 4 2 1 3 6 9 9 ... 0 . 1 2 1 6 2 3 2 4 3 ...

Using this diagonal, we construct a new number that we shall call a. We then get that a=0.192125793... There is nothing particular about a - according to our assumption that all real numbers between 0 and 1 are in this list, so is a (somewhere further down).

What we will do next is to use a to create another number, b. Let us look at the first decimal of a. If it is a 2, let the first decimal of b be a 1. If it is not a 2, let the first decimal of b be a 2. Now look at the the second decimal of a, and according to the same rules decide what the second decimal of b should be. Repeat this for all decimals in a and b. In proper notation, we write this as:

Let us look at our example. The first decimal of a is a 1 and the second us a 9 (neither of which are 2), so our first two decimals of b will therefore be 2s. The third decimal of a is, however, a 2, why the third decimal of b will be a 1. Eventually we will arive at the result b=0.221212222.

Why is b interesting? If we compare it to every number in the list we will understand why. We can see that b cannot possibly be the first number in the list, as there is at least one decimal (the first one) that is different. We also know that it cannot be the second number, as at least the second decimal is different. This will be true for every number in the list. So what have we proved? We have proved that b is not on the list - but we started out by assuming that every real number in [0,1] was in the list! In other words, we have reached a contradiction, meaning that our assumption - that it is possible to make a list of all the real numbers between 0 and 1 - was false.

There is one last question that we might want to ask ourselves before we accept that our proof is entirely correct. What would happen if we added this new number b to the end of the list? Would we not then have a list of all the real numbers in the interval? No, as we could repeat the entire procedure again, and then get a number c that is exactly equal to b, except for one decimal. It would not be equal to any other number in the list either, and we would have to add this number to the list, too. No matter how many times we repeated the procedure, our list would never be complete.

Conclusion

We can now conclude: It is not possible to make a list of all the real numbers in the interval [0,1], and therefore they are not countable. The same is true for all the real numbers (as we realised in our introductory discussion). Therefore, in a sense that it is rather difficult to understand right away, there are 'more' real numbers than integers.

(問)自然数の集合Nを想像して、まずそれが集合として存在するか否か考えてみよう。

確かに大抵の人は容易にNを想像できる。この想像が本物らしいことの証拠の一つは、任意の対象がNの要素か否か判断できるからである。4.5はNの要素ではないが、90031はNの要素であると誰もが簡単に判断できる。つまり、Nの外延は明瞭に境界をもっており、Nに属するか否か曖昧な要素は存在しない。さらに、Nは0から帰納的に構成していくことができる。構成の手続きはきわめて明瞭で、数学的帰納法を思い出せばよい。0が自然数で、n自然数ならn+1も自然数である。手続きはこれでわかるが、この手続きを実行できるだろうかと考えると、実行し終えるには無限の時間が必要だとわかるだろう。これは私たちには完結できない仕事であり、それゆえ、いつまでたってもNの存在をつくり出せないことになる。では、最初の想像は単なる幻想だったのか。

自然数の集合さえ現実につくり出せない人間が有理数や実数の集合を考え、それらを使って数学的な操作を行うことは可能なのか。可能だとすれば、実際につくり出すことのできない、曖昧で不可解な対象を安全に扱うことができるのか。それらと付き合うことは単なる知的な遊びに過ぎなく、何の利益ももたらさないのではないか。こんな疑問が次々に出てくる。

しかし、別の要求も強い。有理数や実数、さらには複素数といった数がないと数学を経験科学に応用することができない。応用すると大変有効であることの証拠は山のようにある。応用を説明するにはNRの存在を容認すべきである。では、どのような容認が適切なのか。可能無限でか、それとも実無限でか。あるいは、より巧みにNは実無限で、Rは可能無限でか。

 

(問)次の各文からアリストテレスの可能無限の考えをまとめよ。

(1) A body is defined as that which is bounded by a surface, therefore there cannot be an infinite body.

(2) A number, by definition, is countable, so there is no number called ‘infinity’.

(3) Perceptible bodies exist somewhere, they have a place, so there cannot be an infinite body.

(4) If no infinite, magnitudes will not be divisible into magnitudes, but magnitudes can be divisible into magnitudes (potentially infinitely), therefore an infinite in some sense exists.

(5) If no infinite, number would not be infinite, but number is infinite (potentially), therefore infinity does exist in some sense.

 

(問)可能無限では不可能だが、実無限では可能なことを挙げよ。極限(limit)概念はいずれの無限概念を必要とするか。

 

5.7実無限と可能無限(Actual Infinity and Potential Infinity)

無限には可能無限と実無限があり、現在の数学では実無限が自由に使われている。実数を小数で表した場合、小数部分がすべて決定しているのが実無限である。割り切ることができずに限りなく続く無限小数、例えば、 を考え、それが完結した数列になっているとしてみよう。完結したと想定できるのは神の視点である。一方、人間の視点で自然数を捉えた場合、まず0があり、次が1で、その次が2で、その次が3でというように、これはどこまでいっても終わらない、限りなく続くだけというのが可能無限である。つまり、可能無限は終わりがなく、どこまでいっても到達した数は有限でしかない。

もし数に可能無限しか認めないなら、実数は存在しえない。

任意の数xについて、その数が自然数なのか、整数なのか、有理数なのか、無理数なのか問われたとしよう。まずこの数xが0.・・・・・のような、0より大きく、1未満の数なら、この数は有理数無理数のどちらかである。では、どちらなのか。残念ながら、判定する術がない。

有理数の定義によれば、その数が、途中で終わっているか、または小数部分のどこかから、数の並びが循環になっているかのどちらかなら有理数である。このとき、0.2を0.1999999・・・・とするなら、有理数とは、小数部のどこかから数の並びが循環になっているものと考えることができる。循環の代表例としては、1/7というのがあり、1/7=0.142857142857142857・・・・というように142857という部分が無限に繰り返される部分がみつかれば、それは有理数ということになる。

では、与えられた数x有理数無理数かを可能無限の立場から考えてみよう。与えられた数xは最初の小数第一位から順にどこまで見ていっても循環する部分が見つからない場合、これは実数であると判定していいのか。小数第n位までは循環している部分は見つかっていないということしか言えず、もしかしたら、小数第n+1位からは循環しているかも知れない。これでは、いつまでたっても有理数無理数か決められない。そもそも実数というものを確定的に存在させることができないのが可能無限なのである。

だが、実無限なら、与えられた数x有理数無理数かを判定できる。なぜなら、神の視点で見れば、無限に続くのか否かが容易に見てとれるからである。無限につづく小数部分さえ、それはすべて決まっており、それゆえ、私たちには分かっている。無限につづくものがすべて分かっていれば、それが有理数無理数かの判定は簡単である。このような実無限の存在を保証しているのが公理的集合論ZFの無限公理である。無限公理は、

0を含むある集合があり、しかもある数がその集合のひとつなら、その次の数も同様にその集合のひとつであるような自然数という集合が存在する、

と主張している。自然数という無限さえ、「自然数という集合が存在する」と宣言することによって、自然数という無限にある数のすべてを含むものとして完結している。したがって、無理数は、有理数の小数桁部分の極限値において、循環しないものとして定められる。

しかし、実無限は矛盾を孕んでいる。たとえば、実無限を認めると、自然数のすべての数が書き尽くせることになる。限りなく続くものが、全て分かっていると考えるのは、理不尽である。このような理不尽な実無限を認めることによって無理数の存在が結果する。いわば、無理数とは実無限によって理不尽に生み出されたものである。

実数は自然数にない性質を多くもっている。最も実数らしい性質が「完備性(連続性)」であり、この性質のお陰で微積分が可能となり、それを使って自然を連続的に考えることができている。連続性を支える「限りなく近づく」ことのできる性質[18]が点と線の不思議な関係を基本にして成立している。連続する時間や空間を表現する最も適した数学的対象として実数は数学者の関心の的となってきた。ギリシャ人が使わなかった実数こそ古典物理学の不可欠の表現装置として使われ、ニュートンライプニッツの無限小(infinitesimal)、コーシーの極限(limit)といった概念を通じて実数の理解が浸透していった。[19]極限の基本となる、コーシーによる「限りなく近い」ことの数学的表現を見てみよう。「限りなく近い」ことの数列に関する数学的表現は次のようになっている。「近い」をより動的に「近づく」とすると、数列{an}がaanaは実数)に「限りなく近づく」は、実数を 、自然数n, n0とすると、

 

どんな小さい を考えても、それより をさらに小さくできる

 

とアナログ式に表現できる。[20] が何個の実数を含んでいるかを示すことができれば、より正確に、つまりディジタル式に「限りなく近い」ことが表現できる。これが集合論の役割である。連続性と非可算の関係が集合論でさらに考察されることになる。だが、その試みが成功したとは言えない。というのも、どのように小さい をとっても、それより小さい はやはり非可算のサイズをもっているからである。

パルメニデスによれば、実無限と可能無限の区別はなく、二つは同じであり、完結した無限だけが意味をもっている。だが、アリストテレスは二つの無限を区別し、逆に実無限の存在を否定する。「数が増えていく、減っていく…」といった変化する数の並びは認識上有効な場合が多いが、数学的対象と考えた場合、他の確定した数学的概念と矛盾なく組合すことができなくなる場合が多い。その意味で可能無限は典型的な「曖昧概念」である。その外延は曖昧である。可能的な無限は反パルメニデス的概念であり、物理世界の変化を数学的世界にもち込んだものである。この半物理的、半数学的な混血概念は発想上の役割は果たせても、有意義な命題を生み出すことにはならない。「完結した運動」だけが意味のある運動であるように、完結した実無限だけが数学的に完結した意味をもっている。[21]

だが、数学の直観主義者は次元の還元とその補完としての運動という関係を同値だとは認めない。彼らは変化している過程を変化し終えた結果として考えることに同意しない。そして、変化の只中では排中律が成立しないと考える。そのような世界は典型的な非決定論的世界である。それゆえ、次元を加えることによって得られる、至るところで排中律が成立している決定論的世界とは異なることになる。

点と線の不思議な関係は最初の問いに示されている通りである。「点が集まると線ができ、線を分割していくと点に到る」という両者の関係が実数における無限分割可能性という語のもつ意味を独特なものにしている。自然数の集まりも無限に分割できるが、自然数をすべて集めても線をつくることはできない。では、その自然数からどのようにして実数をつくり出すことができるのか。それを示すことが集合論の研究目標だった。この目標はいまだ実現できず、実数が自然数より高い濃度をもつことはわかったが、その濃度が自然数の濃度の次の濃度か否かは今の公理的集合論では証明できない。(連続体仮説集合論の公理からの独立性)

実無限、可能無限という区別は一見重要な区別に見える。[22]恐らく無限を扱う認識レベルではそうなのかもしれないが、存在レベルでは大きな意味をもっていない。認識レベルの話とは別に、「集合」は実数のもつ無限性を明らかにできる基本的概念である。集合は要素を含み、要素からなっている。

 

「要素が集まると集合ができ、集合は要素に分解できる。」

「点が集まると線ができ、線を分割していくと点に到る」

 

上の文は比べるまでもなく、基本的に同じことを主張している。点や線、そして実数のもつ基本性質は集合概念によって表現し直され、したがって、集合の基本性質から点や線、実数の性質が証明できることが保証されている。これが意味することは実に大きい。それは、

 

集合論は古典的世界観を支える数学である、

 

ことを帰結する。実数を基礎付けるのが集合論であり、その実数によって表現されるのが古典的世界である。特に古典的な時空は実数と同じ性質をもっている。この主張が大きな意味をもつことは説明するまでもないだろう。(もちろん、集合論は古典的世界観だけを支えるのではない。)

 

集合論の研究目的は何だったか

-実数のもつ連続的な無限という性質の解明のため

なぜ実数のその性質が重要だったか

-実数の数列の収束、発散、極限とは何かを明らかにするため

どうしてそれらが必要だったか

微分積分概念とその適用の正当化のため

どうして正当化が求められたか

古典力学の表現装置として必要だったため

さらに、

古典力学の表現装置は何だったのか

ユークリッド幾何学が表現装置だった

ユークリッド幾何学で何を表現したのか

-点と線を基本にした、時間と空間の中の対象とその運動

 

これら一連の問答から、古典力学の数学を完成するために集合論が研究された」という命題が得られる。それゆえ、20世紀数学の基礎となった集合論古典力学の数学の基礎だったことになる。その同じ数学を使って非古典的物理学が同じように展開できるということは誤っていないかもしれないが、不自然な印象はぬぐえないだろう。

 

 

*公理的集合論: Zermelo-Frankel (ZF) Set Theory

Formal system based on 9 axioms and two primitive notions: “set” and “is a member of”.

(ZF1) Two sets are equal if and only if they have the same members. (Axiom of Extensionality)

(ZF2) The empty set exists. (Empty Set Axiom)

(ZF3) Given any sets x and y, there is a set z whose members are x and y. (Axiom of Pairing)

(ZF4) Given any set x, there is a set y which has as its members all members of members of x. (Axiom of Unions)

(ZF5) Given any set x, there is a set y which has as its members all the subsets of x. (Powerset Axiom)

(ZF6) Given any set x and a function on x, there is a set y which has as its members all the images of members of x under this function. (Any “set-sized” collection of sets is a set.) (Axiom Scheme of Replacement)

(ZF7) An infinite set exists. (Axiom of Infinity)

(ZF8) Every non-empty set x contains a member which is disjoint from x. (Axiom of Foundation)

(AC) For any non-empty set x, there is a set y which has precisely one element in common with each member of x. (Axiom of Choice)

 

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古典的世界観こそが私たちの生活世界を生み出し、私たちの経験に意味を与え、人生を支えてきたことを明らかにする。また、決定論の本性、非決定論の諸相について考え直す。性質や量の測定の確定性、瞬間の存在、そして、それらから構成される客観的な出来事がつくる古典的世界を眺め直してみよう。唯一性は普遍性と因果性の組み合わせから説明できる。

 

[1] という表現は一見何の問題もなさそうだが、どのような意味で「曖昧か」考えてみると、じつに興味深い。加法の定義を思い出せば、左辺は無意味な系列である。

 

[2] これらの問を一般化すると、次のような問が出てくる。空間から時空はつくれるか。時空を分割すると空間になるか。n次元空間からn + 1次元空間はつくれるか。n + 1次元空間を分割するとn次元空間になるか。n次元空間からn + m次元空間はつくれるか。n + m次元空間を分割するとn次元空間になるか。ところで、次元のない空間はどんな空間なのだろうか。答は点であり、点は次元0で、それゆえサイズがない。

[3] [解答1]の真意は「0をいくら加えても0のままである(0 + 0 +…+ 0 +…= 0)」という命題を思い起こせばわかるだろう。[解答2]は「サイズのない点を集めるとサイズ(長さ)のある線ができる」ことを納得できるかどうかが鍵となっている。

[4] 細部が曖昧だという漠然とした不安は、これら一連の操作が「構成的(constructive)」に可能か否かに関する不安である。この不安を重大な問題と考えた直観主義者は、不安は不確定なものの存在にあり、それを無視できないと考えた。私たちが数学的対象を具体的につくり出せるか否かという認識上の不安はあるが、それを無視することによってより広い範囲が射程に入り、広大な無限の世界を扱うことができると考えたのが通常の数学者である。既に、ユークリッド幾何学を図式を使った構成的な証明からなると考えるか、ヒルベルトの形式主義に従って考えるかの違いを述べたが、「線を引く」ことと「線が存在する」こととの関係は、線を数学的に構成できるかどうかが判明しない限り答えることができない。

[5]上の問いはいずれも点や線に対応するものが物理的には時間や空間だと考えると従来の議論の自然な解釈になるが、対応するものが物質の場合はどうだろうか。物質は明らかにサイズや延長をもっている。デカルトでなくとも誰もそのように考えるだろう。そして、物質を限りなく分割していくことはできないと誰もが認める。実際、ギリシャの原子論は物質が限りなく分割できるものではなく、分割には終着があり、それがこれ以上分割できない、不可分の「原子」であるという仮説であった。それゆえ、原子はサイズをもつ「物質の最小単位」と認められ、原子からの物質の構成も有限の時間、手続きを通じた有限の原子数をもったものと考えられた。高々自然数を用意しておけばすべての話は何の問題もなく済んでしまう。自然の中のどんな物質もその数がどれ程多くても有限に過ぎないという確信は、物質についてのこの原子論に由来している。(それゆえ、私たちは浜の真砂の数や見上げる夜空の星の数を莫大だが有限個しかないと信じている。)原子論が正しいとすれば、本文の問いはことごとくつまらない問いとなり、点である原子から「原子線」も「原子面」もつくることができるが、そこに興味を抱くことは何もない。すべては有限の操作に過ぎず、点と線の本質的な区別がないからである。点にも線にもサイズがあり、その長さは単に程度の違いに過ぎない。それゆえ、Noと答えた人の答えとその形而上学的理由は時空については誤っているが、物質についてはまったく正しいことになる。物質に関する原子論とその無限分割可能性は、したがって、両立しない概念であり、いずれも論理的に正しいわけではなく、その意味で正に仮説である。それゆえ、時空の量子化(=原子化)や物質の無限分割化はいずれも論理上は可能な仮説ということになる。

[6] これら用語は氷山の一角に過ぎない。もっとたくさんの関連する数学用語とそれら相互の関連がある。

[7] そのため、私たちは子供の頃から無限にもっと親しんでいてもよかったはずだが、無限はほとんど無視されてきた。無限は確かに難しい概念だが、小学生には全く歯が立たない概念というわけではない。「限りなく続く、限りなく出てくる」ことがわからないと言ったら、小学生に失礼である。

[8] 誰も今の地球の正確な総人口を知らなくても、だから総人口は不確定だとも、また今の正確な時刻を告げられなくても、今の時刻は決っていないなどと考えないはずである。あることを知らないこととそれが定まっていないことは大変異なった事柄で、「認識上の不確定性」と「存在上の不確定性」とに区別できる。では、ハイゼンベルク不確定性原理(uncertainty principle)はいずれの不確定性を主張しているのか。

[9] 月並みな解答の後に、地上のどんな対象のもつ長さや重さより大きな数を一つ仮定すれば欠点はなくなると考える人がいるに違いない。その人には、空想上、理論上の対象の測定を尋ねるのがいいだろう。彼女はそれまでにない値が登場する毎に数もより大きいものを選べばいいと答えるかも知れない。それにはどんな大きな値になっても通用する理論上の測定をしたいのだと言っておこう。

[10] 対角線論法については後述参照。

[11] ギリシャの原子論では「原子にサイズがあり、かつその原子は分割できない」ことが主張されている。上述の原子論とどこが異なるのか。上述の原子論では分割可能性が何の制限もなく成立することが仮定されているが、ギリシャの原子論、そして現代の原子論では分割可能性に制約がある。

[12] ライプニッツの立場は上述の[解答1]であり、私たちの常識とは違っていることに注意したい。現象世界は幾何学的な量の世界で、それゆえ連続体からなっているが、実在世界は離散的なモナドからなり、連続体と点は異なる次元に属している。それゆえ、連続体の迷宮は解決される。だが、連続体から点へ、点から連続体へと計算によって移行できなければ微積分学は成り立たない。ここにも「次元の呪縛」に似たことが起きている。面積と体積を加えることができないという古来の立場が、連続体と点が異なる次元に属すゆえに迷宮はどこにもないという立場と如何に似たものかがわかるだろう。

 

[13] R3R2Rとなり、いつも空集合となるわけではない。

[14] 詳しくは後述の統一理論、特にプランクのスケールでの議論を参照してほしい。

[15] 遺伝子に基づく遺伝理論は、遺伝子の組み合わせによって生物の遺伝を説明する点で原子論によく似ており、やはり成功した理論である。

[16] 古典力学にも原子論の構成が強く影響している。古典力学は物質についての理論ではなく、運動についての理論なので、二重基準の一方の「物質の有限分割可能性」は表面には出ていない。力学では物体の運動の法則と物体が運動する時空の二本立てになっており、時空に関する法則、前提は明示的に表現されていない。それを表現すれば、「時空は非可算個分割可能(そして、連続的)である」となる。一方、非古典的な量子重力理論では二重基準そのものが正しくない。

[17] 「サイズのない対象」は力学モデル内で「質点(point particle)」として意味をもつが、「サイズのない物質」は力学モデル内でも意味をもたない。運動の記述に物体のサイズは不用だが、化学的性質の記述・説明に物質のサイズは不可欠である。これが力学は運動理論だが、物質理論ではないと言われてきたことである。

[18] 収束は「限りなく近い」点の存在によって定義され、いわゆるε-δ方式によって教えられてきた。

[19] 「無限小」概念は現在使われていない。誰も学校では習わなかった筈である。ニュートンライプニッツは無限小を「0より大きく、どんな正の実数より小さい数」と考えていた。それゆえ、xを無限小とすれば、1/xはどんな実数より大きい。そんな無限小はdxと表現され、次のように使われた。

 

 

この使い方は数学的に厳密ではない。dxは最初0でない数として使われ、次に0であるかのように消去されている。

[20] この定義では実無限ではなく可能無限が使われていることに注意したい。

[21] このように主張することに異論があることも忘れてはならない。この主張はカントールの立場である。

[22] アリストテレスやカントが二つの無限概念を区別し、直観主義にも大きな影響を与えたと言われているが、「無限の対象を含む集合を考えることができたら、そこから何が見えてくるか」という問いを優先したのが20世紀の大勢であり、その姿勢が集合論を生み出すことになった。そこでは「完結した無限」が集合と考えられ、「途上にある無限」は集合とさえ見なされない。したがって、運動に関しても同じように完結した運動を対象にするのが大勢である。