生活世界を支える知識:哲学的な素描 6

第6章 情報と確率・統計はどんな関係か?

統計量は物理量ではなく、情報量に基づいている。マクロな世界の出来事や対象は実在だけでなく情報によって特徴づけられている。生活世界の対象は物理的な特徴だけではわからない情報的な特徴をもち、時には情報を中心に世界の変化が捉えられている。情報とは生活世界の基本的な存在であり、マクロな世界のマクロな対象や通常の出来事からなる。物理世界の存在の拡張が生活世界の情報であると考えればわかりやすいだろう。それゆえ、確率・統計的な説明は、物理量ではなく情報量によって支えられており、生活世界の因果的でない特徴も明らかにするものである。古典的な世界で意味をもつ古典的でない概念の代表が確率や統計であり、それが非古典的世界観への橋渡しの役割を担うことになる。

古典力学は私たちの生活世界を生み出したが、古典的世界観は力学的でない対象に対しても適用され、ラプラス流の決定論は生活世界のすべては古典力学に原理的に従うものだという前提に基づいていた。

 

古典力学 点に基づく幾何学が表現装置

ラプラスの力学的決定論

古典的世界観

 

上の拡張的な適用に伴う、存在論的、認識論的拡張を説明するのが「情報」である。存在の上部構造で、それを情報で統一的に理解する。哲学が一般化するときに使ってきた工夫は基本的に情報概念に類似のものであり、その時の大前提は情報は存在を含むというものである。情報まで拡張すると、力学的な因果連関だけで済まなくなり、最初に出てきたのは確率・統計だった。確率概念を使うということ自体、古典力学から拡張された古典的世界観が生活世界の思想として偶然やチャンスを大切な契機として認めていたことを示している。

 

確率とその解釈

確率や統計は20世紀の知識のあり方や性格を他の世紀から区別するものである。確率・統計的知識の科学への積極的な活用は「確率革命」として科学革命の一つと考えられている。最初は天文観測の誤差をどのように処理するかから始まった確率の研究は社会科学や自然科学の中で積極的に活用され、今やそれなしには日常生活さえままならぬものになっている。確実でない、蓋然的知識が市民権を得て、確実な知識と肩を並べている。「明日の降水確率」はそのような例の一つである。しかし、「明日は20%の確率で雨が降る」と言われた時、その正確な意味を即答できる人は果たしているだろうか。誰も一日の20%の時間,つまり4.8時間雨が降るとは思わないだろうし、面積の20%に雨が降るとも考えないだろう。では「明日の降水確率」の確率とは一体何なのか。

 今の生活世界で多用される確率は頻度解釈がもっと一般的な解釈である。他方、主観的な解釈、つまり私たちの信念の度合いという古典的な解釈もよく使われる。ベイズ主義と関わる解釈は比較的研究が多いが、頻度の方は意外に積み重ねが少ないのが実情である。古典的な物理世界、日常的な生活世界で「何かの確率」という場合の「何か」はマクロな対象であるだけでなく、しばしば物理的でない、社会的、心理的な対象である。そして、そのような古典的な世界は決定論が成り立つ世界だとも考えられてきた。

 頻度解釈の存在論、これが情報概念を基本にした枠組みで構成される。情報の根幹にあるのは存在そのものであり、その存在の拡張として情報が考えられ、情報の存在論が確率・統計を装置として描かれる世界となり、それが生活世界の基本的な道具立てとなってきた。その歴史は比較的新しく、本格的に生活世界の構成要素になったのは20世紀になってからである。

 マクロな世界での客観的なチャンスを表現する確率・統計的な知識という構図の中では、客観的チャンスは頻度解釈に基づく。その際の仮定はエルゴ-ド性(仮説)である。反復的な事柄から空間的な分布と、次の試行へチャンスへの橋渡しがこの仮説である。

 

[確率論の仕組み]

命題や集合を考えよう。論理の規則や集合の演算に関して閉じた命題や集合の集まりに確率測度Pを定義できる。この関数Pは命題や集合を実数に写像する。そして、任意の命題や集合ABに対して、次の条件を満たすときPは確率測度と呼ばれる。

 

0≦P(A)≦1

もしAが真の命題か全体集合なら、P(A) = 1

もしAとBが両立不可能(排反的)なら、P(A あるいは B) = P(A) + P(B)

 

これらはコルモゴロフ(Andrey N. Kolmogorov, 1903-1987)の確率の公理系である。確率は通常特定の背景知識をもとにして、確率モデルを組んでその中で確率測度を与える仕方で使われる。例えば、サイコロ振りを考えてみよう。サイコロに関する背景知識によって私たちはそれが1から6までの数字の目をもつ立方体であることを知っている。さらに、サイコロが公平であるとすると、通常考えられるモデルは「1の目が出る」、「2の目が出る」、...、「6の目が出る」の各命題に対して1/6の確率測度を与える。さらに、この測度はP(「1の目が出るか3の目が出るかである」) = P(「1の目が出る」) + P(「3の目が出る」)を満たしている。[1]

この数学的な確率概念の特徴は確率を尺度、物差しとして考えるところにある。この他にも確率の定義はあるが、上のような形式的な定義と並んで、そのような形式的な定義をもつ確率とはそもそも何かという解釈の問題が議論されてきた。それらのうちから主要なものを考えてみよう。

 

(問)確率は尺度として定義されたが、他の尺度、例えば、体重や身長の尺度と比較して、共通点と相違点を挙げなさい。

 

[確率の解釈][2]

命題や集合は出来事を意味しており、その出来事の集団における実際の頻度が確率の解釈の一つである。コインを100回投げ、そのうち実際に39回表が出たとする。この出来事をHという命題で表せば、P(H)は100回のコイン投げでの実際の頻度と解釈できる。この解釈は上の公理をすべて満たしている。実際の頻度を使った解釈は客観的な解釈であり、ある出来事が集団内でどの程度の頻度で実際に生じたかによって確率を解釈している。

主観的に確率を解釈することもできる。私たちは与えられた命題が真であることにどのくらい信頼性を置くべきかについて語ることができる。この概念は心理的であるだけではなく、規範的でもある。それは私たちの信念の度合が何であるべきかを述べているからである。そして、この信念の度合はやはり上の公理を満たしている。

三番目の解釈は出来事の確率はその仮説的な相対頻度であるというものである。公平なコインはそれが有限回投げられたとき、正確に同じ回数で裏と表が出なくてもよい。しかし、何度も投げていけば最終的には0.5に収束する。xの確率値はxに等しい実際の頻度を帰結する必要はないが、無限に続く仮説的なコイン投げでの頻度はxの値に収束することを帰結する。実際の頻度も信念の度合の解釈も、いずれも確率を何か別のものを使って解釈するものであるが、この三番目の解釈はそうではない。この解釈は循環している。

その理由を知るために、無限の回数の公平なコイン投げが0.5の相対頻度に収束しないとしてみよう。そこで何か特定の系列を思い浮かべてみる。HTHTHT.....という交互に表裏が出る系列の場合、コイン投げの回数が増えれば、そのような系列の出る確率は0に近づいていく。無限の回数の試行では、どのような特定の系列もそれが達成される確率は0になる。しかし、どれか特定の系列は実際に起こる。したがって、確率0と不可能を同じとみなすことはできない。同じように、確率1を必然とみなすこともできない。[3]それゆえ、公平なコインが50%の相対頻度で表が出ることに必然的に収束するわけではない。もし表の相対頻度がそのコインの表の出る真の確率に収束する必要がないのであれば、どのように二つの概念は関係しているのか。大数の法則がその解答を与えてくれる。

 

P(表が出る|コインが投げられる) = 0.5

P(表の頻度=0.5±e |コインがn回投げられる)は、nが無限に近づくと1に近づく

(ここでeは任意の小さな数である。)

((P(A | B)は条件付き確率である。)

 

試行の回数が増えると、0.5±e内になる確率は高くなっていく。ここで⇔の両側に現れる確率概念に注目してほしい。仮説的な相対頻度解釈は解釈ではない。というのも、⇔の両側には共に確率概念が使われているからである。

 

(問)仮説的な相対頻度という解釈が循環していることを説明しなさい。

 

最後の確率解釈は、傾向性解釈(Propensity Interpretation)である。傾向性は確率的な性向(Probabilistic Disposition)である。では、この確率的な性向とはどのようなものか。性向は「...できる」という言い方をもつ言葉で表現されている。例えば、可溶性は性向の一つである。それは次のように定義できる。

 

Xが可溶である ⇔ Xが通常の条件で浸されるなら、Xは溶解する

 

この定義は、ある「…ならば、…である」という文が真であれば、その時に可溶であることを述べている。これはXが一度も浸されなくとも構わないことを示している。さらに、通常の条件も重要である。また、この定義は決定論的な表現になっている。可溶な物質は浸されるなら溶けなければならない。

確率の傾向性解釈は「…ならば、―である」という文に類似の説明をする。コインが投げられると、その表の出る確率は0.5であるとしてみよう。もしこれが正しいなら、何がこの正しさを生んでいるのか。コインが特別の性向である傾向性をもっているからであるというのがこの解釈の答えである。もしコインの表の出る確率が0.5なら、それは投げられたとき表の出る強さ50%の傾向性をもっている。それはちょうど砂糖の塊が水に入れられると溶けるというのと同じである。

傾向性解釈は決定論的性向と確率的な傾向性の間の類比を強調する。ある対象が可溶であるかどうか見つけるには二つの方法がある。もっとも明らかな方法はそれを水に浸し、それが溶けるかどうか見ることである。二番目の方法は、その対象が可溶な物理的構成になっているかどうか調べることである。つまり、性向はそれに伴う振舞いと物理的な基盤をもっている。そのいずれかを使うことによって対象が当の性向をもっているかどうか見出すことができる。これは確率的な性向についても正しい。コインが公平かどうかを二つのいずれかの方法によって見出すことができる。実際に何回か投げてみる、あるいはコインの物理構造を調べることのいずれかによって公平かどうかわかる。確率的な性向もその振舞いあるいは物理的構造から見出すことができる。ここには明白な類比が見られる。

それでもなお、この傾向性解釈には疑いの余地がある。まず、説明が十分一般的でない点である。傾向性解釈での原因と結果の関係は「…ならば、…である」で表されている。しかし、「…ならば、…である」という関係はいつも因果関係を表すわけではない。両親の遺伝子型は子孫の遺伝子型の原因であるが、それと逆のことも「…ならば、…である」という形式で問題にできる。条件付き確率はいつでも因果関係を表すのではない。(ここにも「ならば」が登場している。)

より基本的な問題は「傾向性」という言葉が「確率」という言葉の別の名前にすぎないのではないかという点である。「傾向性」と「確率」のいずれが明白な意味をもっているだろうか。もし「傾向性」が確率概念を使ってしかわからないのであれば、この解釈は一層事態を複雑にするだけである。

 

(問)あなたにとって「確率」と「傾向性」はいずれが馴染みのある概念ですか。確率概念をもとに傾向性概念を解釈するとどのようになるでしょうか。

 

[確率解釈の意味]

私たちは二つの整合的な解釈、実際の相対頻度解釈と信念の度合いの主観的解釈を述べてきた。もし確率が科学において自然に関する客観的な事実を述べているのであれば、私たちは困難に直面する。実際の頻度解釈が否定されるなら、公平なコインの表の出る客観的な確率が0.5というのはどのような意味をもっているのだろうか。

一つの解決の仕方は確率が客観的であることを否定することである。確率の表現は私たちが原因を知らないために行うもので、不完全な情報のもとで私たちがもつ信念の度合を表すと考えることである。この場合、確率は生じることを予測するのに十分な情報をもっていないために存在することになる。

量子力学によれば、偶然は自然のシステムの客観的な性質である。たとえ私たちが必要な情報をすべて知っていても、量子力学的なシステムの未来の振舞いを正確に予測することはできない。物理学では、したがって、主観的な解釈では十分でないことになる。しかし、量子力学で偶然が客観的なものであるとしても、他の理論でもそうであると結論することはできない。

このように様々な解釈を見てくると気づく点があるだろう。それは確率が適用される場面や文脈に応じて解釈が異なり、ある場面では適合する解釈が別の場面ではそうでない点である。この多様性は確率が論理のように普遍的ではなく、対象やそれを扱う理論に依存していることを暗示している。なお、この節の確率の議論は一般的なもので、主観的確率の懐疑論への適用は別の章を見てほしい。

 

(問)確率解釈が多様であることの理由をまとめなさい。

 

コイン投げは確定的、それとも不確定的?

 

1はじめに

 コイン投げについて、Fordは次のような文で議論をスタートさせた。

 

“Probabilistic and deterministic descriptions of macroscopic phenomena have coexisted for centuries.”([Ford], p.40)

ニュートンが決定論的な『プリンキピア』を書いたとき、ベルヌーイは確率に関する数学的な議論を展開していた。決定論的記述と確率的記述が両立するかどうかという問題を、コイン投げが確定的なのか、確率的なのかという問題として取り上げ、決定論、非決定論、自由といったことを考え直してみよう。その際の基本的な構図を示す文献はKellerの論文で、その議論の枠組みが基本的に現在でも通用しているように思われる([Keller])。これを示すのが次の文章である。

 

Why is the outcome of a coin toss random? That is, why is the probability of heads 1/2 for a fair coin? Since the coin toss is a physical phenomenon governed by Newtonian mechanics, the question requires one to link probability and physics via a mathematical and statistical description of the coin’ s motion. ([Mahadevan, Yong], p.66)

 

決定論的なコイン投げの結果はなぜランダムと考えられるのか。コイン投げが古典力学の法則と初期条件によって記述できるにも関わらず、なぜコイン投げの結果はランダムなのか。それがランダムなら、どのようにコインが投げられるかに関わらず、なぜ結果が一定の確率をもつようになるのか。最後に、各々に一定の確率があるなら、それはどのように計算できるのか。このような問題が好奇心をくすぐる。

類似の状況は次の日本の文献からもわかる([水口])。そこでは確率過程としてのコイン投げと決定論的なコイン投げがどのように両立するかが考察されている。決定論的な過程は、自由落下過程と衝突過程の二つに分けられ、それがどのように記述されるか考察される。初期条件空間のベイスン(十分な時間の経過後、表、裏を表すアトラクターに吸引される初期値の集合、Basin、盆地)が確率的な結果を保証してくれる。決定論の立場から考えられる蓋然性の起源は、初期条件を与える際の精度とベイズン構造の特徴的な長さとの相対関係にあると考えることができる。[4]

以上の物理学的なコイン投げの話は巧みに出来上がっているが、表題の問いについては何の解決にもなっていない。保存的、連続的、そして何より因果的なマクロな世界で、コイン投げが古典力学に従う決定論的な過程であるという説明と、コイン投げの結果がランダムで確率的な予測に従うという説明が両立するような状況がいかにして可能かを説明していないからである。確率的、不確定的、ランダムであることの説明は繰り返されるコイン投げという前提によって支えられており、そこでの「繰り返し、反復」ということがなぜ起こるかの説明がこれまでの議論の中には見当たらないのである。

不連続性が確率に必要なのは不連続の前後の出来事を区別し、並列化して、集合をつくることができるからである。そこで再考してみよう。

 

2リンゴ投げとコイン投げ

リンゴの落下そのものを確率的なプロセスだと考える人はまずいない。だが、コイン投げとなれば、すぐにその確率モデルを想像するのではないか。リンゴとコインのどこを見比べても、それらの間に古典的な決定論的過程と確率的な過程の違いを見出すことはできそうもない。サイコロと普通の立方体の場合も似たようなものである。リンゴが着地する状態が二つに分割できる、例えば、表面に書いた文字が見えるかどうかで二分できれば、コイン投げと同じことになるのではないか。しかし、誰も何度もリンゴを落とし続けないし、リンゴの落下は典型的な自由落下であるとみなされてきた。

何度も投げることができることによって、投げる際の初期条件の集合を想定することができる。何度も投げることを時系列に従って1回毎に線形に並べれば、それは決定論的な因果的過程とみなせるのだろうか?それは明らかに不連続な過程となるだろう。例えば、コインを投げ、表が出て、次に投げるまでの間はどのような因果過程となるのか。地上のコインを拾い、再度投げる準備をする過程はどのように記述できるのか。これらの過程はコイン投げとは連続しておらず、コインが投げられればよいという以外の条件は何もついていない。次のコイン投げが一日後だろうと半年後だろうと一向に構わない。必ずコインが同じ条件で投げられる、ということだけで十分ということになっている。次のコイン投げの初期状態がどのように決まるか、いつ決まるかは初期状態空間をつくる際には考慮する必要のないものである。

コインを拾って、投げる過程が連続しているなら、コイン投げは徹底して因果的であり、それゆえ決定論的になる。コイン投げの過程の連続性と他からの介入を許さないことが保証され、それゆえ、連続的な因果的な過程であれば、その過程に登場する物理量は保存されることになる。連続的なコイン投げの文字通りの実現は、保存性、連続性、孤立性が密接に結びついていることを示してくれる。保存的、連続的、孤立的な変化に「繰り返し」を挿入することはできず、それゆえ、コイン投げやその結果の頻度といった表現は意味をなさないことになる。これら条件を満たす因果過程に全く同じ繰り返しの過程は存在せず、一つの過程の一部に類似した過程があるということでしかない。

コイン投げが確率的、ランダムなのは、初期条件集合が表裏のランダムな分布を説明するからではなく、単にそのような初期条件集合が私たちに確率的な結果を生み出すと誤解させることに過ぎない。初期条件集合が表裏のアトラクターに吸引されるベイスンとなっていることが確率的であることの根拠だとすれば、その初期条件の一つ一つが実現しなければならないが、その保証などどこにもないのである。

 いずれにしろ、これまでの力学的モデルによるコイン投げは、なぜコイン投げが確率的なのかを十分に説明しているようには見えない。それどころか、確率的なコイン投げは不可能ということを強く示唆しているようである。

 マクロな世界で個々の出来事や状態が確率的に起こることは不可能、これが私たちの健全な判断である。マクロな世界が、一つの連続した、単純な因果的過程ではなく、神話や物語がもつプロット付きの因果過程、分岐的な因果過程であり、それを現実離れし、俯瞰的な見方をすることによって確率モデルに構成することができる、ということになる。

物語は確率的な要素を含めることができる余地をもつ。因果性に固執した過程だけでなく、不連続的に話を打ち切り、別のシーンへと移り、新たな過程をスタートさせることが自由にできる、それが物語であり、物語で描かれる世界である。物語のプロットの存在は出来事や状態の不連続性を前提にしている。

私たちが理解する世界の因果的な時間発展はプロットを含む、つまり、不連続な初期条件を認めるということである。物語のプロットは自由自在であり、自然の因果過程にプロットが含まれるかどうかは否定的だろう。

 

3そしてミクロな世界で…

 以上のようなマクロな世界の変化をミクロな世界のそれと比べてみよう。すると、二つの事態が如何に異なるかよくわかるだろう。量子の世界の特徴を箇条書きにすれば次のようになるのではないか。

 

  1. 微視的な世界では,物理系の状態の変化が不連続的に起こりうる。
  2. その不連続的な変化では、ある状態から移りうる状態が複数あり、そのどれにいつ移るかが確率的になっている。原因と結果の1対1対応がなくなり、決定論的な因果性が成立しない。状態変化が一意的でないのは私たちの知識がまだ不十分だからではなく、本質的に不確定とみなされている。

 

ギリシア以来、原子論の原子は粒子であるが、その運動は連続的なものと想定されていた。だが、現在は物質の構成単位が離散的なだけでな、その運動も離散的であると考えられている。量子力学の言葉を使えば、このような変化は「ある物理系の状態が別の状態に不連続的に遷移する」と表現されている。

古典物理学の世界では世界を記述する言葉は粒子の位置と運動量である。だが、量子力学はこれとは違う言葉を使う。それは状態で,私たちが注目する対象の様子を表現し、数学的には成分が無限の複素数ベクトルで表現されるものである。「状態」を知れば、それから必要に応じて個々の粒子の位置や運動量の情報を得ることができる。ある水素原子に注目すれば、その中の一つの電子はある特定の「状態」をもっていることになる。そして、この水素原子中の電子の状態は、離散的なエネルギーのものに限られる。それぞれの状態で電子がどこにあるかと聞かれれば、エネルギーの高い状態ほど原子核の陽子から離れて大きく広がっていると答えることになる。しかし、ある瞬間にどこの位置にあるかを知りたいと思うと、マクロな世界とは違う厄介なことが起こる。状態は決まっていても、位置は定まっていない、それもふらふら動き回っていて定まらないのではなく、この定まっていない「状態」が水素原子中の電子の状態そのものなのである。状態は変化でき、水素原子中でエネルギーの違う状態に「遷移する」ことができる。エネルギーの高い状態から低い状態に変わるとき、その差にあたるエネルギーが光として放出される。これと逆の過程が起きるのは、光が先にあって、それを電子が吸収したときである。しかし、あまり大きなエネルギーの光を吸収すると、電子は原子から飛び出してしまい、水素原子はイオン化する。状態間の遷移では、二つの状態のエネルギーは正確に定まっており、そこから出てくる光のエネルギーも正確に決まっている。光のエネルギーE は光の角振動数ω と比例し、 と書けるので、出てくる光の振動数が正確に定まっている。つまり、原子の初めの状態のエネルギーをEinitial、後の状態のエネルギーをEfinal、とすると出てくる光のエネルギーは、 = Einitial − Efinal から決る。いろいろな原子が同じように光を放出するが、そのエネルギー、つまり振動数はそれぞれに定まっている。このように,今までは連続的な量や連続的な変化だと思っていたもののなかに、離散的な値しかとらず離散的な変化しかしない場合があることがわかった。

また、原子の世界の周期的な運動が時間そのものなのだから、この運動と離れた時間というものはない。存在するのは時間ではなく、時計なのである。原子や分子の振動を使った現代の時計は、その針の示すものが時間そのものとしか言いようがないのである。

は5730 年の半減期で電子(β 線)と反ニュートリノと呼ばれる粒子を放出して崩壊し に変わる。

ここで半減期の意味は、初めに1 億個の があったとすると、5730 年後には5000 万個になるということであり、さらに5730 年が経つと2500万個に減る。放射性元素の崩壊での確率は、どの原子核が壊れるかを私たちが知らないからではなく、どれが壊れるかが決まっておらず、自然が本質的に確率的なものであることを示している。これが量子力学の帰結である。

 

4自由と決定への素描

  1. 初期条件の集合、因果関係
  2. 確率過程と帳簿、付随性

 

  1. コイン投げの落下と着地のプロセスは古典的な決定論的過程である。落ちたコインを拾って再度投げるまでの過程は任意で、時空の制約はない。コイン投げを何度もすることができることが自然で起こる場合と人為的に起こす場合が考えられる。自然で起こる場合とは周期的な変化で、繰り返される毎日や季節の変化が考えられる。習慣など適例かもしれない。一方、人為的に同じ初期条件を起こすことは私たちの自由意志による。全体の過程は明らかに不連続で、非保存的であり、自然の過程であるだけでなく、人為の介入があっても考えることのできるものである。その介入が私たちの意志による場合、自由と決定という伝統的な問題に切り込む端緒となることができる。
  2. 確率過程は過程というより帳簿に過ぎなく、因果的な記述ではなく、その記述内容の確率の記述である。帳簿は元の過程そのものではなく、異なる過程でも帳簿上は同じことが可能である。その意味で帳簿の変化は元の過程に付随していると言われる。反復の過程があることによって帳簿が確率過程であることが認識されるのであって、反復していないということになれば、帳簿も確率過程ではなくなる。
  3.  

 繰り返しの過程や行為があるという前提で、繰り返しを引き起こすところに自由意志が関与できる。というより、繰り返すことを決めなければならない場合が自由意志の存在を強く意識する場合である。自発的に繰り返しが起こる場合、そのシステムが孤立していて保存されているなら、そこには自由の入る余地がないどころか、そのシステムは運命論的に決定されている。それがラプラスの普遍的決定論であり、普遍的なシステム、つまり宇宙全体が一つの閉じたシステムとして変化し、どこにも介入の余地がない。初期条件は複数あることなど不可能で、何もないか、あっても一つでしかなく、それゆえ、その後の系の時間発展は一つでしかなく、運命として決まっていることになる。

 

<反復>

 同じようなことが繰り返される過程は自然の中にも、私たちの生活の中にも沢山存在している。自然の中で起こる反復を利用し、反復を生活の中で人為的に引き起こすことによって、確固たる知識や技術を確立してきた。変化の中の不変とは反復であるといっても強ち誤ってはいまい。キルケゴールがかつて後ろ向きの追憶ではなく前向きの反復と呼んで、自由をそこに読み込もうとしたらしい。

 

反復と追憶[想起]は同一の運動である。ただ方向が反対だという違いだけである。つまり、追憶[想起]されるものはかつてあったものであり、それが後方に向かって反復されるのだが、それとは反対に、本当の反復は前方に向かって追憶[想起]されるのである。[5]

 

追憶は過去を美化する代わりに、過去によって自分を縛り付けるものである。過去の叶わなかった恋に拘泥し、それによるメランコリーから立ち直れない青年を考えれば容易に理解できよう。また、CD録音を聴くとき、それはいかな名演であっても追憶の体験である。そこには記録されたデジタルの情報のみが繰り返されるだけであり、新しく発見できるものはあっても新しく生成していくものは存在しない。追憶の体験はそれ自身は不自由なものである。

「反復」が未来志向的な運動であることはどのような意味を持つのか。『反復』において、結婚に踏み切れず苦悩し失踪した青年は、数年後に彼女が結婚したという知らせを聞き反復の存在を確信した。「ぼくはふたたびぼく自身です」(2)と彼が述べるとき、彼は追憶によって不自由にさらされていた自身が再び自由な自分自身に回復したことを喜んだのである。つまり「反復」とは未来において自分自身を回復することと言い換えてもよいだろう。これが「反復」であり、反復はそれが可能なら人を自由にするのだ。

反復が自由を実現するのは何も恋愛に限った話ではない。先の例でいえば、たとえば音楽を演奏するとき、演奏者は一回一回過去の演奏をそのまま再現=繰り返すわけではない。演奏は未来に向けて常に新しいものをはらんでいる。つまり演奏は一回ずつ過去と独立(自由)に新しくあるのだ。これがふつうライブ性と呼ばれるものであろう。ライブ性とは反復の力の性質なのである。これと同じようなことは演劇をはじめとする舞台芸術にも言え,

反復は個別具体的なものとして実現されることから、反復は創造的な力ともいえる。

今まで「反復」は未来にかかわることを述べてきたが、それは過去を忘れることであるということではない。演奏の一回一回は過去と独立であるとはいえ、過去を反省する必要はあるからだ。この時過去は未来において新しいものを創造し実現するためのエネルギーとして扱われる。問題なのは過去を過去のまま保存し美化しそれにこだわるという追憶を繰り返してしまう時なのである。

反復の可能性は常に前方に開かれている。「全人生は反復である」(3)といわれるとき、それは繰り返しにとらわれた人生の不自由さを嘆いたものではなく、常に前進し創造していく力を目指すものなのである。

 

帰納(過去・未来、Induction)

私たちは自分が直接観察しないことでも多くのことを知っている。直接見るには小さ過ぎる、遠くにあり過ぎる、隠れている、昔に起こったことで今は既にない、まだ起こっていないので見ることができない、といった様々な理由から観察できない場合、私たちはそれらをどのように知るのだろうか。どんな四角形にも4つの辺がある、2個のリンゴと3個のミカンの和は今年だけではなく、来年も5であると容易に信じることができる。四角形についても和についても、そうでない場合を想像することができない、というのが信じる理由である。ヒュームによれば、観念の間の関係と事実の間の関係は次のように異なっており、四角形や和は観念の間の関係を表現したものである。

 

S が観念の関係を表現する iff  Sの否定が理解できない、あるいは矛盾する

 

S は事実を表現しているiff  Sとその否定の両方が理解可能である、あるいは矛盾していない

 

「私は猫を二匹飼っている」が真でも、私はその否定、あるいはそれが偽だと想像することができる。だから、それは事実を表現しているのである。私たちは知覚と記憶によって観察事実を知る。私たちはどのように観察されない事実に関する意見をつくるのだろうか。それらもやはり経験から得られる。性質のどんな組み合わせも論理上は可能であるが、どの組み合わせが事実として実現するかは経験に頼らなければならない。

さて、観察事実と一般的な言明の関係を経験的なデータと理論の関係と捉え、その関係を帰納法として考えてみよう。

 

これまで火はいつも熱かった。

だから、火はこれからも熱いだろう。

 

(データ)これまですべてのFGであった。

(理論)すべてのFは未来もGである。

 

帰納法 (ヒュームの問題)

観察されない事実についての意見は経験から帰納法によって導出される。データから理論への推論は演繹的に妥当ではない。そこで考えられたのが次の原理である。

 

自然の一様性原理(UN):FGについて、F がこれまでGであるなら、Fは以後もGのままである。

 

すると、データとUNから、理論が導出できる。

 

(問)(データ)+UN→(理論)を証明しなさい。

 

UNは大変強い主張で、私の経験の中に登場したパターンは自然において一般的に成立すると述べている。明らかにこれは強過ぎる主張である。だが、この主張を弱め、「FであるものはGであった」というのが法則であるとすると、どのようにそれが成立することを知るのだろうか。

 

  1. 過去には、未来は過去に似ていた。
  2. それゆえ、未来には、未来は過去に似ているだろう。 (2)未観察の事実についての知識は経験から帰納的に導き出されなくてはならない。(4)それゆえ、UNに対する循環しない論証はない。(1-3)これが示しているのは、科学的な探求(つまり、観察されるものから観察されないものについての結論を導き出す試み)それ自体は証明できない仮定に基づき、信念条項として受け取られなければならない、ということである。これは科学的な証拠を占星術と同じ地位に置くことのように思われる。(データ)水晶球は私の申し出が受け入れられると言っている。確かに、これは真ではない。だが、次の仮定を加えれば、真になるだろう。確かに、(RC)に対する最善の論証は次のものである。(理論)水晶球は信頼できる。((RC)と同じ) これは明らかに正しくはない。幾つもの反論がある。a) これまでのところ水晶球占いより帰納法の方が成功してきたc) 帰納法は無益で、科学はそれを決して使っていない(Popper)。e) 演繹も似ている。演繹が信頼できることを証明するどんな試みも演繹に循環的に頼っている。ヒューム自身の反応は異なっていて、より根本的である。  (問)経験的な理論の正当化はできるのだろうか。
  3.  
  4. (問)帰納法と確率・統計的な手法は何が違っているのだろうか。
  5. 帰納法は私たちが選ぶべき戦略ではない。それは私たちに生れつき埋め込まれたものである。鳥は南に飛んでいくことを正当化する必要はない。鳥にとってはそうすることが正しいことなのである。私たちは帰納法を正当化する必要などない。というのも、そうするのが正しいだけなのである。動物はうまく行くものをしているだけで、私たちはその動物なのである。
  6. f ) 帰納法の信頼性に対する合理的に心を動かす証拠はない。
  7.  
  8. d) 帰納法は演繹的に妥当であるとは想定されていない。それは帰納的に妥当である。
  9. b) 帰納法は定義によって合理的である。それは正しい推理によって意味していることの一部になっている。
  10.  
  11. なるほど、この論証が妥当になるのは(RC)をさらなる仮定として加えた場合だけで、それは全体の試みを循環的なものにしてしまう。だが、これらのことは科学的な推論についても真である。水晶球占いは何ら恥ずべきことではない。科学と同じように知的に尊敬できるものである。
  12. (データ)水晶球はそれが信頼できると言う。
  13. (RC)水晶球は信頼できる。つまり、それがXと言えば、Xであることは真である。
  14. (理論)だから、私の申し出は受け入れられるだろう。
  15.  
  16.  
  17. (3)だが、UNはどんな帰納的な論証でも暗黙の仮定になっている。
  18. (1)UNは未観察の事実に関わっている。
  19. この結論はUNを仮定に加えなければ妥当にはならない。仮定に加えると、推論は循環することになる。未来が過去に似ているだろうということを既に知っていない限り、過去の未来が過去の過去に似ているという事実は、未来の未来が未来の過去に似ているだろうということを示してはくれない。

 

[1]確率空間あるいは標本空間Sは実験や試行における可能な結果の集合である。コルモゴロフの確率の公理から、確率とは何かという問いに対し、それは抽象空間の部分集合からなるσ-代数の上に定義された、正規化された可付番加法的な測度である、と答えることができる。だが、この解答は何かが欠けているという印象を与える。その理由は、公理が確率の意味を与えるというより、その尺度、物差しとしての条件を与えているからである。空間が有限なら解答は次のようになる。確率は0から1までのいずれかの実数で、二つの出来事が同時に起こらないなら、いずれか一つが起こる確率は二つの出来事のそれぞれが起こる確率の和である。これで確率の意味がわかったと思う人はいないだろう。確かに、道具・装置として確率を使うためには上の公理で十分かもしれないが、確率は何を意味しているかという問いには十分に答えられないだろう。

[2] 確率解釈のここでの記述はE. Sober, Philosophy of Biology, pp.60-67に負う。

[3] 無限の標本空間の場合、確率1と必然性、確率0と不可能性が同じでないことは、例えば、実数の区間[0,1]の中から任意の有理数を取り出す確率を考えてみよう。そのような有理数は無限個あるにも関わらず、その確率は0である。

[4] 確率空間の裏表がどのような理由で与えられ、その確率値の付与に対する数学的な理由がカオス理論等によって説明できる。

[5] セーレン・キルケゴール著、舛田啓三郎訳、『反復』、岩波書店、1956年 8頁。