思いは巡れど… ― 巡る思いは漂うばかり

1生きる経験と死ぬ経験

 私たちの経験は実に様々で、経験とはどのようなものかと問われてもうまく答えることは難しい。多くの経験ができる反面、世界には経験できないものも実に多く、まして一人の人間が経験できるものなどほんの僅かに過ぎない。私が生まれる以前の世界の出来事も、私が死んだ以後の世界の出来事も私には経験できなく、その経験できない出来事は私が経験できる出来事に比べれば、比べようもないほど莫大である。経験は限られていて、僅かなものという運命を克服するために人間は知識と記憶を集め、それらを有効に使ってきた。知識は直接経験できないものを間接的に経験できるようにしてくれる。知識のお陰で私たちは経験のもつ限界を意識しながらも、経験可能な範囲を拡大することに邁進できてきた。拡大される経験は記憶、記録によって多様な媒体を使って保存され、伝えられてきた。個人の限りある記憶は消え去る前に集められ、吟味された上で保存され、文化や伝統として公共的に管理、維持されてきた。一人ひとりの直接経験を核に置き、それを包み込むように間接経験が広がり、その総体が世界や宇宙という概念をつくり、限りない修正を経ながらその内容を充実させてきた。こうして、共有する経験が増え、世界が拡がり、時空を超えて理解できる範囲は膨張し続けてきた。[1]知識の実質的な源は、突き詰めれば私たち一人ひとりの経験である。

 直接経験の直接性、間接経験の間接性がそれぞれどのような特徴をもつかによって、経験の内容や意味が明らかになる筈である。直接性の最たる例は感覚的な経験で、純粋に感覚だけからなるような経験があるかのように想定されている。だが、日常生活では純粋な感覚経験はほとんどなく、感覚を含む経験が有用な経験として通用している。物理世界での間接性の最たるものはマクロな宇宙の端やミクロな知覚できない原子の内部であろう。それでも、そこには経験することが不可欠な要素として入り込んでいる。さらに、ここでは議論しないが、実際に経験することが(物理的にではなく、原理的に)不可能な数学や幻想の世界さえ、頭の中で(この世界での経験に似た仕方で)経験すると私たちは思っている(経験できるものの経験ではなく、経験できないものの経験とでも言えば哲学的なのかもしれない。空想し、夢の世界に浸るのも経験であるが、通常は普通の経験とは区別されている。)。生活の場面での経験は適度に直接的、適度に間接的な、感覚と記憶や知識が入り混じった経験で、通常は経験する内容を事実、事態、出来事といった語彙を使って表現している。ここでは生活世界での経験を中心にして考えていこう。

 

人は病気で死ぬのではなく、生まれたから死ぬのである。

銃が人を殺すのではなく、人が人を殺すのである。

 

生きるって、生きているって、なんて素晴らしいことなんだろう。

死ぬって、死んでしまうって、なんて悲しいことなんだろう。

 

これらの例文を念頭に置きながら、「生きる」経験と「死ぬ」経験について考えてみよう。「生きる経験はあるが、死ぬ経験はない」というよく耳にする文が誤りであることを導き出してみよう。この文は通常何の疑いもなく正しいと思われている。

 私たちは誰でも生きる経験の具体例を簡単に挙げることができる。そして、同じように死ぬ経験の具体例も挙げることができる。ペットが健気に生きている、身内が亡くなるのをみる、といった経験を多くの人がしている。だから、生きる経験があれば、死ぬ経験もある、という文は真にならなければならない。すると、「生きる経験はあるが、死ぬ経験はない」は誤った文ということになる。では、何故この文を誤りだと考えない人がほとんどなのだろうか。誤りではないと主張する人たちの月並みな理由は、例えば、「自分の生きる経験はもてるが、自分の死ぬ経験はもてない」とこの文を解釈することにある。

 ところで、「生きる」経験は誰にもあると思われているが、「生きる」ことを直接に感じることができるだろうか。味や匂い、形や色、音や声は感覚器官を通じて入ってくる情報を直接に感じたものと意識される。これらは現在感覚質(Qualia)と呼ばれているが、「生きる」ことはそのような感覚質の一部だろうか。この問に誰もそうだとは答えないだろう。なぜなら、生きる、あるいは生きている感じを感覚する特定の器官など誰も知らないし、そもそも私たちはそのような器官をもっていないと思っているからである。感覚器官は知っていても、生きることを感じるという役割のみを担っている器官など身体のどこを探しても見当たらない。どの器官もそれをもつ個体が生きることに何がしかの貢献する器官だが、生命を感じる器官などといったものは存在しない。だが、私たちの多くは「生きる実感」を感じていると思い込んでいる。山登りで長時間かけて頂上に到達し、そこから周囲の光景を見て、多くの人はすばらしい眺望に感嘆するだけでなく、生きている実感も体験すると思っている。戦争の中で九死に一生を得た兵士は「生きている実感をかみしめた」とコメントしたりする。これらの例から、「生きる実感」なるものが本当に感じられるのだろうか。これは巧みなトリックに過ぎないのではないか。生きていることを直接に感じる器官がないことは、生きている実感が感覚経験ではなく、幾つかの感覚経験と記憶や知識を総合した判断結果、推論結果であることを示唆している。「しみじみ紅葉の赤を見る」とき、赤は感覚質でも「しみじみ」は感覚質ではないように、「生きる」は感覚質ではない。経験するためには生がいつも前提になっているが、その前提の中でもつ日々の経験は生そのものではない。生きていて、食べていることが「食べている経験」と意識され、「生きている経験」とは意識されない。「生きている実感」ではなく「推論結果としての生きている」思いと言ってもいいような、生きていることを結果として導き出す推論があり、それが習慣的に巧みに短絡化されて、いわゆる「生きている実感」と見事に省略されているのではないか。[2]

 では、死ぬ経験はどうだろうか。過去に一度も人や生物の死を見たことがない人などまずいないだろう。他人の死、肉親の死、ペットの死といったことを経験し、それらを死の経験と呼んでいるのが普通である。これらはいずれも、文字通りの意味で「死の経験」である。すると、老人などは実に豊富な死の経験をもっていることになる。ところで、生きていることや死んでいることは見ただけではわからない場合がある。化石がかつての生き物の死骸であることを直ぐにわかることなど普通の人にはできない。生き物の生死は生死についての知識や過去の経験を通じて推論されるものである。「生きる」と同じように「死ぬ」も感覚的なものではない。

 したがって、生きるも死ぬも推論の結果だとすれば、生きる経験だけが存在し、死ぬ経験がないというのは奇妙で、誤った主張だということになる。

 

2意識経験の特権性

 私の生きる経験の具体例は私自身の生活経験を数多く挙げれば済む。だが、私が死ぬ経験の具体例を私自身の死の経験として挙げられるかと聞かれたら、仮想的な死を含めない限り、それはできないとしか答えられない。私が私自身の死を経験することはあり得ないと考えられてきたし、キリストの復活といった宗教的な事柄を想定しないのであれば、死から蘇生する、甦る、復活する人などいないことから、現在でもこれに反論があるとは思えない。だが、そのことだけから、私の死と他人の死の間に大きな違いがあると言えるのだろうか。私は私の意識していることを特権的にわかると言われてきた。[3]特権性を強く意識し、それを自らの哲学の基本においたのがデカルトだった。生だけでなく死に関しても「私」は特権的なのだろうか。私が特権的なのは生きている間の私ではないのか。死んでいく私がもつ様々な思いは、あくまでまだ生きている私の思いであり、生きている「私」の特権的な事柄でしかなく、私の死は私の推論結果としての死でしかあり得ない。すると、死に関しては「私」も他人もなんら区別はなく、共に推論によってしかわからないという意味で平等ということになるのか。平等どころか、私の死こそ他人の死からの類推に過ぎない。私は他人の死は経験できるが、私自身の死は経験できないから、私の死は経験することを欠いた推論結果ということになる。経験できなければ類推するしかない。このように考える人が多いだろう。生きて何かを意識している私はそれが何か直接にわかり、他人の意識は逆に推測しかできないが、反対に死は他人の死は見ること、経験することができるが、自分の死は見ることさえできない。

私が経験できないことは無尽蔵にある。生まれる以前の世界の経験、死後の世界の経験はできなく、そのような経験不可能なものの一つが自身の死である。それが経験できないことが大きな損失かと問われれば、答えにくいが、知ることに固執する人間の特徴が顕わになった例と考えられないこともない。

人がもつ、生きている間だけの特権が経験、特に主観的な経験である。主観的な経験の代表は自己の意識であり、それを鋭く探求し、それを基本に哲学を捉えなおしたのがデカルトだと述べたが、そこから近代的な哲学がスタートした。私は私が何を意識しているかを直接に気づくことができるが、その気づきは直接的で、推論によるものではない。[4]意識は自分に直接にわかるもので、他人の心を推察するのとは違って、経験的なデータや推論を必要としない。その直接的な気づきにすべての事柄の信頼の根を見い出そうとしたのがデカルトだった。そのためか、直接的、特権的であることの欠点は逆にほとんど議論にならない主題であった。自己意識の特徴として意識が直接に推論なしにわかるということは多くの欠点をもった知り方であるというのはデカルトへの反旗となるため、十分に議論されてこなかった。

気づく、わかる、知ることが直接にできてしまうと、それが正しいか否かの見極めは著しく困難になる。有無を言わせずわかることは、「わかったことが正しい」ことまではわからず、正しさの保証までは含んでいない。正しいことも直接にわかれば文句なしだが、直接にわかるのは「わかる」までであって、わかったことの真偽までは入っていない。それは私たちの直接的で、特権的なわかり方が不完全なわかり方だということを示唆しているのだろうか。わかったことを反省する際のわかり方は直接的ではない。自分が今赤色を見ていることを直接に意識し、知るにしても、それが本当に赤色かどうかの確認は直接的にはできない。それには経験的なデータや推論を必要とする。

特権的なら主観的である、と言ってもいいほどに、二つは結びついている。私の意識は意識であることさえ私にしかわからず、その意味で優れて主観的である。他人の意識の意識内容は私の意識の主観的なあり方ではわからない。問題はその主観的な内容を客観的にできるか否かである。主観的内容を客観的な形に翻訳することは他人にわからすためである。理想は特権的で、主観的な知識でも随時客観化ができることである。客観化の主要な道具は言語であり、話す、書く、読む、聞くことによって主観的な意識内容を言葉にすることである。

意識内容が自己と関わらない部分では公共的にわかるに越したことはないが、意志や感情が入ることによって、秘密にしておきたい部分が出てくるのも確かである。誰も自分の欲求や意図を時には秘密にしておきたいと思う。特に、誰かを好きだといったことはこっそり心にしまっておきたい場合が多い。だが、特権性や主観性は意識内容に応じて手心を加えるようなことをしてくれない。内容に応じて客観的な扉が開くのであれば、それに越したことはないが、そのような芸当は意識にはできない。そのため、それに近い形を実現するために倫理的な信頼性や嘘の排除に頼っている。このような条件付で、言葉による意識内容の表明がこれを実現してくれる。言葉は特権的で、主観的な意識内容の客観性を回復する手段である。

 

3火の使用:裏と表

自己意識の特権性は意識の主観性を刻印し、そのため懐疑論の克服といった大袈裟なことに立ち至ってしまった。「災い転じて福となす」には未だ至っていないが、同じような事柄を探してみると、思い当たるのは「火」である。

火の博物学というようなタイトルで、火の発見、火の利用、火による人類の進化等が語られてきた。火は人間にとって計り知れない役割を果たしてきた。火こそ人間と他の生き物を生物学的ではない仕方で区別する一つであり、火によって人間は動物から動物だけではないものに進化することができた。火は多くの想像や連想を生み出し、人間が自然を考え、自分を考える際に不可欠の役割を演じてきた。火はファンタジーの母胎であり、科学的探究も火への憧れを出発点にしていた。火と言語がなければ、人類は現在のように地球を支配していなかっただろう。

火による革命は社会を生み出し、科学技術は火の周囲にあるエネルギー、熱、電気といったものを通じて具体的な形を取っていった。水が果たした役割を火が果たした役割と比べてみればいい。さらに空気を加えれば、人間が知識をどのように捉え、どのように利用してきたかの見取り図が簡単に出来上がる。

火を支配し、思うままに操る術は、火に関する知識がなければできない。これは水や空気についても同じである。この知識は火を支配したい、それによって権力や富を得たいという欲望から出てくるものだが、このような欲望は通常盲目で、既存の知識を探すことは可能だが、新しい知識を生み出すことはなかなかできない。そこには知的な好奇心に基づく探求がなければならない。

肝心なのは、この二つの欲求を結びつけた点である。知的な好奇心は権力や富への渇望と一緒になることによって、現在のような科学技術に基づく世界が作り上げられた。これは理性と欲求の連動であり、理性的なコントロールが可能な形式を保っているが、実際には欲求にしたがって推移してきた。

火のもたらす不幸は、どちらかと言えば火がもたらす幸福に隠されてきた。火はヒトを人間に変えたが、変えた人間を滅ぼし、ヒトさえ絶滅させようとしている。火を使うことによるヒトの適応度(fitness)はどのように計算すべきなのか。隠れている不幸はヒトの適応度に加えられたことがない。絶滅に向かわす効果を火がもっているなら、火の発見はヒトのマイナスの適応(adaptation)でしかない。

道具を使いこなすことも同じで、典型的な道具である武器は簡単に人間を殺傷することができ、場合によっては絶滅させることさえ不可能ではない。人間は人間同士が競い合うことによって進化してきた。これは性選択(sexual selection)と同じような種内だけの選択で、自然選択による進化とは微妙に違った側面を持っている。それは他の種との競争では敗れるような適応であり、性選択と似た側面を持っている。

言葉や知性の使用に関しても、考えるまでもなく、それらが多くの不幸を生み出し、欠点を数多くもっていることがわかる。言葉の乱用、誤用、知識の悪用など枚挙に暇がない。役に立つと同時に、それが悪用される理由になっている。科学的知識の悪用や転用はそのような言葉や知識の利用に基づいたもので、一括して対処できるものではない。

 

4経験や意識の局所性と非局所性

 人が経験する範囲、意識でき、記憶できる範囲など限られた、僅かな部分に過ぎない。経験や意識ができないものの圧倒的な大きさに驚き、意識の小さなこと、つまり、局所性(locality)を肝に銘じるべきである。その一方で、思考の非局所性(non-locality)が言われ、物理的な時空の枠を超えて自由に思考が展開できる能力をもつと言われてきた。経験や意識の範囲は局所的で、大変限定されたものだが、経験や意識の内容は時空を超え出ることが容易にできる。この主張は何か納得し難いものを含んでいるように見える。経験や意識、そして記憶は局所的であると同時に、非局所的だと言われている。

 これは矛盾といった大袈裟なものではなく、ある観点からは局所的、別の観点からは非局所的と考えれば済むことである。経験できるものが限られ、想像できるものは時空を超えるということから、人間の心や思考がすばらしいものだという印象を与えてきたが、心がそのすばらしい能力を発揮するには、経験的な知見や知識を蓄え、伝統や文化としてそれらを位置づけ、公共的なものにすることが必要だった。限られた経験的データと知識がなければ、心の大空を自由に飛び回ることができるような能力は得られなかった。

 局所的でなければ正確で精緻な知識は手に入れることができない。大雑把でない、細かなデータを手に入れるには限定的な手法と物差しが不可欠である。これが局所性の利点である。家族に対する愛情が限定的だといって、誰もそれを非難などしない。人類愛は非局所的でも、それは家族愛ほど濃いものではないし、人類に限定されたものでもある。

 因果関係は通常局所的である。非局所的な因果関係とは、地球の裏側の出来事が瞬時に表側の出来事を引き起こすような関係である。このような因果関係の代表例は重力であるが、そのためか未だに重力の本質はよくわからない。通常の運動法則は局所的な出来事間の関係に適用される。因果関係が世界の減少変化の基本にある関係だとしたら、確かに意識内容は因果関係を破ることも、非局所的な出来事間に関係を発見することも可能である。その意味では意識内容は因果的でも、局所的でもなく、意識の移り行きは不思議な変化としか言いようがない。

 「生きる」が他の動詞と同じような動詞として使うのが局所的、あるいは厳格な使用と呼んだとすると、「生きる」には別の非局所的、あるいは寛容な使い方もある。それは人の行為を表現する動詞とは別格で、それら動詞の背後にあってそれらに意味を与える前提として使われる場合である。生きることが他のすべての述語の背後にあって、「食べる」、「話す」、「寝る」といった人間の活動を表す動詞が使用可能、有意味となるための前提の役割を演じている。そして自らも「生きる」という動詞の表現をもっている。生きるという前提が崩れ、死んでしまったのでは食べることもできないし、何より死ぬことさえできなくなる。すると、極端な場合として、

 

生きていなければ、死ぬことができない、

 

という文が、

 

生きていなければ、美味しいビールが飲めない、

 

という文と同じように出てくることになるが、これは奇妙な文であるどころか、正しい文である。さらに、死んでいるものが再度死ぬことはできないし、生まれていないものも死ぬことはできない。それゆえ、

 

生きているから、死ぬ、

 

と言う文が、したがって、つまらない意味ではあっても正しいことになる。[5]生きているためには、生まれなければならないから、

 

生まれたから、死ぬ、

 

という三段論法による結論が得られることになる。それゆえ、人が病気で死ぬか否かに無関係に、

 

生まれたから、死ぬ、

 

は正しい文ということになる。すなわち、病気で死んでも、病気で死ななくても、人は生まれたから死ぬのである。こんなことは当たり前のことでしかない。人は自らについて語る場合、自らの誕生を原因にして自分のその後の経緯を語ることを潔しとしない。だが、他人の出来事をその人の出生を原因にして語ることは平気である。より広範に生物学の中で語る場合、「生まれたから、死ぬ」といったことが真剣に議論される場合がある。これも文脈に応じて意味が変わる例に過ぎない。

 

 

[1] 純粋な直接経験も、純粋な間接経験も通常は皆無に近く、ほとんどすべての経験は過去の経験、知識、感情、意図等が絡み合ったもので、「経験そのもの」、「純粋経験」、「生の経験」と呼ばれてきたものは理想化された観念に過ぎない。

[2] どうして「実感」なのか。「経験」より「実感」がより適切だと感じるのは、感情移入や同情と同じことなのか。だが、美味しさの実感が具体的に経験した味であるのに対して、生きる実感はそうではなく、より複雑なものである。

[3] 「特権的にわかる」とは調査や実験を通じて確証されるのではなく、直接的、直観的に何かを媒介せずにわかってしまう、隠そうとしても隠せない形でわかってしまうことである。他人の意識内容は問わなければわからないが、自分の意識していることは自分には隠すことができない。

[4] 気づき、意識はそれぞれawareness, consciousnessと呼ばれている。be aware of という表現で意識していることを理解するといいだろう。

[5] どんな生き物も必ず「死ぬ」のであれば、「…ならば、死ぬ」という形の文は前件に何がこようと真になる。