知覚像、風景、そして世界像

  私たちは生存と生殖のために介入する、介入しなければならない。私たちの認識は生存と生殖のための方法の一つであり、認識の常套的で、日常的な現れが「知る」ことである。

 感覚器官を使った情報収集は生理的なレベルでの収集からスタートするが、クオリアとして私たちに気づかれるものがまず収集される。さらに、それを別の情報と併せて処理すると、知覚像という言葉で表現できるような内容をもつものが得らる。知覚像によって私たちは何を知覚したかがわかり、他人に知覚したものを伝えることができる。つまり、「知る、わかる」ことがここで成り立つ。さらに、その知覚像に感情や知識、そして個別的な経験の記憶が加わり、私たちそれぞれの個性的な認識、反応、対応が生み出されていく。クオリアの比重は処理される度に減り、風景として認識されるような知覚像では文学や絵画によって表現できるほどに変わり、さらに世界像となるとクオリアはほぼ言語表現に置き換わってしまう。直接に感覚器官に与えられる情報は次第に記憶や知識によって言語的な情報に変えられていくき、一般的になっていく。

なぜクオリアそのものが薄くなっていくのか。クオリアの中身が言葉で表現できれば、自他の区別なく理解でき、コミュニケーションという点では圧倒的に有利になる。風景や世界像は公共的なものであり、風景や世界像では入力情報が一定のやり方で既に編成されており、それが系統的な学習によって伝達されていく。私たちは風景や世界像について学び、それらを知識として記憶するのである。その結果、見ているものが何かを探る必要はなくなり、記憶している「どのように見えるか」を受け入れ、それを評価、称賛するのである。個々の風景や世界像は認識を享受することによって得られ、知識によって生み出されたものなのである。享受の仕方は美術や文学によって貪欲に求められ、世界遺産はいつの間にか享受するために保存されている。

 知識を追求し、新しい知識を見つけるという観点からは、知覚の断片化、原子化こそが重要で、知覚像の作成ではなくその一部を断片的に取り出し、分析することがもっぱら求められる。実に不思議なことだが、私たちが知りたいと望むものは知覚像そのものではなく、その一部、つまり断片に過ぎない。これが現場の知り方で、現場では全体的な俯瞰的知識は後回しにされる。

 風景としての知覚像は探求対象としての知覚像とは違っている。風景はつくられた結果、生み出された製品のようなものであり、それにメスを入れ、断片化し出すと、当事者がもっていた風景は壊れ、新しい風景ができるまでは混沌しかないことになる。これが経験レベルでのパラダイムシフトである。

 

知の発見と知の享受

 好奇心に導かれ、知覚を断片化して新しいものを見つけることと、知識を使って知覚を全体として愉しみ、味わうことは、知に関わる異なる二つの楽しみである。それらは「探究の楽しみ」と「享受の楽しみ」である。伝統や文化は探求の結果であり、それらの保存・維持は享受のためである。アカデミックな知識に関する態度の核心は探求の作法にあり、プラグマティックな知識への態度は消費の作法にある

 知覚の風景や風土といった概念は生活する世界での概念であり、生活を享受するための枠組みのようなものである。消費しながら生きる中で、私たちは生活の仕方をほぼ受動的に受け入れる。伝統や文化の受容は半ば強制的な教育によって行われ、それらの消費を愉しみ、味わうことを経験することに姿を変えて実行される。この巧みな戦略によって、伝統や文化に従うこと=消費すること=真・善・美の実現、といったことが「享受」によって可能になるのである。

 景色、風景として世界を知覚し、認識し、行動し、そして味わうことは典型的な消費の享受である。そこには生産的なものはなく、知識や情報を使って風景を意識的に知り、味わい、愉しむことである。知らなかったものを知るのではなく、知るように仕向けられたものを知ることが享受であり、それは用意されたおまけ、景品なのである。それが余りに魅力的な媚薬であったためか、予想以上の大成功をおさめたためか、享受の楽しみのために景色や風景がもっぱら賛美されることになってしまった。

 生活世界は本質的に消費の世界であり、私たちはその世界の様々なものやことを享受するよう仕向けられている。そして、知識が享受の策略の道具になっている。探求され、手に入れられた知識は享受に向けられ、生活を変えるために使われてきた。既成化された知識は消費の道具として利用される。私たちが何かを知り、考え、行動する場合のあらゆるところに知識が利用され、入り込んでいる。知性を使ったふるまい全体のほとんどは消費活動の典型なのである。

 パターン化された過程が楽しみの享受を保証してくれるのであれば、それをフルに使ったのが私たちの認識である。認識は学習され、パターン化され、巧みに享受の楽しみに置き換えられて、知ることの愉しみに姿を変え、無害な人間的能力として受け入れられてきたのである。

 

知の快楽

 脳がはまる麻薬、酒、煙草は脳にその味を知らせ、それに憑りつかせる。知的な中毒は脳だけでなく、感覚にも起こる。経験する脳は経験内容を憶え、その快楽を何度も享受しようとする。経験は快楽であり、苦痛であり、それゆえに、選択が起こる。プラグマティズムは感情といつも共にあり、知識を使うことは快楽を増やすことにつながってきた。

 なぜ人は知識を求めるか、それは知識が快楽をもたらすからである、これがプラグマティズムの解答である。知識は考えることを促す以上に愉しむことを私たちにもたらすのである。

 

風景の創出

 新しい理論による自然や社会の解釈が新しい風景を創生、創出する。創生には次の二つがある。

  1. 基本的なものからの創生
  2. 不変の基本要素の組み合わせの創生

ほとんどの場合、(2)であろう。相対論や量子論が世界中で認められておりながら、世界には実に多種多様な風景があり、それが(2)の創生を支持する。

 ところで、古典力学量子力学は異なる風景を創生するだろうか。当然、異なる風景を創生する。とても異なる風景で、それぞれの風景は重ね合わせて一つにすることができない。また、相対性理論も新しい宇宙風景を創生したことを疑う人はいないだろう。

 身体内部の風景は500年前とはまるで違う。脳の内部はもっと違う。高分子構造という風景はかつて存在しなかった構造、風景である。科学知識は実に多くの風景を創生し、風景概念そのものを一変させたのである。

 では、肝心の「心の風景」とは何なのか。心の風景とは意識状態のことだという考えに反対する人は少ないだろうが、意識状態という語がどのような内容の状態かではなく、単に状態であることが哲学では議論される機会が多いが、どのような意識内容かがなければ心の風景は無意味だろう。風景は過程ではなく、場面や見えである。

 

感覚の快楽、言葉の快楽

 感覚は快楽を供給し、それによって感覚主体の生存と繁殖を手に入れようとする。生存と繁殖のために感覚は快楽を使って私たちの適応を促してきた。

 ポルノ画像を見る快楽は生殖に直結している。春画はもっと生殖に直結している。快楽は一方に苦痛があることによって一層私たちを惹きつける。実は、言葉こそ快楽的なものはない。

 感覚的なものから中立に知覚することは果たして可能なのか?

 科学は感覚から独立できるのか。感覚の中から生まれた情報と感覚的でない情報に違いがあるのだとしたら、科学は感覚的なものを知ることができないのか。