決定論と自由意志(determinism and free will):その軌跡

自由意志の存在

 決定論は、すべての出来事はそれに先行する出来事によって完全に決定されている、と主張する。すると、ただ一つの未来が過去によって決定されており、偶然的なものが存在する余地はない。したがって、意志を決定するために複数の選択肢を前提する自由意志は、その存在が否定されることになる。  しかし、もし決定論のいうように、意志決定の自由が存在せず、すべての行為が因果的に必然的ならば、行為に対する人間の責任はないことになる。ここに、自由な行為の余地を求めて人間の意志決定を特別視し、自由な選択を可能にする非決定性の存在を主張する非決定論が唱えられる理由がある。

◆古代

論理的決定論はメガラ派の主張で、あらゆる命題は排中律により、真偽が決定されなければならないことから、現実に起こる出来事を述べる命題は、すべて、それが起こる前から常に真であったとみなされ、あらゆる出来事ははじめから起こるべく定められているという決定論が導かれる。アリストテレスは、人間の行為に左右される出来事に関しては、このような決定論が成り立たないと考えていた。彼は行為の初期条件として「随意性」と「不随意性」(強要と無知)をあげ、排中律に基づく論理的決定論の行為論への推及には懐疑的であった。

ストア派

同時代のストア派は、すべてが運命によって生じるとしながら、同時に自由な行為の余地をも主張しようとし、運命の不可避性を必然性と区別するとともに、原因に種類の区別を設けた。またエピクロスは、原子論的唯物論を採りながら自由意志の存在を自明とし、原因をもたない偶然的逸脱を原子の運動に認めることによって、その存在の余地を生み出した。

カルネアデス

アカデメイア派のカルネアデスは、すべては原因によって生じるが、人間の意志決定は先行する外的原因によらず、意志そのものの自然本性を原因とするゆえに自由である、と主張した。

◆中世:キリスト教

神学的決定論。中世以降は神の全知、全能、完全性を前提としてしばしば決定論が主張された。神が全知であれば、あらゆる真理は神によって予知されることになるから、決定論が容易に導かれるし、また神が全能であれば、神はあらゆる出来事を前もって予定することができるはずである。自由意志による人間行為に関しては、アウグスティヌスはこれを神の全知とは矛盾しないと考えたが、人間の救済は全能の神の選択によるものであるから、人間の意志には左右されないとみなしていた。中世では、神の全知・全能と人間の自由意志との関係が問われ、神の予知と予定による神学的決定論が唱えられる一方、永遠性と時間性との区別を根拠にして、人間の自由と責任の救済が試みられた。

キリスト教の時代に入ると全知・全能の神との関わりの下に、決定論の問題は新たな様相を帯びるにいたるが、これに応える周到な考察はアウグスティヌスのうちに見いだされる。彼は、神の予知と自由意志との関係について、神のものであれ人間のものであれ、およそ予知が意志の自由を排除することはないと論じた。

自由意志という人間的自由に関わる問題は古くて新しい哲学的な根本問題であり、絶えずある種の決定論との対決のなかで主題化されてきた。ヨーロッパ古代・中世哲学にあってそれは神の全能性の観念のもとで問題となる。神は創造主として世界のあらゆる出来事を把握し決定できる。そのなかには人間に関わるすべての出来事も含まれるので、人間はそのすべてを神によって決定されることになり、一見するとその限りで人間は自由な存在ではない。しかし、かえってここから人間的自由の探究が始まる。

◆近世 ・デカルトスピノザ

機会的決定論。物理的あるいは機械的因果関係にもとづく決定論は、古代においてデモクリトスエピクロスの原子論にみられるが、エピクロスは原子の運動の逸脱をみとめ、ここに自由意志の働く余地を見ようとした。近世の機械論では、デカルト物心二元論によって意志の非決定をみとめたのにたいし、ホッブズ唯物論に立って意志的行為といえども決定因をもつとし、自由というのはただその行為が外から妨げられないことであると解して、決定論と自由を両立させようとした。

近代における自然法則の発見が、この問題を先鋭かつ深刻化させた。神を究極原因とみて、自由意志を否定したスピノザに対して、ホッブズ、ヒューム、デカルトそしてライプニッツ等は、機械的な因果必然性と行為の自由の両立を図った。

精神と物体を実体的に区別して近代の二元論的哲学を立てたデカルトは、意志決定を純粋精神の働きであるとして物体的世界の因果性から独立させ、その因果的非決定性を強く主張する一方、神の予定との関係については問題解決を保留した。これに対してスピノザは、汎神論的唯一実体説に立って一切の出来事の生起の論理的必然性を主張するとともに、自由意志論を「国家の中の国家」を主張するがごとき論であるとして斥けた。しかるにライプニッツは、「逆が矛盾を含む」論理的必然性と、神による最善の世界の選択を前提とするゆえに「逆が矛盾を含まない」仮定的必然性とを区別することで、スピノザ説を論駁したが、意志の無差別的非決定性については、充足理由律に基づき微小表象説を援用してこれを否定した。

ホッブズ

ルネサンスをへて17世紀に科学革命の時代になると、こうした決定論的な神概念からは解放されたものの、それに自然科学の決定論的世界像が取って代わる。自然法則が世界のあらゆる出来事を決定するわけである。そうなると、人間の意識から行為まで人間に関わるすべてが全面的に自然科学(古典力学)によって説明可能になる。ホッブズの提示した機械論的人間像が現実味を帯び始めたのである。

この問題に関するホッブズの歴史的意義は、妥協のない唯物論を自由と決定の問題に適用したこと、その結果、行為に対して精神や主体のような非物質的対象が関与する余地を完全に排除したことである。唯物論的決定論と自由意志との軋轢については、すでにエピキュロス派などによって考察されていた。しかし唯物論と自由を両立させるために原子の「ぶれ(swerve)」という概念を導入して非決定論の余地を残したエピキュロス派と対照的に、ホッブズは、因果的決定性による説明のみを許容するという、説明原理に関する還元主義を貫徹した。そしてその徹底ぶりは、自由意志を持つ主体としての私たちの自己認識が正しいか否かと問う以前に、因果的決定性によって説明できない以上、そもそも「自由な主体」という概念自体が実は「理解不能」であるという主張にまで至らせた。こうして、それまで自明とされていた自由な主体という概念が本当に整合的に理解可能かどうかを問う、自由意志に関する「理解可能性の問題(the intelligibility question)」を引き起こすことになった。

ホッブズの次の意義は、このような徹底的な決定論を採用しながら、それでいて、なおかつ人間は自由であるとする、いわゆる両立論(compatibilism)を初めて明示的に主張したことである。彼によれば、私たちが整合的に理解できる「自由」の概念とは、「強制からの自由」以外には存在しない。そしてそのような自由であれば、因果的決定性と両立すると彼は考えた。すなわち、決定論と自由は両立しないという自明の前提が崩され、両者の関係が初めてひとつの「問題」いわゆる「両立可能性の問題(the compatibility question)」として捉えられることになったのである。

しかし、決定論と自由が両立可能であるという一見過激に見える主張も、ホッブズが徹底した唯物論者であることを踏まえれば、実はごく自然な帰結だったとも言える。というのも、彼が意味する自由とは、例えば自由落下する石でさえもまさに「自由」であると言えてしまうような、骨抜きされた自由でしかないからである。極言すれば、彼の両立論は、自由意志を持つはずの私たちを、いわば石同様の存在者と見なすことによって成立するものであった。これは、完全な唯物論的決定論者であるホッブズにとっては、何ら抵抗のないことであった。問題は、果たして私たち自身もそれを受け入れられるかということである。自由とは、そこまで空虚なものにまで貶められてよいのだろうか。こうして、自由についての「意義の問題(the significance question)」も、結局ホッブズによって顕在化されたことになる。

・ヒュームとカント

心理的決定論ホッブズと同様な考え方は、ロックやヒュームの経験論的心理分析にもみられる。ロックによれば、自由な行為とは、意志によって選択されるそれであるが、意志を決定するのは好みや欲望である。ヒュームにとっては、一般に因果関係は現象の恒常的継起にすぎないが、人間の自由意志による行動も、そのような恒常的要因は見だされるものであり、これなしには道徳も成立しない。しかしカントが自然法則と道徳法則を区別し、道徳的責任は同一条件のもとでの別な行為の可能性を予想することを指摘したように、道徳的領域における決定論と自由の問題はいっそうの困難を含むものと考えられる。

カントは二世界の共存と人間存在の二重性のテーゼに基づいて、自由を非決定性ではなく、道徳法則による自己決定性と解し、自由と決定論との矛盾を解消しようとした。

カントはそれを『純粋理性批判』のなかで第三アンチノミーとして定式化する。テーゼは「自然法則に従う因果性が唯一の因果性ではなく、それ以外に自由の因果性を想定する必要がある」と主張し、アンチテーゼは「世界のすべての出来事は自然法則に従い、それゆえに自由は存在しない」と反論する。こうして自然科学の提供する世界像のなかに人間的自由をどのように位置づけることができるのか、あるいは両者の折り合いをどのようにつけるかという自由意志と決定論をめぐる問題の枠組みがつくられた。

◆現代の決定論

カントの場合は、アンチテーゼを現象界に、テーゼを叡智界に振り分けるといった二世界論的な両立論であり「柔らかい決定論」である。それに対して、人間の自由か世界の決定性のどちらかのみを肯定するのが「自由意志説」であり、世界の決定性のみを肯定するのが「固い決定論」である。

決定論と自由意志との両立不可能性を唱える論者と両立可能性を唱える論者とが対立し、現在も論争が続けられている。両立不可能論には、1)自由意志擁護の立場に立ちながら、〈自然法則と過去の世界の状態との連言が現在の行為を含意する〉という論点に依拠して新たな論理的決定論を呈示し、両立可能論を論駁することによって決定論を斥けようとする、ヴァン・インヴァーゲンの「帰結論証」、2)デカルト的非決定論をカルネアデス的な行為者内在原因の主張と結んで、因果法則的な決定性を免れた第一原因としての自由意志の存在を唱え、人間の責任と決定論ばかりでなく、また単なる非決定と両立不可能性をも回避しようとする、チザムの「行為者因果説」などがある。  これに対して両立可能論には、3)ヒューム的決定論を発展させ、自由意志を強制や拘束が排除された随意性に帰着させた上で、自由意志が前提する選択可能性については「条件法分析論証」に従って、〈もしも人が他の仕方で行為することを選択したならば他の仕方で行為したであろう〉という意味に還元するエアーの議論、4)自由な選択の余地を、人間の認識が有限であることにより開かれる、主観的で相対的な「認識的可能性」に求めるデネットの議論、などがある。

 

[行為の決定論と非決定論]

因果的な連関に関して古来議論されてきた考えは、決定論:因果的な事実を完全に記述できれば、何が将来生じるか決定できる、非決定論:現在の完全な記述が与えられても、将来に二つ以上の可能性を残す、の二つに大別できる。因果的決定論はあらゆる因果的に関連する事実が与えられれば、将来はただ一つだけ決まると主張する。すべての物質変化が決定論的で、心も物質であれば、人間の行為は物理的に決定されていることになる。

 

環境、遺伝子 →A 心(信念+欲求)→B 行為

 

実際、古典力学は運動変化についての決定論を主張してきた。この世界観は20世紀初頭まで信じられてきたが、量子力学の登場と共に非決定論的な世界観が浸透し始めている。一方、物理学以外の領域では人間の行為の自由選択、意志の自由が古くから認められてきたため、19世紀には社会科学で既にその自由の入った出来事や状態を確率・統計概念を用いて取り扱っていた。この二つの流れと心の特徴づけは上述のパズルとなって私たちに突きつけられている。心が物理的なものかどうかを未定のままにしておいても、次のような二つの選択肢の間で決断を迫られることになる。

 

決定論が正しいなら、確率は私たちの知識や情報の欠如を示すだけで、主観的なものになる。

決定論が誤っているなら、確率は世界についての客観的な事実を述べていることになる。

 

[非決定論と自由]

では、非決定論は私たちを自由にするのか。それは私たちに自由を保証する理論的な根拠になるのだろうか。世界が非決定論的なら、上述の行為の因果連関は次のように修正しなければならなくなる。

 

環境、遺伝子、偶然 (chance) →A 心(信念+欲求)→B 行為

 

この図式通り、私たちの信念と欲求が環境、遺伝子、そして偶然によって決まっているとしてみよう。決定論が私たちの自由を奪うなら、偶然もやはり私たちの自由を奪うことになる。私たちが自ら自由に決定するのではなく、偶然に左右されるままになるというのは、私たちにとっては厳格に決定され、自由の入る余地がない場合と大同小異である。偶然は私たちのコントロール外のものであり、私たちの自由な決断は上の図式では入る余地がない。偶然を認めても、それだけでは自発的な行為は何ら説明ができないのである。

因果作用は決定論が成立しない世界でも可能である。非決定論的な世界でも因果作用は存在する。原因と結果の間に確率的なつながりがある場合を考えてみればよい。決定論的でない因果連関が想像できるだろう。つまり、因果性と決定論、因果性と非決定論はそれぞれ両立する。したがって、真の問題は決定論と自由が和解できるかどうかではなく、因果性と自由が和解できるかどうかである。量子力学が決定論は誤りであると主張しても、因果性そのものまで否定はしていない。このような意味で、因果性こそが自由を考える上での鍵である。

ここで、決定論と運命論 (fatalism)の区別も重要である。決定論は、過去が異なっていたとすれば、現在も異なっていただろうという考えを排除しない。決定論はまた、現在私がある仕方ではなく別の仕方を選ぶならば、私は未来に起こることに影響を与えることができるという考えも排除しない。しかし、運命論はこれを否定する。現在あなたが何をしようと未来はそれとは無関係に決まっているというのが運命論の主張である。つまり、決定論と運命論はほとんど正反対のことを主張している。(3章を参照) 運命論は私たちの信念や欲求が無力であることを主張するが、決定論では信念や欲求は因果的に私たちの行動をコントロールできることが主張されている。