深川からの旅:芭蕉の風狂

 huukyouは風狂である。 山本健吉唐木順三保田與重郎幸田露伴内田魯庵、そして芥川龍之介と、実に多くの人が芭蕉を論じてきた。芭蕉が成し遂げたことは、貫之、定家、世阿弥、宗祇、契沖という歌人に続く日本語改革だった。発句の自立としての俳諧、いわゆる「さび」「しをり」「ほそみ」「かろみ」の発見、推敲を重ねるというは編集哲学も、そこには含まれている。

 芭蕉の旅の略歴を確認しておこう。芭蕉は1644年に伊賀(三重県上野市)に生まれ、江戸に出るのは31歳の時、翌年「桃青」を名のる。38歳、深川に居を移し、翌年には「芭蕉翁桃青」と書き、芭蕉の俳号が使われる。12月の江戸の大火で類焼、1683年40歳に新築の芭蕉庵に移住。

41歳「野ざらし紀行」(東海道、伊賀、大和、尾張、木曽、甲斐)

44歳 8月曾良と宗波を伴い、「鹿島詣」参禅の師仏頂和尚、10月「笈の小文」(伊賀、伊勢、吉野、大阪、明石)

45歳「更科紀行」(更科、善光寺、碓井峠)

46歳「奥の細道曾良、3月27日(陽暦5月16日)8月21日大垣で終了。

48歳 京都、大津、伊賀など歩く。江戸に戻る。

49歳 新築の芭蕉庵に移住。 51歳 5月に江戸をたち、伊賀、大津、京都へ、大阪に向かう途中で病、10月12日に大阪御堂筋の花屋仁右衛門方で死去

 哲学といえば、デカルト、カント、ショーペンハウエルと言われ、俳句といえば、芭蕉、蕪村、一茶と言われ続けてきた。哲学がこの3人に尽きるどころか、この3人は哲学の氷山の一角にすぎないように、俳句もこの3名に代表されるとしても、彼らがすべてであるはずがない。だが、いつでもどこでも俳句といえばこの3名が顔を出す。だから、俳句は伝統芸術で、古き俳句を鑑賞し、楽しむのが私たちという俳句観が普通になり、かつてはそれが第二芸術論として批判された。

 だが、現場ではこれらの評価は役立たない。デカルトやカントの考えは今でも一部有用であるし、俳句を実際につくる場合には3名はあくまで過去の作家に過ぎない。それぞれにどのような文脈で3名の哲学者や俳人を扱うかによってすべては変わってくる。今の私の関心は「芭蕉と旅」である。芭蕉の背後の思想、教養、知識が彼の文学をどのように生みだしていったか、それを説く鍵の一つが「旅」である。略歴を見てほしい。深川が旅の起点となり、約10年間旅に明け暮れる人生だった。

 

奥の細道行脚之図」森川許六画(天理大学附属天理図書館所蔵)は「おくのほそ道」を執筆中の元禄6(1693)年春に門弟・許六が描いたもの。芭蕉存命中に描かれた作品であることから、旅姿が忠実に描かれ、芭蕉の晩年の顔立ちもこれに近いと言われる。画像は転載禁止だが、簡単に検索できる。

 日本文化は、「和」をどのように発揮するかが大切で、それは「漢」との対決を含んでいないとうまくいかない。芭蕉はそれをわかっていた。俳諧が滑稽であるだけでは先が見えていて、そこに漢詩が求められた。延宝8年、芭蕉は江戸市中を離れて隅田川対岸の深川に移り住んだ。これが最初の芭蕉庵になった。この転居は俳諧全史を眺めても、まさに一大転機だった。この転機は、芭蕉が西行を、そして能因を学んだことにある。西行の「侘び」に気がつく。許六は『韻塞』(いんふさがり)に、「旅は風雅の花、風雅は過客の魂、西行・宗祇の見残しはみな俳諧の情(こころ)なり」と書いた。  ここに芭蕉俳諧は「滑稽」から「風雅」へと移っていく。芭蕉は卑俗を離れることを決断した。貞享元年(1684)8月、芭蕉は初めての旅に出る。「野ざらしを心に風のしむ身かな」と詠んで、能因と西行を想いながら、東海道の西の歌枕をたずねた。この「野ざらしを」の句は最初の芭蕉らしい句である。

 能因と西行について寄り道しておこう。能因は平安中期の歌人で、本名は橘永ヤス。官吏を辞して出家し、初め融因のち能因と改める。藤原長能に和歌を学び、のち歌学書「能因歌枕」を著す。中古三十六歌仙の一人。摂津の古曽部(大阪府高槻市)に居住し古曽部入道と称する。風狂の逸話が多い。旅の歌人と評され、二度の奥州下向を始め、諸国を旅した。白河の関・白河神社本殿左側に古歌が刻まれてた歌碑がある。真ん中が能因法師の次の短歌で、            都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関後拾遺集白河の関が有名になったのは、この歌の功績。能因法師はこの歌で、「霞みたつ春に都を立ったのに、白河の関に着いてみると既に秋風が吹く季節になっていた」と、陸奥白河を強烈に都の人に印象づけた。能因法師の歌は、白河の関を一流の歌枕に伸し上げるのに大いに役立ったが、後年『古今著聞集』(1254年)の中で、能因は奥州へは行っておらず、京にこもって日焼けをし、いかにも現地に行って詠んだように見せかけたものだと述べられた。 

 高橋英夫著『西行』(岩波新書)に拠って西行を見てみよう。1118年生まれ。佐藤義清。平清盛と同い年で北面の武士として同僚だった。父は左衛門尉(六位相当の官職)。1140年、23歳で出家した。その理由は17歳年上の待賢門院との悲恋とも言われる。出家遁世は西行の出発点であり、悩みは出家によってさらに拡がり、生涯背負ってゆくことになった。1144年、27歳のころ陸奥・出羽の旅に出た。直接の目的としては、西行よりもおよそ200年前の歌人能因法師の旅路を辿り、歌枕の探訪の修行にあった。およそ200年前の先人能因はこの地を訪れたのだ、と西行が信じたように、のちに西行に遅れること500年の旅人芭蕉も、西行に対して同じような思いをもったことである。

 みちのくの旅から4、5年ののち、西行は高野山に入る。以降たび重なる出入りをくりかえしつつ、30年にわたる高野山居住時代がはじまる。崇徳上皇の崩後4年1168年、院の慰霊のため、および真言の祖弘法大師の跡を訪うために、中国地から四国へ旅立った。1180年(63歳)、高野山から伊勢にゆき、二見浦の山中の庵に起居した。源平戦乱の時世を避けての移住といわれる。1186年(69歳)、西行は伊勢から東国へと旅立った。目的は1180年平重衡によって焼かれた東大寺の再建を目指した重源上人から砂金勧進を依頼されたためである。

 この時期、西行は、自作の三十六歌合を二巻編纂した。1190年2月16日、河内国弘川寺で、かねての願い通り満月の下に往生をとげた。1205年に成った『新古今和歌集』には、西行の94首が入集。こうして『新古今集』最大の歌人の地位を占める。

 さて、芭蕉に戻ろう。

 野ざらしを心に風のしむ身かな

と、野ざらしの我が身を想像しながら、漂白の人生にライフワークを見つけたのは芭蕉だった。この時、芭蕉41才。はっきりと漂白の旅で自らの命が尽きることを覚悟したことになる。この句の精神を持って、芭蕉は、何ものにも左右されない絶対の価値を旅のなかに探しつつ、命の限り歩き続けた。当時、芭蕉は、俳諧という新しい道を自らで歩いた開拓者だったが、彼が目指したは道は、かつて様々な道の達人たちが、歩いたと同じ一本の細き道だった。彼は病みながら、日本全国を何かに憑かれたように歩き続けた。誰の言葉も彼の漂白への思いを止めることはできなかった。

 『野ざらし紀行』執筆の1年後、芭蕉は深川で「古池や蛙飛こむ水の音」を詠んだ。当初は、「古池や 蛙飛ンだる 水の音」、「山吹や 蛙飛込む 水の音」だったのが、最終的に「古池や蛙飛こむ水のをと」に変わる。

 蛙はよく鳴くことから、音に結びつくが、その蛙が池に飛び込んでの音である。哲学とは存在論だというのに対し、哲学は認識論だというのに似ている。ここにはパラダイムシフトがある。芭蕉の『おくのほそ道』とは、誰もまだ見たことのない俳諧紀行文の企てであり、新しいパラダイムの提示を狙っていた。それゆえ、このような俳諧遊行があると読者が感じることができれば十分だった。  月日(つきひ)は百代(はくだい)の過客(かかく)にして、行(ゆき)かふ年も又旅人也。舟の上に生涯(しょうがい)をうかべ、馬の口をとらへて老いをむかふる物は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂白の思ひやまず-。  俳人芭蕉が綴った『おく(奥)のほそ(細)道』冒頭の一節である。この書き出しが余りにも有名であるのは、ただ文体の歯切れがいいとか、名調子であるというだけでなくて、そこに芭蕉の「旅」の哲学があり、その生涯を旅に求めた結論とでも言うべき、過客の魂を述べたものであるからにほかならない。  元禄2年(1689)、芭蕉48歳。随行の、門人曽良41歳。芭蕉がみちのくへの旅を思い立ったのは、歌人西行や能因の放浪の境涯を慕い、みちのくの歌枕を訪ねることにあった、と言われる。このことは、すでに多くの人が指摘している通りである。つまり片雲の風に誘われ、能因の「都をば霞と共に立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」(『後拾遺集』)といった歌心を、みちのくの空に追体験したい。それが『ほそ道』の旅の動機であった、というのである。旅は、旅する人にとって、新しい土地の風景、そこでの人との出会い、その地方の歴史への感動を眼前に展開してくれる。芭蕉の風流心がそれに大きく震動して、筆を執り、出来上がったのが『おくのほそ道』で、それは正しく「風雅の旅の道しるべ」である。  『おくのほそ道』は、紀行文とはいっても日時や天候・旅程の正確を期して綴ったものではない。それは第二義的なことに過ぎない。しかも『曽良随行日記』の記述と比較して見ていくと、随所に改変・虚構のあることがわかる。後日、筆を加え推敲(すいこう)を重ねた、これはむしろ創作・散文とみなした方がいいのかもしれない。  いま、旅中での発句を後に改作した、二、三の例を掲げてみよう。

 あなたふと木の下暗も日の光  あらたふと青葉若葉の日の光

あの有名な立石寺の蝉の句も、はじめは、

 

山寺や石にしみつく蝉の聲 であったものが、後に書き直し、作り直して、 閑(しずか)さや岩にしみ入(いる)蝉の聲 の名句となる。  それでは文章についてはどうか。行く先々で思うままに筆を執り、その草稿をいつも頭陀(ずだ)袋の中に入れていて、また思いつくまま書いては直し、直しては書きしたものであろうと、これまもた多くの場合、そう言われる。しかしこの点、芭蕉が推敲し創作し得た状況は、もう少し限定することができるのではないだろうか。  江戸を発つとき芭蕉が持っていたものは、紙子(かみこ)一衣・浴衣(ゆかた)・雨具、それに墨・筆などばかりであったという。そしてひと月半、5月13日、ようやく「心ざす」平泉に到った。  三代の栄耀一睡(えいよういっすい)の中(うち)にして、大門の跡は一里こなたに有(あり)。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山(きんけいざん)のみ形を残す。先(まず)高館(たかだち)にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河(たいが)也。衣川は和泉(いずみ)が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入(おちいる)。康(泰)衡等が旧跡は、衣が関を隔(へだて)て南部口をさし堅め、夷(えぞ)をふせぐとみえたり。偖(さて)も義臣すぐって此城(このしろ)にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と笠打敷(うちしき)て時のうつるまで泪(なみだ)を落し侍りぬ。  夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡  高館に立った芭蕉は、眼前の夏草と兵(つわもの)どもの夢とを重複させて、平泉の歴史・義経の最期を回想詠嘆したものである。言うまでもなく、ここには杜甫の「春望」の「国破山河在、城春草木深」が土台としてある。同じように冒頭の、「月日は百代の過客にして」の文は、李白の序「光陰者百代之過客、而浮世若夢」を引いたものであった。『ほそ道』の随所で、それは指摘できる。眼前の風景・感慨を、古事・古歌・漢詩と重複させてそれらの字句を採り、その上に、〈芭蕉の世界〉を展開しているのである。芭蕉漢文学の要素がそれを可能にしたことは勿論であるが、やはり漢詩・和歌集の古典がそばにあったのではないだろうか。旅の後のある期間、元禄6年ごろまでの間に、ある一定の場所で、陶淵明や蘇東坡の詩も、西行の『山家集』も『千載集』も座右に置いて推敲の筆を重ねたものであったと思われる。漢詩調の松島の描写も、そうして出来たに違いない。  その推敲のなかで、「兼ねて耳驚(みみおどろか)したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし」と、三代栄耀の形見をとどめる中尊寺では、金色堂だけでなく、実際には観なかった経蔵も観たかのように作って書いた。事実よりも、作品として平泉描写の装いを大切にしたのである。

 変化する視点の中で不易のものを求め、それを使って流行のものを表現する、それには旅という不易流行の状況を生み出す設定が不可欠だったのである。

 

荒海や佐渡によこたふ天の河(元禄2年、46歳) 病雁の夜寒に落ちて旅寝かな(病鳫の夜さむに落て旅ね哉)(元禄3年、47歳)

 

 病雁の句は『猿蓑』巻之三秋に載る。幸田露伴『評釈猿蓑』では、次のように記されている。「晩秋のころ、遠い旅の空を列を組んで鳴きながら渡って来た雁は、夕暮れ、塒(ねぐら)の湖沼の上に来ると、急に一羽ずつ回転しながらばらばらと垂直に落下する。これが落雁で、その疲れ切ったようなドラマチックな動きには、これが自然の生態とわかっていても、見るたび何か切ない思いに駆られる。」

 「夜寒」に生きる、病む、のは雁も人間も同じ。そこに深い共感があるのだろう。病雁の読みは「ビョウガン」が主流であるが、其角の『枯尾花』では、

   病ム鴈(やむかり)のかた田におりて旅ね哉

と訓読している。

 「荒海や」の句は叙景句に見える。地上には押し寄せる激浪、空には無窮の彼方に大きく流れる銀河と、天と地の自然の大観を掴んでいる。だが、そのことによって自然に対比させられた人間の哀れを感じさせる。「病鳫の」の句も、病気らしい雁(かり)が、秋の夜寒に、近くに降りて旅寝をする気配を詠んだ叙景句だが、それは病勝ちで漂泊を続ける自分の旅寝の訴えでもある。 

 中村草田男は「能なしのねむたし我を行々子」が芭蕉の作品中でも無類に好きなものと評価する。元禄4年48歳(『嵯峨日記』)の句で、けだるい初夏の一日。終日何をすることもない能無しの自分はただ眠いだけ。それなのに行々子が仰々しく鳴き立てて眠らせてくれない。 ※「行々子」はヨシキリ。夏は昼夜、ギョギョシとやかましく啼く。

 さて、上の二つの句と行々子の句は一人の芭蕉がもつ二つの異なる世界を表わしている。楽しくも悲しい世界、厳しくも優しい自然が隣り合っている。

 

 以下は蛇足。「今はまだ 夏草だらけの 晴れ舞台」というほどに、我が家の周りは空地が多い。それらの多くがオリンピックの競技会場になる予定だが、まだ建設工事は始まっていない。僅かに新設の4会場を結ぶ道路ができたくらいで、その道路もまだ開通していない。草の生い茂る空地をみると、なぜか芭蕉の句「夏草や兵どもが夢の跡」が浮かんでくる。

 

稲妻に 悟らぬ人の 貴さよ

寺にねて 誠がおなる 月見哉

 

も合わせて、芭蕉をまねて句をつくってみよう。

 

夏草や 強者どもが 夢を追い

夏草や 強者どもが 夢の明日

夏草や 若者たちの 夢舞台

 

神仏に 帰依せぬ人の 貴(尊)さよ

教会で 誠がおして 祈るなり

 

このようにパロディをつくるとそれぞれの句の詠みたいことの真意が見えてこないだろうか。