プロットと因果課程

プロットと因果過程(物語と現象)[1]

自由と決定の議論には、プロットと因果的な変化、出来事の関係をはっきりさせることが不可欠である。物事が起きる、事件が起こる、そして、それがどのような結果を招くか、といったことを考える場合、どのような経緯で進行するかをプロットとして理解するのが私たち人間である。物語と因果過程は別のものというのが一般的な理解かもしれない。だが、少し冷静に考えれば、因果過程は典型的にプロットを含み、構造ではない。だが、Block Universe Modelに見られる一部の構造的理解とそれを使った物理世界の解釈は問題がないのだろうか。構造をわかることと因果過程をわかることの違いは何なのか。

あることが起こり、それが変化し、ついに決着がつく、といった言い回しに何の不思議も感じないのは、それが現象の起こり方だと私たちが思っているからである。因果的なプロット、論理的なプロットと、プロットにもいくつかの種類がある。だが、プロットとして現象や出来事、事態を理解するという点は共通するものである。

論証や証明はプロットをもつだろうか。証明すべき命題をどのような順番で証明していくか、ある主要な定理の証明のためにどのように個々の命題の証明を組み立てていくか、といった事柄にはプロットが必要に思われるが、個々の証明の中にはプロットはない。先にプロットがあり、それに合致するような命題が探され、その命題の証明は演繹的に行われるというのが普通の方法だろう。

私たちがどうしてプロットとして物事を理解するかという理由の一つは、私たちの経験の仕方にある。時間的な経過、流れの中でなされる経験は、出来事を因果的な変化として捉える形式になっている。因果的な変化とは、物事が並列して起こるのではなく、直列式の出来事の系列がどのような系列かを含めて、経験として捉えられる。経験とは物語的な経験であり、私たちが自らの経験を理解する自然な仕方なのである。日常の経験は因果的な経緯の経験であり、物語として時間的な経過を経験する。それゆえ、日頃の経験と合致する仕方が一般化されて、世界で起きる出来事を因果的、物語的に理解されている。これは、経験からの学習成果であると言ってもよい。

 

因果性とは何か、因果系列の決定性とは

因果過程が分岐を含み、樹状の構造で逢っても、ある出発点から枝を辿ってゴールに達することができるようになっている。分岐は因果的ではない、というより因果性とは異質の概念である。分岐は複数の因果過程の併存を許すことによって成り立つ概念である。枝分かれしないで時間発展する系は決まる過程だけで記述し、説明することができる系である。分岐や選択のある系には因果的でない要素が含まれている。その非因果的要素が儒夕と繋がり、自由な選択がプロットを生み、それが巧みに組み合わされて物語になる。

決定性と自由は分岐的過程では両立するどころか、二つとも不可欠である。一つの過程を決定論的に説明する法則では分岐まで説明することができない。それを敢えて考えれば、非決定的な説明が出てくる。モデルからみれば、決定論的な理論は最初から一つの過程を説明するためのものであり、分岐構造は別の理論によって説明することが行われてきた。

 

分岐が実在し、両方の過程が共存する場合:遺伝法則に従う世代交代

分岐が在っても、片方だけが実現する場合:自由意志による選択とその後の行為

 

これら二つの分岐過程は本質的に異なり、それが問題を厄介にしているようにみえるが、実はこれら二つの分岐過程は同じ一つのもので、見方の違いが二つに見せているに過ぎないのである。二つの選択肢の一つが自由意志で実現する場合、ある自由意志がAを、別の自由意志がBを選択するなら、AとBの過程が共に存在するが、ある自由意志は特定の機会に二つ同時にはもつことができなく、いずれか一つの自由意志をその機会にもつなら、片方の自由意志により起こる過程は見えないことになる。

物語は、私たちの自由意志が働くことによるプロットの存在と、因果的な過程が上手く組み合されることによって、私たちを惹きつける力を獲得することができる。その力は、物語がこの世界の出来事と同じようなことであり、いつどこで起こってもおかしくない、但し架空の出来事であることから来ている。因果過程は物理レベルの出来事の特徴であり、時間的な出来事の系列である。そこには自由意志が働く余地はなく、したがって働いた痕跡はどこにもない。

 

因果過程と演繹過程

 どんな演繹過程も、演繹が人間あるいはコンピュータによって実行される場合は、因果的な過程として実現される。一つの演繹過程が複数の因果過程によって実現されるとしても、物理的な過程はすべて因果過程なのだろうか。あるいは、演繹は過程なのか、それとも演繹は過程ではないのだろうか。基本的な言葉遣いのような話になるが、現象や運動が過程かと問われれば、怪しくなってくる。走る、飛ぶという運動は過程なのか。飛び上がって行く過程で次第に身体を慣らしていくというような表現、瞬時に変わる過程という表現、これらの間にどんな違いを見出すことができるのか。

 

過程でない出来事

 過程がない出来事が過程でない出来事であるが、過程があるとかないとかは時間の経過があるかどうかにほとんど等しいように思われる。何かが変化していく過程と瞬時に起こる出来事は、いずれも変化とその扱いに関わっている。

 

変化の無矛盾性

 

最も基本的な枠組みが物語的なのか構造的なのかは、世界、存在、知識、人間をどのような配置で捉えるかに決定的な役割を果たすことになる。因果的、論理的、数学的、構造的の間の複雑な関係から、あれかこれかではない仕方で、神話と科学の絡み合いが意外にも私たちの世界の関係を考える際の核心にある事柄の一つである。

 

[1] 物語の基本はプロットの存在にあり、どんな現象、出来事も因果過程からなっている。