感覚質の経験と知識の経験

 色の感覚質を知覚する経験と、色に関する知識を学習し、理解する経験とでは、どのように異なるのであろうか。こんな質問をすると、一目散に違いだけを取り上げることになりかねない。というのも、二つは根本的に異なっているという考えがずっと横行しているからである。だが、一歩立ち止まって、経験として共通するものは何か、という問いを考えるのも面白い筈である。赤を初めて経験するメアリーは既に色の知識を学習している。[1]色について特別に学習した意識経験をもたないで色の知覚経験をするのが普通のため、残念なことに誰も赤色の初体験を覚えていない。色についての知識を一切もたずに色を知覚すると、人はどんな反応をするのだろうか。きっと発達心理学の研究課題となってきた筈だが、私は知らない。

 メアリーのような成人の場合であれば、この問いはそれ程厄介な問いではない。色の強烈な刺激に心奪われるかも知れないが、何しろ最初の経験であるため、その刺激が何かは咄嗟にはわからないだろう。文字通りの初体験であり、得体の知れないものを見たことになる。となれば、人間の本性から当然の如く好奇心が直ぐに生まれ、その刺激の正体解明へとメアリーを駆り立てることになる。実際、私たちの知的な好奇心は謎を含んだ強烈な知覚経験に対して鋭く反応するようにできている。それゆえ、正体不明な色の経験こそが色への好奇心を生み、色の知識獲得をもたらしたのではないか。

 色の知覚の経験、色の知識の経験、いずれにしろ、共通の「経験」とはどのようなものなのか。つまるところ、「経験とは一体何か」という問いである。「何かを経験する」をそれと同じ、別の表現に書き直すことができれば、それが解答ということになるのか。情報の獲得が経験には付き纏う。異なる経験は異なる情報を含むかと言えば、そうではない場合が結構ある。赤色の経験は違った情報を通じて経験することができる。赤信号、赤リンゴを見るのは違う情報の経験でも、見た色が赤で同じ色だという経験内容をもっている。だから、同じ赤色の経験をしたことになると言って構わない。個々の経験はトークンであり、物理的な出来事であるが、それら経験の内容はその出来事の意味であり、それゆえ、タイプである。知識は基本的にタイプであるのに対し、情報はトークンである場合がほとんどである。[2]

主観的経験、感覚質の経験はいずれも経験のトークンとしての側面についてのものである。「主観的」なのは内容ではなく、経験の生じ方である。主観的経験の内容は主観的である訳ではないし、感覚質のもつ情報内容は別の表現形式の知識に置き換えることができる。タイプとしての経験は経験内容である。トークンとタイプの違いは、物理的な出来事としての経験そのものと意味としての経験内容の違いである。

経験そのものという表現には様々な意味があるが、経験をありのままに実在的なものとして捉えるのであるとすれば、(物自体が実在する物であるように)経験を出来事として捉えることであり、客観的な立場からの経験の把握と言える。経験するという出来事、事実として捉えることは、経験をトークンとして捉えることであり、経験の内容には関知しない捉え方ということになる。経験内容は言葉で表され、表象されるものであり、明らかにトークンではない。経験が唯一性をもち、ユニークだと言うのは、トークンとしての経験の特徴であり、タイプとしての経験の特徴はその表象内容である。何かについての経験、何かについての表象という志向性は、経験の内容に関する性質である。感覚質の知覚経験はトークンの側面の経験であり、色に関する情報内容、知識はタイプの側面の経験である。このようにトークンとタイプの二つの側面に経験を分けて考えるなら、メアリーの色経験に関して次のようなことが主張できるのではないか。メアリーには色のトークン経験はなかったが、色に関するタイプ経験が豊富にあり、それら二つの経験が色の感覚質の刺激経験を通じて関連させられ、後に同じものということがわかった、というのがJacksonの挑戦への穏やかな解答になるのではないのか。

トークンとしての経験は経験するという出来事であるから、経験すると同時にトークンが存在していることになるが、タイプとしての経験は経験内容であり、出来事としての経験の生起とは独立している。それゆえ、暫く経ってから、どのような内容であったかがわかるということが普通である。トークンの内容の同定は時間的に後になるのが通常のことである。それゆえ、いつの時点でどのような経験か、何と同じ経験か、何と異なる経験か、といったことが経験した後に暫くしてわかってくる(未知のままに残るものさえある)。

 

経験をどのようなもの(タイプあるいはトークン)として受け取るかに応じて、メアリーがした経験がどのようなものかへの解答は異なってくる。トークンとしての経験、出来事としての経験ではメアリーは初体験をしたのであり、タイプとしての経験では、後日それはメアリーのもっていた色の知識と合致する、色の経験であることがわかったということになれば、初体験ではなかったということになる。

 

それまで経験していない刺激がいきなり与えられれば、とっさにそれが何かはわからないのが感覚質の刺激の特徴ではないだろうか。その意味でメアリーは得体の知れないものを初体験したと言っていいだろう。トークンは内容に関わらないが、「わからない、何だ」という反応は惹き起こし、それを内容に踏み込む一歩手前の反応と考えることができるだろう。わからないという認識的反応をもつ、トークンとしての色経験は、それまでにない経験としてメアリーの好奇心を大いに刺激することになる。一方、タイプとしての経験は経験内容が主人公になるものであり、いつ、どこで、どんな風に経験するかではなく、経験の内容が問題になる。「何を経験したか」に対する解答は経験内容であり。それは経験した後で(時間をかけてゆっくりと)決まってくる事柄と考えても構わないだろう。内容は将来変更を受ける可能性さえもつものであり、それがタイプとしての経験である。

 

経験する枠組みと知識あるいはモデルの枠組み

二つの枠組みのいずれを主に、他を従にするかに応じて、知識やモデルへの二つの異なる接し方の違いが出てくる。そして、この二つの間の関係が次元の変更として理解できることが次の説明になっている。4次元の巻物モデルでは、モデルの枠組みだけで説明、予測をする仕組みになっており、先にデータを組み込み、モデル内で計算し、結果を予測や説明として使ってきた。ところが、3次元と実際の知覚経験は、モデルを背景に経験する事柄を知り、次の経験や行為に使っていく。このような違いは、

 

経験する世界についての理論的な説明や予測、

プラグマティックな知識の使用としての経験、

 

の違いとしてまとめることができる。

モデルは変化とは無縁に見えるが、経験世界の変化をどのように表現できるのか。モデルだけではなく、モデルを使う私たちの知覚経験を援用することによって、変化の表現が可能になる。このモデルでの変化の説明は変化を見る私たちの視点の導入によってなされる。世界を見ることによってこのモデルの中に変化を生み出すことができる。例えば、時間を含む4次元の世界にある軌跡は、その同じ世界を3次元で考えた場合、その軌跡上の運動として変化が現れることになる。時間軸を取り去るという次元の還元が運動を見る視点の導入によって補完されることを意味している。また、時間軸を含む3次元の空間上の直線は時間軸を取り除いた2次元では一点から延び続ける線としてその先端が動いている。その動きはある視点から見られた動きである。典型的な視点は「過去、現在、未来」と時制で表現される時間的な視点である。3次元の世界で対象が運動する様は「過去から現在まで描かれ終わり、未来はこれから描かれることになる」ように記述されるが、4次元の世界ではこのような時制の区別は登場せず、その必要もない。[3]これを図式化すれば、次のようになるだろう。

 

4次元世界の表象・記述 ⇔(3次元世界+ある視点からの運動変化)の表象・記述

n次元世界の表象・記述 ⇔((n-1)次元世界+ある視点からの運動変化)の表象・記述

(いずれも還元されるのは時間軸、再現されるのは感覚的な運動である。残念ながらn次元の関係は成立しない。これは後述参照。)

 

(問)上の⇔の左右は同値と考えることができるだろうか。同値でないなら、その理由を挙げた上で、左辺と右辺のいずれがいずれを含意するといったことが言えるだろうか。(論理上は同値だが、意味上では異なるといった可能性を考えよ。物理学と日常生活の経験とに分けて考えてみよ。)

 

実際、私たちには時間軸を往来することができない。左右、前後、上下は移動できるが、時間上の移動はタイムマシーンでもなければ不可能である。[4]こうして、「運動変化が幻覚に過ぎない」ことは、「次元(時間軸)の還元を補完するために運動変化が必要である」ことを意味していることになる。完成された変化、完結した運動が記述・説明されるべきものであり、それは時間軸を加えることによって可能となる。完全な運動変化を把握するには完結した運動変化でなければならず、途中の運動変化の状態では不十分である。(だが、完結した運動は動いている運動ではない。)次元を増やせば変化はなくなり、それゆえ、変化は補完のための一方便であり、したがって、変化は幻覚に過ぎない。(これがパルメニデス自身の真意かどうかは定かでない。)

私たちは2次元に描かれた絵画を見て奥行きを理解できる。2次元でも遠近法を使うことによって3次元の構造がわかる。これは私たちが3次元を知っているからである。同じように3次元でも運動の存在を経験することによって私たちは時間経過がわかる。遠近法と運動はいずれも高次の次元で表現できるものを巧みな工夫によって部分的に表現している例だと考えることができる。つまり、運動の経過の経験は軌跡としての運動の不完全な表現と考えることができる。遠近法による絵が描かれた対象のすべての側面を同じ画面に表現できないという意味で不完全だとすれば、それと同じように運動経験は運動理解には不完全なのである。運動変化を完全に理解するにはそれを完結した形で捉えなければならない。運動中の一部ではなく、運動の完結までを捉えることが運動の完全な理解に必要なのである。

パルメニデスの時間には、線があること、線を引くことができる、線を考えることの区別を無視するように、過去、現在、未来の質的な区別は最初からない。彼が時間の補完を求められたら、迷わずB-系列を選び、そこから完結した変化について考えるだろう。

 以上がパルメニデスの主張についての乱暴な概略である。上述の数学的モデル内の不変性はモデル間の不変性、そして、より重要な対称性(symmetry)につながり、それが現代物理学のきわめて重要な概念にまで成長することになる。ともあれ、パルメニデスの変化の否定はゼノンのパラドクスが主張する運動変化の否定とは異なった理由からである。どう異なるかを明らかにするにはゼノンのパラドクスを見てみなければならない。[5]

 

Block Universe Modelsをどのように使って経験内容を理解するか:その使い方の意義

次元を越える数学的知識に比べれば、次元に囚われるのが知覚経験である。経験は3次元に根を下ろすが、それは知覚自体が3次元的であるからである。私たちの身体が物理世界に属しているのと全く同じように、私たちの知覚も同じ物理世界に属している。

経験する時点、つまり現在までの世界は部分的な巻物世界として背景知識となっている。変化する現象が経験され、それが連続的に展開され、刻一刻と世界は変化している。未来のものは何も見えなくても、それが現出し、現出したものは経験され、消えていくが、記憶や記録として残され、巻物は新しい部分を追加していく。その追加分は新しい経験に使われ、記憶のように巻物モデルは新しい経験を生み出していく。

経験に使われるモデルは科学者が使うモデルに比べ、ずっと簡単で不明瞭、計算などできない部分的なものに過ぎないが、刹那的な現象理解にはそれで十分である。必要なのは瞬時に経験を判断し、それを次の経験に生かすことである。既述の二つの違い、

 

経験する世界についての理論的な説明や予測(客観的知識)、

プラグマティックな知識の使用としての経験(主観的経験)、

 

を思い出してみよう。知識に対する私たちの基本的な態度がこの二つであると言ってもいいのではないか。理論的な知識の側面と知識を使って経験する日常世界の側面がこれら二つの違いである。

 

運動(色)とは何か、

これはどんな運動(何色)か、

 

これら二つの問いに対して、上の二つのモデルの使い方を適用してみれば、二つの違いが一層明らかになるのではないか。最初の哲学的な問いには4次元モデルがもっぱら使われるが、二番目の日常的な問いには両方のモデルが並行して使われる。経験的なデータと色に関する知識がうまくマッチすることが、目の前の色を特定できることであり、運動の経験には実際の動きの感覚が運動知識と一緒になっている。

では、運動の根拠は感覚のみなのか幾何学が味方し、描こうとするものは存在であり、運動も存在として捉えようとする。存在としての運動は動かないものである。言語も幾何学と同じように、これに味方する。観念や概念も言語や幾何学と同じ陣営に加わり、それらが共謀して表現、説明するのは存在としての運動である。すべては運動に不利であるように見える。ただ一つ、私たちの感覚器官のみが運動、変化をそのまま感じ、運動と変化を経験し、それらを味わおうとする。運動を感じ、運動を救うのはまず感覚であり、そのデータを整理したのが経験としての運動である。経験は数学的な表現として捉えられ、運動の合理的な説明を構成することになる。

 

次元と知覚

 3次元の世界での知覚経験がどのようなものは私たちの日常の経験から容易にわかるが、4次元世界での知覚経験や2次元世界での知覚経験がどのような経験かは意外に厄介で、実はよくわからないというのが本当のところである。誰もそのような次元の世界での経験を十分にもっていないからである。4次元世界に比べれば、2次元世界は部分的な経験であれ、ずっと豊かな経験をもっている。3次元の世界は2次元の世界に私たちの経験を加えたもの、4次元の世界は3次元の世界に私たちの経験を加えたもの、ということになっているが、この図式はいささか心許なく、3次元の世界での経験は豊かであっても、4次元の世界での経験は誰ももっていない。映画の2次元の世界に3次元の経験を補完することによって、私たちは(映画の)3次元の世界を空想できる。だが、4次元の世界を3次元世界と4次元の経験でつくりだすことはできない。というのも、私たちには4次元の経験をもてないからである。そのため、私たちは3次元の経験と3次元世界から4次元の世界をつくり出さなければならない。これらをまとめると、

 

4次元世界 ⇔ 3次元世界+3次元世界の経験

 

は一応成り立つが、n≥4の場合、

 

n次元世界 ⇔ (n-1)次元世界+(n-1)次元世界の経験

 

は成り立たない。n=3場合は部分的に成り立つが、n=2 ,1の場合はやはり成立しない。

 以上のような一般的な、暫定的な結論から、哲学にとっての課題は、

 

4次元世界 ⇔ 3次元世界+3次元世界の経験

 

の吟味と言うことになる。知識としての3次元、4次元世界と日常での知覚経験がどのように異なっているのか、また、どのように組み合わされるのか、客観的な世界や知識、主観的な世界や知識、感覚知覚と知識、これらの関係が課題となる。そこには客観的で科学的な知識と主観的で個別的な知識の違い、クオリア、さらには信念、意思や欲求といった心的な態度も考察の対象となるだろう。

 

4次元での知覚(特に、動きの入った知覚)

 波で表現される光や音は4次元の世界でどのように経験される現象なのだろうか。換言すれば、4次元世界で光や音はどのように見え、聞こえるのか。私たちの棲んでいない世界のため、想像できそうで、なかなかうまく想像できない。この3次元の世界で光っていること、聞こえていることの4次元での状態はどのような状態なのだろうか。それら状態は運動変化のない4次元世界では、光っていない、聞こえていないのではないか。というのも、光っている、聞こえているのは変化している様そのものだからである。眼や耳は光っている光、鳴っている音に反応する。運動していない光、運動していない音は光や音として存在しているのだろうか。それらは光や音の観念、概念として存在していても、物理的に存在しているとは言えないのではないか。動くことによって存在するものは、次元の増えた世界ではどのような仕方で存在しているのか想像が困難である。光は線のような存在として、音も波のような存在として4次元世界に存在し、私たちが経験している光や音とは異なる存在である。滝や炎、ダンスや空を飛ぶ鳥は、それらの動きが消えてしまうと存在も消えてしまうようなものである。それらはどれも存在を想像することが厄介である。私たちが棲む世界で動いていることが必須の存在は多い。光、音以外に、滝や炎、ダンスや空を飛ぶ鳥はその典型例である。動くことがその対象に欠かせない性質になっている場合、その対象の知覚像はその対象の存在にとって不可欠のもの、必須の性質となっていることにならないか。

感覚質は運動以外の知覚的なものである。もっぱら感覚質が主観的なものとして議論されてきたが、運動も同じように主観的な感じをもち、それが次元の変更によってきえてしまう場合、その次元の変更は質的に大きな変更をもたらすのか、論理的には同値と言えるのか、前項の問題が登場することになる。まず、色について考えてみよう。色は運動ではなく、静止したままの物体の色を自然に思い起こすことができる。色の感覚は3次元でも4次元でも同じと考えることができるが、問題は色を知覚する私たちの視覚が次元でどのように働くか皆目見当がつかないことである。視覚が働く運動は4次元ではどのような現象となるのだろうか。

4次元はあくまで仮想のもので、仮説的な構図として認めることができるとしても、それは私たちの知覚経験とは両立するとしても、異なるものである。逆に、主観的経験と呼ばれてきたものの基本性質は、4次元への転換が不可能なものと考えることができるかも知れない。3次元世界に限定され、そこでしか可能でない経験、それが私たちの場合、変化を掴む知覚経験、ということにならないだろうか。知覚経験が3次元に限定され、さらにその経験内容が経験主体に限定されるという二つの限定が、主観的経験なる概念を支えている。限定的、局所的なものには、主体、知覚経験の内容、特に感覚質、意思、欲求、感情、願望等がある。

 

局所化、断片化されたBlock Universe

 実際の経験は知覚経験と断片的な知識からなっている。この断片的な知識はブロック化された知識である。例えば私たちが何かを見ているときの、何か以外の背景は知識である。背景は知識という意味は、静止した背景はブロックと考えるべきだからである。動く雲と白鷺の飛翔、静止した風景と白鷺の飛翔、これら二つの中で背景に相応しいのは静止した風景であり、動く雲は時には背景ではなくなる。

 ブロックのサイズは実の様々である。視界の一部がブロックということはよくあることである。骨董品や古代建築を見ているとき、それらはブロックのような存在である場合がある。これを突き詰めるなら、見ること自体が視界の中の対象や出来事をブロック化していることであると言えるだろう。「見定める」、「見詰める」、「見極める」、といった表現ははっきり、丁寧に見ることを表しているが、ブロック化した見るものを確定しようとしていることが見て取れるだろう。

 ブロック化してみるには暫く注視する必要がある。ずっと注視し続けることができないため、それと同じ効果を期待されて使われるのがブロック宇宙であり、そこでの幾何学的空間である。運動変化はその空間の中に位置づけられる。動きは空間化され、それゆえ、暫く注視することが可能になるが、その意味ではブロック化とは動きを捉える巧みな工夫なのである。

 ブロック化がされなければ知覚も成り立たない(No perception without a block part)。ブロック化の最も単純なやり方は動きを二つの瞬間で囲み、囲みの中をブロック化し、中野物理量の平均を取り、それを動きの知覚にすることである。

知覚と知識が出会うのが経験である。純粋知覚とは動物がもつ感覚のようなものであり、純粋知識とは4次元モデルそのものである。

 

[1] Jackson, Frank (1986). "What Mary Didn't Know". Journal of Philosophy (83): 291–295.

[2] タイプとトークンの区別、個別的なものと一般的なものの区別、これら区別の一般論は個物と概念の区別として展開できるのだろうか。

[3] しばしば時間と時制の違いが問題になるが、時間軸の還元された空間で補完される運動はマクタガートの言うA‐系列とB‐系列の区別に対して、いずれでの運動とも考えることができる。還元された時間軸を補完する仕方は特に決まっていない。それゆえ、日常生活ではA‐系列を、物理学ではB‐系列を使って補完される。補完は他の座標軸でも同じようにでき、ABの系列に対応する区別をすることができる。物理空間と生活空間、空間と場所といった区別ができるが、混合した組み合わせはメートル法の一部に尺貫法を使うようなものになる。

[4] 時間の場合の視点と空間の場合の視点の具体的な違いは例を通じて知るのが適切だろう。また、「視点」は自然主義とどのような関係にあるのか。この問題は座標系の導入自体が自然主義にとっては最初から問題であり、実はユークリッド幾何学での図形の位置や他の図形との関係を考える際に図形を回転・移動させる場合に暗黙のうちに気づかれていた問題である。座標系や視点が主観的であるとすれば、それらは認識的である。だが、座標系や視点そのものがモデルや図形に主役として登場しないのも確かである。視点はあるが、それはモデルの要素ではない。視点は座標系によって間接的に与えられ、次元の増減によってはっきり表現されるのは変化だけである。

[5] パルメニデスの前提が可能性を秘めた深遠な前提だとすれば、次に述べるゼノンのパラドクスが成立する前提は克服すべき障壁でしかなく、とても深遠とはいえない前提である。後述されるが、ゼノンのパラドクスは運動変化の否定というより、対象の分割可能性に関するパラドクスであると述べたほうが適切なのである。