石川五右衛門の辞世の句

 「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」

石川(多くの石がある川、自らの姓にかけている)の浜にある、細かな砂が尽きることがあっても(自分が死んでも)、世の中から盗人となる人がいなくなることはないだろう。「自分が死に、砂浜の砂が無くなってもこの世から盗人がいなくなることはない」ということは果たして可能なのかを哲学的に考え直してみよう。その前に、石川五右衛門の辞世の句にまつわる話を垣間見ておこう。

 五右衛門は三好氏の臣石川明石の子で、体が大きく、三十人力を有し16歳で主家の宝蔵を破り、番人3人を斬り黄金造りの太刀を奪い、逃れて諸国を放浪し盗みをはたらいたと言われている。文禄3年秀吉の「千鳥の香炉(青磁香炉銘千鳥)」を盗もうと聚楽第に忍び込んだ際、香炉の千鳥が鳴いたために捕まったという。怒った秀吉は、三条河原にて大釜に油を満たして熱し、五右衛門を釜煎りで処刑した。最期に詠んだのが上記の辞世の句。

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 歌舞伎『桜門五三桐』の「南禅寺山門の場」で、煙管片手に「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目からは、値万両、万々両……」と名科白を廻し、辞世の句といわれている「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」を真柴久吉と掛け科白で廻して山門の上下で「天地の見得」を切るのが有名。

「知らざあ言って聞かせやしょう。浜の真砂と五右衛門が、歌に残せし盗人の、種は尽きねえ七里ヶ浜、その白浪の夜働き、以前を言やあ江ノ島で、年季勤めの児ヶ淵、江戸の百味講(ひゃくみ)の蒔銭を、当てに小皿の一文字(いちもんこ)、百が二百と賽銭の、くすね銭せえだんだんに、悪事はのぼる上の宮、岩本院で講中の、枕捜しも度重なり、お手長講を札付きに、とうとう島を追い出され、それから若衆の美人局、ここやかしこの寺島で、小耳に聞いた祖父さんの、似ぬ声色で小ゆすりかたり、名さえ由縁の弁天小僧菊之助とは俺がこった。」

 

 この有名なせりふは、河竹黙阿弥作『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』の「浜松屋」の弁天小僧の科白。青砥は鎌倉幕府評定衆の頭で、清廉潔白な人物として知られている。序幕の「花見」は『新薄雪物語』「清水花見」の、最終幕の「極楽寺山門」は『金門五三桐』「南禅寺山門」のパロディで、青砥は最終幕に出てくる。通称を『弁天小僧』とも『白浪五人男』とも言う。白浪は、盗賊・盗人・泥棒のこと。五人の盗賊は浜松屋という呉服商に押し入ろうと、弁天小僧が武家のお嬢様に、南郷力丸がその供侍に化けて、下見に行く。弁天小僧は、万引きしたと見せかけて、わざと殴られ、顔に傷を付けられたのを種に店を強請る。しかし、店に来ていた玉島逸当という武士が、万引きしたのは女ではなく男と見破ってしまう。上記の科白は、男と見破られた弁天小僧が言う。

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 さて、本論に入ろう。「 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」は、鳥取砂丘のように砂が多くても、一粒ごとに数えていけば、いずれは数え尽すことができるのに対し、盗人の人数は数え尽すことができない、という意味である。

 鳥取砂丘の砂の個数は有限であり、有限であるからいずれ数え尽すことができる。粒の個数が無限なら、一粒ごとに重さをもつので、鳥取砂丘全体は無限の重さになってしまう。地球の重さは有限であるから、砂の個数は有限でなければならない。だから、砂丘の砂粒の総数は数え尽すことができる。

 では、盗人の数はどうか。現存の盗人の数、これまでの盗人すべての数、これらはいずれも有限である。これまで生まれた人間の総数は有限であるから、その中の一部である盗人の総数も有限である。その数は、したがって、数え尽すことができる。ポイントは過去と現在の盗人の数ではない。未来の盗人の数が肝心なのである。人間が世代交代を繰り返し、盗人の遺伝子が保存されていく限り、盗人は世代交代を通じて現れる。それゆえ、未来に現れる盗人を数え尽すことはできない。

 したがって、五右衛門の辞世の句は間違っておらず、正しい可能性を述べているということになる。終末論を信じない限り、盗人が遺伝的であれば、盗人は限りなく現れることになる。その結果として、盗人の数が無限、あるいは盗人の集合が可算無限である場合、盗人を数え尽すことはできない、ということになる。

 だが、数える人も世代交代して数え続けるとするなら、盗人の集合が無限でも、世代交代を繰り返しながら数え続けていくことができる。数え尽すところまで数えるという動作を続けていくことができる。数える側に少なくとも自然数の集合と同じ個数が用意できれば、それら数をすべて使うことによって盗人の集合の要素は数え尽すことができる。ただし、数える人は普通の人ではなく、人の集合、それも人の加算集合である。