流体力学、気体分子運動論、電磁気学

 

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科学史におけるベルヌーイ家は、音楽史に於けるバッハ家に似て、続々と数学者を輩出した。ダニエルの曾祖父の代にアムステルダムからスイスのバーゼルへ移った一家はビジネスで財をなし、彼の父ヨーハンIとその父、ヤーコブIは共に傑出した科学者となり、ライプニッツ微積分学を完成し、それをヨーロッパに広めた。ベルヌーイ一家は、その他、ニコラスI、II、ヨーハンII、IIIやヤーコブII等の科学者を輩出し、フランスと並んで、スイスを数学の先進国とし、変分法、確率論の確立に尽くした。また、数学を種々の物理的な問題に適用する方法(応用数学)も開発・促進した。ダニエルは、ベルヌーイ一族の中で最も優れた数学者であり、かつ最も広く、種々の自然科学分野に興味をもった人である。彼は、1724年に微分方程式に関する論文を書き、これが認められ、その翌年にロシアのペテルスブルグ科学アカデミーの数学教授として招かれ、そこで様々な分野に於ける研究を行った。また、1727年には、彼の友人、レオンハルトオイラーの為にこのアカデミーにポストを見つけてやってもいる。このロシア滞在中はダニエルの最も生産的だった時期で、この間に流体力学研究の基礎をかため、振動に関する研究をまとめ、確率論の論文を書いている。オイラーと共に働いた後、1733年に彼はロシアを去り、バーゼル大学の教授となり、そこで、父のヨーハンIの後継として数学教授をしている弟のヨーハンIIと同僚になった。彼は主として医学に関する講義をしていたが、数学と力学の研究を続け、論文を発表している。1743年に彼は、より興味を持っていた植物学と生理学の講義を担当することになり、1750年には遂に物理学の教授となり、1776年まで優れた実験に裏付けられた物理学の講義を続け、多くの学生を引きつける主要な教授となった。   『流体力学』はロシアで基礎付けた流体力学を、1734年に完成させたもので、1738年に出版された。この書は、流体力学という分野を開拓し、確立したのであり、「ハイドロダイナミックス・流体力学」という用語そのものも彼の創った用語である。彼は、それまで行われた流水の運動やその測定の研究を引きつぎ、それを発展させ、ニュートン力学理論を用いて、水の動力学を定式化した。彼は力の保存則に基づき、ある点での水の位置エネルギーの変化と運動エネルギーは等価であり、「流れに対し垂直な断面において水の粒子は総て同一の速度を持ち、この速度は流れの断面積に反比例する」という仮説をたて、これを微分方程式を用いて解いた。彼は最初にライプニッツ微積分とニュートン力学とを結合し、管の中の水の流速とその圧力が反比例するという有名な「ベルヌーイの定理」を発見した。

気体分子運動論のもっとも古い研究はダニエル・ベルヌーイの『流体力学』(1738 年)に見られる。そこでベルヌーイは「気体は激しく運動している多数の粒子からなる」という仮説をおき、気体の圧力は器壁への粒子の衝突によって生ずるとして、体積の変化による衝突数の変化を考察して、圧力が体積に反比例するというボイルの法則を説明し、また圧力が粒子速度の2乗に比例することを述べた。

この気体の本性ならびに圧力の起源に関するベルヌーイの卓抜な着想は、その後、原子論の確立や熱の熱素説に代わる熱運動説の展開により次第に受け入れられたが、気体論は100年余りの間あまり進展しなかった。しかし、19世紀半ばになって大きな動きが始まった。まず、クラウジゥスが登場し、気体を構成する粒子は必ずしも単原子分子でなく、内部自由度をもつことを比熱の議論から示した(1857年)。また、圧力から推測される分子の速さ(数百m/s)が気体中の拡散速度よりはるかに大きいという批判に応えるために分子間衝突を考慮して平均自由行程の概念を導入し、気体の粘性係数などの輸送係数を議論する基礎を作った(1858年)。

ついで、マクスウェルは気体中の分子は衝突するたびに速度が変化するが、定常な気体中では多数の衝突の結果、運動エネルギーは分子間に規則的に分配され、定常な速度分布関数が存在するとして、ある関数方程式を解いて、マクスウェル分布を導いた(1860年)。また、同時に粘性係数の式が気体の密度によらないという当時の常識に反する性質を持っていたが、それが事実であることが実験で確かめられ、理論の信頼性が高まった。そして、さらに、後に一般的な輸送現象の理論を展開し、粘性係数の温度依存性が分子間の距離の逆5乗に比例する中心力(マクスウェル模型)が働くとして説明されることを示し、この分子間力を用いていろいろな輸送現象を論じた(1866年)。また、その同じ論文で分子の衝突数の算定から改めてマクスウェル分布を導いたが、そこでは2種類の分子が混在している気体では、すべての分子が種類によらぬ同じ平均運動エネルギーをもつこと(エネルギーの等分配)が示されている。

同じ頃、ロシュミットは 1865年に粘性の測定から得られた平均自由行程などのデータを用いて、初めて気体 1 cm3 中の気体分子の数、すなわちロシュミット数を算出した。1872年になると、ボルツマンがボルツマン方程式を提出して、H定理を証明した。ボルツマン方程式は速度分布関数を支配する運動論的方程式(kinetic equation)の典型である。かくして速度分布関数を直接求めて気体を研究する路が開かれたが、ボルツマン方程式は非線形微分積分方程式で取扱いが難しく、その後40年余りにわたって見るべき具体的成果が得られなかった。しかし、1917年になってエンスコッグがこれを用いてプラズマの輸送係数を求める実行可能な方策を提起し、チャップマンらがそれを発展させた。

最近では 1950年代から核融合研究などに関連してプラズマの研究が盛んになった。プラズマでは荷電粒子群の行動は粒子間の衝突よりむしろ自らの作る電磁場との相互作用により支配されるので、多くの場合、局所熱平衡からも大きくはずれ、速度分布関数を用いる必要性が大きくなる。そして衝突項を0と置いた運動論的方程式と電磁場のマクスウェル方程式とを連立させたブラソフ方程式がその議論の主役を演ずる。また粒子間衝突を勘定に入れる場合でも、分子間力であるクーロン力が長い裾を引いた遠距離力であるため、通常の気体分子運動論とは様相が大きく異なる。 

 

マクスウェルの偉業

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 幼いころから才気にあふれたマクスウェルの家庭教師に対する質問は難解なものが多く 、やがて家庭教師は辞めてしまう。そこで彼はエディンバラの叔母のもとへ送られる。エディンバラ中学へ通うようになったマクスウェルは、14歳で王立協会に論文を投稿した。エディンバラケンブリッジの両大学に学び、24歳でかのニュートンが就いたトリニティ・カレッジのフェローになった。マクスウェルはファラデーが導入した磁力線や電気力線の運動という描像に、今日見られるような数学的な表現を与えて電磁気学の理論を築いた。しかし、マクスウェルにしても、最初から力線そのものを物理的実体として扱ったのではなく、様々な力学的模型を仮想して、考えを進めていった。例えば、磁力線は渦のように回転しているもので、それに狭まれた荷電粒子が隣接する渦の回転速度が変化するときに動き出すのが電磁誘導の起電力にあたる、というようなことを想像している。

1865年の論文“A Dynamical Theory of the Electromagnetic Field”「電磁場の動力学的理論」が完成すると、余分な力学的模型は姿を消し、それでもなお、電磁場はエーテルという未知の媒質の運動によるものと考えられた。真空中の電磁場が、それ自身で物理的対象として扱われるようになるには、相対性理論によるエーテルの否定が必要であった。

裕福な家庭に育ち、8歳で母親をなくしながらも、類い希なる頭脳をもち、なるべくして天才となった。そんなマクスウェルが「ファラデーが数学者でなかったことは、おそらく科学にとって幸運なことであった」と言ったと伝えられている。自身の境遇に奢ることなく、正しい瞳をもって事象に対したことが自然の摂理の扉を開くことにつながったのだろう。1873年A Treatise on Electricity and Magnetism『電気磁気論』を刊行するも、数学的にとても難解な内容は当時の人には理解されなかった。

母と同じ胃がんのため、48歳の若さでこの世を去り、入れ替わるかのように、アインシュタインが生をうける。アインシュタインの 言葉にこんなものがある。

ジェームズ・クラーク・マクスウェル-彼と共に一つの時代が終わり、彼と共に新しい時代が始まった」

 アインシュタインが生をうけていなければ、マクスウェルの栄光の時代は死後もしばらくは続いただろう。