古典的世界観と日常世界

 古典的世界観は私たちの生活世界を支え続けてきた世界観である。古典力学が成り立つ世界が私たちの住む世界だというのがその主張である。この世界観は、点とその連続的な運動をモデルにした世界観である。日常世界で成り立つと常識と思われている素朴実在論、直接実在論は日常世界のプラグマティズムの結果であり、表象に関する巧みな省略の上に成り立っている。[1]

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 言語、表象装置としての幾何学を信頼し、それを省略して表象内容だけを取り上げるのがプラグマティックな生活世界の大きな特徴である。知識の分業の結果として幾何学を知らなくても幾何学の結果だけを使うことができ、それが素朴実在論につながっている。言語や表象装置を中立化して忘れること、それが生活の知恵であり、自然を直接に感じるように、直接に把握、理解できると信じ、行動できることになる。

 

1古典的世界観の骨格

 古典的世界観は古典力学の結果であり、古典力学の主張の一般化である。古典力学の基本モデルに質点モデルがある。質点モデルは不変の質点の連続的運動変化が古典的な世界の原型であることを示している。質点には生死がない。質点の運動変化の軌跡に因果的な関係を直接読み取ることはできないが、生死をもつ対象の運動変化には因果的であることが必然となる。原因と結果の非対称性は生(あるいは死)によって存在できる。

 質点の揺るぎない実在性、その位置の確定性、時間的変化の確定性から世界の変化の明確な姿が浮かび上がってくる。「質点の確定性原理」が前提され、その結果としての決定論が古典的世界観の骨格になっている。

 

2生活世界の中の古典的世界観

 生活する中では古典的世界観は素朴実在論、直接実在論に帰着する。そして、実在する世界に対する確固たる信念がつくられてきた。世界は私たちとは独立に実在し、その実在する実像は決定論が成立する姿である。決定論的な姿で実在する対象からなる確固とした世界、客観的な実在世界は表象に関わる微妙な事柄をすべて巧みに省略して出来上がった、プラグマティックな生活の知恵である。それゆえ、人が表象に関わることに気づき、それを気にし出すと、「客観的実在」といった概念が直ぐに揺らぎ出すのである。

 文法規則を常に気にしながら話し、書き、読む場合とそれらを無意識に使う場合とで何がどのように異なるのか。言葉が主人公ではなく、言葉が語り、述べ、描く内容そのものが主人公になる。それと同じことが古典的世界観の場合にも成り立っている。言語無しに成立している世界とは当たり前の世界と誰もが思う。言語以前に世界が実在するから、とその理由を述べてもいい。同じように、幾何学以前に世界が存在したからである、という理由も実在論の強い証拠となってきた。

 

3心身問題

 古典力学に心は登場しない。心は質点ではなく、物理量をもつような対象ではない。古典力学の世界は純粋に機械論的である。生活世界に溢れる心的なものは古典的な世界の中には居場所を見つけることができない。これがデカルト的な二元論につながっている。そして、その帰着の一つが「自由と決定」のアポリアである。このアポリアは古典的世界観が生み出した厄介な問題であり、そのことだけでも古典的世界観が問題を孕んだ世界観であることを示している。

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4決定論

 確定性の原理は存在論的、認識論的の二つに分けることができる。そして、実際の考察、探求の場面では認識論的な確定性原理が使われることになる。決定論あるいは確定性原理は表象装置を意識的に明確化することによって、一層明らかに表現できる。実在論から決定論への議論の精緻化によって、理解のための装置の介在が浮かび上がってくる。そこから、決定論は認識的なものであり、理論に相対的に決まるものであることになる。

 同じように非決定論も理論が非決定論的であることから帰結するもので、不確定性原理あるいは非決定論が存在することになり、それらは同じように認識的な主張である。認識上の非決定性は、ゲーデル不完全性定理からハイゼンベルク不確定性原理まで、様々な不可能性の定理を含んでいる。

 

5観測、実験の意味

 プラグマティックに対象を扱い、その結果を使って行動する場合、その対象について知る装置や方法については意図的に無視するのが適切なやり方である。だが、「これは何か」といった問いの対象になるような場合、その対象を知るには知り方や知る方法が意識化される必要がある。

 さらに、実験や観察の場合、実験や観察の環境、文脈、そして装置に関する詳細な知識が不可欠である。日常生活での知覚はそれを使って行動するために必要な情報であり、それ自体が対象となっていない。そこでは見ること、見る対象はいずれも脇役であり、見た結果を使うことが主役なのである。

 古典的な註釈は、実験とは違い、注釈する命題の内容は日常の生活世界での内容である。観測や実験がじっくりと自然を眺める方法であり、理論が俯瞰的に眺めるのと同じような効果をもっている。サッと眺める、素早くみる、チェックするのではなく、腰を据えてじっくり見つめ、丁寧に見逃すことなく調べるのが実験や観測である。これは、例えば、20世紀の生物学における実験動物をみればわかる。博物学の時代にはすべての生物をくまなく、公平に眺めることを旨としたが、20世紀の実験室では前半はショウジョウバエ、後半は大腸菌に集中した。二つの生物だけをじっくり、徹底的に調べ尽くすことがすべての生物を調べることに繋がっており、それが生物学の成功をもたらした。

 

[1]  パラリンピックとはパラレルオリンピックの省略である。パラレル宇宙という言葉も宇宙論お宅だけでなく、広く評判になった言葉である。二つ以上の平行した世界という表現からすぐに思い至るのは、ポパーの3世界の平行的なあり方だろう。物理世界、意識世界、知識世界という3区分はパラレルである。

 古典力学のモデルとしての物理世界。あるいは古典力学が表象する世界が存在し、それとパラレルに古典的世界観が表象される世界、そして、生活世界が存在している。これがこの本で主張していることであり、互いに矛盾する、両立しないという関係ではなく、並行的に共存するのである。

 さらに、単に平行というだけでなく、それぞれの間には密接な相互作用がある。時には因果的な相互関係があり、パラレル以上の関係が3差の間には存在する。パラリンピックに出場するアスリートがオリンピックに出てはいけない決まりはないし、その逆にオリンピックのメダリストがパラリンピックで活躍しても一向に構わない。そのような関係がパラレルな世界の間には存在する。