「色とは何か」と「これは何色か」[1]

  外在主義的な表象主義(=表象される対象は脳の外に存在する、脳の外にあるものを表象する)は、知識を根拠付けたり、基礎付けたりするための認識論ではなく、「信頼可能性(reliability)」に基づいて、知識を使用するための認識論である。知識を獲得するために表象が重要な役割を果たすのは表象内容を説明する理論の出発点と到着点だけである。表象内容が事実や対象である場合、それら事実や対象を特徴付けるのも心の内側の装置というより、理論や知識、言語といった心から独立したものである。だが、感覚質や架空の対象のような場合、その内容は心の内側にあると考えられる場合がデカルトを含めて圧倒的に多かった。これも心の外側に置くということが外在主義の主張したい点の一つである。(架空の対象であるペガサスの表象が心の内側にあるとした場合、同じように心の内側にあるディープインパクトの表象とどのように区別できるのか。内側にあることは外側にもあることを排除しないし、内側にだけしかないことをどのように証明できると言うのか。)

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(問)認識論の歴史を考えながら、知識の基礎付けでない認識論があったか、あればどのような認識論だったか調べてみよう。知識の追求ではなく、知識の使用の認識論の姿はどのようなものだと思うか。(表象は基礎付けられるものであって、認識を基礎付けるものではなかった。)

 

対象の構造や細部についての知識にこだわることなく、対象が何であるかを迅速に把握し、それを次の行動や思考に役立つ材料の一つとして使うために、肝心の要素だけ、あるいは輪郭だけを部分的に知るといったことは日常生活で始終行われていることである。対象に肉薄するというより、一瞬のうちにそれを知る、掴むことが日常の知覚である。見ているものが次第に何かわかってくるという経験は日常生活の場面では稀である。対象を追求せず、対象を分類し、その結果を即使う。つまり、一瞬のうちに分類することが「日常的にわかる」ことで、それは対象を他の目的達成のために使用する場合の常套のやり方である。これが生活する際の知覚についても言える。実在論へのコミットが対象の一部の理解で済むことに結びついていれば、一部にコミットするだけで済む。ここでの標語は「対象を使うには対象のすべてを知る必要はない、対象を使うための最適で、最小の情報こそが必要」である。対象について完全に知ることはその対象を使って仕事をする場合にはむしろ余計で、無用なことでさえある。部分的コミットメントを説明するには、不完全情報=「粗視化」[2]による新たな特徴づけを考えることができる(incomplete information, coarse graining)。量子力学の不完全情報は得られる情報の上限を述べたもので、色の表象主義では上限ではなく「あえて不完全で済ます」下限が重要だという点で大きく異なっている。色は研究対象、疑われる対象ではなく、使用する対象として「何かが何色であるか」だけが重要である場合を色の表象主義はターゲットにしている。意図的にも思える「不完全性」が肝心で、不完全でなければ利用できない理屈(これは「わからなくても使っている」というありふれた事実の説明と同じであり、また、全く正体不明なものは使うことができないという事実も説明してくれる。)は進化を使ったモデルで比較的簡単に考えることができる。これまで使う知識、利用する情報、不完全な表象は歴史的、系統的、因果的に説明されてきた。だが、伝統的な知識論ではそれらが論理的、言語的、認識的、理論的に扱われてきた。ある情報が正しいか否かを歴史的に確かめる場合と正しい知識から演繹的に推論する場合は明らかに違っている。不完全な表象、使う知識、利用する情報は完全な表象、知識、情報を想定することによって、論理的、理論的に扱われてきた。噂や風評が正しいかどうかをどのように確認してきただろうか。また、運動の第2法則が正しいことをどのように確認してきただろうか。

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 (問)「色の本性を追求する場での色以外の対象や概念は色の本性を暴くために使われる道具や装置であり、色の存在でさえ色の性質を明らかにする際には追求の対象にさえならず、単に仮定されるに過ぎない。」この文が意味していることを自分の言葉で述べ直してみよ。

 

(問)何色かわからず、しかもそれが重要な場合(例えば、和服の色を見て、それが「浅黄色」だとわからない場合)「色」と「色の名前」の間にどのような差があるのか。

 

「色は何か」を科学的知識に基づいて追求することと、「これは何色か」を即断し、それを使うこととの間の差が納得できるような説明が表象主義を定位する場合に求められている。端的に「即断できなければ、間に合わない」という実際上の理由が、出発点の事実として歴然と存在する。表象形態そのものが即断を促す形態[3]であるが、即断を助ける重要な装置は知覚を助ける言葉と知識、そしてそれらの経験や学習である。言葉や知識はあらゆる側面で生活の「節約」につながっている。さらに、それらの習慣化が即断を促進する。即断は速断でなければならない。即断するには言語も知識もあえて不完全な省略形態でなければならず、しかもまとまった、コンパクトな形でなければならない。間に合うためには、とにかく短くなければならない。限られた時間内でゴールするにはできるものはすべて省略、短縮しなければならない。これは自明な物理的要請である。「追求の文脈」と「使用の文脈」というよくある区別が表象主義を正しく理解する場合も重要となる。(日常生活の大半は使用の文脈であり、使用に長けた人が追求に長けた人と違うことも事実である。だが、追求にも使用が、使用にも追求が重要であることを忘れてはならない。)

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(問)追求の文脈と使用の文脈の違いを、追求、使用、文脈の意味を具体的に特定した上で論じてみよう。

別の側面として知覚したもののその後の行方を考えてみよう。知覚したデータをさらに分析する場合とそれをすぐに使う場合に分かれるだろう。まず、知覚することは対象を知るための出発点で、知るという結果の初期の形態である。それを別の形態に処理加工し、知るというゴールに至らなければならない。中途データとしての知覚はまだ役に立たない。(色の哲学的分析は100メートルを走るほど迅速には行かない。あまりにゆっくりしているので結論になかなか到達せず、それゆえ、色の哲学的分析は未だゴールに達せず、役に立たないまま、役に立つかどうかわかっていない。)役に立たせるには処理の完了が必要である。知覚=粗視化装置なら、その装置をひたすら微視化し続けるのが前者の方法の一つである。すぐに使う、役立てるには最低限の加工で済まさなければならない。その文脈ではひたすら追求を続けることなど誰も認めないし、それを続ける哲学的な意図は的外れとして一笑に付される。(狩の最中に追っている獲物が正確に何色かは狩の成功には余分なことである。)できればそのまま他のものと組み合わせて行動に結びつけなければならない。これこそ後者が必要とするものである。知覚からの認識の途中にあるのが前者であるのに対し、それで打ち切り、より包括的な過程の一部に組み込むのが後者で、そこではとにかく使わなければならない。使うための知識や技術は追求の知識や技術とは異なる制約をもっている。「色が何か」という問が役に立たない、哲学的な問だという印象を強く与えるのは上述のことによって説明できる。役立つ色は「色は何か」に答える必要がない仕方で使われている。[4]

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(問)追求の途中の対象や概念が他の目的に使えない場合、私たちはどのような工夫をしてきただろうか。

粗視化の存在論(付随性)-特に、存在の粗視化

認識論(粗視化の学習、粗視化の進化)

(これら二つの組み合わせで、表象主義を見直すことができる。)

 

上の二つの事柄を上述のことと合わせて考えると、まず粗視化の実証主義的説明から始まり、それに合わせて認識論が、そして最後に存在論が紡ぎだされる順序が自然で、適当な特徴づけだろう。常識的なサイズの物理的対象やその性質は使うことが可能な対象や性質であり、科学的常識から見れば、すべて何らかの粗視化によって生み出されたものである。粗視化の理由は既述の通りで、存在論や認識論は「間に合う」に先導されて出てくる順序になっているが、それはいつも存在論や認識論が基礎的なものとして先導者になっていなければならないという伝統に楯突く主張にもなっている。

 粗視化の認識論が学習され、それによって知識を使った存在の姿が決まる。常識レベルの存在論は粗視化の結果の存在論であり、付随性は学習結果を物語っている。

 

それゆえ、表象主義が主張される文脈で重要なのは「間に合う」ことであって、基礎的な存在論や認識論にはない。すべては「間に合う」ための工夫であり、「間に合わなくてもよい」知識の追求と「間に合わなければならない」行為の成功の違いに着目すれば視界は開けてしまう。(量子力学での不完全情報と色の不完全情報は、したがって全く異なる意味をもっていることになる。そして、現場の量子力学の使用では二つの異なる不完全情報が区別されることなく通用している。これら二つは量子力学の解釈によって異なった特徴づけをされ、境界も解釈によって異なる。)

 

・実在する仕方への最小限のコミットと、何かとして実在することの即断

・色の実在する仕組みや構造を深く知ることと、色があることを使って別のことをするための即断

・知り方と使い方

 鵜呑みの知識が有用な場合もあれば、手に入る最善の知識でも不十分な場合がある。これが知り方と使い方を分けている。

 

上のような二分法は誤解を招きやすいが、まとめればそのような表現になるだろう。だからこそ上述のプラグマティックな主張を的確に展開する必要がある。

 

色の物理学や心理学は色の本性を色の表象を離れて、独立した仕方で追求する。色の感覚表象は発端に過ぎない。重さ、長さ、速さ等の追求は感覚レベルでの理解ではなく、感覚を離れ、それとは独立に追求することによって成功を収めてきた。追求の対象としての色が物理世界に実在するかどうかは規約や習慣の問題ではなく、科学的理論の問題である。(少々厄介に見えるのは「色がある」ことと「色の本性」とが微妙に違う点である。前の問も参照。)それに対し、色の表象はそれを愛でる場合もそれを使う場合も「色が何か」という問いを気にする必要がない。「色を追求する」ことは「色を使って追求する」こととは違う追求である。

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[1] Pragmatic representationalism, pragmatic coarse graining「色とは何か」に答えるには色の実在論に関する議論に正面から立ち向かわなければならないが、「これは何色か」にはその必要は必ずしもない。何色かであることが「信頼できる仕方で」言えれば済むことだからである。

[2] 物理学での粗視化をもとにその意味を拡大したもの。変視、偏視、細視、そして微視と様々な用語のどれにも対応するもので、比喩である。だが、統計物理学でのGibbsの考えと基本的には同じで、分類し、規格化する点で共通している。違いがあるとすれば、対象の存在様相も粗視化されて、「ある」、「ない」のいずれかに二分化することである。これは従来もその通りだと考えられるかもしれないが、存在の仕方を問わず、ただ「あるか否か」に限るということはどこでも通用していたことではない。存在化は実在性が乏しい事柄について行われる常識レベルの「自然化」である。

[3] 表象が疑いと共に登場することはなく、直接に与えられるという点でまずは対象や事実を受け入れる。そして、受け入れたものをそのまま次の段階の出発点にすることが自然にできるような工夫が表象である。直接所与の形態を取ることこそ表象が使用に適した形態であることを示している。一方、科学的認識に関しては表象の役割は大きいものではない。理論や仮説が表象に代わって重要となるのが科学的認識で、表象内容は結果として説明されるものである。

 見定める、聞き定めるような表象はいくつかの操作をすることなく、瞬時に出来上がっている点で「表象は本来的に表象されているものの更なる追求、微視化ではなく、表象されているものを材料にして行われるものの一部として使われるように仕組まれている。表象内容をその表象中に疑うことができないことはデカルト以来指摘されてきたが、それは表象が使う知識として提供されるからである。

[4] ここまでの記述は、色の科学的追求と色の日常世界での認識の違いがどこにあるかと、表象主義が主張されるのは色の日常の認識についてであることとがあまり形式的ではない仕方で与えられている。