原子論の本性

  原子論は因果的でない事柄を考え、扱う。運動変化を扱う力学と違って、原子論は因果的変化を扱わない。原子論はものの組成、成分、構成を扱うのであり、それは因果的な変化ではない。家を建てる過程は因果的でも、その材料は因果的ではない。確率・統計も因果的でない集団の組成や頻度・分布を扱う。原子論も世界の因果的でない側面についての理論である。[1]因果的でない側面は現在では物性論と呼ばれ、物質のさまざまな巨視的性質を微視的な観点から量子力学統計力学を使って研究されている。

 

4.1原子と虚空

 幾何学と原子論の違いは何だろうか。あるいはこれを言い換えて、サイズのない点とサイズのある点の違いは何か。さらに、別の興味深い問いとして、ギリシャ形而上学的な原子論と現在の科学的な原子論との違いはどこにあるのか。原子論はレウキッポスと彼の弟子デモクリトスによって考案されたが、デモクリトスは460 B.C.頃に生まれたということから、ソクラテスより約10年若いことになる。ガスリーによれば、

 

Atomism is the final, and most successful, attempt to rescue the reality of the physical world from the fatal effects of Eleatic logic by means of a pluralistic theory.[2]

 

とべた褒めである

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原子はパルメニデス的な単位として存在し、不可分である。原子の中に虚空(void)はなく、均一に充満している(plenum)。原子論者は「実在するものの数を除いて」パルメニデスの不変の哲学に同意する。

原子は一様、均質、無色、無味、不可分である。原子はサイズ、形、(多分)重さをもち、運動できる。つまり、原子は「第一性質」をもつ。だが、「第二性質」はもたない。

デモクリトスの原子論的宇宙を覗いてみよう。原子は「虚空」を動き、他の原子に衝突し、原子同士が結びついて複合物をつくる。これら複合物は第二性質をもつことができるが、そのような第二性質は構成要素の原子の第一性質に還元できる。原子の集積は生成のように見えるが、それらは実在的ではない。原子の複合物の性質も実在的ではない。私たちは習慣から甘さ、苦さ、暑さ、寒さ、色があると思っているが、実在するのは原子と虚空のみである。また、原子論は完全に機械論的(mechanistic)である。原子の運動は愛、善、精神、理拠に頼ることなく自律的に説明され、何事もランダムには起こらず、因果的な決定論にしたがって起こる。個々の原子はその運動に関して自主的に選択できない。押されて動くだけである。原子の複合体も自主的に選択できない。それらの運動は構成要素である原子の運動の関数に過ぎないからである。

原子論の世界は徹底して機械論的、決定論的である。その世界観は現代の科学的世界観に近い。だが、これは文字通り正しいのだろうか。[3]原子論は「物理学的な探求」からではなく、パルメニデスとゼノンの「論理的あるいは形而上学的な哲学」から生まれたものである。原子は、真の存在は一者で不可分なもの、というエレア派の哲学に応えるために仮定された。では、どのような意味でデモクリトスの原子は不可分なのか。デモクリトスは次のいずれかを意味していたのではないだろうか。(1)原子を分割することは物理的に不可能である。(2)原子を分割することは論理的あるいは概念的に不可能である。(1)がデモクリトスの立場とすれば、原子を部分に分離することは物理的に不可能としても、原子の部分について話すことは意味があるかも知れない。(2)がデモクリトスの主張であれば、この種の話は無意味で、「原子を分ける」という考え自体が技術的な困難さだけでなく、概念的な不合理さを表している。この問題に関して、研究者の間でも意見が分かれてきた。(1)はBurnetが、(2)はGuthrieが主張してきた。[4]

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原子の形態についてデモクリトスは原子が量をもつとは考えなかった。原子は異なるサイズをもち、異なる形態をもつと考えた。[5]アリストテレスは「虚空」を否定したが、その理由は何だったのか。虚空中での物体の運動速度が無限になり、無限の速度など存在しないと言うのが彼の否定の理由だった。「虚空」はその後もしばしば哲学の議論に登場し、その存在を巡って多くの議論がなされてきた。「虚空」とは何もないことである。だが、誰も「虚空」を文字通り何もない「無」とは考えない。虚空は空間として存在し、そこに「もの」と呼ばれるものが一つもないというのが常識的な理解である。そこには「虚空」に対する二つの異なる役割が混在している。

虚空には二つの意味がある。それらは「対象としての虚空」と「表象するための虚空(モデルにおける虚空)」である。「零」の二つの意味をヒントにして考えてみよう。0と101を比べると、101の0は数の表記上の意味をもっている。0が何を指示するかではなく、0を使って何を表示するかが0の意味を決めている。同じように、対象としての虚空は文字通り「無」であるが、モデルでの虚空は距離、面積、体積を表象するための役割を担っている。「何もない」のは文字通り何もないのではなく、単に物体がないというだけに過ぎない。

虚空の中の力学的な運動とは時空の中の運動であり、それを決定論的に把握するためには時空が不可欠であり、時空がなければ運動はそもそも存在さえできない。運動を表現するために時空は物体と区別され、無色透明な形で与えられている。そして、0が位取り表記に使われるように、時空は運動を表現するために使われる。そこで、この議論を振り返り、3次元の空間R3を考え、3次元の座標系を想像してみよう。空間内のどの地点も(x, y, z)という点で表記され、3個の実数で表される点である。このような点が充満しているのが空間だと考えると、「虚空」は定義上何も含んでいないので、そのような点が一つもないことになる。そこで(x, y, z)という点をすべて消去してみよう。すると、虚空は空集合ということになる。これが虚空の文字通りの解釈でも、現在の科学はそれを採用していない。この考えを時間に対して適用してみよう。すると、空間内の地点を瞬間に対応させ、

 

瞬間がなければ、時間がない、

 

という命題が得られる。「瞬間がない」ことは「点がない」ことであり、結果として瞬間の集合である時間は空集合となり、時間がないことになる。さらに、「空間がない」ことも同じように推論でき、

 

地点がなければ、空間がない、

 

ことが成立する。これらをまとめれば、「瞬間や地点がなければ、時間と空間がない」ことになる。これらが正しいなら原子は運動できず、「運動がない」ことになり、パルメニデスの主張が論証されたことになる。つまり、虚空を空集合と解する限り、瞬間がない、地点がないという前提の下で運動は否定されなければならない。

 

[1] 対象が何から構成されているか、つくられているかは因果的ではない。構成、組み立て、組み合わせ、合成といった用語はいずれも因果的とは言いにくいが、発生、成長、発達、成育となると因果的と言いたくなる。実際の変化は構成と運動が複雑に組み合わされたものになっている。

[2] Guthrie, W.K.C. , A History of Greek Philosophy, Volume II: The Presocratic Tradition from Parmenides to Democritus, (1965), p.389

[3] Chalmers (2007, 2009, 2010, 2011), van Fraassen (2009) を参照。

[4] Burnet (1892)

[5] Chalmers (1998)