実無限と可能無限(Actual Infinity and Potential Infinity)

無限には可能無限と実無限があり、現在の数学では実無限が自由に使われている。実数を小数で表した場合、小数部分がすべて決定しているのが実無限である。限りなく続く無限小数、例えば、を考え、それが完結した数列になっているとしてみよう。完結したと想定できるのは神の視点である。一方、人間の視点で自然数を捉えた場合、まず0があり、次が1で、その次が2で、その次が3でというように、これはどこまでいっても終わらない、限りなく続くだけということになり、これが可能無限である。つまり、可能無限は終わりがなく、どこまでいっても到達した数は有限でしかない。

もし数に可能無限しか認めないなら、実数は存在しえない。

任意の数xについて、その数が自然数なのか、整数なのか、有理数なのか、無理数なのか問われたとしよう。まずこの数xが0.・・・・・のような、0より大きく、1未満の数なら、この数は有理数無理数のどちらかである。では、どちらなのか。残念ながら、判定する術がない。

有理数の定義によれば、その数が、途中で終わっているか、または小数部分のどこかから、数の並びが循環になっているかのどちらかなら有理数である。このとき、0.2を0.1999999・・・・とするなら、有理数とは、小数部のどこかから数の並びが循環になっているものと考えることができる。循環の代表例としては、1/7というのがあり、1/7=0.142857142857142857・・・・というように142857という部分が無限に繰り返される部分がみつかれば、それは有理数ということになる。

では、与えられた数x有理数無理数かを可能無限の立場から考えてみよう。与えられた数xは最初の小数第一位から順にどこまで見ていっても循環する部分が見つからない場合、これは実数であると判定していいのか。小数第n位までは循環している部分は見つかっていないということしか言えず、もしかしたら、小数第n+1位からは循環しているかも知れない。これでは、いつまでたっても有理数無理数か決められない。そもそも実数というものを確定的に存在させることができないのが可能無限なのである。

だが、実無限なら、与えられた数x有理数無理数かを判定できる。なぜなら、神の視点で見れば、無限に続くのか否かが容易に見てとれるからである。無限につづく小数部分さえ、それはすべて決まっており、それゆえ、私たちには分かっている。無限につづくものがすべて分かっていれば、それが有理数無理数かの判定は簡単である。このような実無限の存在を保証しているのが公理的集合論ZFの無限公理である。無限公理は、

 

0を含むある集合があり、しかもある数がその集合のひとつなら、その次の数も同様にその集合のひとつであるような自然数という集合が存在する、

 

と主張している。自然数という無限さえ、「自然数という集合が存在する」と宣言することによって、自然数という無限にある数のすべてを含むものとして完結している。したがって、無理数は、有理数の小数桁部分の極限値において、循環しないものとして定められる。

しかし、実無限は矛盾を孕んでいる。たとえば、実無限を認めると、自然数のすべての数が書き尽くせることになる。限りなく続くものが、全て分かっていると考えるのは、理不尽である。このような理不尽な実無限を認めることによって無理数の存在が結果する。いわば、無理数とは実無限によって理不尽に生み出されたものである。

実数は自然数にない性質を多くもっている。最も実数らしい性質が「完備性(連続性)」であり、この性質のお陰で微積分が可能となり、それを使って自然を連続的に考えることができている。連続性を支える「限りなく近づく」ことのできる性質が点と線の不思議な関係を基本にして成立している。連続する時間や空間を表現する最も適した数学的対象として実数は数学者の関心の的となってきた。ギリシャ人が使わなかった実数こそ古典物理学の不可欠の表現装置として使われ、ニュートンライプニッツの無限小(infinitesimal)、コーシーの極限(limit)といった概念を通じて実数の理解が浸透していった。

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