気づくことに気づく

プラトンの対話篇『テアイテトス』における感覚と知識から

ソクラテスから離れ、プラトンが独自の哲学を展開し始めた中期の最初の作品が『テアイテトス』である。知識と感覚は同じものであり、したがって、一人ひとりの感覚の違いに応じてさまざまな知識があるとプロタゴラスは説いた。その主張に反駁することがプラトンの目的である。その反駁を通じてプラトンが論証したかったのは、真の知識は感覚によってもたらされるのではなく、精神によってもたらされるのであり、その知識は感覚が与える仮象についてではなく、精神が与える客観的な存在についてのものである、ということだった。この客観的な存在は、プラトンの哲学の中で、やがて「イデア」と呼ばれるようになる。  『テアエテトス』は、少年テアイテトスが老人ソクラテスと知識について語る対話篇である。その会話の内容はソクラテスの口を借りてプラトンが自らの哲学を語るものである。さて、ソクラテスはテアイテトスに向かって、「何が知識なのか言ってみたまえ」と問いかける。テアイテトスは答える。「何ものかを知っている人は、その知っているものを、感じているのです。ですから、どうもただいまのところでは、知識は感覚にほかならないと思われます。」(引用文は田中美知太郎訳)ソクラテスはすぐさま、テアイテトスのこの考えはプロタゴラスの説そのものだと喝破し、またその説は「人間は万物の尺度である」という説と同一の内容をもつものだと説く。[1]  動物も感覚をもつから、プロタゴラスはそれらの動物も万物の尺度として認めるべきだとか、夢を見ているときや正気を失っているときにも人は感覚するので、それらも尺度として認めなければならないのかとか、もしどの人の判断も、他の人の判断と同様に正しいのだとしたら、誤りの判断をする人々に対しても、プロタゴラスは彼と同様に正しいと言わざるを得ず、どうにも収拾がつかなくなるといった議論である。これらの議論は突き詰めれば、感覚が知識であるとする立場からは、多くの人間に共通するような納得できる知識は生まれず、したがって人びとは何に関しても、相対的で不安定な根拠に基づいて行動せざるを得ないことになるという主張である。

知識とは何か、真理とは何か、ソクラテスは改めて問いかける。感覚は、視覚にせよ、聴覚にせよ、味覚にせよ、対象について具体的なものをとらえているように見えるが、それがとらえているものは単なる仮象であって、対象そのものの「あること」、つまり存在ではないと彼は考える。私たちはある対象について、それが白いとか、やわらかいとか、甘いとか個別的な感覚を持つことはできるが、それらの諸感覚が同一の対象についてのさまざまに異なったありかたなのだということについては、感覚そのものからは知ることができないのである。対象があるものとしてあるそのあり方は、感覚を超えた精神の働きによってはじめて捉えられるとソクラテスは考える。ソクラテスは、知識とは感覚そのものではなく、感覚を与件として、それについてわれわれ人間が下す判断の作用の中に、あるいはその結果としてもたらされるものの中にあると主張するのである。[2]  ところで知識とは存在するものについての知識である。存在しないものについての知識は不可能である。存在はあらゆるものに属しており、それをとらえることができるのは、心によってである。この存在をとらえること、あるいは存在について正しい判断を下すことの中に真理は存在する。[3]プラトンは感覚ではとらえられない理念的な対象は相対的なものではなく、あらゆる人間にとって認めざるを得ない客観性を持つものだということを論証しようとした。

 プラトンは『テアイテトス』で知識と感覚を峻別するという、ロゴス中心の立場を模索し、それがギリシャ哲学のキャッチコピーにまでなっただけでなく、以後の私たちの知識に対する基本態度をつくったと言われている。それ以後、論理的な思考、理性的な分析、推論、論証といったものは知識と深く結びつき、感覚的な印象、感情や情緒、愛や憎悪は感覚に結びつくものだと一般的に信じ込まれてきた。その信仰の出発点がプラトンであり、デカルトやカントも理性や悟性と感性や感覚とを区別していた。「理性と感性」、「科学と芸術」、「知識と感覚」といった区別は今でもごく当たり前に受け入れられ、大した疑問もなく日常的に使われている。

 「気づく」ことは「感じる」ことと「知る」ことの双方に関わっている。例えば、眼という感覚器官をもつゆえに、椅子や机を見て、その形状や色を知ることができる。色を感じ、形状に気づき、机だと知ることが普通に受け入れられている。ここに私が「気づき」に注目する理由がある。気づくことによって情報を獲得し、それを知識にする、これが経験的知識を獲得する常套の方法だが、そこで「気づく」のは感覚器官が「感じる」ことから始まる。感じることからスタートし、最終的に知識へと至る過程を想定するなら、プラトンが知識と感覚を分けるなどという暴挙に出たのはどうしてなのかわからなくなる。これこそが私の疑問であり、「感じる」ことに「気づき」、その気づきを「知る」に編成し直した努力の結果が経験的知識であることを信じる私は、プラトンや彼の考えに従う後世の哲学者たちに異を唱えることになる。

観測や測定が量子力学で問題になり、知識の獲得にはコストがかかることが認められた。知識はイデアの世界の知識ではなく、私たちが感じる世界の知識であり、その世界では「感じる」ことと「知る」ことが不可分に結びついているのである。

こんなことが「気づき」に私が執着し、経験的な知識の本性は「気づく」という私たちの生物的な機能に由来すると信じていることの背後にあるものである。心身の密接な結びつきを認めるデカルト的な二元論では、当然ながら感覚と知識は独立したものではなくなる。特に、経験的知識は感覚を出発点にした知識ということになる。だが、デカルトはそのようには考えなかった。

 

気づくことに気づく

人が最初に気づいたのはいったい何だったのか?自分に気づく、つまり自意識をもつことなどきっと随分と後になってからに違いない。いくら一生懸命に想い出そうとしても、自分が最初に気づいたものが何かを思い出せない。自らの人生で最初の気づきを思い出せる人など果たしているのだろうか。また、人類が何に最初に気づいたのか、あるいは人類の気づきの萌芽は何だったのか、誰にも不明のために、気づきの起源を知りたいと誰もが思う。

普通なら気づかない身体的な働き、例えば循環器系の働きに気づいたら、一体何が変わるのか?正常に消化が行われ、血液が循環しているときにはそれらに気づくことはない。胃の痛み、足のむくみに気づくとき、その気づきは身体の異常を知らせる警報になっている。重要な情報として気づくことが生存につながっている。つまり、気づかないことは正常であり、気づくことは何か異常があることだということになる。これが正しいとすれば、感覚器官の働きは随分と変わっているように見える。というのも、感覚は常に異常を訴えていることになるからである。そう考えるのが正しいのかも知れない。自動的に処理できない情報を常に受け入れることが感覚器官の役割で、それは他の器官と違っている。常時外部世界の変化に気づくことが可能なように変化したのが感覚器官だと考えられる。情報とは自動的に処理できないものを含んだもので、それゆえ、気づくことによってその処理を決めるという操作が挿入されている、と考えることができる。気づきの挿入は刺激に応じた反応の選択を適確に行うための工夫である。気づきが生物学的に重要だということがわかれば、心身二元論デカルト風ではなく、ダーウィン流に変わる筈である。「気づく」とはどんなことを指すのか。このような哲学的な問いを、「気づく」ことはどのような適応なのかという進化生物学的な問いに変えることによって、経験レベルでの問題として捉え直すことができる。

自動化と反対の概念として気づきを取り上げるのがよいかも知れない。食物に対する気づきと口に入った食物への反応は本質的に違っている。反応は選択がなく、受け入れるか拒絶するかである。防御ではなく選択するのが気づきである。気づきのない反応と、センサーを使ってもたらされる情報を考慮した反応とは何が異なるのか。そのセンサーがどのような範囲、どのような対象についてのものかが肝心な事柄である。センサーは人の気づきを真似たものと解釈できるが、センサーがどのような効果をもつかは実験や観察を通じて得られたデータなどによって客観的に明らかにできる。つまり、気づきという作用はセンサーの効果、役割、機能、働きとしてある程度は物理主義的に理解できる。感覚器官とは気づくことができるセンサー、気づき付きのセンサーと考えることができる。それが多様化、精緻化して感覚器官として独立的に働くようになることによって、気づいた結果が情報として処理され、最終的に知識になり、行動に使われることになる。

気づく、わかる、知ると言った動詞の間には親密な関係があり、ほぼ同義である場合がしばしばある。生活する中でいつの間にか、心身の関係が想定され、認識作用は生理作用とは異なると何の疑問もなく信じられてきた。「気づく」ことは心的用語なのか、身体的用語なのか?この問いは実は大変紛らわしい問いである。「何にどのように気づく」かが多様であればある程、ある場合は心的に、別の場合は身体的に用いられて、コロコロ変化している。温度や湿度、圧力に気づくのは心的と言うより身体的だと思われているが、相手の気持ちや感情に気づくのは優れて心的だと思われている。気づきは心身両方に使われ、気づきから見れば心身の区別は根拠の希薄な区別なのである。観察や実験の結果に気づくことは心的ではなく、物理的な情報に気づくことであり、気づく内容は情報というより事実や実在だと考えられてきた。一方、相手の感情に気づくことは物理的ではない心理的な状態に気づくことだと思われている。

気づきを通じて学習によって心のシステムがつくられていく。学習は言語、知識を使って行われるが、アナログ的な気づきに比べ、ディジタル型の言語と知識によって行われるところに特徴がある。情報に気づく、あるいは気づくものが情報、という関係が気づきと情報の間にある。アナログ型の気づきの内容が情報処理され、言語表現を通じてディジタル型の知識として表現される。つまり、情報に気づき、気づいたものが処理されて知られることになり、知識として表現される。気づかないゾンビはこの一連の過程がなく、それゆえ、ゾンビは知ることがないことになる。ゾンビは「知る」、「知らない」という言葉の意味を知らないだけでなく、ゾンビにとってそれらは意味不明の言葉である。[4]

気づくことの分子レベルでの機序を見出すこと、それが「気づき」を知るための経験科学の物理主義的に正しい方法だという信念は相変わらず強い。気づきの分子レベルでの解明においてもどのような気づきかが重要となる。気づきの幅の広さは、気づきの違いに応じて全く異なる分子機序があることを予想させる。さらに、「気づくことに気づく」ことがどのように気づきの適応に寄与したかを知ることは物理主義を越える可能性を秘めている。

知識を習得する、知識を生み出す際の気づきは言語や意味、論理や数学への気づきが大半を占める。それは気づきより、知る、認識するという謂い回しで表現されてきた。知ることを知る前に、知ることに気づくのである。その気づきが好奇心を刺激し、知るとは何かを知ろうとするのである。

「感じる」と「知る」はまるで異なることと考えられてきたが、いずれも気づくことでは共通している。知性と感性は共通の根をもっていて、それが「気づく」という言葉で表すことができるのである。気づくとは、知る、感じる、さらには信じる、それらが未分化のままに気づくことである。気づくことは感じること、あるいは知ることにつながり、認識のきっかけとして共通している。気づきが情報処理の第1段階で分岐し、異なる情報処理の過程で処理されることによって、異なる結果が出ることになる。

 

 

[1] ここでの「感じる」とは私が「気づく」と言ってきたものとほぼ同じである。「感じる」と「知る」を感覚と知識に分ける習慣はプラトンのこの著作から始まると言ってもよいが、眼に映ることが単純に感じることでないことは誰も否定しないだろう。純粋に「感じる」だけの状態と知ることと感じることが協働した状態のいずれが心的状態かと問われれば、誰もが後者と答えるのではないか。プラトンの議論の出発点の単純な二分化は何か現実離れした前提と言えないだろうか。「知識はイデアについての知識である」というプラトンに抗して、私の主張は「知識は情報についての知識である」というものだったことを思い出してほしい。

[2] この議論は成程と思う人がいるだろうが、とても不思議な議論である。感覚が与件、つまり入力であり、その入力を処理して出した出力(=判断)が知識だというのであれば、感覚によって生み出された知識は感覚に依存したものということになる。すると、感覚と知識は基本的に異なるものではなく、感覚を原因にして生み出されるのが知識ということになる。

[3] 「知識が存在するものについての知識である」という主張は認識を存在によって特徴づけるもので、「知識は情報についての知識である」という情報論的な特徴づけとは基本的に異なっている。

[4] ゾンビを使った、次のような論法がある。

1.私たちは意識体験をもつ。私たちは意識、クオリア、経験、感覚などをもつ。

2.物理的には私たちの世界と同一でありながら、私たちの意識が存在しないような世界が存在する。現在の物理学では、意識、クオリア、経験、感覚を全く欠いた世界が想像可能である。この哲学的なゾンビだけがいる世界はゾンビワールドと言われる。

3.したがって、意識に関する事実は物理的事実とは別のものである。ゾンビワールドに欠けているが、私たちの世界には、意識、クオリア、経験、感覚がある。それは現在の物理法則では表現できない。

4.ゆえに、唯物論は偽である。

以上の点から現在の物理法則によってすべてが説明できるという考えは間違っている。