伝統的知識のプラグマティックな形

 

  プラグマティックな知識とはどんな知識だろうか?能の曲を何か一つ考えてみよう。そして、物語の登場人物(シテでもワキでもよい)になって、演じることを想像してみよう。(写真は能「黒塚」、月岡芳年の浮世絵「奥州安達がはらひとつ屋の図」舞台で演じることは、物語の脚本として演劇化された知識(つまり、謡本:能の脚本)を体験することである。「体験する」とは自らが演じることでも、他者が演じるのをみることでも構わない。能舞台で自ら能を演じる、あるいは誰かが演じるのをみることを想像してみよう。それが、その曲を知る、その曲に込められた知識を知ることである。これは、ワルツを実際に踊ることがワルツを知ることである、というのと基本的に同じことである。ダンスの知識とはダンスが踊れることであり、それがダンスについてのプラグマティックな知識の真髄で、それ以外のダンスについての知識は付随的である。

 

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1「黒塚」についてのいわゆる知識

黒塚」(観世流では「安達原」)は四・五番目物、鬼女物、太鼓物に分類され、「安達ケ原の鬼婆」伝説に基づく曲。

2物語としての知識

廻国巡礼の旅に出た熊野那智の山伏・東光坊祐慶(ワキ)らは、安達ヶ原で、老媼(前ジテ)の住む粗末な小屋に一夜の宿を借りる。老媼は「留守中、決して私の寝所を覗かないでください」と頼み、山伏たちのために薪を取りに出る。しかし、山伏に仕える能力(アイ)は寝所が気になり、覗くと、大量の死体が積み上げられていた。能力と山伏は、「黒塚に住むという鬼は彼女であったか」と逃げ出すが、正体を知られた鬼女(後ジテ)が怒りの形相で追ってくる。山伏は鬼女を調伏し、鬼女は己の姿に恥じ入りながら去っていく。

3物語についての知識

特にこの曲では『拾遺和歌集』巻九の、

陸奥の安達の原の黒塚に鬼こもれりといふはまことか

という平兼盛の歌が構想の核となっている。この曲ではシテは般若の面を着け、その本性は人間である。事実、自己の運命を慨嘆し、その正体を知られることを恐れ、また山伏のために薪を用意しようとする女性的な優しさも見せる。また、「人間の心の二面性を描いた能」という解釈もある。そういった意味では、この曲のシテは、いわば誰もが持つ心の奥の秘密を暴かれたのであり、観客はむしろその鬼女に同情さえしてしまう。人間としての側面と鬼としての側面のどちらを強調するかで、曲の趣は変わってくる。

 これら13の「黒塚」についての付随的な知識と「黒塚」の上演とその鑑賞という本体の知識が組み合わされて、「黒塚」についてのプラグマティックな知識が成り立つ

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 因果的な系列として展開される物語として知識を体験することがプラグマティックに知識をもつことである。演者と観客が一体となるような演劇空間では知識が共有され、それによってプラグマティックな経験という仕方で「知る」ことが実現している。実際に舞台で演じられる曲を鑑賞するだけでなく、演者の演技を通じて作者の意図も理解することができる。

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  運転技能、運動能力、絵画や書道の能力等は典型的にプラグマティックな知識であり、生きるための技術、こつである。技やコツの習得のためのマニュアル、習得のシミュレーションは叙述的な知識とは大変異なる知識の有り様である。生じ、展開し、あるいは感じ、演じる仕方での知識がプラグマティックな知識であり、マニュアルとしてシミュレーションに利用することができる知識である。

 「伝統」、「慣習」、「しきたり」、「習わし」は地方ごとに守られ、維持されてきた。それら異なる呼び方は基本的に同じことを指していて、そこに住む人々のとるべき行動マニュアルと守るべき規範が渾然一体となった指令書のようなものである。これを具体的に理解する格好の例が伝統的な芸能や技能である。能も歌舞伎ももっぱら先人の芸(=知識)を身体の動きとして繰り返し憶え込むことにその真髄がある。それは徹底して真似ることであり、それが能や歌舞伎の知識の本性を見事に表している。ものづくりの技能もその基本は真似ることにあった。飛躍するなら、真似ることのできる知識が伝統や慣習という知識であり、「習うより慣れろ」と言うがごとく、伝統的、慣習的な知識とは所作や動作、行動を細かに決めたマニュアルであり、そのマニュアル通りに実行するために、一流の先人の動作や演技を一途に真似るのである。このように伝統や慣習を捉えると、それらが科学的知識とは大きく異なる点が浮かび上がり、その違いが一目瞭然になる。科学的知識はマニュアルではない。だが、それを科学技術として活用することができるということは、マニュアル化が可能であり、それが形而上学とは異なった点なのである。

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 伝統や慣習の一部を法律にしようとして明文化すると、マニュアルだった伝統や慣習の一部をマニュアルから説明文にしなければならない。祭りについてのしきたりは祭りの実行マニュアルとして伝わってきた。祭とは何か、何が目的か、どんな歴史をもつかは祭のしきたりの外にあり、祭の実行には必要ないものである。その必要ないものが明文化され、祭についての説明がなされ、それをもとに法律ができあがる。法律の細則に祭の実行に関する事柄が入るかも知れないが、法律そのものは実行規則ではない。だが、伝統や慣習、しきたりや習わしは優れて実行マニュアルなのである。

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 実行マニュアルだから中身を規定していないと考えがちであるが、それは違う。神楽や仕舞のマニュアルは手足の動かし方や仕草の細かな指示からなっているが、それをきちんと演じることが伝統を守るということであり、マニュアルこそが伝統そのものなのである。そこでは伝統の実践そのものが伝統の説明なのである。芸能にしろ、技能にしろ、巧みな技の習得とその技の実現や演技はそれら自体が伝統、慣習なのである。「伝統的な知識」はマニュアル化された、儀式、儀礼として通用する知識、つまり、行為や演技を遂行するための知識(performative knowledge)であるが、「伝統的な知識」と呼んだからそうなるだけで、伝統に従っての行為や演技の遂行そのものが伝統(的な知識)なのである。

 伝統や慣習が維持されてきた仕方が行動マニュアルの形式であり、法律は命題による行動の意味や目的を規範として規定した知識形式である。実行できるマニュアルは規範を必ず含む。というのも実行を促し、手順通りに従わせなければならないからである。法律も慣習と同じようにマニュアル化ができるものであり、例えば施行細則がそれにあたる。

 まとめよう。慣習はマニュアル形式の指令のようなもので、行動についての手順と規範との融合したものであり、一方法律は規範とその説明からなる命題の集合で、マニュアル化することができるものである。

 ここでいわゆる知識について振り返ってみよう。私たちが「知識」という語彙で考えてしまうのは、言葉で表現され、複数の文で書かれた文章であり、それを読み理解する私たちは、多分自らの身体を静止し、感覚器官を使わずに、言葉で理解するものではないだろうか。私は動かず、見ず、聞かず、そのことによって、私自身を消し去ることによって知識の内容を捉えようとする。この伝統的な知識の姿はこれまで述べてきたプラグマティックな知識の姿とは全く異なる。プラグマティックな知識は私が動き、見て、感じることを通じて行為すること自体を指すものである。

 物理学や化学の理論は知識であるが、それは数学言語で書かれ、複数の命題からなっている。実験や観察も極力人間の主観的側面は削られ、事件や観察の装置とその性能によって客観的なデータとして科学者の実験、観察の実践から独立して扱われている。

 伝統や慣習がプラグマティックであり、生活世界の経験がプラグマティックであることは、科学的な知識に反するものではない。二つのタイプの知識は両立可能であり、そこに何か溝をつくる必要などさらさらないのである。