時と共に、そして時を超えて:世界と時間(1)

 人は生きて経験し、経験したものを知り、記録し、表現したがる。満ち溢れる好奇心をさらに助長するのが人の周りで起こる魅力的な出来事や対象である。わたしたちは世界という舞台で繰り広げられる物語とそこに登場する自らを含めた人やものに魅了されて生きている。目まぐるしく変化する世界、次々に謎や神秘が登場し、さらにそれらの解明が一層世界を興味深く、悩ましいものにしていく。世界とそこに住むわたしたちをこのように描き出すには一体どのような前提が仮定されているのだろうか。世界を砂漠ではなく謎だらけの楽園に仕立て上げる魔法はどのような前提によって可能になるのだろうか。

 魔法のからくりは左程複雑ではない。アウグスティヌスが主張したことで有名な「現在主義(presentism)」、それをより柔軟により軟化させた「時制主義(tentism)」が上述のような世界を生み出す前提になっている。一方、無味乾燥な物理世界をくそまじめに記述し、予測を正確に行うための主張が「Block Universe Model」である。この主張は絵巻物が展開されたような状態が世界だという見方で、「塊状宇宙モデル」と呼んでおこう。別名が「4次元主義」である。相対性理論でよく言及される4次元時空での出来事をもっぱら対象としたモデルになっている。それをやはりより柔軟により軟化させたのが「3次元主義+感覚知覚」の主張である。その主張によると、「通常の世界=3次元世界」の中でなされる感覚知覚の経験によって成り立っている世界、つまり、わたしたちが常日頃経験する世界が前提されている。確かに、これこそが多くの人が賛同する前提であり、この前提を仮定することによって世界は生き生きと輝き、生きる喜びや悲しみに満ちていることが説明できると思われてきた。4つの異なる主張を再度列挙しておくなら、

 

現在主義

時制主義

3次元主義+感覚知覚経験

4次元主義あるいはBlock Universe Model

 

となる。現在だけが存在し、それだけが圧倒的であるのが現在主義、言語表現における時制をもとにして平等な時間割り振りをし、出来事は皆歴史的なものだという、一見穏当で退屈な時制主義、 3次元に存在する時間と無関係な対象とそれを時間の中で感覚知覚するわたしたち、というカント的な古典的認識が成り立つ世界、そして最後は時間を超越した存在からなるパルメニデス的な世界、つまり傍観者=神の立場から俯瞰する世界という風に並んでいる。そして、わたしたちと言えば、常識的、民衆的な立場で、時制主義と3次元主義の間を往復しながら、想像の世界では現在主義も4次元主義も夢見る余裕をもちながら、日常生活の時間的な理解をし、時間に翻弄され、運命に弄ばれることを楽しみ、苦しむ経験をしている。

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 アウグスティヌス、さらにヘラクレイトスまで遡ったとしても、これまで主張されてきた現在主義は哲学的主張であり、純粋過ぎて歴史学者や文学者には向かない。歴史や物語が成り立つためには出来事の因果的な繋がりが必要で、過去、現在、未来という時制がないと語ることさえままならない。現在という感覚を詩的に表出、表現するだけでは歴史や物語の展開は不可能である。世界の出来事を物語化するには現在主義を堕落させて時制主義に宗旨替えしなければならない。過去も未来も現在と同じように存在し、威力をもっていないと、物語はつくることも、読むこともできない。

 時制主義と3次元主義+感覚知覚経験の混合がわたしたちの文学的な感慨も含めた世界観となっている例の一つを取り上げてみよう。「不易流行」とは松尾芭蕉が『奥の細道』の旅の間に体得した思想である。「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」、つまり「不変の真理を知らなければ基礎が確立せず、変化を知らなければ新たな進展がない」、しかも「その本は一つなり」、つまり「両者の根本は一つ」であると芭蕉は主張する。「不易」は変わらないこと、即ちどんなに世の中が変化し状況が変わっても絶対に変わらないもの、変えてはいけないものということで、「不変の真理」を意味している。逆に、「流行」は変わるもの、社会や状況の変化に従ってどんどん変わっていくもの、あるいは変えていかなければならないもののことである。「不易流行」は俳諧だけでなく、文化や科学に対しても同じように成り立つ。芭蕉が時制主義や日常の3次元経験の中で不変の存在や常に移り行く現在に思いを馳せながら、異なる時間観の間を行きつ戻りつして、時間の真の姿を掴み取っていることがわかる。  人類は誕生以来「知」を獲得し続けてきた。「万物流転」(ヘラクレイトス)、「諸行無常」(仏教)、「逝く者はかくの如きか、昼夜を舎かず」(論語)、「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」(鴨長明)など先哲の名言が示すように、森羅万象は時々刻々変化し、「流行」するから「知」は絶えず更新されていくが、先人達はその中から「不易」即ち「不変の真理」を抽出してきた。その「不易」を基礎として、刻々と「流行」する森羅万象を捉えることにより新たな「知」が獲得され、更にその中から「不易」が抽出されていく。「不易」は「流行」の中にあり「流行」が「不易」を生み出す、この「不易流行」のシステム化によって学問や文化が発展してきた。一人ひとりの人間も「不易」と「流行」の狭間で成長していく。  時間についての4つの異なる主張は、そのどれか一つが正しいというものではなく、人が少なくても4つの異なる時間概念をもち、文脈に応じて巧みに使い分けてきたということが肝心なのである。

 

<物語を制作する立場からみると:三つの時間とその計測>

過去・未来の非存在と現在(中心)主義の制作作法

わたしたちは時間を現在・過去・未来に分けている。それが物語の制作作法の大前提となってきた。実のところ、現在・過去・未来は時制の区別であって、時間の区別ではないのだが、この前提を置くことによって、言葉の時制をそのまま使って物理世界の時間的変化を描くことができるようになる。これは物理学者でない書き手にとってはこの上なく好都合なことである。物理世界に時間の三つの区別を導入し、言葉の世界の時制を使って、言葉で世界を歴史的に考え、語り、述べることができるようになる。この点が時制主義の最たる効力で、それだけでも時制主義は時間を扱う見事な戦略となっている。物理学を知らなくても文法の時制を知っていれば、世界を歴史的なものとして理解し、表現することができるのである。時間は時制に征服されることによって、歴史的な時間として受け入れられてきたのである。過去形も未来形も自由に駆使して英雄の一生を語ることなど容易いことになった。過去も未来も現在と同じように実在的であることが承認されたのである。物語の制作作法と言えば文学的響きを感じてしまうが、要はわたしたちの生活作法なのである。過去、現在、未来という区別がわたしたちの生活を生み出し、人生を脚色しているのであり、そのエッセンスが物語の作法として洗練され、文学に昇華されたのである。作文の書き方は実際の生活を素直に眺め、それを的確に描くことだというのは、学校の国語の時間の先生が言うことではなく、正に正真正銘、真なる言明なのである。大袈裟に言えば、世界や社会、人間や心理について命題をつくり、語り、説明することは時間の過去・現在・未来の時制の区分に基づき、緩やかな現在主義と時制主義を前提にしたものである。つまり、それらは世界について歴史的に理解し、語るための前提になっているのである。語ることの真髄が文学であるなら、文学のもっとも基本的な前提は緩やかな現在主義と時制主義ということになる。

     アウグスティヌスは文学的であり、それゆえ、近代的である。アウグスティヌスは現在主義者というより、時制主義で現在を強調するという方が適切だろう。アウグスティヌスは時制で時間を理解し使おうとする、時制で時間を解釈しようとするだけでは飽き足らず、存在するものまでも時制的に解釈しようとする(文学者はこれほど一途ではない)。つまり、「現に存在するのは常に現在のみである」というのがアウグスティヌスの主張である。これはどういうことかというと、アウグスティヌスにとって、現在の時点であることが過去であるのならば、それは既に存在しない、また、あることが未来であるのならば、それはまだ存在しない。なぜなら、過去はもうすでに過ぎ去り消えてしまっており、また未来はまだ到来していなく、誰も経験していないからである。つまり、現在の時点では、わたしの誕生という過去の出来事はもう過ぎ去っているので、存在しない。また、わたしの死という未来の出来事もまだ到来していなく、経験していないので、存在しない。「時制=時間、存在=現在の存在」という単純な同一視がアウグスティヌスの時間論ということになる。そのような図式のもとで時間的、歴史的な事柄について考え直してみると、確かに常識とは違った時間のもつ側面がいくつも明らかになるのは確かだろう。だが、わたしたちは彼ほど純粋ではない。「わたしが机に向かう」という出来事が時間的だと彼に同意しても、出来事を構成している個々の対象、例えば「机」は時間的だとは思わない。今ある机は10分前も同じ机、10分後も同じ机と思っている。「先ほど火事があった」という出来事は過去の出来事だが、火事のあった場所や家事の原因は既に過去のもので、それゆえ、存在しないとは思っていない。作家の前提とアウグスティヌスの前提の違いがここに歴然とある。作家は純粋無垢なアウグスティヌス(本当のアウグスティヌスは人生経験豊富で、人間を知っている人)と違って、出来事と対象に対して異なる前提、それもアウグスティヌスの眼からは両立しない前提を認めるのである。

 正直なところ、アウグスティヌスが上記のような現在主義を心底信じていたかどうか、私にはどうしても解せないのである。人の心を人一倍知り尽くしていた彼が時間を超えたものをすべて否定するとは思えない。これについては、さらに後で考えてみよう。

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 アウグスティヌスとは正反対の前提を置いたのが、ギリシャ哲学の雄であるパルメニデス。時制によって時間を救うのではなく、時間的なものを不変の存在に還元するのがパルメニデスの試みで、不変的な構造(不易)を主にした形而上学が徹底して主張される。変化を徹底的に不変的なものによって置き換えるパルメニデス的な作法は、ここでは述べないが、現在の「対称性(symmetry)」の研究に至るまでの長い歴史の変遷を経ながら、物理学的な存在の基礎に結びついている。それは現在に至るまで数学や物理学が背後においてきた形而上学と言ってもいいだろう。すべてを完結した形で俯瞰的に理解するというパルメニデス的な観点は明らかにわたしたちの日常生活の作法ではないが、客観的に世界を知るときの作法であることは誰にも容易に理解できるものである。パルメニデス的作法とアウグスティヌス的作法は科学理論と物語や文学作品との違いが何かをはっきりと説明してくれる。わたしたちは中途半端で、いい加減なので、生活世界はこの二つの間にあって、二つの作法を極端な反面教師にして、二つを補正しながら現実に不正確な仕方で適用している。物語という形式が自然に受け入れられ、その作法や前提に何の疑念も持たれないということが、時制の現在についての現在主義を前提として認めることを示している。わたしたちは科学的な理論にはことのほか厳格であるが、物語に対しては至極甘く、現在主義の不合理さを完全に(しかも意図的に)見過ごしてきたのである。

 アウグスティヌスは、「存在するすべてのものは、どこに存在しようとも、ただ現在としてのみ存在する」と述べている。つまり、過去がまさに現在であったその時点でも、もちろん存在するのは現在のみである。ということは、過去も、まさに過ぎ去っているその時点では、過去ではなく現在として存在するということが成立していたのである。また、未来についても同様で、未来がまさに現在となるその時点でも、もちろん存在するのは現在のみである。よって、未来もいずれ到来し、まさに過ぎ去っているその時点が来たときには、未来ではなく現在として存在するということが成立するようになる。過去も未来も、私たちが体験しているその時点では、紛れもなく現在そのものなのである。同じように、私たちが感覚するものはすべて現在の時点で存在している。アウグスティヌスが現代的な思想家と言われる所以は過去の記憶、未来の予測として時間的なものの存在論を意識化させた点にある。過去も未来も意識の世界のものと考え、意識の外の存在は現在のみと分類したのである。

 このように、過去や未来も、それ自身が現在となる時点では、現在として存在するのである。しかし、また時間が経過し、現在として存在するということが成立していた時点が過ぎ去ると、たちまち過去となり、存在しなくなる。つまり、過去は、それが現在であったとき、存在するということが成立していたし、未来は、それが現在となるとき、存在するということが成立するようになる。しかし、その時点において、過去や未来であった場合は、過去はもう存在せず、未来はまだ存在しないのである。このような「現在(中心)主義」は時間の意識を考える際には実に好都合な主張となる。このような時制的存在はわかりやすいように見えるが、わたしの現在と別の人の現在が交錯するような状況を意味あるものにするには現在主義ではなく、相対性理論が前提にする時間の相対性が必要になってくる。複数の相対的な時間の共在は現在主義と明らかに矛盾する。存在の時間と意識の時間は同じ時間でもその文脈は両立しがたいものとなっている。

 現在主義の「現在」は「瞬間」であり、「現在の瞬間」が「現在」であり、過去や未来の瞬間は存在しない。では、瞬間の存在とはどのような存在なのか。瞬間が点のようなものなら、その点は必然的に数学的な点となるだろう。数学的な点は大きさがないから、瞬間には時間的な幅がなく、文字通りの瞬間である。これは一見つじつまが合うように思えるが、サイズのない瞬間に出来事やものが存在するとはどのような存在の仕方をしているのか、誰にも感覚的な像としては想像できない。時間や時制を大切にするのであれば、時間や時制を構成する「瞬間」が極めて数学的な概念であり、日常経験の「瞬間」が曖昧なものであることが浮き彫りになり、それを重要な要素とする現在主義の決定的な弱点になっている。

 アウグスティヌスは、現在主義を信奉し、過去と未来の出来事は存在しないと主張した。アウグスティヌスによれば、神は過去、現在、未来の出来事を同時にすべて見ることができるが、人間にとっては、現在の世界や出来事だけしか存在しない。だが、自然科学は現在だけでなく、過去や未来の記述、説明を追究し、大きな成功を収めてきた。神でない科学者は、並々ならぬ努力を重ね、過去や未来の世界や出来事が存在し、それを一部知ることができるのであり、その知る努力は不断に続いている。

さて、アウグスティヌスが過去はもうすでに存在しないとしたその背景にはどのような考え方があったのだろうか。それがよくわからない。「過去を、私の誕生などのように具体的な出来事、幅がある時間で考えなくても同じである。私たちのように時間の中に生きるものは、一瞬たりとも過去にさかのぼることはできない。なぜなら、一瞬前という時間は、過去であるので、もう存在しないからである。極端に言えば、一瞬前の私はもう存在しないし、本一冊にしても、現在目の前にあるのは、現在の本であって、一瞬前の本ではない。一瞬前の本はもうすでに過ぎ去ってしまい、この世界には存在しないからである。」などと考える人はいるだろうか。どう考えても馬鹿げている。こんな風に考える哲学者がいたら、その人は似非哲学者に過ぎない。