意識の中の時、時の中の意識

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 アウグスティヌスデカルトの先駆けとして有名だが、「存在するのは現在だけ」という現在主義を標榜し、過去や未来は存在せず、よって、存在しない過去や未来について私たちは語ることはできないはずと考えた。だが、私たちは過去や未来について当然のごとく語っている。そこで、彼は、この矛盾回避のために、過去は記憶、未来は期待として現に存在する、だから語れると論じた。

 これは矛盾の解決になっているか。過去が記憶として現に存在するなら、忘れたものはどうなるのか。記憶として残っていないなら、存在しないことになるのか。例えば、置き忘れた財布は存在しないのか。(「誰もいない森の倒木の音は存在するのか」という問いに似ている。この場合、健忘なら思い出す可能性があり、思い出せば財布を忘れた過去が作り直されるが、認知症の場合はその可能性がなく、文字通り過去はないことになる。)また、一般的に未来は不確定。「明日は10時から仕事がある」という予定は実は間違っていて、実際は翌日13時から仕事がある、ということも日常ではよくあることである。

 過去については「忘れること」、未来については「誤ること」がアウグスティヌスの置き換え解釈が直面する問題なのである。ここで肝心な点は、忘れる、誤るといったことは意識の中だけを考えていたのではわからないということ意識の中の時間としてアウグスティヌスは時間や時制を意識の内に閉じ込めた。だが、その意識が働くのは時間の経過を通じてである。私の意識は物理的な出来事と同じように時間的である。「忘れる、誤る」がわかるのは時間の中での意識現象として捉えられる場合である。

 記憶障害は自分の体験した出来事の記憶が抜け落ちる障害で、認知症の主な症状のひとつ。 自覚できる物忘れとは違い、忘れたことの自覚がなく、最近のことから忘れていくという特徴があり、その範囲は拡大していく。記憶障害は大きく5つに分かれ、短期記憶、長期記憶、エピソード記憶手続き記憶意味記憶の5つに障害が出てくる。このように記憶を理解するなら、「忘れる」ことが理解できる。

 では、現在は確固として存在するのか。感覚経験は現在でも定かでない場合が多い。現在の意識経験と現在の世界の状態とは同じではなく、過去や未来の意識がもつ欠点を現在の意識も共有している。痛みを感じない「先天性無痛無汗症」は、痛みを感じることの大切さと痛みを感じないことの大変さを教えてくれる。痛みを感じない、痛みの経験がないということは、「痛みを知らない、痛みがない」ということなのだろうか

先天性無痛無汗症の症状のレベルには個人差があり、痛みや熱さ、冷たさの感覚が全く無い人から少しは感じる人まで様々である。ただ患者は感覚がないために、知らぬ間に自分を傷つけてしまい、それらの危険を学習することが難しい。

「痛み」の感覚がもつ意味は遺伝的な病気から明白である。痛みの感覚内容が主観的なクオリアだとしても、適応としての痛みがもつ機能は進化的で、生理的な文脈の中では明瞭である。機能的な痛みはクオリアとしての痛みの違いは時間の中の意識と意識の中の時間の違いに極似している。痛みを知るために機能とクオリアの両方が必要だとすれば、意識と時間の両方が経験には必要である。

 こうして現在の意識も人によって大きく異なり、現在が意識に与えらえる仕方には個人差があり、ある人には意識されても別の人には意識されないことが同じ時刻に起こることになる。それゆえ、現在も過去や未来と同じように誤りを含むことができるのである。未来の「誤り」についても同じような議論を展開できる。

 さて、アウグスティヌスの「意識の中の時間」と認知症の記憶障害の「時間の中の意識」という二つの枠組みの違いをしっかり見据えたとき、私たちはどのように対処すべきなのか。一方が正しく、他方が誤りという関係ではなく、二つは二通りに見える多義図形のようなものである、という捉え方がある。

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成程と思わせるような器用な解釈で、つい賛成したくなる。心身の違いによく似た違いが、意識的なものと物理的なものの間にあり、この二重性が意識の中の時間と時間の中の意識の関係だと説明されるとつい得心してしまうことになる。これが見事な解釈などではないことを例を通じて考えてみよう。

同窓会の例

 40数年ぶりの同窓会に行くとする。行く前に君は若い頃の思い出に浸る。蘇り、溢れ出るかつての記憶の洪水の中でプルーストの『失われた時を求めて』を思い出すかもしれない。ここまでが意識の中の過去、つまり記憶としての過去である。次は同級会に出席してからの話。かつての友だちたちと再会し、アルバムや文集等の記録を見ながら、学校生活について語り合う。そこでは客観的な歴史が話され、共有する記憶が話題となり、君が一人で思い出していた幾つかのエピソードが確認され、あるいは修正を受ける。

 ここには明らかに異なる二つの過去が登場している。「記憶の中の過去」と「客観的に共有される歴史」である。アウグスティヌスの記憶の中の過去と客観的な歴史的過去は異なると言われ、それが当たり前のように思われがちだが、同窓会に出席する君は出席前と出席後で異なる過去を経験するのか。そんなことはなく、君は自らの記憶と旧友と確認する過去が同じものであることを信じて疑わないはず。客観的な過去も主観的な過去も実は同じもの。客観的とか主観的とかいう表現に惑わされてはならない。それは哲学者の常套的なレトリックで、哲学者自身がそのレトリックに踊らされているに過ぎない。同窓会に出席することによって君の記憶は客観的な記録や資料によって修正、変更されることがあっても、それによって君の記憶が全否定されるなどということはない。

座標系の例

 主観的な記憶と客観的な歴史はともに過去の事柄に関わているが、二つの関係をアウグスティヌスのように矛盾した関係と考えてはならない。「意識の中の過去=記憶」は「過去の意識=歴史」と重なって構わない。私が思い出さない過去はたくさんある。とはいえ、思い出さないからといってその過去がなかったわけではない。では、現在主義や時制主義をとらずに世界の時間的変化を捉える場合についてはどうだろうか。

 ユークリッド幾何学に座標を入れた解析幾何学の原点を主観的な私の意識の原点であるとしてみよう。私が現在経験する、意識する時点、地点が原点によって表現されている。解析幾何学的モデルでさえ、主観的な視点を原点として表現でき、しかも、その視点の変化が運動として表現できる。私たちはその本性上プラグマティックであり、物理世界と意識世界の間でさえ、平気で行きつ戻りつしながら、私たちと世界を理解してきたのであり、「主観と客観」という表現から、すぐに二項対立的に捉える必要などないのである。

 「意識の中の時」も、「時の中の意識」も、時であり、意識であることに違いはないのである。