認識の絵画論的モデル:知覚と空白(2)

1「破墨山水図」  

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   絵画修行を終えて山口から鎌倉へ戻る弟子の如水宗淵に対し、雪舟が修了証書の意味も兼ねて餞別として描き渡したのが「破墨山水図」。雪舟が描いたのは明応4(1495)年3月で76歳の時。紙に墨のみで描き、構成は下から上に雪舟自筆の破墨山水図、雪舟の自序、京都五山僧6人の賛、からなっている。水墨画の絵と賛がつくのは普通だが、自序がつくのは珍しく、これが「破墨山水図」を有名にしている理由でもある。職業画家の肉声とも言える文章が残されているのは、この作品のみ。自序には京都や鎌倉の五山へ向けての雪舟自身の所信表明が強く感じられる。その内容は次の通り。  宗淵は私に師事して絵を学び、鎌倉円覚寺へ帰るに際し、私に教わった証として絵を描いて欲しいと再三依頼してきた。私は老齢で目もかすみ、気力も衰えていたが、ちびた筆をひねり、淡い墨を注いで絵を描いた。私は48歳の時、宋の地に入った。揚子江を渡り、斉や魯を経て北京に至り、そこで師を求めたが、筆法の優れた画家は希だった。だが、長有声と李在に随い破墨の法と色の塗り方とを学んだ。3年後に日本に帰り、私の師である如拙、周文がものの本質を描写していること、先人の絵を継承して、あえてそこに付け加えたり、損ねたりしていないことが判った。中国と日本の両方を見て、如拙、周文の考えが高いところにあったということがわかって、両者を慕う気持ちが一層強くなった。この序は、明応四年三月中旬、四明山天童景徳禅寺の首座に任命された76歳の雪舟が書いた。  雪舟が中国で学んだという「破墨」は溌墨法で、事物を描くときにはっきりとした輪郭線を用いず、墨を溌いで形象を表す技法である。溌墨技法雪舟が若い頃から行い、晩年に至ってもこだわりを持ち続けた技法である。室町時代水墨画の描き方には、習字と同じように楷体、行体、草体があり、溌墨とは草体の描き方に該当する。  この「破墨山水図」を携え、宗淵は鎌倉に向かう途中、京都に寄り、当時高名だった6人の五山僧に賛をもらい受ける。6人とは月翁周鏡(相国寺)、蘭坡景茝(相国寺)、天隠龍澤(建仁寺)、正宗龍統(建仁寺)、了庵桂悟(東福寺)、景徐周麟(相国寺)という、最高の詩文僧たち。6人は他の着賛画や詩文集などにも揃って登場し、並び順も常に同じ。

2「慧可断臂図」

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 まず画を見てみよう。右側で座禅を組んでいるのは禅宗の始祖達磨、彼に参禅を請うたのが左にたたずむ慧可。願いは聞き入れられず、慧可は決意のほどを伝えるために自ら左腕を切り落とす。重厚な岩肌の2つの穴は達磨と慧可の二人の位置関係と同調していて、対角線が強調された構図のなかにもうひとつのリズムを生み出している。達磨の格好がなにか浮き上っている。岩肌や表情の描写とは全く異なる要素が、強引に同居させられている。ひとつの絵のなかに異なる解像度がまじり合っている。本来近づいて見れば細かく描かれているべきところが思いきり白く抜かれていて、この組み合わせが不思議な効果を生み出している。また、横顔の輪郭に対して目は正面から、耳は後ろから見た形でを組み合わされていて、エジプト絵画のようなキュビズム的表現になっている。雪舟がこの絵を描いたのは77歳で、これが最後の画。

 伝説によれば、ある寒い冬の朝、慧可は師である達磨大師に仏法を求めにやってきた。達磨大師は達磨亭で座禅を行っていたので、慧可は合掌をして外で立って待つことにした。午後になり、夜半になっても、達磨亭の扉は開かれず、慧可はずっと待っていた。夜半になり、身を切るように冷たい風が吹き、空からは雪が激しく降ってくる。しかし、慧可は声も出さずに、静かに立っていた。二日目の朝に達磨大師は座禅を終えて目を開き、慧可を見たが、このとき雪は慧可の膝にまで達していた。達磨大師が、そこで何を待っていたのかと慧可に尋ねたところ、慧可は「師に仏法を求めるためにやってまいりました。」と答える。達磨大師はそれを聞いてぶっきらぼうに、「空から赤い雪が降らない限り、お前に仏法は伝えない」と言いわたした。慧可はこれを聞いて、達磨大師は慧可の持つ罪悪の種が除かれておらず、禅宗に対して良くない考えが浮かぶのではないかと恐れていることに気づく。そこで慧可は戒刀(僧侶が持つ懐剣)を取り出すと、左腕を切り落として、自らが持つ罪悪の種を捨て去った事を示した。慧可の腕が切り落とされたため、亭の前は血で染まり、慧可も気を失って倒れてしまった。伝説によると、観世音菩薩が現れ、赤いあや絹の布を広げて寺全体をおおったと言われている。達磨大師は野山が赤一色に染まったのを見て、あわてて慧可を僧房に入れた。達磨大師は慧可の仏法を求める心にいたく感動し、衣鉢と法器(仏教で使う道具)を渡す。これは、慧可が自分の考えを伝承するものであると認めたことを意味している。こうして、慧可は禅宗の第二代の祖師となった。

 これほど長く描かれている画の内容を説明しないとわからないのが「慧可断臂図」の特徴かも知れない。不思議なことにその説明があってもなくても、画を鑑賞するには直接関係してこない。画の鑑賞と画の内容の鑑賞とはまるで違っている。画の鑑賞は既述のキュビズム、様々な筆遣い、異なる画法が共存するのがこの画であり、画の技術の実験的な組み合わせがふんだんに入っている。

3 山水

 山水は神聖な仙人の住む場所。仙人の仙の字は山に入る、という意味で、人々の憧れの的で、絵にも描かれるようになる。戦国から後の時代になると、「逸民」、「隠逸」という「隠れる」という発想が出てくる。俗世と縁を切って山に入る、これが逸民とか隠逸ということで、この住処が山水である。

 「竹林の七賢」は俗世間を捨てて山に入った七人の賢者。孔子儒教は政治の理論、政治を行う者の倫理道徳で、儒教に従って政治が行なわれる。ところが、竹林の七賢は俗世間を捨ててしまう。これが老荘思想。結局、中国の思想は「儒教」と「老荘」という二つの構図で動いている。都の政治は儒教、そこから逃れた人たちは老荘思想、ということになる。仏教も老荘思想の仲間として受け入れられた。仏教は脱俗で、老荘の思想に近い。山水画の成り立ちには老荘思想や仏教の原理が背後で働いている。科挙に合格した大変優れた知識人、官僚、芸術家という文人たちが文化の担い手で、山水画の理論的な水準はすこぶる高い。

 水墨画の起源を辿るのはなかなか難しい。正倉院に白描画が残っているが、これを水墨の起源というのも難しい。顧愷之という四世紀の人の画論があり、次のように述べられている。「凡そ画は人が最も難く、次に山水、次に馬。」人が最も難く、その次が山水であり、その次には動物。それから、「気韻生動」というと、もともとは動物の生き生きした様のことで、姿かたちを描く、それが生き生きとして見えていなければいけない、というのが気韻生動の元の意味である。水墨といえば、やがて気韻生動という、理屈になってくる。

 『歴代名画記』や『唐朝名画録』に「溌墨」という概念が出てくる。「溌墨山水」という概念で、「溌」は「はねる」ということで、生き生きとしたさまを意味している。「画を作ろうと思えば、先に飲む」とある。先にお酒を飲め、と。筆を振り回し、薄い墨や濃い墨を撒き散らしたところに形ができる。それが山であり、石であり、雲であり、水であると。今で言うと、前衛芸術である。これを唐代の記録は、溌墨と呼んでいる。これは、ある意味で「逸」という概念に通じる。「逸」というのは「逸脱」とか、「逸する」であるから、こぼれる、あるいは、はぐれる、という意味で、「逸品」は世間の規格から外れているが、それが実は最高によい品であることを意味している。

 中国の絵画の中でも「逸」という概念が重要になるが、これは八世紀後半からの禅の登場とつながっている。俗世間を外れてしまった、超えてしまった、そういう存在として禅僧が捉えられ、山水画が描かれる。中国文化の中で「逸格」という価値概念がだんだん高い意味をもってくる。その理論を総まとめにするのが、蘇東坡である。蘇東坡もまた禅と大変縁が深く、詩人であり、優れた官僚であり、なおかつ、画家でもあった。  道元の『正法眼蔵』の「渓声山色の巻」で蘇軾の詩が引かれている。「渓声は便ち是れ広長舌、山色清浄身に非ざること無し。夜来八万四千偈、他日如何が人に挙似せん。」(せせらぎの声、そして、山の色、これはすべて仏の法身のあらわれでないものはない、文字通り詩に書いてある「渓声」「谷川のせせらぎの声」というのが「仏の広長舌」である、「山の姿かたち」というのは「清浄身そのものである」、そうやって、廬山で一夜を過ごす。一晩中その、せせらぎの声が聞こえているから、これはまさに、「仏が八万四千の偈」を唱えておられる、この感動をいったいどうやって、誰に伝えたらよいのだろうか。)仏教的な山水の解釈として非常に美しい風景を描いている。

  この蘇軾を中心にして完成してくる北宋の芸術理論というのは結局禅宗の考え方とつながっていて、「逸格」は、蘇軾が大変高く評価する価値基準になってくる。そして、人間。人間が一番描くのが難しいことを思い出すなら、やがて北宋以降、北宋から南宋にかけての絵画というのは、道釈人物画というものが大変人気を得てくる。まさに禅宗と密接に関わっていく。それが技法としては溌墨である。

4 破墨  

 白い紙、硯と墨、筆が一本、そして水。道具はこれだけ。左には弟子の宗渕が座り、雪舟の指先を、息をこらして見つめている。雪舟は、最初に水の中に筆を下ろす。ゆっくりと筆を解きほぐし、絵を描き始める。一番最初に紙の上に置かれるのは水。最初に墨をつけない水を置く。それからその墨の色の濃い、手前の山の頂のあたりにも水をサッと置く。それから薄墨を使う。薄墨を筆にとり、山の頂から左へサーとおろす。すると水のあるところには墨が広がる。乾いている部分はそのまま筆の線が直に出る。この調子で左下に下ろし右下に下ろし、もう一回屈折して左下に下りる。次に薄墨でもう一つその手前の岩の固まりあたりまで描く。その一番手前の岩の固まり、そしてもう一つ手前の砂、砂州。岸辺のこの砂を二段ばかり描く。ここまで薄墨で一挙に描く。そして、家を描くためにちょっと形が安定しないのでもう一度もっと薄い墨を使う。屋根の左側に大きなかたまりの墨をはく。それから家の下の辺り。これは水を刷く。水を刷いているから墨が結構薄くなっている。  

 これで大体大きな手前の山の形ができる。今度は一番濃い墨を筆にふくませて、上から勢いよくと墨をばらまく様に置く。左の一番濃いところは、水を最初においているのでパッと墨が広がる。真ん中の山の色の濃い部分にも、これは樹木の幹だが、これを入れていく。その流れで濃い枝を点々と入れていく。その濃い墨のまま屋根を二軒描く。その手前は芝垣。それから下って今度は船、右下の船に人。これで大体全景の景色ができた。  

 最後は後ろの山。これはゆっくりと時間をかけて、屋根とか船とかの対比で後ろの山の高さというのは決まるから、どの辺りに後ろの山を置くか決める。これも水を最初に山が消えている辺りにサッとはいておく。そして非常に薄い墨でもって後ろの高い山をいっきに描いていく。すると水に滲んでぼかしができる。もっと一段と薄い墨でもう一つ奥の山をサッと入れる。20分ほどで完成。  

 20分は水の乾く間。水の乾く間に描いてしまうことが破墨とか溌墨の一気呵成の呼吸。溌墨は文字通り一気呵成に描かなくてはいけない、その気持ちが盛り上がったところで筆をとって墨をおく。これは人間の計らいでは出来ない。その時節の因縁の賜物で、水と墨と筆と、こういう不確定な要素が奇跡のように働いてくれないと、完全な素晴らしい絵にはならない。そういう意味で、この破墨の山水というのは、奇跡のように出来た、調和のとれた水墨画である。そういう意味では、哲学的に「永遠の今」、絶対の現在をとどめている絵画である。