認識の絵画論的モデル:知覚と空白(3)

5「松林図屏風」  

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 長谷川等伯安土桃山時代を代表する絵師。20代半ばから晩年期の60~70代までの作品が知られている。彼の代表作といえば「松林図屏風」が挙げられ、日本人が大好きな作品だが、この画は晩年の、それも下書きである。しかし、確かに人の心を打ち、とてつもないインパクトと美しさを持つ作品である。もう一つ挙げるなら、「松林図屏風」と並んで国宝となっている、智積院の「楓図壁貼付」。「楓図壁貼付」は典型的な金碧障壁画であり、濃絵である。これは等伯の代表作というだけでなく、桃山美術の代表作でもある。等伯はその《松林図屏風》から受ける印象とは違い、器用な画家で、何でも描くことができた。仏画や人物画にも長けていたし、山水画としても、「枯山水」の道を切り開いた一方で、その正反対になる金碧障壁画も描くことができた。

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 作風は生涯にわたり変化し続け、手がけられた作品も仏画や肖像画はもとより、水墨画、金碧画など素材・用途を問わず幅広い画域を持ち、絵師としての水準の高さがわかる。画業の初期には主に仏画や肖像画を描き、33歳の時両親が他界し、上洛。土佐派と並び席巻していた狩野派に強烈な対抗意識を抱きながら画業に尽力し、千利休など豊臣秀吉に関わる人々と交友を重ねながら次々と作品を制作。しかし、1593年に長谷川一門の後継者として嘱望されていた息子久蔵が26歳で夭折したことや、豊臣家の滅亡などもあり、その生涯は苦節の連続であった。雪舟に己の画系の祖を見出した等伯であったが、その功績は甚大であり、独自の様式・画派として確立している。

 阿部龍太郎の『等伯』(平成24年/2012年9月・日本経済新聞出版社刊 第148回直木賞受賞)は面白い。秀吉が「乱暴者の絵描き」と呼んだ生き様は、とにかく壮絶。等伯は戦国時代を生きた画家。戦禍に身をすくめながら死と向かい合う日々。その中で無我夢中の制作が続く。絵一筋、絵オタクと言えば、北斎ゴッホだろうが、等伯も負けていない。明けても暮れても絵のことばかり考えている。狩野永徳は、等伯を画壇から抹殺しようとするが、等伯も簡単に潰れたりはしない。だが、息子の久蔵は後に狩野派により殺されてしまう。等伯は、妻、子、兄、養父母を悉く失う。無常を思い知らされた等伯は、不朽の名作「松林図」を生み出すことになる。

 等伯の「松林図屏風」を詳しく見てみよう。初冬の朝靄か雲霧、または驟雨がかかる松林の風景を描いている。この画の湿潤で大気的な雰囲気や松林の情景は、四季の情緒や永遠の時間を如実に感じさせる。おそらく、画面を立て、藁筆を使って描いたのだろう。素早い筆致による荒々しく勢いのある松枝の表現や、水墨による黒の濃淡のみで表現される簡潔で明瞭な松林の様子、不必要な要素を一切排し、松の木々と遠景の山のみが絶妙に配される計算された画面構図も、画家の現存する全作品の中でも白眉の逸品である。さらに、永遠に続いていくかのような時空的奥行きと広がりを示唆する余白、空白の取り方は、画家の実在に対する瞬間の直観を写し描くためのものである。この清澄な物質・空間的表現こそ土佐派や狩野派にはない、等伯独自の絵画様式・絵画世界をつくっている。画面には静謐な詩情性と精神性とが満ち溢れており、まさに孤高の極みに通じる日本の美そのものである。

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 なぜ等伯の「松林図屏風」を現代的に感じるのか?「松林図」はもともと屏風画ではなく、もっと大きな障壁画の草稿として書かれたものらしい。それは印が通常のものではないこと、紙が薄手のものであり張り合わせ方が異例であること、構図が屏風画としては不自然であることからの推測。松の木の配置も、屏風に貼りなおされたものは松林が左右に広がる感じだが、もともとは上下にずれているのでもっと変化に富んでいて、雪山を中心とした奥行きが出る。松林図の描法については没骨描(もっこつびょう、輪郭線を用いない)で撥墨(はつぼく、墨を撥ね散らかすように用いる)と渇筆(かっぴつ、生乾きの筆を擦り付けるように用いる)の技法が目につく。画面に近づくと荒々しい筆致が見え、ものの形は遠ざかることによって見えてくる。墨と筆の痕跡が私たちが見るとものの形となって存在することになる。

 

6 セザンヌの多数視点と空白

 セザンヌは逸民、隠者のようでありながら、絵画に革命を起こしたと言われている。ポール・セザンヌ( Paul Cezanne、1839-1906 )は後期印象派の画家。19世紀後半の市民社会パリで、セザンヌは画家として身を立てようとするが、画壇には全く評価されず、プロヴァンスのエクスに引きこもってしまう。晩年期になって評価され始めるが、1906年肺炎により死去。セザンヌは19世紀までの古典的な絵画から脱皮を図り、20世紀の抽象絵画への先駆けとなった「近代絵画の父」と位置づけられている。抽象画の先駆けとなり、対象を輪郭ではなく、色彩でとらえるという方法を追求した。

 セザンヌはどのような革命を起こしたのか。まずは、遠近法の破壊である。遠くに見える山は小さくぼかして描くが、セザンヌは遠くの山でも手前に大きく描き、西洋絵画の根本にある「遠近法」を無視した。写真では、遠くになるにつれて空気の厚みで青くなってかすんでいくが、セザンヌの絵では、遠近による色の区分けが全くないかわりに、物の影が綾織のように描かれている。セザンヌは、目には見えない、自然の構造や調和、響きあいがある、と考えていた。透視図法の否定は多数視点の導入につながってくる。セザンヌの代表作「台所のテーブル」はその格好の例である。原画に描かれたさまざまな物と似た実物を集めて、原画通りに並べ、絵が描かれた時の視線位置で写真を撮ってみると、それがよくわかる。セザンヌの絵は明らかに、定点位置から遠近法に基づき描かれたのではなく、さまざまな視点から眺めたいろいろな物をそのまま1枚のカンバスに再構成して描き込んでおり、実際にはありえない光景なのである。キュビスムの原点がここにある。

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 次の革命は色の塗り残し、空白の存在である。セザンヌの絵には、色の塗り残し、空白のある絵が多く、水彩画ではその傾向がさらに顕著。複数の視点が空白を結果するというのが私の解釈である。破墨ノ考えもこれに重なる。つまり、ある形にそって色を塗るのではなく、色のタッチを重ねながら形を構成し、一つ一つの色は、現実の樹や家を示すのではなく、色を面として重ね塗ることで漠然と樹や家になってゆく。空や山に同じ青色を塗っているセザンヌは、現実に見える色を使っていたのではない。色が全く塗られていない空白部分は、光をひとつの色の面として示してもいた。

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 この空白はさまざまな議論を呼んできた。例えば、メルロ=ポンティハイデガーメルロ=ポンティは「絵画において思索する」というセザンヌの言葉を引用しつつ自らの哲学を紡ぎ、「もし誰かがセザンヌのように直接的に思索できたら」と述べている。これはどういうことなのか。存在論的差異、すなわち存在者と存在の差異を問い、その差異の狭間に佇み、思索する人は詩人である、とハイデガーは『存在と時間』以後の『芸術作品の根源』、『ヘルダーリン讃歌』で繰り返す。ロゴスの側、現存在の実存論的分析からは到達しえぬ、真理をつかむための間接的手段として詩に目を向けたハイデガー。詩人あるいは芸術家に存在論的差異の乗り越え、ロゴスを越える直接性、があると考えた。メルロ=ポンティも、この空白に「見えないもの」を探り、語ろうとする。このようにセザンヌの空白を考えるより、雪舟等伯、そして浮世絵の空白、余白とセザンヌの空白の共通性を強調したい。「絵画において思索する」とは、「多数視点によって現出する空間的世界の構造と色彩の知覚」を主観的世界の内実として経験することなのである

 年を重ねるにつれ、セザンヌの絵には空白、すなわち白いままのカンヴァスが増えていく。彼の絵はどこから見ても不完全だという批判にセザンヌは動じなかった。彼は自分の絵に文字通りの空白があることは十分承知していた。セザンヌは、自らの心(=脳)がどのように絵を完成するか自ら解明しようとした。したがって、その絵の空白は熟慮の結果であり、空白の裏には厳密な計算がある。空白をそのまま見せようという決意は、セザンヌの最も過激な発明だった。透視図法による明瞭さと装飾的な細部を賛美した古典的な様式とは異なり、セザンヌ後期印象派の絵の主題は、その絵自体のもつ空白だった。彼の不完全な風景画は、カンヴァスが空白でも、私たちは見ることができることの証明だった。

 形の錯覚の問題に取り組んだ最初の科学者は、二十世紀初頭のゲシュタルト心理学者たちだった。「形」こそがゲシュタルト心理学者が関心を寄せたものだった。ドイツ・ゲシュタルト心理学は、二〇世紀初頭に、当時の還元主義的心理学に対抗して創始された。還元主義者たちはヴィルヘルム・ヴントの心理学理論を信奉し、視覚は最終的にはそれを構成している基本感覚に還元できると主張し、それゆえ脳は鏡だと考えられていた。

 だが、脳は鏡ではない。ゲシュタルト心理学者たちは、見るプロセスによって見ている世界が変わることを証明しようとした。彼らはカントのように、外界に対する私たちの諸感覚の中にあると考えられているものの大半は心の内側からくると主張した。ゲシュタルト心理学者たちは、彼らの知覚理論を証明するものとして、錯視を例に挙げた。錯視には、映画における仮現運動、すなわち映画では物や人間が動いて見える現象から、一つの絵がある形に見えたり別の形に見えたりする現象(いちばん古典的な例は、二つの顔のようにも見える花瓶)にいたるまで、さまざまある。ゲシュタルト心理学者によれば、これら日常的な錯覚は、私たちが見ているすべてが錯覚であることの証拠である。現代の神経科学による視覚野の研究は、眼の経験は眼の感覚を超越するという、セザンヌゲシュタルト心理学派の直観が当たり前の事実であることを検証してみせた。