認識の絵画論的モデル:認識と知覚の空白(4)

7 まずは、「空白、余白」の意義について

 実在する世界に空白や余白はあってはならない、というのが実在論的な立場。私たちの世界はものやことで充満している(saturated)。虚空や真空が実在するという立場では虚空や真空が充満している。物質と虚空は別物で、両者は根本的に異なるというのが伝統的な考えであるが、物質も虚空も空白や余白ではなく、実在するものである。つまり、虚空や真空は空白や余白ではない。物質は存在すれば実在として、虚空は存在すればやはり実在として存在する、それが西欧の伝統的立場である。世界は実在していて、実在は完全であるゆえに、余白、空白というような不完全極まりないものはない。これが西欧の伝統的な考え方であり、それゆえ、絵画にも空白は許されず、画面の空白はその画が未完成であることと同義なのである。また、知覚や認識に関しても同じことが言えて、知覚や認識に空白や余白があることは、それらが不完全な知覚や認識であることを意味している。

 経験科学の理論は大抵不完全である。その理論が不完全なら、そこには真偽の曖昧な文が存在し、その文の内容は経験的にはどのような意味かわからない。意味がわからないとは何が述べられているかわからないということでなる。科学の理論に関しては、真でも偽でもないことが空白、余白があることに対応している。普通は真偽の判定ができない文の存在は理論の欠陥であり、その理論は不完全で、劣った理論とみなされている。ところで、ゲーデルの「不完全性定理」によれば、算術を含む形式理論はすべて原理的に不完全である。つまり、空白は通常の理論であれば、必ずどこかにあることになる。

 理論を使って何かを知る場合、私たちは理論のもつ空白(=不完全性)を認識していない。見えないものはないと考える立場をとるなら、認識しないものはないと判断しなければならない。実際、ゲーデルが証明するまでは誰もが理論は完全にすべきで、それが可能だと考えていた。

 理論の空白はわかりにくい。より具体的に絵画の空白を考えてみよう。簡単に言えば、塗り残しのような部分が画面上の空白である。セザンヌの空白、浮世絵の空白は何を意味しているのか。空白は単なるデザインではない。画の空白部分は、知識や理論の気づかない部分、見えない部分に対応し、意識の中の無意識の部分にも対応しているようなものである。知識や理論の場合と違って、画の空白部分は眼に見える。日本画は空白があることによって、その画が成り立つ場合が多い。画に空白があることは絵が不完全である、未完であるということでは決してない。

 少々直感的に捉えてみよう。私は近視で遠視。近景が見えず、遠景もダメとなると泣き面に蜂だが、この事実が示しているのが視点の文脈依存的な多数性。動く私の視点は始終変わり、視点の数も半端ではない。生活世界では無意識に視点を変え、巧みに視点を操っている。近景と遠景の間の視点の移行も普通は何の問題もなくスムーズに行われ、近景と遠景の間に断絶はなく、近くから遠くに世界は連続的に拡がっている、と私たちは信じて行動している。

 運動変化の物理学は古典力学。私たちの生活世界は古典力学が成り立つ世界。そこは3次元のユークリッド空間で、質点が運動の3法則と重力の法則に従って運動する。物体の運動は運動方程式を解くことによって正確に予測できる。その決定論的な信頼度が極めて高いために、「古典的世界観」がこの古典力学の説明の結果としてつくり上げられた。

 ユークリッド空間に座標系が導入され、その座標の原点が認識主体の視点と解釈される。物理系に対して一つのモデルがつくられ、そのモデルは必然的に一つの視点をもつ。この単数視点が透視図法と組み合わされると、知覚も絵画もそれに従い、守るべきだという古典的な規範が生まれることになる。科学的な世界観、生活世界の知覚経験、西洋絵画の画法がここにおいて見事に一致する。

 だが、これほど予定調和的に異なる分野で見事に一致しているとは考えにくい。実際、見かけの偶然的な一致に過ぎないことが次第に明らかになってくる。物理学は20世紀に入るとすぐに古典的な決定論的理論を放棄したし、知覚経験も行動主義的な心理学への批判から認知心理学にシフトした。絵画史でも、空白、余白という日本画では当たり前のことがセザンヌでは意識的に扱われ、それが新しい絵画へと発展することになる。

 浮世絵は空白、余白を積極的に活用するが、それとは裏腹に近景と遠景の間を「省略する、ごまかす、無視する」ためにも使われる。近景と遠景は異なる空間であり、その異なる空間の間をどのように結びつけるかは意外に厄介なのである。物理学では真面目に近景と遠景の間を埋めるしかない。そんな悠長なことのできない知覚経験や絵画の世界では一挙に埋めなければならない。それが空白を使う理由となる。空白を使って二つの異なる空間をつなげてしまうのである。

 図はそれぞれ不可能図形、M.C.エッシャーの「滝」、多義図形である。この図にどのような「空白」を挿入すると、可能図形、あり得るエッシャーの画、一義図形に変わるか?空白を挿入することによって、不可能なものが可能なものに変わることを各自試してほしい。(不可能図形の中心部に長方形の空白をつくると、何の変哲もない可能な図形に見える、滝をすべて空白にしてしまうと、不思議なほど当たり前の画に変わってしまう、ウサギの鼻の部分に絆創膏を貼るか、アヒルの嘴の先に絆創膏を貼るかすれば、一義的な画、つまりウサギあるいはアヒルの画に変わる。)

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Impossible figureと呼ばれている通り、この画像は3次元の世界では存在が不可能である。だが、図の中心部の骨組みを長方形の空白で隠してしまうと、立体として存在することが可能になる。

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エッシャーの「滝」で、水が永久機関によって流れ続けるかのような画である。この画の滝の部分を長方形の紙で覆うと、何の変哲もない画に変わる。

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多義図形で、ウサギともカモとも見えるような画である。左側のうさぎの鼻の部分に絆創膏を貼る程度で、ウサギではなくなる。右の嘴の先端部分を覆うなら、一義的にウサギである。

 

 これら数例だけで十分だろう。そこには空白や余白の知覚上のとんでもない役割が見事に示されており、科学理論では不可能でお手上げの優れ技である。

 生活世界での経験の中での空白、余白について幾つかの例を挙げて考えてみよう。小説、映画・演劇における時間の経過は空白を巧みに利用している。演劇の幕間、映画のプロット、物語の展開など、因果的な経緯は力学モデルの時間展開とは異なり、時間の断絶が空白の存在によって可能になっている。画面が変わるということ自体が空白の挿入であり、それによって場面が変わり、物語が進行するのである。

 より生々しいのは暗黙の了解、無視、無言といった至極当たり前の行為形態である。これらもまた、空白の具体例になっている。空白を設けることによって互いの安全を守ることから始まって、「以心伝心」というような空白の利用もある。日常生活での空白の役割と効用は計り知れない。話すことと同じ程度に話さないことが日常の生活で大きな役割を果たしているのである。

 

 森の中の倒木の音を誰も聞かなければ、その音は存在しないのではないか、という有名な問いがある。「誰かが聞けば、音がした」と言えるという意味でつまらない問いである。「誰も聞けないような倒木の音があるかどうか」という問いの方が面白い問いである。その問いの解答がわからないということが、何をわかるようにしてくれるのか。空白、つまり、「わからないものを使って何がわかるようになるのか」。それが私たちの認識に関わる空白の意義である。疑問としてのわからないものは、空白というわからないものを使うことによって、わかることがある。「わからないことが空白によって既知になる」ことを山水画は見事に示してくれる。

 セザンヌは空白を必要とした。その空白によって、複数視点をもつ彼の画は成り立っている。視点が複数になると、それぞれの視点からの二つの像ができるが、それらの間をどのように繋げたらよいのか。それが問題になってくる。視点が定まらなくなっても同じである。視点は視覚には不可欠。主観性は視点の数などというつまらないものに尽きる訳ではないが、多数視点を統合することが主観性を生み出す要因の一つになっているのは確かだろう。

 空白がもつ意義は多様である。それらの幾つかを挙げておこう。いずれ詳しく考えてみたい。いずれも興味深い課題である。

 

抽象絵画の空間と抽象空間での空白

・知識の空白(何かを気づくために必要な気づかない空白)

・抽象的な空白

・空白を使って実在を描くこと

・空白を使って真なる命題を見出すこと