視覚

カメラ・オブスクーラ(camera obscura)

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 カメラ・オブスクーラとは、針穴(後に凸レンズに改良)と、像を結ぶ面を備えた暗室(後に小型の暗箱に改良)のことで、遠近法を使った絵画を描くために使用された。「カメラ」はラテン語で「部屋(=光を遮った空間)」、つまり、カメラ・オブスクーラは「暗い箱」で、針穴写真機のこと。光が入らないように厚い材質で作った箱の一方の壁面に小さな丸い穴を開け、その穴を明るい方向へ向ける。すると外界の光は穴を通過して、穴の反対側の壁に淡い像をつくる。穴が小さいため、通過する光の量は限られ、像はそれほど鮮明にはならない。そこで穴にレンズをはめ込み、より多くの光を集めることが考案された。レンズで集められた光は屈折し、レンズと像が映る画面との距離が一定のときだけ、像のフォーカスが合って、鮮明な像を結ぶことになる。  暑さを避けるために部屋を暗くすれば、このような現象は自然にみられる。カメラ・オブスクーラの原理を最初に発見したのはアリストテレス。彼は日食の日に、ざるの目やプラタナスの重なり合う葉の小さな隙間を通ってくる光が、地面の上に、欠けていく太陽を映し出していることを観測し、ざるの目や葉の隙間が小さいほど、映し出される像がシャープになることを発見した。

 

フェルメールとレーウェンフック  

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 1550年、ミラノの物理学者カルダーノが、針穴の代わりに凸レンズを用いて、それまでより明るい像を得ることに成功。その後、シャープな画像を得るために、絞りやレンズの部分に様々な改良が加えられていく。オランダの画家フェルメールは遠近法の絵画を描くためにカメラ・オブスクーラを使ったことがわかっている。フェルメールとレーウェンフックはそれぞれ画家とアマチュア科学者。オランダ・デルフトの同郷、同い年の1632年生まれ。芸術の問いと科学の問いは本質的には同じ。芸術家も科学者も世界の現象を正確に描き記録し、説明したいと思う。フェルメールが、室内の光と影をキャンバスの上に正確に写しとろうとしたことと、レーウェンフックが、レンズを磨いて、ミクロの世界を可視化したことは、共通の好奇心に従っていた。フェルメールが43歳でこの世を去ったとき、レーウェンフックはフェルメール家の遺産管財人に指名され、その職務を執行した。光学的な興味からレンズについて熟知していたレーウェンフックは、カメラ・オブスクーラをフェルメールに教え、この装置を知ったフェルメールはきっとカメラ・オブスクーラに夢中になったに違いない。

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 レーウェンフックは専門的教育もなしに、自作の顕微鏡で生物学上の発見を連発した。生涯に作った顕微鏡の数は500にもなる。それらを用いて身近なものを覗いて回り、様々なものを観察、当時の生物学では未知の新発見が多数含まれていた。彼はそれらの成果を発表する場を持たなかった。レーウェンフックの観察をロンドン王立協会に紹介したのは、デルフトの解剖学者ライネル・デ・グラーフ。彼は1673年に書簡を送り、それ以降、継続的に王立協会に観察記録が送られた。これを実験担当のフックが認め、ラテン語訳してレーウェンフック全集として発刊。当時、微細な昆虫は植物種子などから自然発生すると考えられていたが、レーウェンフックは観察により親の産む卵から孵化することを発見。また、彼が発見した「微生物」についても、誕生や死があることを確認したりしている。

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*『生物と無生物のあいだ』の著者である福岡伸一は、レーウェンフックの昆虫画をフェルメールが描いたとする仮説をANAグループの機内誌『翼の王国』に発表。

 映った景色を定着させることに成功したのは、フランスのニエプス1826年のこと。この世界初とされるヘリオグラフと呼ばれるアスファルト写真の撮影には6-8時間の露光が必要だった。続いて、同じくフランスのダゲールが翌年に銀版にヨード臭素の蒸気をあてる銀板写真の実験に成功。ダゲレオタイプのカメラの誕生である。

 

思惟する自我とカメラ・オブスクーラ

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 感覚するものは全部嘘。でも、感覚を嘘であると考えている自分は残る、というのがデカルトデカルトの時代は表象の時代で、主体(subject)がいかに表象(representation)を構成するかが課題だった。世界をどうやって絵画として描くか、演劇のなかに歴史や事件をどうやって再構築するか、そんな問題に関心が集まった。主体が座標の中心、「眼差し」になり、思考の主体と視覚の主体とが、光学的な装置を媒介に重ね合わされる。デカルトの『屈折光学』(1637)のなかの図版は正にその証拠。これは眼差しの後ろに見ている人がいて、見られている人はイメージを解釈している。見るとは、見ることを可能にする装置の後ろに見る人を配置することである。このモデルはカメラ・オブスクーラ(camera obscura)に見出される。

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 「我思う故に我あり」という命題は、明晰な視点を世界の中心に確保することであり、その中心の光の視点から、世界を明確な知識の構築物として再構成していく。考える主体=焦点が、世界を光の眼差しのなかで再構築していく。デカルトのコギトの構造はカメラ・オブスクーラと極めて近いものである。暗闇のなかに点が見え、懐疑のなかに「私がいる」という光が射し、そこから一気に世界の像が、反射・反映・反省の結果として現われる。コギトとカメラ・オブスクーラ、両者のシステムはほぼ同じものである。

バークリーとモリヌー問題

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 バークリーは、ロックのあとを受け、感覚論を展開する。「存在するとは知覚することである(Esse est perpici)」とバークリーは主張した。「ある物が実在していると考えられるとき、その背後にはなにかよくわからないがそれを成立させている延長実体、あるいはカントのいう「物自体」があるわけではない。存在するとは知覚することで、知覚されていない物は存在しない。」バークリーのこの考えは観念のなかに全部を入れ込んでしまったと批判されるが、それは必ずしも正しくない。

 そこで、「モリヌー問題(モリヌークス問題)」に注目しよう。生まれつき目の見えない人がいて、彼の目が開いた瞬間に、球と立方体を識別できるか、という問題である。この問題は一大論争を引き起こした。ライプニッツは、人間は生得的に幾何学を心のなかにもつから判別できると言い、ロックは、経験によってしか幾何学を作りだせないから言えないと答える。バークリーはというと、基本的にはロックと同じ立場をとるが、ロックよりラディカルな結論を引き出す。  バークリーによれば、距離を知覚することは二次的な感覚にすぎない。すなわち、距離とは見ている人の運動感覚から派生したものに過ぎない。ある物を見ていると、眼球が動く。この眼球運動の違いを距離として認識していると考える。バークリーによれば、基本にあるのは自分の眼球が動くという身体感覚であり、距離の知覚とはその眼球運動によって構成されるものであり、眼球の配置を変えることによる筋肉の緊張や弛緩の感覚がまずあり、距離の概念はそれが媒介となってできるものである。つまり、距離がある、ある物と別の物が離れてある、ある物とある物の間に境界線があるということは、経験によって抽象されてできたものである。したがって、物と物との識別も距離の概念を使うので、物の識別は視覚的にはア・プリオリにできない。「モリヌー問題」に対するバークリーの答えは、実に明らか。距離の感覚は、経験的に獲得されたものでしかなく、その意味で痛みや快の感覚とは違う。

 

何を見て、わかったと思っているのか?

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 「見る」のは、目ではなくてカメラ。そして「わかる」のところは、脳ではなくてコンピューター。コンピューターがすることは、カメラでとった画像から、形や色の違いを見つけ、同じなかまかどうか判定する、ということ。

 私たちの視覚系は、眼を使って光を捉え、それを電気信号に変えて脳に伝え、眼の前の光景(の情報)を電気現象としてを脳内で再構築することである。眼は、入ってくる光の量を目的に応じて無意識に調整したり、見たい方向に意識的に視線を動かしたり、というメカニカルな仕組みも巧みに使っている。  眼内に入った光信号は、眼の外側の組織から順に内側へと伝わっていく。まず角膜、そして水晶体、硝子体を通過するが、その間光信号はいろいろな調整をうけ、最後には眼の奥の内側にはりついている網膜に到達する。網膜まで光信号が到達すると、この網膜にある視細胞という特別な神経細胞が、光信号を電気信号に変換する。透明な視細胞は光信号で運ばれてきた情報を損なわれることなく電気信号へと変換し、神経細胞のネットワークを利用して脳に情報を伝えることができる。