古典物理学の世界観

 「心身二元論」、「古典的世界観」、「自由意志の存在」はいずれも哲学の歴史を飾ってきた問題である。それらは互いに両立するのだろうか?一見すると、三つとも正しいことはなさそうである。どれか二つがどのような関係にあるか、それだけでも大変興味深い問題である。そんな中で、古典的世界観と自由意志の存在を調停するのが心身二元論という見方もできそうである。古典的世界観はニュートン力学ラプラスの魔物、そして力学的な普遍的決定論を主張している。ギリシャ哲学とキリスト教から生まれる近代哲学は自由意思の存在を保証しようとするものだった。そのような中で登場するデカルト心の哲学心身二元論であり、今でもそれは私たちの常識心理学(folk psychology)の前提になっている。そこで、まずは最初の古典的世界観を再訪してみよう。

 

古典物理学の世界観

科学革命の中でつくられ、20 世紀初頭までに醸成されたのは次のような自然観である。

空間: 宇宙空間には上下左右を区別するような特別の方向は本来存在しない。上下左右の区別ができるのはそこに何らかの物(たとえば地球))があって、それに対する位置関係に区別があるからである。このことを宇宙の等方性という。また、宇宙には特別な場所はない。確かにいま自分のいる場所は特別な場所だが、それは自分にとって特別なだけで、宇宙の他の場所に生息する生物にとってはその生物の棲む場所が特別な場所になる。宇宙に特別の場所はない。このことを宇宙の一様性という。物理学は「区別する理由が何もないならば、同じとする他はない」という考え方が好きである。このような「A とB を区別する理由がなければ,A とB は同じように成立する」という考え方を別に表現すると、「対称性によってA とB は等しい」となる。つまり、対称性によって空間のあらゆる方向と位置は同等である。その結果、空間は無限に広いと結論される。なぜなら、端があることは一様性の考えに反するからである。また、宇宙に端があるなら、その先に何があるのか考えなくてはならなくなる。その何かも宇宙の中に入れてしまえば、宇宙は無限に広いことになる。

時間: 時間についても同様の考え方ができる。格段の理由がないなら、「時間は太古の昔も現在も同じように流れていく」と考えるのが自然だろう。つまり、時間の流れには一様性があると思われる。このように、19 世紀末の人々は「端や初めがあるとすると、端の先に何があるのか、初めの前に何があるのか分からないから、時間も空間も無限だと思うことにしよう」と考えるようになったようである。このような世界観が成立する背景には、数学の発達と結びついて、ニュートン力学が圧倒的に強力であり、その「器、入れ物」として一番分かりやすく簡単な時間、空間の見方が普及したのだろう。しかし、一様性や等方性は「特別な理由がないならば」という条件付きで出てくる結論である。空間や時間を、その中に世界が入る空っぽな器のように考えると、この結論はもっともらしいが、現実の世界はそうではない。そのなかに「物」があり、それが運動変化している。運動や変化に対するこの時代の主流となる見方は、そしてそれは現在でもある意味で主流となる見方ではあるが、因果的決定論である。ニュートン力学もマクスウェルの電磁気学基本法則は微分方程式の形で書かれている。ニュートン方程式f = maという簡単な形で、これを解けば、ある時刻の位置と速度からそれ以後のすべての運動が決まってしまう。マクスウェル方程式はこれより複雑で解くのも大変だが、初期条件が分かれば、その後の様子が一義的に決まってしまうという点では同じである。

無限に広がる一様等方な空間と始めも終わりもない一様な時間、そしてその中にある「物」は因果的な決定論に従って運動する。これが古典物理学の描く世界である。

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解析力学」を学ぶと、「力加速度速度位置変化」といった素直な見方とは違って、抽象化された座標や運動量が登場する。このような視野の拡大の結果、空間の一様性や等方性、時間の一様性といった性質を認めると、高校で学んだお馴染の物理法則が導かれる。空間の一様性が運動量保存の法則、空間の等方性が角運動量保存に法則、時間の一様性がエネルギー保存の法則に関係している。(「物理的な対象に何らかの対称性があるとき、 それに対応して何らかの保存量の存在が導かれる、あるいは、系に連続的な対称性がある場合はそれに対応する保存則が存在する」というのが「ネーターの定理」である。)

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これに対して様々な疑問が湧いてくる。たとえば、空間の反転対称性の問題がある。ニュートンやマクスウェルの方程式によれば、ある運動が起こるとすると、 それを鏡に映した運動も、映画に撮って逆回しにした運動も同じように起こっても構わない。しかし、本当に世界がそのようになっているかには疑問がある。誰もが、過去へ戻っていくことと未来へ進んでいくことは同じでないと思っている。過去と未来の違いは明らかで、「歴史」とか「進化」が事実ということなら、基本法則が時間を逆向きにした運動を許すことと折り合いをつけなくてはいけない。また、因果的決定論は、物理法則が世界の運動を支配しているなら、私たちが持っていると思っている「自由意志」と矛盾しているように思える。いずれにしろ空間や時間の一様性や等方性、因果的決定論など古典物理学の中核となる世界観は、ある意味で信仰に過ぎず、正しいかどうかは慎重な検討が必要である。

時空の反転対称性や因果的決定論の問題はいずれ別に検討することにして、今は絶対空間や絶対時間の問題を考えることにしよう。

 

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空間や時間に関係する重要な原理に相対性原理がある。ここでいう「相対性原理」はアインシュタイン(Albert Einstein,1879-1955)が発見した新しいものではなくて、ガリレイの相対性原理と呼ばれているものである。空間の一様性は特別な場所を否定するものだが、相対性原理は絶対静止空間の存在を否定し、物理現象を記述しようとする観測者に民主主義を保証するものである。少し詳しく説明しよう。

私たちは物の見え方が相対的であることをよく知っている。自分の近くにあるものは大きく見え、遠くのものは小さく見える。この場合,同じところに持ってくれば大小ははっきりする。つまり物の大きさには絶対的な尺度があり、見掛けの大きさは自分からの距離とともに減少する。

また、私たちは同じ場所かどうかが相対的だということも知っている。新幹線の同じ座席に座っていても、地球の上では1 時間に200km 以上も離れた場所に移ってしまう。駅のホームに降りてベンチに腰掛けていても、地球が自転しているから半日経てば初めの位置から数千キロ離れた位置に来ている。地球は太陽の周りを回っているから1 秒間に30km の速さで位置が変化している。こちらの方が自転速度よりはるかに速い。しかし、この速度は一体何に対する速度だろうか? このように位置や速度は他のものに対して相対的に決まるものである。ガリレイの相対性原理は、この位置と速度の相対性を認めるもので、力学現象に特権的な観測者はいないと主張する。ものさしと時計を持った観測者のことを物理学では座標系と呼び、第1法則の成り立つ座標系を「慣性系」と呼んでいる。われわれの日常的な感覚にしたがうと、時間の進み方はすべての座標系で共通で、物差しも同じものが使える。相対性原理によれば、このような慣性系から他の慣性系(観測者)を見れば、お互いにそれぞれと一定の速度で直線運動している関係にあり、誰かが絶対的に静止していると主張する権利はない、ということである。宇宙が無限で等方的だと認め、物質を入れる空っぽの容器が空間と思えば、ガリレイの相対性原理は受け入れやすい。

ガリレイの相対性原理に従えば、速度はベクトルとして普通の足し算ができる。つまり、座標系Bで速度vで動いている物体を、座標系Bが速度Vで動いてみえる別な座標系Aから見たらv+ Vの速度で動いて見えるということである。お互いに等速直線運動する座標系を乗り変わることをガリレイ変換と呼ぶ。座標系Aでのある物体の座標をrと時間をtとし、座標系Bでのそれらをr’t’として、式で書けば両者は

 

r = r’ + V t   t = t’

 

の関係にある。時間は両方に共通である。初めの式をt微分すれば速度の関係v = v+ V がでてくる。

ガリレイ変換を使って物体の衝突を考えてみると、対称性だけからいろいろなことがわかる。二つの同じ物体の正面衝突を考える。同じ速さで左右からやってきて跳ね返れば、衝突前の速さはvBvB、衝突後の速度は「対称性より」vAvA である(BAはbeforeとafter)。球の正面衝突なら、衝突前後の速度は同じ方向を向いているが(vBvAが平行でvA = vB)、速さがどうなるかは反発の大きさ次第である。

このようにガリレイ変換をうまく使うと簡単な議論の積み重ねで運動量保存の法則も推論できる。

 

古典力学は,ニュートン(Isaac Newton,1643-1727) がその著書『自然哲学の数学的諸原理(Principia Mathematica Philosophiae Naturalisプリンキピア)』のはじめに公理として掲げた運動の3 法則がその中心である。

 

  1. 慣性の法則: ある物体に他から何の力も働いていないとすると、この物体は止まっているか等速直線運動をする。
  2. 運動方程式: 物体の運動の変化(速度の変化率、つまり加速度)は、力に比例し質量に反比例する。
  3. 作用反作用の法則: 二つの物体の及ぼしあう力は大きさが相等しく逆向きである。

 

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 この3 法則を活用し、あらゆる物体のあいだに働く万有引力などの力を仮定することで、天体の運動をはじめあらゆる力学現象が説明できそうに思えた。ある時刻の天体に位置と速度が決まれば、そのあとに時刻の速度と位置が決まってしまう。ラプラス(Pierre-Simon Laplace,1749-1827)はこの事態を「もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり,その目には未来も(過去同様に))全て見えているであろう。」(『確率の解析的理論』1812 年)と述べた。この「知性」がラプラスの悪魔である。つまり、未来は原理的に予言可能である。

実験的にはニュートン力学的な見方と矛盾するようなことは何もなかった。力学によって星の運行を計算することを可能にし、天体間に働いていると考えられた万有引力は、何もない空間を飛び越えて遠く離れた物体のあいだに働く作用-遠隔作用-と考えられていた。だからこそ、ある瞬間のお互いの位置だけによってその間に働く力が決まってしまうのである。

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デカルトは1633年『世界論(Le Monde)』で、宇宙は物質が満ちていて、それが作用を遠方まで伝えると考えた。これは近接作用であるニュートン力学の圧倒的な成功によって、この考えはあまり問題にされなくなっていたが、19世紀になると電気や磁気の研究が進み、「場」という考えが復活してきた。電気的な作用や磁気的な作用を伝える電場や磁場の考えがファラデー(Michael Faraday,1791-1867)らによって導入され、遠隔作用の考えに疑問が生じた。マクスウェルは電場と磁場の関係を数学的に表現し、電磁場の振動が波として秒速30 万キロで空間を伝わることを理論的に導いた。そしてこの速さが光りの速さと同じであったことから、電磁波と光は同じものだと主張した。光と同じ速さで伝わる電磁場の振動、電磁波があるということである。火花放電によって急激に変化する強い電場を作ると、それが遠くまで伝わることがヘルツによって発見され、予言は検証された。しかし、作用が有限の速さで空間を伝わるとすると、重大な問題が生じることになる。

電磁気学は不思議なやり方で相対性原理を満たしている。二人の観測者がお互いに等速直線運動をしていて、一人(A)は磁石を、もう一人(B)は電圧計をつけた導線を持っているとしよう。Aからみると磁石の作る磁場は時間変化しないで、その中をBの持つ導線が運動している。導線の中の電子は磁場に対して運動しているので、ローレンツ力と呼ばれる磁場と運動方向の両方に垂直な方向への力を受ける。この力を式で表すと,電子の電荷−e、速度をv、磁束密度をBとして、f = −ev × B となる。電圧計にはこれが起電力として観測される。他方、Bから見ると導線は止まっているが、磁石が動いているので磁場が変化し電磁誘導によって電場が現れる。この電場が電子に働く起電力となる。現象の説明は違うが、結果的に生じる起電力はどちらから見ても同じであり、AもBも同等の権利を持って、自分が静止して相手が運動していると主張できるのである。

しかし、電磁波が「何か」を伝わると考えると、AもBも同等の権利を持つという主張が崩れてしまいそうである。音は空気の振動として空気中を伝わり、音速は約340m/s である。したがって、音の伝わってくる方向に進めば、音の観測者に対する相対速度は速くなり、音と同じ方向に進めば遅くなる。近づいてくる列車の汽笛の音は高く聞こえ、遠ざかっていく汽笛の音は低く聞こえる。音の速さを測れば、空気に対する自分の速度がわかる。同じようにして、光の速さを測れば、光を伝えている「何か」に対する速度がわかるはずである。つまり、光の速度が秒速30万キロ(299742958m/s)になる座標系が静止系ということになる。今までガリレイの相対性原理によって対等と思っていた、互いに等速直線運動をする座標系の中から、ただひとつの絶対静止系が選ばれることになるはずである。

 

*時空と運動の連続性

 これを保証するのが実数で、数学では「完備性(completeness)」と呼ばれている。また、関数については「連続性」が定義されている(関数の連続性)。運動の軌跡(軌道)が連続的な関数として数学化されている。この運動変化が不連続になるのが量子力学での運動変化である。不連続な運動変化を理解するには何をどうしたらよいのか?