心の機能主義

 心の哲学における機能主義(functionalism)とは、「心的状態はそれがもつ機能的役割によって定義される」という主張である。機能主義によれば、「痛み」を感じている人間の(脳を含めた)痛いという行動を忠実に再現できれば、それを構成する材料が神経細胞ではなく、シリコンチップで構成されたものであっとしても、それが「痛み」である。行動主義や同一説(identity theory)の問題点を解決することも含め、機能主義は1960年代にコンピューターの情報処理をモデルにして唱えられ、流行することになった。

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 チューリングテスト(Turing test)とは、アラン・チューリングによって考案された、機械が知能的かどうか(人工知能になれるかどうか)を判定するためのテストである。彼の1950年の論文[1]の中で述べられ、そのテストは次のように行われる。人間の判定者が、一人の(別の)人間と一台の機械に対して通常に会話する。このとき人間も機械も人間らしい対応を試みる。判定者が機械と人間との確実な区別ができなかった場合、この機械はテストに合格し、知能的ということになる。

 このテストは多くの人を納得させたが、異議申し立てをしたのはやはり哲学者だった。なかでも有名になったのはサールの反論で、それは「中国語の部屋の論証(Chinese room argument)」と呼ばれている。[2]サールの見解を説明する前に、その背後にある志向性概念を説明しておこう。志向性は意識の特徴を示すフッサール現象学の基本概念である。そこで現象学ではどのように志向性が説明されているかを、ごく普通の概説に従って再言してみよう。ブレンターノは,「対象の志向的,心的内在」という中世スコラ哲学の用語を使い,物理的現象と異なる心的現象の特徴は,対象を志向的に心に内蔵している点にあるとした。フッサール志向性という概念を使って「意識は常に何かについての意識である」という,意識の静態的な構造を表現した。その後、彼の関心が意識作用の諸機能と、いわゆる超越的な意識対象の在り方についての超越論的‐構成的研究へ進むにつれて,志向性も「自我は意識されたものを意識されたものとして意識する」という主観‐客観の機能的関係を表す概念となり,超越論的主観が志向的対象にその対象的意味を付与する作用(すなわち構成的機能)が志向性と呼ばれるようになる。

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 さて、このような紋切り型の準備をした上で、サールに話を戻そう。彼は志向性に注目し、著書『志向性心の哲学』において詳細に論じている。サールによれば、言語のもつ表象能力は心のもつ志向性に由来し、志向性は心的状態そのものに内在している。サールは志向性が言語を生み出す原理だと考えている。だが、サールはブレンターノと違って、志向性があらゆる意識活動に伴っているとは考えない。たとえば「痛み」のクオリアはそれ自身で完結した存在で、志向対象をもっていないと考える。サールは志向性を「本来的志向性(intrinsic intentionality)」と「擬似的志向性(as-if intentionality)」に区別する。私たちの心的状態がもつ志向性が「本来的志向性」であり、文字や絵などの人工的なものは私たちの心的状態の機能を真似た「擬似的志向性」である。[3]さらにサールによれば、人間の心は外部の対象を志向できるが、コンピューターにはその能力がない。チューリングテストに合格するような人工知能は、「太陽」や「猫」について人間同様に語ることができる。だが、実際にはプログラム内で情報を処理しているだけであり、実在する太陽や猫を志向しているわけではない。コンピューターがもつのは擬似的志向性でしかない。[4]

*気づくとは一体どのようなことなのか。近年、この問いへの関心が高まっている。2012年6月、ネット上で「Googleの研究開発によってコンピューターが猫を認識できるようになった」というニュースが話題になった。コンピューターは猫がどういうものか人間に教えられること無く、自力で理解したというのである。1週間にわたりYouTubeビデオをそのネットワークに見せたところ、ネットワークは猫の写真を識別することを学習した。猫をネットワークに教えたわけでも、「猫」のラベル付けをした画像を与えたわけでもなかった。つまり、ネットワーク自身が、YouTubeの画像から猫がどういうものかを知ったというのである。では、「コンピューターは猫がどういうものか人間に教えられること無く、自力で理解した」とは何を意味しているのか。[5]噛み砕いて書くと次のようになる。 ・ニューロンはたくさんある。 ・顔画像群を入力としたときに、もっとも敏感に反応するニューロンを選び出す。 ・そのニューロンの反応を観察することで、入力画像が「顔」であるかそうでないかを、精度よく識別することができた。 ・つまり、機械学習によって「顔に反応するニューロン」が生まれた。 ここまでの話だと、たぶんよくある学術的な論文にとどまるのだろうけど、私たちを惹きつけるのはニューロンが最も強く反応する画像を作り出した」ことである。最適化によって、このニューロンがより強く反応するのはどのような画像であるかを、人工的に作り出したことが次の点である。あとは、猫の顔に対しても、これと同じようにすればよい。 ・猫画像群を入力としたときに、もっとも敏感に反応するニューロンを選び出す。 ・そのニューロンの反応を観察することで、入力画像が「猫」であるかそうでないかを、精度よく識別することができた。 ・つまり、機械学習によって「猫に反応するニューロン」も生まれた。 今回の研究は Googleが持つ、膨大なデータと膨大な計算リソースを潤沢に使って、それまでの研究とはケタが違う規模の実験を行ったことによる成果である、と評価することができる。それでも、実際の人間の脳のネットワークと比べると、100万分の1の規模だというのだから、まだまだ発展の余地が残されている。

 志向性フッサール現象学の基本概念で、意識は常に「何かについての意識」であった。あらゆる心的現象は自身の内に対象として何かを含む。表象においては何かが表象され、判定においては何かが肯定または否定され、…というように。志向的内在性は専ら心的現象がもつ特徴で、物質的現象はこのような特徴をもっていないと考えられた(声を大にして言うほどのことではないと思われるが…)。

 ブレンターノの意見とは対照的に、サルトルは『存在と無』において志向性と意識は区別できないと考え、二つを同一視した。ハイデガーは『存在と時間』において志向性を「気遣い(Sorge)」、つまり、単なる存在者であるところのものとは対照的に、その内で個人の実存、事実性、そして喪失が存在論的意味を確認するような可感的な状態であると定義した。一方、ライルやエイヤーといった分析哲学者たちはフッサール志向性の概念や彼の主張する意識の重層性に対して批判的で、ライルは意識が内的な過程や状態ではないと主張し、エイヤーは誰かの知識を記述することは心的過程を記述することとは違うと主張した。(こういった見解の結果として、意識は完全に志向的で、それゆえ、意識の活動はその内的活動を失い、純粋意識は何者でもなくなる。サルトルはその純粋意識を「無」と呼んだ。)

 意識の志向性に関する退屈な概説はこのくらいにして、私が考える意識の志向性について述べてみたい。私が述べたいことは、「意識の志向性は心が適応であることの証拠である」ということである。

 意識が志向的であることが意識にとって本質的なことだと言われてきた。どのような意識も必ず「…についての意識」であり、それが意識の基本構造であると強調されてきた。これと同じことが経験や表象についても成り立つ。つまり、「…についての経験」、「…についての表象」が経験や表象のもつ本質的な特徴である。そして、そのような志向性をもつものは科学的な対象には見られない特徴であり、それゆえ、意識、表象、経験は科学的な探求の対象から外れることになり、それが哲学的な対象としての意識、表象、経験等の独特の身分を表していると断じる訳である。だが、このような話は、鵜呑みにできない、胡散臭い話に思えてならない。

 心的なものが物理的なものと何が異なるかを示す徴表として志向性が唱えられてきたが、私には心的なものの特徴というより、意識、経験、表象といった単語が一般的概念であることに起因する欠如を表しているに過ぎないように思えてならない。「本」は一般名詞で、それだけでは大した情報をもっていない。だから、「何についての本」なのか知りたくなる。情報欠如を埋めることが志向性だという訳であるが、さらに踏み込んで、マシな理屈を見つけようとすれば、意識、表象、経験が情報を獲得し、対象が何かを知ることの基本構造を共有していると措定してみることである。知ることが意識の志向性に反映されていると考えるなら、そこから意識が何かについての答えが浮かび上がってくる。

 以後の議論は意識だけでなく、志向的なもの(経験や表象等で、しかも心的なもの)について同じように適用できる。叙述を簡単にするために意識を代表にして話を進めよう。意識は意識する者の住む生活世界にほぼ100%依存している、これが意識の志向性の意味である。意識が志向的であるとは情報を取得し、知ることが意識のもつ本来的な機能、あるいは役割であることを実に雄弁に語っている。意識には生物学的な機能があり、進化の過程で様々な適応形態をもってきたはずである。生物が外部世界の情報を適確に収集し、生存と生殖に有効に利用するための機能を進化させてきたことは疑いない事実である。そのような機能を確実に実現するには器官、装置として生物個体の中に固定化するのが一番である。実際、人間をはじめとする多くの生物には知覚器官が存在し、外部環境の変化する情報を安定的に感知できるようになっている。私たちの知覚器官もそれと同じであるが、生物の中では最も総合力に優れたシステムになっていて、外部からの情報を通じて外部を知る、知ったことが正しいか否か、知ったことをどう有効に使うか、といったことが有機的に関連づけられている。意識は期せずしてそのような適応の一つにつけられた名称である。むろん、情報を取得し、処理し、使うという一連の操作にはこれまで様々な言葉が使われてきた。どれも意図的に使われてきたわけではないため、類似の単語が重複していることになる。意識、表象、経験はその代表格の単語で、確かに、いずれも志向的である。

 「志向的な構造とはどのようなものか」と問われれば、入れ物、容器があり、そこに何かを入れ、処理するというイメージが浮かんでくる。これは情報処理の構造と同じであり、情報処理システムに情報が入ると、その情報についての処理、表象、経験、意識という表現が適用できることになる。つまり、志向性とは知るべき対象、情報をもつ対象を扱う性質を表明しているのである。また、ある概念が志向的とは、その概念が知る、情報を得るための操作の概念であることを意味している。視覚像とその装置を例にしてみよう。視覚は「…についての視覚」という必要はなさそうだが、視覚像となると、「…についての視覚像」が当たり前ということになる。視覚は器官、機能、内容と多様な意味をもつが、視覚像となると、その志向的性格が顕わになる。経験、表象、意識は多様な意味をもつとはいえ、志向的であることが誰にもわかりやすく、受け入れやすい単語である。(この主張を「知覚」に代えると、知覚は視覚ではなく視覚像に対応するように使われているのがわかるだろう。知覚は「…についての知覚」と言えば、「知覚像は何か」の答えになっている。)

 さて、意識が志向的とはどのようなことかの一通りの答えを与えたが、そこから意識の特徴を探ってみよう。意識は進化の結果であり、外部世界の情報を得ることがその機能的な役割である。意識が先に存在して、意識が像を内的に生み出すことによって、世界が現出する、といったロマン主義的見解は誤っており、意識は世界の中で世界の情報をうまく処理するために進化した機能であり、意識の存在こそそれが世界を認知するための生物的な適応であることを示す証拠なのである(意識の機能主義的な役割)。そして、これは人間の場合に際立って顕著なことである。

 意識や表象が何かの意識や表象であることは、意識や表象がそれを担う生物個体の生存のための適応で、外部環境の情報を巧みに利用して個体の行動を決めるための方法であることを意味している。意識や表象が自給自足の機能であるならば、何かを入力し、それを使って意識や表象が成立することがないはずで、志向的な仕組みは意識や表象が情報を手に入れ、それを操作するという形態の一つであり、情報の供給源に全面的に依存した機能であることを物語っている。「私の表象(意識)」と「猫についての表象(意識)」を比べた時、表象の本性を知るにはいずれが重要なのだろうか(「私についての表象」ではなく「私の表象」は私がもつ表象である)。当然後者であるというのが答えだろう。これが示唆しているのは、表象や意識は主観的どころか客観的なものだということである。志向的であることが本質であるということは、表象も意識もその内容をうまく取扱い、成果をあげることを目的にして存在していることを示している。表象や意識の真の姿は、外部環境の内容を適確に掴むための工夫なのである。

 以上のことは期せずして意識や表象の外在主義が適切であることを物語っている。意識の外在主義とは意識内容の客観性の主張である。表象が外在的であるとは表象の内容が外在的ということである。表象は誰かの心の状態であるが、表象の内容は頭の中にはなく、世界に中の表象されている事柄である。意識や表象が志向的な構造をもつことは進化論の説明と折り合いがよく、適応としてうまく解釈できる。

 

[1] Turing, A. M., Computing Machinery and Intelligence, Mind 49: 433-460, 1950

[2] Searle, J., Minds, Brains and Programs, Behavioral and Brain Sciences, 3: 417-57, 1980

[3] 志向性は基本的に一般名詞のもつ特徴であり、情報に関わる適応である。詳しくは後出の議論を参照。

[4] コンピューターが本物の志向性をもてないのと同じように、学校教育の中で学ぶ科学や歴史についての知識の大半は、具体的な指示対象をもつと想定されていてもそれが何かを指定できないようなものである。ミクロな世界、宇宙、遥かな過去についての表象が志向的だというのは見かけに過ぎない場合がほとんどである。

[5] この意味を無味乾燥な言葉で述べれば次のようになる。YouTubeにアップロードされている動画から、ランダムに取り出した200×200ピクセルサイズの画像を1000万枚用意し、これを用いてDeep Learningを行った(3%前後の画像に人間の顔が含まれていて、猫がいる画像もたくさんあった)。Deep Learningとは、最近注目されている新しい機械学習の手法で、多段階のニューラルネットワークを構成する。ニューラルネットワークの最初の層の入力は各画素(200×200=40,000)のRGBの値で、9つの階層を構築した。1000台のコンピューターで3日間かけて学習を行った。その結果、人間の顔、猫の顔、人間の体の写真に反応するニューロンができた。