色のプラグマティズム:色の学習、訓練

 クオリアは主観的な経験で、学習などできないとつい考えてしまう。主観的な感じを伝えたり、教えたりすることはできないと思い込んでいるからである。そこから、クオリアは科学的には説明できないものと結論され、ハードプロブレムとして解答が困難な問題ということになってきた。そして、物理主義や自然主義には限界があり、クオリアはその典型的な反例なのだと思われてきた。この一連の動きは哲学の失地回復に寄与し、心の哲学が若手研究者の心をとらえたのは確かだが、そのことによってクオリアの本性がどれだけ解明できたかとなると、胸を張れるだけのものはない。

 クオリアプラグマティズムクオリアの学習を通じて考えてみよう。まず、クオリアは機能的な役割をもっており、それは進化の結果、つまり適応であるクオリアの「赤」は「赤の感じ」で、個々人がそれぞれ主観的にもっていて、互いに比較しにくいにもかかわらず、「赤の感じ」が共有されていて、曰く言い難しであるにもかかわらず、人類に共通している赤を感知する能力があるということになっている。言葉が学習され、利用され、知識が得られ、文化がつくられるように、クオリアが学習され、文化がつくられる。言葉が私たちの生活に貢献するのと同じように、クオリアは私たちの生活に貢献している。そして、クオリアは言葉に、言葉はクオリアに貢献している。これがクオリアプラグマティズムについての概略である。

 なぜクオリアは存在するのか。この哲学的問いの答えは非哲学的で品のないものだが、「生物として生存するため」ということになる。だから、生活手段として重要なクオリアは、学習でき、訓練でき、赤の色合いの違いを即座にわかるというようなことができなければ意味がない。また、北斎の「赤富士」の赤やスポーツカーのベネチアンレッドの色は感覚的な赤に敏感に反応する人の感性に訴えるもので、北斎愛好者やスポーツカーの販売には欠かせないものになっている。赤のクオリアを知り、使いこなせると、版画が人気を呼び、スポーツカーの販売促進につながるというわけである。赤の感じは感慨に耽るための心的状態ではなく、迅速に問題に対応し、瞬時の反応を引き起こすための見事な適応だと考えるべきである。それが同時に自然のもつ情報の素晴らしさを感じ、自らもそれをつくりだすように進化するというさらなる適応を考えることができ、それが美的な感覚や芸術的な感性と呼ばれてきたものである。クオリアの実用的な側面と芸術的な側面は違ったものではなく、多くの点で共通の根をもっているのである。

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 赤のクオリアを考える上で赤色の物理学を無視できない。古典物理学は色そのものを扱うことができず、その表明が「色は物理的な第一性質ではなく、心理的な第二性質に過ぎない」ということだった。だが、量子力学は色を扱い、色の本性を説明することに成功した。そして、色は立派に物理的な性質となった。さらに、その物理的な色に反応する仕方は心理学の対象になる。色現象への反応も進化的な適応と、色の知覚についての学習の二面から研究されている。これら物理的な側面と心理的な側面の両面の協働によって、クオリアの本性が解明されることになる。

 「あの赤の感じ」という赤のクオリアは何かという問いに対して、私たちが暗黙の裡に認め、求めているのは「主観的で私秘的で、唯一の経験内容」とでも言えるものではないのか。だが、この最後の括弧内の表現は実は矛盾に満ちている。経験内容は命題によって表現され、命題で表現できる限り、主観的でも私秘的でもなく、唯一ではなく再現可能な内容をもったものである。

 見ること、聞くこと、言葉を操ること、これらはいずれも学習することによって可能になる能力である。生得的な能力と獲得的な学習の両方が見たり、聞いたりできるために不可欠だと言われてきた。それを実証する実験やデータが山ほどある。メアリーが赤を最初に見て、それを赤とわかるかと聞かれれば、「赤を見る」という学習をすることができなかったメアリーには当然できないというのが科学的常識をもつ人の自然な答えである。色を見ることを学習し、それがメアリーの色に関する膨大な知識とうまく組み合わせられると、メアリーは文字通り色のエキスパートになれるだろう。だが、メアリーは「色を見る」ことの学習を単なる知識で置き換えることはできない。色や形を一定の年齢までに学習できないと、言葉の習得の場合と同じように、それらの完全な学習はできなくなる。つまり、メアリーが色についての十分な知識をもつまでに相当な時間を要するなら、メアリーは色から一定期間隔離されることによって、「色を見る」学習の時期を逸してしまったということになる。メアリーが色についての物理主義的な知識をもつ際、その物理主義的な知識の中に「赤色を見る学習をする」ことも知識として入っているのだろうか。「赤色を見る学習をする」とはどのような知識なのかは大変曖昧である。訓練を通じて会得した技がどのような知識かという問いより遥かに厄介である。というのも、技はより獲得的だが、「赤色を見る」ことはより生得的だからである。

クオリアが「主観的な感じ」で、科学的な対象にはなれないという主張に対して、クオリアが「主観的な感じ」として進化してきたと捉え、「主観的な感じ」が何かではなく、その原型を仮定して、それがどのように進化してきたかを考えたのが進化論だった。[1]「主観的感じ」としか表現できない感覚質が何かという問いは哲学的な問いにみえるが、解答は望むべくもない。主観的な感じを仮定し、それがどのような適応なのかを明らかにすることが私には賢明は方法に思える

 

[1] 進化論は「形質が何か」に答えるのではなく、「形質がどのように進化してきたか」に答える理論である。