モナド、点、線???

ライプニッツモナド、連続性

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 17世紀の機械論哲学から生じた問題の一つに「連続体の迷宮」と呼ばれるものがある。それは、「事物の究極的な要素は存在するか」という問題に対し、物体的原子を主張する原子論者の仮説をとっても、また原子を否定し非物体的な単位を仮説としてとっても、連続体をつくり出せない、というアポリアを指している。それは、運動という物理的(時間的・空間的)現象が連続することを、点と線に関する幾何学的な連続によって扱おうとして生まれた「ゼノンのパラドクス」の再発と考えることができる。「連続体の迷宮」によれば、(A)線分の限りない分割によっては点が構成できない、および(B)点を限りなく集めても連続する線分を構成できない。その議論は以下のように再構成できる。

 

(前提)[物体の定義]すべての物体は何らかの空間的な広がり、すなわち延長をもつ。

(A')今、事物の究極的な構成要素が物体的な原子であるとすると、前提よりそれは延長をもち、延長をもつならば限りなく分割可能である。よって、その物体的な原子をより小さな部分へと果てしなく分割できるが、上の(A)より、真に究極的な要素が何かを特定することはできない。

(B')そこで、物体の究極的な構成要素が、物体的な原子ではなく、いかなる大きさも、また形も部分ももたない小さいものとする。つまり、延長をもたない非物体的なもので、点と同じとする。しかし、今度は(B)より、点を無際限に組み合わせていっても点は点のままであり、点の集合から線分を構成できないのと同様、非物体的な原子から連続体を構成することはできない。さらに、何らかの別の仮定なしには、非物体的な次元から物体的な次元への移行を説明できない。

 

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 ライプニッツは単に原子論者の矛盾を指摘するだけでなく、さらに独自の理論を展開して、実在する世界がどのようであるかを説明しようとする。その理論こそ、物体を真に構成する単位は「原子」ではなく「モナド」でなければならない、というものである。ライプニッツは、数学的には、実無限を否定し、可(能)無限のみを認める構成主義的な立場をとる。ライプニッツは「1/2, 1/4, 1/8, ...」という無限級数からは、どんなに小さくとも有限な分数しか存在し得ない、と答えている。つまり、線分は限りなく分割可能であり、無限小は存在し得ない。同様にして、事物の分割も限りなく実行できる。したがって、延長を本性とする物体と、分割不可能な原子を結合した物体的原子の仮説は矛盾している、ということになる。

 この論証とは別に、ライプニッツは数と量の本性にわざわざ訴えなくても、実無限は否定されねばならないと考える。というのも、「自然数全体の数」および「最大数」などの概念は、「全体は部分よりも大きい」という公理を破っているからである。実無限の否定に関しては、ライプニッツアリストテレスと同じ考えなのである。

 ライプニッツは、モナドが表象という仕方で実在的な世界全体を内的に含んでいると考えた。連続体という見かけ上の大きさは、現象世界にのみ当てはまる。それゆえ、モナドは、形而上学的に言い換えられた点ないし無限小にすぎないと批判されるかもしれないが、現象世界にしか属さない連続体をいかにして構成しうるかという問題は、実在世界には持ち込まれない。つまり、実在世界には連続体は存在せず、現象世界にはモナドは存在しないのだから、「連続体の迷宮」はどこにもない。モナドが属する実在世界と、モナドによって展開される連続体が属する現象世界を混同したところに、連続体の迷宮の起源がある。

ライプニッツは「連続体の迷宮」を解決するために、世界を現象世界と実在世界とに二分し、後者に属する実在的な構成単位であるモナドが、現象世界すべてを表象するという形で含んでいるとした。現象世界は、連続的世界としてあり、それは人間の認識活動と不可分な「観念的な世界」で、そこでは全体が部分に先立つ、すなわち、部分はそれより大きい全体の可能的な分割としてのみ存在しうる。それゆえ連続体すなわち物体は、その部分の分析のために、観念的なある全体を単位として前提せざるを得ず、果てしなく分割可能とされた。ところが、実在世界はモナドで充満している離散的世界であり、人間の認識している物理現象とは次元の異なる世界と考えられた。そこでは部分が全体に優先する、すなわち構成単位たるモナドが、それらで充満している世界に優先する。このように、ライプニッツにおいては現象論と実在論とが同居しているが、それら異なる世界間の橋渡しをしている概念こそがモナドであり、その背後には、無限に関する数学と形而上学が複雑に絡み合っている。

 

 このようにライプニッツモナドを引き合いに出して議論を展開すると、とても深遠な内容だと思ってしまう。だが、よく考えてみたら点と線についての議論はユークリッド幾何学と実数のことだと気づくのは中高生なら簡単なこと。それを再度述べてみよう。

点と線についての問いと二つの解答

私たちが今でも共有する古典的世界観は歴史的、文化的に理解されるのが普通である。だが、余計なものをすべて削ぎ落とし、掛け値なしに古典的世界観がどのような基本的前提に基づいているか曝け出してみよう。そのような前提探しに旅立つ準備として、次のような問いを考えてみよう。

 

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点から線はつくれるか。線を分割すると点になるか。(線から面はつくれるか。面を分割すると線になるか。面から空間をつくれるか。空間を分割すると面になるか。)

 

この問いは目新しいものではない。だが、解答とその理由は次のように分かれてしまう。

 

[解答1]

 点には部分がなく、それゆえサイズがない。サイズのない点をいくら集めてもサイズは生まれない。点からスタートする限り、サイズの生まれる原因や理由がどこにも見当たらない。だから、「延長のないものから延長は生じない」、「何ものも理由なしに存在しない」といった形而上学の原理に従って、上の問いについての答えはNo。つまり、ライプニッツの解答である。

 

[解答2]

区間[0,1]が0と1の間にある個々の点(=実数)からできているように、実数の集合は個々の実数を要素にもっている。点から線ができ、線は点に分解できる。線は点の集合であり、点は線の要素である。それゆえ、上の各問いについての答えはYesである。現在の中高生の解答である。

 

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 もっともらしい二つの解答を示されると、いずれの解答が正しいのか、私たちは迷い始める。二つの正反対の解答の理由は様々考えられるが、現在の正解は[解答2]である。

 

 2つの文章を独立に読んだなら、きっとその印象は大きく異なるはず。レトリックの怖さというより、人の思考の厭らしさ、不純さ、意地汚さといったものが何となく垣間見えて、逆に微笑ましいのかも知れない。私たちは点から線を実際につくる方法を知らないし、線を分割していき、点にまで到達する経験をもてない。だが、点から線ができ、線から点をつくることができると仮定して何の矛盾もないし、むしろそのことによって微積分学が成立し、連続的な変化を知り、利用することができるのである。

 だが、実際には実数のもつ連続性は数学の基礎に関わる大問題で、そのためにつくられた理論の一つが集合論だったことを思い起こせば、ライプニッツの研究はその先駆けなのである。