物理主義あるいは自然主義

 この世界の全ての物事は物理的であり、また世界の全ての現象は物理的な性質の組み合わせに還元できるとする哲学上の立場が物理主義(physicalism)である。心的なものの実在性を否定して、物理的なものだけが実在するとし、心的因果を否定するのが物理主義であり、物理的なものの一元論である。現在「唯物論(唯物主義、materialism)」は物理主義の別名として用いられている。唯物論という用語は17世紀のライプニッツによるものであるが、物理主義は20世紀のオットー・ノイラートの定義から始まる。異なる名前はライプニッツ共産主義論理実証主義とその歴史的脈絡が異なるからである。

 物理学の対象は時間空間的な運動であり、それゆえ、「物理的」は、そのような運動を指すことになる。物理主義は、心的な性質を含む世界の全ての出来事は、物理法則に従った物理的原因をもち、その物理的原因は出来事の「十分条件」であると考える。これは心的な性質が物理的なものに作用することや、一つの出来事に物理的原因と心的原因が独立して存在する「因果的過剰決定(causal over-determination)」を否定するものであり、物理領域の因果的閉包性(causal closure)あるいは物理学の完全性と呼ばれている。

 物理主義の極端な形が「機械論的唯物論(mechanical materialism)」であり、人間の精神をも物質に還元し、全て力学的な法則によって説明しようとする。古代ギリシャのレウキッポスの原子論に始まり、近代においてホッブス、ラ・メトリー、エルヴェシウス、ドルバック、ディドロ等フランスの唯物論者が機械論に基づく唯物論を徹底化する。

 物理主義には行動主義、心脳同一説、機能主義、非法則一元論、表象主義など多様な立場があるが、どの立場も次の主要な三つの原理を前提としている。

 

唯物性の原理、反デカルト主義の原理:この世界に存在する全てのものは物理的であり、心的なものも実際は物理的なものであり、デカルトが主張する純粋に非物理的なものは存在しない。

付随性(スーパーヴィーニエンス)の原理:心的なものは物理的なものに付随し、物理的なもののあり方が確定することによって心的なもののあり方も確定する。完全に同じ物理的性質をもつ二つの対象は心的性質も完全に同じである(その逆は成り立たない)。

物理的領域の因果的閉包性の原理:どの物理的対象も、他の物理的対象の物理的性質だけに言及することによって適切な因果的説明を与えることができる。物理的なもの以外に説明を求める必要はない。

 

これら三つの原理は物理主義の必要最小条件である。デイヴィッド・チャーマーズは意識の問題を「ハード・プロブレム」と「イージー・プロブレム」に分類して、物理主義の方法ではハード・プロブレムを解決できないと主張したが、物理主義者はハード・プロブレムがイージー・プロブレムの総和として解決できると考える。

 では、物理主義の問題は何か。物理主義の核心は、心は物質世界または物理世界の一部であるという主張である。こうした立場は、物質が持たないとされる性質を心が持っているという問題に直面する。それゆえ、物理主義はこうした性質がどうやって物質的なものから生じるのかを説明しなければならない。この説明を与えることが心の自然化(naturalizing the mental)である。心の自然化が直面する主要な問題は、クオリア志向性を物理的に説明することである。

 しかし、自然科学は、その創始者であるガリレオやデカルトによって規定されたように、人間が知覚できる個別的な現象世界全てを記述しようとするものでなく、それら現象のうち数量化、普遍化できるもののみ記述しようとしてきた。つまり、人間が知覚できる現象からクオリア志向性を捨象することによって科学的なデータが成り立っているゆえに、科学にクオリア志向性の説明を求めるのは筋違いという考え方もできる。

 心的なものを物理的なものによって説明することができないことをソール・クリプキは「固定指示子(rigid designator)」の概念を使って論じた。このクリプキの議論はデイヴィッド・チャーマーズなど、物理主義に反対する立場の哲学者たちの理論的支柱の一つとなっている。大森荘蔵は物理主義、特に知覚因果説を「脳産教理」と呼んで批判し、心身問題を「重ね描き」の概念で解消しようとした。たとえば「青い」という知覚現象が生じる過程を科学用語で説明しても、そこに「青い」という感覚は描けていない。科学用語と重ねて「青い」という日常言語を描かなければ、本当に「青い」という知覚現象を描いたことにはならない。科学描写とは、日常言語で描写されたものを特有の言葉で改めて語り直すものなのである。換言すれば、われわれの体験には日常言語と科学用語という、二種類の言葉での説明方法があるということになる(だが、日常言語と科学言語と明確に二分化できるのだろうか?重ね描きをするためには第3の言語を使って重ねなければならない。さらに、それらを調節する第4の言語…と果てしなく続く)。

 

自然主義 (Naturalism)

 自然主義は哲学の用語として近年しばしば登場するが、それが正確に何を意味しているかは意見が分かれる。ある哲学者は自然主義を哲学と経験科学の連続性を主張するものと受け取っている。他の哲学者は二元論の否定こそが自然主義の重要な主張と考える。あるいは、自然主義の本質は認識論や意味の外在主義的な理解にあるとも考えられている。 これら三つをすべて含め、二元論や認識論、意味の内在主義に反対し、哲学と経験科学を連続するものと捉える立場が自然主義であると考えている哲学者もいる。

 私たちの周りにある性質、状態、対象、出来事は自然的なものである。あるものが自然的とは、それが自然科学の基本的な理論によって理解できることである。このような自然理解は昔から存在していた。例えば、デモクリトスの原子論を思い出してみればよい。それは古代の唯物論の典型である。スピノザ(Baruch Spinoza, 1632-1677)がアリストテレスの目的因やプラトンの考えを否定し、道徳の自然性や相対性を主張したのも自然主義の例である。ヒュームが実体という概念を否定し、自由、自己、因果性等を心理学的に扱うのも自然主義の典型例である。現代に眼を転じたとき、自然主義的傾向は直接に肌で感じられるほどに強い。その好例がアメリカ哲学と自然主義の関係であろう。他の哲学に比較して、アメリカの哲学では自然主義的な傾向が強い。この傾向は既に今世紀の初頭からサンターヤナ(George Santayana, 1863-1952)やデューイ(John Dewey, 1859-1952)に見られる。その後の分析哲学を中心にした哲学は自然主義的な特徴をアメリカ哲学にもたらしている。そして、そのような特徴は自然的でない概念を自然的なものに還元する「自然化(naturalizing)」という用語に端的に現れている。

 これらをもとに自然主義の定義を考えてみよう。私たちがもつ最善の科学理論が自然に存在するもののタイプ(性質)を明確にするための最善の指針となる。状態、性質、対象、出来事は科学理論によって実在的だとみなされる場合に限って実在的である。自然主義の主張を簡単に述べれば、科学理論こそが世界の最善の像を与えるというものである。では、科学理論はどのようなタイプを実在的とみなしているのか。それを考えるには科学の本性を見ておかなければならない。通常、自然主義者によれば科学理論は実在する世界についての理論であると考えられている。科学は実在についての研究であるという科学実在論(scientific realism)の主張は自然主義と重なっている。

 さて、自然主義と心はどのような関係になっているのか。 すぐに頭に浮かぶのは「心は自然的なものか、あるいは自然科学の対象になるのか」という問いであろう。この問いはまさに自然主義と心の関係を尋ねている。心が自然のものか、それを超えるものかは最初に私たちが問題にした点であり、過去に幾度となく論じられてきたものである。心を自然主義的に理解するというプロジェクトは、心が自然科学の対象に十分なり得るという前提を認めることであり、これは一つの哲学的な立場、態度である。その際重要なのは一見自然的には見えない心の振舞いや特徴(思考や感情とそれを表現する言語の特徴)をどのように自然化するかということになる。

 

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(付随性(supervenience)の諸相)

心的状態が脳状態に付随する(Mental states supervene on brain states.)とは、二人の脳状態に違いがない限り、心的状態にも違いはないということである。二人の人が同じ脳状態にあれば、二人の心的状態も同じであるというのが心的状態が脳状態に付随するということである。付随性概念は心にだけ特有の概念ではなく、物理的、生物的な性質や特徴についても考えることができる。

 付随性を物体の加速度、速度、位置の関係を使って考えてみよう。物体はその速度を変えることなく、加速度を変えることはできないし、その位置を変えることなく、速度を変えることができない。だから、物体の加速度はその速度についての事実に付随し、物体の速度はその位置についての事実に付随する。これから、加速度が位置についての事実に付随することになる。これは付随性が推移的、つまり、ABに付随し、BCに付随すれば、ACに付随することを示している。また、加速度は速度に付随するが、速度と同じではないことから、付随する性質は付随させる性質と同じではないこともわかる。また、別の例に生存力がある。ABの生物個体のいずれがより生存力が強いかと問われても、何か特定の生物的な性質を挙げることができない。現実の生活では体力がいくらあっても、交通事故に遭わないとは限らないからである。特定状況では特定の生物的性質が生存力を実現しているが、ABの一生を通じての生存力はそれらの一生に付随している。この特徴が心の哲学に使われ、心的な性質は物理的な性質と同じではないが、物理的な性質によって決められるという物理主義の主張を支えることになる。心の哲学での付随性は次のテーゼとして使われる。

 

(付随性テーゼ)

心的な性質は物理的性質に付随する。

 

このテーゼは次の三つの特徴をもっている。

 

(1)どんな二つの対象も、その物理的な性質が同じならば、その心的性質も同じである。

(2)一つの対象がその物理的性質を変えることなく、心的な性質を変えることはできない。

(3)ある時刻tに一つの対象が心的性質の異なる部分クラスを二つもっていたら、その対象は物理的性質の異なる二つのクラスをもっている。

 

付随性は二つの異なる側面をもっている。一つは自然主義の拡張の裏付けとして、他は還元に代わる関係として考えられている。それらを順次見てみよう。

 私たちは既に自然主義を考えた。そこで述べられた自然主義への批判も多い。科学嫌いな人が私たちの心までも科学的に理解すべきだと言われたら、その人が嫌悪感をもつのは明らかであろう。このような科学嫌いではないにしても、心の能力、人間の行為の理由、倫理や道徳を考えたとき、かなりの人はそれらが自然化できるものではない、あるいは自然化されるべきではないと思う。あるいは、科学は実在する世界の記述や説明を与えてくれるのではなく、歴史や文化に相対的なものであり、私たちの世界観に依存したものであるから、心を科学的に考えることは単なる一つの立場に過ぎないと考える哲学者も多い。ほとんどの自然主義批判は次の自然(物理)主義の主張に対しての批判である。

 

(十分な説明のテーゼ)

心的状態の説明は物理的状態の説明によってなされる。

 

このテーゼから心的状態は物理的状態であるという結論が導き出される。例えば、痛みは最終的に物理学によって記述・説明される。その意味で痛みは物理的である。例えば、ローティ(Richard Rorty, 1931- )は伝統的な哲学が消え、哲学の役割の一部は科学が引き継ぐと考えるが、経験的な結果が哲学の問題にいつも答えてくれるわけではなく、科学以外のものが場合によっては問題に適切に答えてくれると主張する。また、パトナムは科学が真理の唯一の供給者であることを否定し、科学的な合理性は相対的なものに過ぎないと考える。ネーゲル(Thomas Nagel, 1937- )は科学理論の説明上の十分さを否定する。物理学が十分な説明を与える点に関して、例えば、マッギン(Colin McGinn, 1950- )は心的なものは物理的なものであると考えるが、私たちには心的なものと物理的なものの間の関係を理解することができないと主張する。これらの哲学的な批判の他に、心を自然主義的に理解することへの宗教的、倫理的な批判も数多く存在する。

 このような批判に対して、物理主義や自然主義を柔軟に理解する術はないのだろうか。以下にそのような一例を考えてみよう。生物が環境にどの程度適応しているかを示す適応度という性質や私たちの心の様々な性質は物理的なものではないように見える。しかし、一方で適応度や心的な性質や状態は物理的なもの(生物や環境、脳)がないならば存在しないように思われる。物理的なものを必要とするが、それ自体は物理的とは呼べないようなものは私たちの周りに溢れている。その適例が情報である。とりわけ、心の状態や性質は情報とも関係して、そのような代表例である。では、すべての対象は物理的なものであるという物理主義は情報、そして適応度や心の性質に関して成立しないのであろうか。

 ここで付随性という考えを利用しよう。対象の性質の集合Qがその対象の別の性質の集合Pを決定し、逆は成立しないとき、PQに付随する。つまり、PQに付随すれば、PQの間には1対多の関係がある。例えば、同じ部屋の多くの温度計が室温20度を示しているとき、それら温度計は同じ情報をもっている。しかし、ものとしての温度計はみな異なっている。室温20度は異なる温度計によって表示されているにもかかわらず、同じ情報を表している。これと同じように、適応度はその生物と環境の物理的な性質に付随し、心のある性質は脳の物理的な性質に付随することになる。これをさらに一般化すれば、物理学以外の科学で扱われるすべての性質は物理的な性質に付随するということになる。この付随性を使って物理主義、さらには唯物論の主張を明確にしてみよう。「すべての対象は物理的な対象である」という主張は何を意味しているのか。ある対象が物理的であるとはその対象のある性質が物理的というのではない。その対象が魂や生命力をもっていても、その対象は他に質量や温度をもつことができる。また、その対象のすべての性質が物理的な性質というのでもない。実際、適応度や心の性質は物理的ではない。このような状況を損なうことなく、物理主義と物理的でない性質を整合的に扱う際に付随性は役に立つ。「ある対象は物理的である」は、付随性を使って言い直すと、「ある対象が物理的であるとは、その対象のすべての性質について、それが物理的でなければ、その対象の物理的な性質に付随する」ということになる。

 付随する性質を研究するのは科学であり、したがって、科学は物理的でない性質を研究できることになる。このような拡張は付随する性質はどのような性質かという哲学的議論を巻き起こすことになる。実際、付随する性質は因果的な原因にはなれない。因果的な効力をもたない性質は科学では何の役割ももっていないのだろうか。そのようなことはない。因果的に無力であっても、説明に関しては効力をもっている。情報、適応度、心的性質といった付随的な性質は科学的な説明では物理的な性質と同程度の効力をもっている。科学的な説明は因果的な過程の記述以外のものも含んでいる。

 次は、還元と付随性の関係を考えてみよう。ここで付随性に対する批判的な考察をしておこう。次のような例から考えてみよう。

 

abの上にある。 2 abのとなりにある。 3 abに頼っている。

 

1について、abの上にあると同時に、baの上にあることはできないという意味で、「の上にある」という関係は非対称的である。しかし、時点tabの上にあり、時点t’ではbaの上にあることは可能である。これに対して2の対称性はいつでも成立する。その理由は「となり」という関係の定義からである。3は1と2に比べると微妙である。abに頼っていることはbaに頼っていることを排除しない。実際に頼っていないかもしれないが、少なくとも排除はしていない。つまり、対称的か非対称的かの判定が3だけを見たのでは言えないのである。「頼っている」の内容がどのようなものかに依存するとはいえ、3が付随性の関係に近いものである。

上の例を通じて、基本的な付随性を考えるとどうなるか。

 

「状態aが状態bにある時点で付随する」

 

これが最も単純な付随的な関係である。「心の状態はいつの時点でも脳の状態に付随し、脳の状態はいつの時点でも心の状態に依存する」という表現は心脳の相互付随関係論ということになるが、このような関係は成立していそうもない。あるいは、「心の状態はいつの時点でも脳の状態に付随する」という表現は心の随伴現象論(epiphenomenalism)の主張であると考えられがちであるが、これは上の付随性の説明から、脳が心に付随することを排除していないため、誤っている。また、付随関係の代わりに相互作用を想定するなら、心身の相互作用論が最初の表現から得られるが、これもありそうにない。状態aや状態bの定義される領域は異なっており、したがって、それら領域の扱いは時点に関しても一様にはいかないからである。これは次のような具体的な場面を考えれば明らかであろう。

 「ある時点」をある瞬間と考えたとき、瞬間の心の状態と脳の状態と、それらの対応とはそもそもどのような状態や対応なのか。瞬間的な付随性は物理的にはほとんど意味をもたない付随性である。逆に、「2 + 3 = 5」の計算の心的状態を考えたとき、そこでは時間的な経過や区間は考慮されていない。すると、それが付随する脳の状態はどのように定めたらよいのであろうか。実際のところ、私たちには定めようがない。このような考察から明らかなように、付随性の関係は瞬間化しようとしてもうまくいかず、また区間化しようとしてもうまくいかない。したがって、付随性の使用は心脳の関係について決定的な結論を導き出さないばかりか、その使用の際には時間に関する文脈に対して十分な配慮が求められる。この結論は付随性概念が階層的に異なる領域の対象を扱う際に用いられる概念としてはそれほど信頼できるものではないことを強く示唆している。

 今まで述べてきた付随性の二つの側面は矛盾しているように思われるかもしれない。最初の話は付随性が説明のための概念として考えられており、二番目は還元に代わる記述概念として用いられている。対象を記述するには十分ではないが、説明するのは十分であるという特徴を付随性概念はもっている。