「決定論とは認識論的な決定論である」ことが含意するのは何か?

 「物理世界は決定論的だ」とラプラスの悪魔が主張する根拠は一体何か?それは物体の運動が数学的に一つの軌跡として描けるからである。つまり、古典力学が運動を決定論的に記述できるからである。世界の出来事が決定論的に起こり、それを予測できるというラプラスの悪魔の主張はこの力学の決定論的記述に起因している。悪魔が未来の状態を完全に予測できることが物理世界の存在論的決定論を導出するが、完全に予測可能なのは古典力学の理論のもつ特徴から出てくることである。予測に関して完全だというのが古典力学である。より正確には、存在論的決定論は因果的な決定論だが、認識論的な「決まる」仕方が決定論的ということである。

決定論にも様々な種類がある。存在しているものについての決定論、認識の仕方に関する決定論、行為の因果的な決定論等、多くの決定論がある。決定論が認識論的なら、その否定である非決定論も認識論的な主張と考えるのが適切だろう。知とその否定である無知は共に認識的な概念である。さらに、古典力学が物理理論であり、その理論の特徴が決定論的である、あるいは非決定論的であるということは、古典力学という知識に関する特徴である。古典力学は決定論的特徴と非決定論的特徴を両方とももつことはできるのだろうか。理論のある部分は決定論的、別の部分は非決定論的ということはあり得る。その際、理論全体としては非決定論的だということになるのだろう。古典力学は非決定論的な特徴をもつと言われているが、それはラプラスの悪魔の決定論的主張と対立するようにみえるが、それぞれの部分があるというだけのことではないのか。

この点を詳しく見てみよう。古典力学によって「決まる世界」、すなわち古典力学が描く世界についてラプラスの悪魔は「それは決定論的だ」と主張する。それも決め方が完全だという自らの認識の仕方を使って主張する。だが、「決める」ことの実際の姿を思い浮かべると、いつ、どこで、どのように決めるかという点で、決めることの自然化が気になり出す。決めることを眺めるなら、ある時点、ある場所、ある事柄について決めるのであり、いつも局所的なトークンというのが自然化の結果である。決めるのが特定のもの、決まるのが普遍的なものという矛盾するようなことが起こるのは、古典力学の場合、ラプラスの悪魔の決定である。悪魔はある局所的な状況で普遍的な予測をせざるを得ない。その局所的な状況の選択は偶然的であるようにみえる、ラプラスの悪魔が気紛れである場合は。

いつ、どこで悪魔が決めようと、決まったものはいずれも同一だというのは普遍的決定論の帰結である。それゆえ、悪魔の気紛れは関係ないという訳である。確かに決まる世界にはいつ、どこで決めようと無関係であるが、「悪魔が決める」という物理的な現象はやはり決まらない。

 

決める主体は決まる世界の外に残ってしまう。この構図は実はデカルトの「cogito ergo sum」の議論と同じである。知る主体の存在が懐疑の範囲外にあることと、決めることが決まる世界の外にあることは全く同じ構図になっている

ゲーデル不完全性定理、自己言及のパラドクス等の議論も類似の構造を共有している。さらに、クオリアの議論にも関連している。)

 

 認識論的な決定論という観点からは「決まる」、「決める」という決定の過程にスポットライトが当たることになる。存在論的な決定論が決まっている事柄、出来事の系列を受け入れるだけであるのに対して、認識論的な決定論は決まる出来事、事柄の決まる過程や決まり方や決め方に細心の注意を払うことになる。「決まる」と述べて、それ以上は立ち入らない決定について、「決める」過程は認識の過程として積極的に特徴づけられることになる。

 存在論的な決定論の内実は物理系の変化が決定論的と言うことである。物理的な変化の特徴が決定論的であり、その変化が連続的、因果的と言われるのと同じような物理的な性質である。一方、認識論的な決定論は物理系の特徴ではなく、それを述べる理論やモデルのもつ特徴である。決定論的なのは表現のもつ特徴であり、物理的なものではない。

 存在論的と認識論的な決定論の違いは何か。自由意志、責任、決定手続きといった概念を軸にして二つの決定論の違いを見出してみよう。

 

・認識論的決定論と自由意志:認識論的に決定していないと自由意志を働かせることができない。私たちが行為するには決定論が必要だが、それは認識論的な決定論。「決める」ことが自由意志の仕事である。存在論的な決定論の内容は決まった事柄の特徴。

・責任は「決める」決定論、つまり、認識論的決定論と結びついている。存在論的な決定論は責任とは無関係である。

・それゆえ、自由意志、責任、決定論がうまく噛み合うために必要なのは、決定論が認識レベルにあることである。

 

物理的世界の決定論は「決まる」ことについての主張であり、それに対して心の働きは「決める」ことが重要な役割を果たしている。では、「決まる」世界で私たちが「決める」ことはどのように実行されるのか。科学がまず対象にするのは「決める」私たちではなく、「決まる」世界であり、因果的であるのは決まり方であって、決め方ではない。決めるのは主体としての私たち、あるいはその化身である自然法則であって、その結果として、対象である自然の変化が因果的に「決まる」。「決める」という積極的な観点は何かを生み出すことであるが、しかし、どの範囲で「決める」のか、いつ、どのように「決める」のか、その時の手続きは、といったことは不定のままである。もし、「決める」ことが細部にわたって決まっていれば世界のすべては決まっていることになる。しかし、「決める」という動的な働きは本質的に不定なものを含み、それが「動的」という形容詞(あるいは「動物」という名詞)の実質的な内容を形成しているように思われる。「決まる」の不徹底さは「決める」主体の不完全さに由来し、科学が常に暫定的な知識に止まり,不断の修正を余儀なくされるというのは、この「決める」主体の不完全さに一部は由来している。[1]

「決める」際の因果的な関係は「決まる」内容のもつ因果関係ではない。決まったものは「決める」際の因果関係とは独立の因果関係をもっている。これが自由と決定の両立可能な関係を保証する基礎の一つになる。[2]

 

[「決める」と「決まる」の論理的分析]

「決める」ことの構造は直接の論理的な分析に馴染まなく、そのため、「決まる」ことの構造を中心に論理的な分析が行われてきた。「決まる」のほうがはるかに論理的な分析が容易であるからである。認識的な「決める」方の仕組みは因果的でも、決定論的でもない。例えば、「証明可能である」という述語は次のような性質をもっている。

 

形式的なシステムFについて、「証明可能である」という述語Pは次の条件を満たしている。

(1) 文AFにおいて証明可能なら、P([A])も証明可能である。(ここで[A]はAゲーデル数で、Aの名前である。)

(2) Fにおいて、P([A])かつP([ABを含意する])なら、P([B])である。

(3) Fにおいて、P([A])なら、P([P[A]])である。

 

上の「証明可能性」という性質は推移的でも因果的でもない。確かに、主体Sは明示されていないが、証明をするのは主体であり、その主体が証明できるかどうかの構造が「証明可能」という述語の内容である。しかし、形式的に扱うには主体Sを直接に表現することはできない。そこで、Sは背後に隠れることになり、どのような主体であれ、その証明を行なう証明構造そのものが形式化されることになる。「証明可能である」は「決める」の一例に過ぎないが、私たちが「決める」に読み込むのはこれ以外の意志的な作用も含まれている。証明可能性という「決める」の性格は因果的ではない。「決まる」世界は因果的であるのに対し、これは際立った違いである。「決める」から「決まる」のでありながら、両者は異なる論理に従っている。しかし、「決める」無しの「決まる」と、「決める」から「決まる」とは全く異なる「決まり」方であるにもかかわらず、「決まって」しまうならば、いずれであれ因果的に「決まる」ことになってしまう。「決める」は「決まる」世界では何の効果や影響も残さないで、すべては単に「決まる」世界として私たちの考察対象になる。

「決める」の性格を論理的構造以外に特徴づけることはできないのか。それは「決める」のダイナミックな側面を考えてみることだろう。もっとも具体的な側面は行為の決定の側面である。「決める」行為が複数競合し、その間に競争が生じる場合がよく扱われてきた。その典型はチェスや将棋のようなゲームである。これらゲームは一定の規則の下に行われるが、ゲームの規則は物理法則ではない。むろん、論理法則でもない。それは言葉の規則に近い。ただ、規則を認める限り、その適用と結末は論理的に定められる。将棋の各駒の動き方は決められている。勝負での駒の動きはそれぞれの対局者が「決める」。この勝負は因果的に決まるのではなく、対局者による駒の動きの決め方によっている。このような約定による一連の動きは因果的に考えたのではわからない。

上の例は「決める」がこの世界に滲み出ている例である。約定による行為は因果的に考えたのでは理解できない動きである。これは「決める」が主導権をもっている動きであり、単なる因果系列とは異なる内容を情報として含んでいることを示している。

 

[相互作用]

物理学は相互作用を扱うことが苦手である。力学はその代表であり、三体問題はこの格好の例である。では、相互作用を扱うのがなぜ困難なのか。相互作用は開いた複数のシステムを必要とする。開いたシステムの扱いは保存則が成立しないという点だけでも閉じたシステムとは比較にならないほど難しい。さらに複数のシステムを同時に扱うことは一つのシステムを扱うのに比べて数段手がかかる。この二つの厄介な理由が相互作用の物理学の進展を阻んできた。だが、物理学から眼を転じるならば、相互作用を扱う知識は溢れている。それらがすべて確固とした基礎をもっていないなどと言うことはできない。物理学無しに相互作用を扱うトリックはどこにあるのか。それは物理量を基礎に置かないことである。物理量でない典型的なものが情報量である。情報は実に多義的である。物理量として狭く定義することを拒まないと同時に、意味や内容の質的なものまでも担当している。このような広がりをもつ概念ではあっても、それは物理的ではない。情報を基礎に置いた相互作用の代表例が遺伝である。遺伝情報と呼ばれる遺伝子の内容は化学的な組成や構造とは明らかに異なっている。遺伝子の内容は単なるDNAの断片でも化学反応でもない。

意味や内容は情報の一部であると共に、言語の重要な成分となっている。意味をそうでないものに置き換える試みは実に多く考えられてきた。意味の検証理論、行動性向解釈はその代表例である。そのような経験や行動への読み替えは詰まるところ相互作用に辿り着く。情報という概念が厄介なのはそれが新たな視点や概念を誘導することである。例えば、力学的なシステムにデザインという視点は必要でないが、情報が組み込まれた生物システムにおいてはデザイン、機能は不可欠の概念となってくる。意味や内容を扱う心的モデルはさらに志向的な視点が要求される。そして、社会科学においてはこれらの異なる視点や概念が並存している。相互作用から始まるこの一連の概念の導入は事態を驚くほど複雑にする。

「決める」操作が入る限り、「決まる」内容はその「決める」操作の影響を受ける。「決める」操作の影響は「決まる」内容に滲み出てくる。この節の叙述はいささか哲学的になり過ぎたかもしれない。そこで述べたかったことを簡単にまとめてみよう。

 

(1) 決定は「決まる」対象について言われてきた。

  1. 自由は「決める」主体について言われてきた。
  2. したがって、自由と決定の関係は、「決める」と「決まる」の間の関係として考えることができる。

 

[1] 決めることが部分的、断片的、暫定的、刹那的であることは私たち人間の行為の特徴を示すものである。決める行為は本来局所的で、暫定的なのだということを知るなら、決まることの徹底さ、ましていわんや普遍的な決定論など夢のまた夢に過ぎない。

[2] 決めることが決定論的でも決まるものが非決定的なものを含む、あるいは不完全な決め方でも完全に決まることがあることが導き出される。