帰納(Induction、過去と未来)

 私たちは自分が直接観察しないことについても多くのことを知っている。直接見るには小さ過ぎる、遠くにあり過ぎる、隠れている、昔に起こったことで今は既にない、まだ起こっていないので見ることができない、といった様々な理由から観察できない場合、私たちはそれらをどのように知るのだろうか。どんな四角形にも4つの辺がある、2個のリンゴと3個のミカンの和は今年だけではなく、来年も5であると容易に信じることができる。四角形についても和についても、そうでない場合を想像することができない、というのが信じる理由である。ヒュームによれば、観念の間の関係と事実の間の関係は次のように異なっており、四角形や和は観念の間の関係を表現したものである。

 

S が観念の関係を表現する iff  Sの否定が理解できない、あるいは矛盾する

 

S は事実を表現しているiff  Sとその否定の両方が理解可能である、あるいは矛盾していない

 

 「私は猫を二匹飼っている」が真でも、私はその否定、あるいはそれが偽だと想像することができる。だから、それは事実を表現しているのである。私たちは知覚と記憶を活用することによって観察事実を知ることができる。私たちはどのように観察されない事実に関する意見をつくるのだろうか。それらもやはり経験から得られる。性質のどんな組み合わせも論理上は可能であるが、どの組み合わせが事実として実現するかは経験に頼らなければならない。

 さて、観察事実と一般的な言明の関係を経験的なデータと理論の関係と捉え、その関係を帰納法として考えてみよう。

 

これまで火はいつも熱かった。

だから、火はこれからも熱いだろう。

 

(データ)これまですべてのFGであった。

(理論)すべてのFは未来もGである。

 

帰納法 (ヒュームの問題)

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 観察されない事実についての意見は経験から帰納法によって導出される。データから理論への推論は演繹的に妥当ではない。そこで考えられたのが次の原理である。

 

自然の一様性原理(UN):FGについて、F がこれまでGであるなら、Fは以後もGのままである。

 

すると、データとUNから、理論が導出できる。

 

 UNは大変強い主張で、私の経験の中に登場したパターンは自然において一般的に成立すると述べている。明らかにこれは強過ぎる主張である。だが、この主張を弱め、「FであるものはGであった」というのが法則であるとすると、どのようにそれが成立することを知るのだろうか。

 

過去には、未来は過去に似ていた。

それゆえ、未来には、未来は過去に似ているだろう。

 

 この結論はUNを仮定に加えなければ妥当にはならない。仮定に加えると、推論は循環することになる。未来が過去に似ているだろうということを既に知っていない限り、過去の未来が過去の過去に似ているという事実は、未来の未来が未来の過去に似ているだろうということを示してはくれない。

 

(1)UNは未観察の事実に関わっている。

(2)未観察の事実についての知識は経験から帰納的に導き出されなくてはならない。

(3)だが、UNはどんな帰納的な論証でも暗黙の仮定になっている。

(4)それゆえ、UNに対する循環しない論証はない。(1-3)

 

 これが示しているのは、科学的な探求(つまり、観察されるものから観察されないものについての結論を導き出す試み)それ自体は証明できない仮定に基づき、信念条項として受け取られなければならない、ということである。これは科学的な証拠を占星術と同じ地位に置くことのように思われる。

 

(データ)水晶球は私の申し出が受け入れられると言っている。

(理論)だから、私の申し出は受け入れられるだろう。

確かに、これは真ではない。だが、次の仮定を加えれば、真になるだろう。

(RC)水晶球は信頼できる。つまり、それがXと言えば、Xであることは真である。

確かに、(RC)に対する最善の論証は次のものである。 

(データ)水晶球はそれが信頼できると言う。

(理論)水晶球は信頼できる。((RC)と同じ)

なるほど、この論証が妥当になるのは(RC)をさらなる仮定として加えた場合だけで、それは全体の試みを循環的なものにしてしまう。だが、これらのことは科学的な推論についても真である。水晶球占いは何ら恥ずべきことではない。科学と同じように知的に尊敬できるものである。

 これは明らかに正しくはない。幾つもの反論がある。

 

  1. a) これまでのところ水晶球占いより帰納法の方が成功してきた
  2. b) 帰納法は定義によって合理的である。それは正しい推理によって意味していることの一部になっている。
  3. c) 帰納法は無益で、科学はそれを決して使っていない(Popper)。
  4. d) 帰納法は演繹的に妥当であるとは想定されていない。それは帰納的に妥当である。
  5. e) 演繹も似ている。演繹が信頼できることを証明するどんな試みも演繹に循環的に頼っている。

 

ヒューム自身の反応は異なっていて、より根本的である。

 

f ) 帰納法の信頼性に対する合理的に心を動かす証拠はない。

 

 帰納法は私たちが選ぶべき戦略ではない。それは私たちに生れつき埋め込まれたものである。鳥は南に飛んでいくことを正当化する必要はない。鳥にとってはそうすることが正しいことなのである。私たちは帰納法を正当化する必要などない。というのも、そうするのが正しいだけなのである。動物はうまく行くものをしているだけで、私たちはその動物なのである。