世にも不思議な(自明に見える)話

 

 人間は理性的である。

動物は理性的でない。

だから、人間は動物ではない。

 

 この三段論法は正しく、前提の二つの文が正しいなら、結論の文を疑うことなどできない。どこにも偽の余地はない。「人間」、「動物」、「理性的」は概念であり、一般名詞や形容詞で表現される。それら概念の外延が確定していれば、上の三段論法は単に論理的に真であり、各文は実質的(経験科学的)にも有意味。さらに、二つの前提が経験的に真であれば、結論「人間は動物でない」は端的に真になる。だが、概念が確定的かどうか、前提が経験的に真かどうかはいずれも実験や観察によって確証されなければならない。

 その確証に必要なのは計量可能なこと。確証には「すべての人間」が理性的かどうか調べなければならない。例えば、個々の人間が「人間量(人間らしさ)」の値をもち、その値によって人間かどうか判定できれば、「人間」は確定的で、文の真偽が定まる。他の概念についても同様のことが言えれば、上の三段論法は二つの前提を確証するだけで得られる結論を述べたものとなる。つまり、推論の結論とは、確証した文から得られる、確証したのと同じ資格をもつ文のことである。三段論法だけでなく、推論とは一般に実験や観察によって経験的に前提の真偽が判定できるなら、結論の真偽が自動的にわかるというものに過ぎない。その意味で、推論自体は事実の世界にはないのである。

 三段論法を条件法として一つの文に直しても、正しい三段論法ならトートロジーで経験的には無意味。正しくなければ、傾向的(dispositional)な性質を主張していることになる。傾向的な事実は要素文(論理記号を含まない文)で表現される要素的な事実とは違って、私たちが通常認識できる事実とは違う。二つの異なる事実が「ならば」で結ばれたものを一つの事実として認識できるかと問われれば、私たちにはできない。それは私たちの意識の世界にしかないからである。(このような立場がベイズ主義の基本にある。)