絵画に描かれるものと、風景、物語、あるいは知識の役割

 知識をもっていないと「絵がわからない」(「わからない」の最も常識的な意味は、「何が描かれているかわからない」)というのは昔の絵には当たり前のこと(と思われてきた)。宗教画、肖像画として「何が、誰が」描かれているかは、絵だけを単に見るだけでわかるものではない。古典的な絵画は背後に「何が描かれているか」の知識が実に入念に想定されている。画家が描きたいからではなく、画家に描かせたい目的があって、絵が描かれている。だから、その目的がわからないと絵がわからない。そのため、昔の絵画をしっかり正しく鑑賞するには感覚だけではなく知識が不可欠と言われてきた。

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 だが、等伯の「松林図」はどうか。背後の風景や物語は一切不要。同様に印象派のモネの「睡蓮」も知識を必要としない。二つとも誰かに頼まれた絵ではない。描かれた松林や睡蓮が風景だとすれば、そこに描かれた風景は客観的な光景というより主観的で感覚的な印象そのものである。二作品は知識で説明できないものを本質的にもち、心理的なスナップショットに近い。松林も睡蓮も本物らしくある必要はなく、画家の心に映る松林や睡蓮であれば十分。要は「松林図」も「睡蓮」もプライベートな世界の主観的印象の表現なのである。では、風景や物語という知識を必要としない画をわかろうとしたら、どうしたらいいのか、知識は役立たずというのだから。

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 固有名詞で呼ばれるものが描かれている、あるいは固有名詞をもつ対象を描いた場合、その絵を観て、絵のメッセージを知ろうと思えば、その固有名詞の指示対象についての知識をもたなければならない。彫刻でも建築でも同じで、大聖堂も天使像も名前とその指示対象が不可欠である(「妙高山」の観光写真は妙高山であることがはっきり伝わらなければならない)。だが、近代絵画では、描かれる対象がこの世界で何と呼ばれ、どんな役割をもっているかはどうでもいいことだと思われている(実際、固有名詞がタイトルの「麗子像」は麗子が誰かを知る必要はない)。

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 だが、本当にそうだろうか。私が松や睡蓮を描いても、誰も見向きもしない。描かれているものが何であれ、それが観る人を惹きつけ、心を打つのであれば、それは良い画というのですっきりしているが、実際は「等伯」や「モネ」、「岸田劉生」という名前が先に来る。何が描かれているか判然としない場合、とりわけ抽象的な絵画の場合、狡賢い私たちは誰が描いたかを知ろうとする。絵画そのものではなく、その絵画に付随する事柄を何であれ知ろうとする。そして、その知識を使って絵を観て、絵を知ろうとする。絵の鑑賞にとって知識はとても微妙な地位にある。絵を知ることと絵を楽しむことの間にはどのような違いがあるのだろうか。

 「松林図」や「睡蓮」と古典的な絵画の間に実に多くの絵画があり、また現代の絵画の間にももっと多くの絵画がある。前者の例が岸田の「麗子像」やフリードリヒのロマン主義的な絵画である。彼らの画の背後には物語があり、それを彼らは印象的に表出しようとしている。絵を中心に置き、風景、物語がそれにどのように関わっているかを知ることによってその絵を理解していくのがこれまでの絵画鑑賞の手法で、これは知識が絵画鑑賞のカギを握るということである。これには反対者が多いことだろう。「美を知る」ことは「美を感じる」ことに限りなく近いと思えば、反対などしなくていいのだろうが…

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 「感じる」ことが確信や証明によって得られるのでない限り、「知る」ことの方が圧倒的にわかりやすく、安心できる心的な作用である。「感じる」ことより「知る」ことの方が言葉に結びつきやすく、それゆえ、画の鑑賞結果の表現には「知る」ことが圧倒的に有利で便利である。そのためか、批評家や美術史家は皆口が上手い。「感じる」ことを広げて「知る」に近づけてもよいし、逆に「知る」ことを広げて「感じる」に近づけてもよい。それが哲学の常套手段である。