確率論の仕組みと解釈

 出来事や事象は命題や集合によって表現される。そこで、命題や集合を考えよう。論理の規則や集合の演算に関して閉じた命題や集合の集まりに確率測度Pを定義できる。この関数Pは命題や集合を実数に写像する。そして、任意の命題や集合ABに対して、次の条件を満たすときPは確率測度と呼ばれる。

 

0≦P(A)≦1

もしAが真の命題か全体集合なら、P(A) = 1

もしAとBが両立不可能(排反的)なら、P(A あるいは B) = P(A) + P(B)

 

これらはコルモゴロフ(Andrey N. Kolmogorov, 1903-1987)の確率の公理系である。確率は通常特定の背景知識をもとにして、確率モデルを組んでその中で確率測度を与える仕方で使われる。例えば、サイコロ振りを考えてみよう。サイコロに関する背景知識によって私たちはそれが1から6までの数字の目をもつ立方体であることを知っている。さらに、サイコロが公平であるとすると、通常考えられるモデルは「1の目が出る」、「2の目が出る」、...、「6の目が出る」の各命題に対して1/6の確率測度を与える。さらに、この測度はP(「1の目が出るか3の目が出るかである」) = P(「1の目が出る」) + P(「3の目が出る」)を満たしている。

この数学的な確率概念の特徴は確率を尺度、物差しとして考えるところにある。この他にも確率の定義はあるが、上のような形式的な定義と並んで、そのような形式的な定義をもつ確率とはそもそも何かという解釈の問題が議論されてきた。それらのうちから主要なものを考えてみよう。

 

(問)確率は尺度として定義されたが、他の尺度、例えば、体重や身長の尺度と比較して、共通点と相違点を挙げなさい。

 

[確率の解釈]

 命題や集合は出来事を意味しており、その出来事の集団における実際の頻度が確率の解釈の一つである。コインを100回投げ、そのうち実際に39回表が出たとする。この出来事をHという命題で表せば、P(H)は100回のコイン投げでの実際の頻度と解釈できる。この解釈は上の公理をすべて満たしている。実際の頻度を使った解釈は客観的な解釈であり、ある出来事が集団内でどの程度の頻度で実際に生じたかによって確率を解釈している。

 主観的に確率を解釈することもできる。私たちは与えられた命題が真であることにどのくらい信頼性を置くべきかについて語ることができる。この概念は心理的であるだけではなく、規範的でもある。それは私たちの信念の度合が何であるべきかを述べているからである。そして、この信念の度合はやはり上の公理を満たしている。

 三番目の解釈は出来事の確率はその仮説的な相対頻度であるというものである。公平なコインはそれが有限回投げられたとき、正確に同じ回数で裏と表が出なくてもよい。しかし、何度も投げていけば最終的には0.5に収束する。xの確率値はxに等しい実際の頻度を帰結する必要はないが、無限に続く仮説的なコイン投げでの頻度はxの値に収束することを帰結する。実際の頻度も信念の度合の解釈も、いずれも確率を何か別のものを使って解釈するものであるが、この三番目の解釈はそうではない。この解釈は循環している。

 その理由を知るために、無限の回数の公平なコイン投げが0.5の相対頻度に収束しないとしてみよう。そこで何か特定の系列を思い浮かべてみる。HTHTHT.....という交互に表裏が出る系列の場合、コイン投げの回数が増えれば、そのような系列の出る確率は0に近づいていく。無限の回数の試行では、どのような特定の系列もそれが達成される確率は0になる。しかし、どれか特定の系列は実際に起こる。したがって、確率0と不可能を同じとみなすことはできない。同じように、確率1を必然とみなすこともできない。[1]それゆえ、公平なコインが50%の相対頻度で表が出ることに必然的に収束するわけではない。もし表の相対頻度がそのコインの表の出る真の確率に収束する必要がないのであれば、どのように二つの概念は関係しているのか。大数の法則がその解答を与えてくれる。

 

P(表が出る|コインが投げられる) = 0.5

P(表の頻度=0.5±e |コインがn回投げられる)は、nが無限に近づくと1に近づく)

(ここでeは任意の小さな数である。)

((P(A | B)は条件付き確率である。)

 

試行の回数が増えると、0.5±e内になる確率は高くなっていく。ここで⇔の両側に現れる確率概念に注目してほしい。仮説的な相対頻度解釈は解釈ではない。というのも、⇔の両側には共に確率概念が使われているからである。

 

(問)仮説的な相対頻度という解釈が循環していることを説明しなさい。

 

 最後の確率解釈は、傾向性解釈(Propensity Interpretation)である。傾向性は確率的な性向(Probabilistic Disposition)である。では、この確率的な性向とはどのようなものか。性向は「...できる」という言い方をもつ言葉で表現されている。例えば、可溶性は性向の一つである。それは次のように定義できる。

 

Xが可溶である ⇔ Xが通常の条件で浸されるなら、Xは溶解する

 

この定義は、ある「…ならば、…である」という文が真であれば、その時に可溶であることを述べている。これはXが一度も浸されなくとも構わないことを示している。さらに、通常の条件も重要である。また、この定義は決定論的な表現になっている。可溶な物質は浸されるなら溶けなければならない。

 確率の傾向性解釈は「…ならば、―である」という文に類似の説明をする。コインが投げられると、その表の出る確率は0.5であるとしてみよう。もしこれが正しいなら、何がこの正しさを生んでいるのか。コインが特別の性向である傾向性をもっているからであるというのがこの解釈の答えである。もしコインの表の出る確率が0.5なら、それは投げられたとき表の出る強さ50%の傾向性をもっている。それはちょうど砂糖の塊が水に入れられると溶けるというのと同じである。

 傾向性解釈は決定論的性向と確率的な傾向性の間の類比を強調する。ある対象が可溶であるかどうか見つけるには二つの方法がある。もっとも明らかな方法はそれを水に浸し、それが溶けるかどうか見ることである。二番目の方法は、その対象が可溶な物理的構成になっているかどうか調べることである。つまり、性向はそれに伴う振舞いと物理的な基盤をもっている。そのいずれかを使うことによって対象が当の性向をもっているかどうか見出すことができる。これは確率的な性向についても正しい。コインが公平かどうかを二つのいずれかの方法によって見出すことができる。実際に何回か投げてみる、あるいはコインの物理構造を調べることのいずれかによって公平かどうかわかる。確率的な性向もその振舞いあるいは物理的構造から見出すことができる。ここには明白な類比が見られる。

 それでもなお、この傾向性解釈には疑いの余地がある。まず、説明が十分一般的でない点である。傾向性解釈での原因と結果の関係は「…ならば、…である」で表されている。しかし、「…ならば、…である」という関係はいつも因果関係を表すわけではない。両親の遺伝子型は子孫の遺伝子型の原因であるが、それと逆のことも「…ならば、…である」という形式で問題にできる。条件付き確率はいつでも因果関係を表すのではない。(ここにも「ならば」が登場している。)

 より基本的な問題は「傾向性」という言葉が「確率」という言葉の別の名前にすぎないのではないかという点である。「傾向性」と「確率」のいずれが明白な意味をもっているだろうか。もし「傾向性」が確率概念を使ってしかわからないのであれば、この解釈は一層事態を複雑にするだけである。

 

(問)あなたにとって「確率」と「傾向性」はいずれが馴染みのある概念ですか。確率概念をもとに傾向性概念を解釈するとどのようになるでしょうか。

 

[確率解釈の意味]

 私たちは二つの整合的な解釈、実際の相対頻度解釈と信念の度合いの主観的解釈を述べてきた。もし確率が科学において自然に関する客観的な事実を述べているのであれば、私たちは困難に直面する。実際の頻度解釈が否定されるなら、公平なコインの表の出る客観的な確率が0.5というのはどのような意味をもっているのだろうか。

 一つの解決の仕方は確率が客観的であることを否定することである。確率の表現は私たちが原因を知らないために行うもので、不完全な情報のもとで私たちがもつ信念の度合を表すと考えることである。この場合、確率は生じることを予測するのに十分な情報をもっていないために存在することになる。

量子力学によれば、偶然は自然のシステムの客観的な性質である。たとえ私たちが必要な情報をすべて知っていても、量子力学的なシステムの未来の振舞いを正確に予測することはできない。物理学では、したがって、主観的な解釈では十分でないことになる。しかし、量子力学で偶然が客観的なものであるとしても、他の理論でもそうであると結論することはできない。

このように様々な解釈を見てくると気づく点があるだろう。それは確率が適用される場面や文脈に応じて解釈が異なり、ある場面では適合する解釈が別の場面ではそうでない点である。この多様性は確率が論理のように普遍的ではなく、対象やそれを扱う理論に依存していることを暗示している。

 

[1] 無限の標本空間の場合、確率1と必然性、確率0と不可能性が同じでないことは、例えば、実数の区間[0,1]の中から任意の有理数を取り出す確率を考えてみよう。そのような有理数は無限個あるにも関わらず、その確率は0である。