A君の疑問?

 高校生のA君には子供の頃からの疑問がある。問うのに躊躇してしまう疑問で、納得できる解答はまだ手にしたことがない。それは、信仰についての説明、つまり宗教教義についての疑問で、例えば、仏教経典では次のような説明がなされるが、その説明がなぜ正しいかの経験的な証拠をA君は確認したことがないのである。

 

「人間が現実と呼ぶ世界は人の心がつくりだした幻影や夢に過ぎない。にもかかわらず、人は経験された現実が唯一のよりどころだと思いこんでいる。だが、人間とは違う心をもった動物や餓鬼は全く異なる現実を体験している。現実とは、それぞれの生き物が彼らの生命条件にあわせて、自らつくりだしているものである。現実は心がつくりだすものだから、A君が信じる現実も実は夢であるかも知れない。」

「私たちは毎日さまざまな現象を知覚している。この現象世界を、私たちは実体からなるものと思いこんでいる。ところが、現象世界は幻影や蜃気楼のようなものに過ぎない。にもかかわらず、この虚像が私たちをあざむき、恐るべき力をふるっている。私たちは感覚にひきずられ、実体のない現象という幻影に翻弄されている。」

 

 A君は上述の言明が荒唐無稽だと思ってしまうが、A君とは反対に正しいと信じる人がいるのは確かである。だが、今の私たちはこのような言明を実証的に証明できる知識をもっていない。このような世界観は仏教に限ったものではなく、普通の人が普通に想像するものでもある。普通の人でもそのような夢想をもつだろうし、あるいは暫し真剣に構想するかもしれない。だが、大抵は自らの心に止め置くことになる。経典が文学作品ならそのシナリオを味わい、自らの生き方の指針にすることもできるだろうが、それが世界の真理ということになると話は違ってくる。真面目に議論しようすれば今のところ結論が出ない。だから、A君は科学者と同じようにそれにコミットせず、より着実な事柄に関心を向けるべきだと思う。

 だから、A君によれば、上のような考えを受け入れる仕方は仏の知恵を「信じるという行為」しかなくなる。そのため、その行為の説明がなくなり、外部の人からは信仰をもつ人だけの独断だと映ってしまう。これがA君の不満な点である。信仰は知識ではないが、宗教教義や信仰についての説明は知識である、絵画は知識ではないが、絵画論は知識である、といったように、知識とそうでないものの常套の区別が受け入れられてきた。A君はこの区別が間違いだと思っている。絵画は訓練によって上達できる、それは絵画が知識だからである。同じように信仰も知識だと言えないのだろうか。信仰は生得的ではなく、伝道、折伏によってもつことができる。それは信仰が知識を含むことを示唆している。にもかかわらず、教義や経典の知識は科学知識とまるで重なり合わない。それがA君にはわからないのである。

f:id:huukyou:20160216213640j:plain

 聖トマスの懐疑 1599

カラヴァッジョの傑作の一つ。キリスト十二弟子の中で唯一イエスの復活を目撃していない聖トマスが「主の傷痕に指を差し入れてみるまで復活を信じない」と疑った。八日後、聖トマスの前にイエスが現れ、自らの傷痕に聖トマスの指を差し入れ、確認している場面が描かれている。このように確認できれば、トマスだけでなく、A君もイエスを信じるのではないか。

 

 A君と同じような疑り深い人としてトマスに触れた。信仰や教義への懐疑の実例としてよく取り上げられるのが「聖トマスの懐疑(不信)」である。トマスの疑問もイエスの答えもわかりやすい。「信仰とは何か」といった仰々しい問いでないのがいい。さて、どんな疑いだったのか。

 トマスはインドまで布教したことになっているが、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの「聖トマス」は髭がない人物として描かれている。トマスは非常に疑り深い人で、キリストが生き返ったという事を他の使徒たちから聞かされても、自分はその場に居合わせなかったため、一人キリストの復活を信じることができなかった。そこにイエスが現れる。

十二人の使徒の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ。」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(2024節~29節「新共同訳聖書」)

(この最後の一文は要注意で、さすがはイエスだと思わせる。)

f:id:huukyou:20160216213801j:plain

聖トマス(槍を持った聖人) 1632-45年頃と推測 油彩・画布 | ルーヴル美術館

フランス古典主義の画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの代表的な単身聖人像作品のひとつ「聖トマス(槍を持った聖人)」。画面中央でやや斜めに構える聖トマスは革製の衣服と青衣を身に着け、右手には槍を、左手には書物を持っている。その表情や様子はラ・トゥールの大きな特徴である実直な自然主義的写実性によって聖トマスの内面的な性格を映したかのように、落ち着きと穏静に満ちている。

 

 トマスは疑り深く、聖母マリアの復活の時にも、やはりトマスはその復活を信じなかったと言われている。聖母マリアの死後三日経ち、使徒たちが聖母の墓を囲んでいた時、聖母の魂が大天使ミカエルと共に下ってきて体に戻り、聖母の魂と体は再び天使たちに連れられ昇天する。トマスはやはり不在で、イエスの場合と同じくマリアの復活を信じなかった。聖母の腰帯が落ちてきてトマスは聖母が昇天したことを知る。

 イエスの復活もマリアの復活もトマスにとっては自分で具体的に確認しなければ信じることができない事柄だった。これは宗教的な態度というより、科学的な態度そのものである。だが、注意したいのは、聖トマスが確証したいのはイエスの傷ではなく、イエスの復活。いわば、奇蹟の確証である。冷静に見れば、これはやはり人を引き込む物語の上手さではあるまいか…

f:id:huukyou:20160216214021j:plain

アンドレア・デル・ヴェロッキオ 「聖トマスの懐疑」ダ・ヴィンチの師の彫刻作品