見えないものを使って見える世界をつくる

 科学は直接眼に見えるものだけでなく、見えないものも対象にします。電子や遺伝子は直接に見ることができません。見ることができない対象の中にはこれらよりもっと見にくいエネルギーやエントロピーがあります。さらには、科学で使われる数のような数学的対象は知覚の対象ですらありません。もっと抽象的な対象にはモデルとしての相空間、ヒルベルト空間等があります。そして、最後に考えられる抽象的なものの極め付けは科学理論そのものです。このような見えないものが見える物理的対象と同じように科学的な世界像を生み出すのに数多く使われてきました。
 机や椅子はそれらを実際に見ていなくとも、見ようとすればいつでも見ることができます。机や椅子は裸眼で観察できるものです。望遠鏡と顕微鏡はいずれも裸眼の補助装置ですが、二つの間には大きな違いがあります。望遠鏡で見ているものは私たちが見る場所を移動すれば直接裸眼で見ることができるものです。月に行けば月面を見るのに望遠鏡はいりません。でも、顕微鏡では私たちが架空の小人にならない限り、ウイルスを裸眼で見ることはできません。ですから、顕微鏡でウイルスを見る場合は望遠鏡で火星を見る場合より一層虚構のものを必要とするのがわかるはずです。
 科学において私たちが見るものは理論的な背景がないとわからないものがたくさんあります。これが「観察の理論負荷性」と呼ばれてきたものです。観察するには理論の助けが必要であるため、観察とその対象は理論の負荷を受けているのです。「椅子や机が直接に観察できる」と言うのと同じように、「電子や遺伝子が観察できる」と言うことができます。でも、この場合電子は椅子や机と同じように、私たちが測定している時と同じように、測定していない時にも世界に実在しているのでしょうか。量子力学によれば、電子は椅子や机と同じようには存在していません。電子の観察は量子力学の負荷を受けているのです。
 「観測できないものにはどのようなものがあるか」と問われれば、誰も眼に見えないものをすぐに思い浮かべるでしょう。眼に見えないものをどのように思い浮かべ、考えることができるのかという認識論的問いは横において、眼に見えないものは小さいものと思うでしょう。小さいために物理的に観測できないということは一見明瞭に見えますが、顕微鏡の例にあるように技術の開発によってそれまで見えなかったものが見えるようになるという意味で、最初から「見える」の意味が定まっているわけではありません。かつて原子は思い浮かべることなどできないものだったのですが、今の私たちは教科書で見る電子顕微鏡の写真から容易に原子像を思い浮かべることができます。私たちは確実に見える対象の範囲を拡大し、経験の幅を広げてきました。マッハは原子が眼に見えないことから、原子は虚構であり、気体の規則的な性質を説明するために導入された思弁的メカニズムに過ぎなく、どんな哲学的意味でも実在しないと考えました。でも、原子の実在に関する19世紀末の論争は20世紀に入り、実在論に軍配が上がる形で決着しました(しかし、その後事態はより複雑になり、現在ではかつての決着がそれほど確固としたものではなく、量子力学の解釈問題として再燃しています)。
 一方、数学的な対象ゆえに観察不可能なものもたくさんあります。図形や数は観察できません。これは原子の場合と違って、技術的な革新でも乗り越えることができません。これらは原理的に観察不可能なのです。誰も幾何学が定義する図形や数そのものを見たことがありません。図形や数をノートに書くことによって、それらに似たものを表現することはできます。でも、それらは本物の図形や数ではありません。私たちがノートに書くのは三角形擬き、擬似台形なのです。
 なぜ数学的な対象や抽象的な概念は観察不可能なのでしょうか。それらは物理世界に存在しないという理由がすぐに浮かびますが、それとは違った理由を考えてみましょう。物理学が何を表象するか、どのように表象するかを考える際、観察可能なもの、観察不可能なものはどのように関係しているのでしょうか。理論そのものを観察しようとする人はいません。あるいは、モデルを観察しようとも思いません。なぜ理論やモデルは観察の対象ではないのでしょうか。それらは観察される対象を表象(=表現、表示)するのであって、対象として表象されるのではないからです。その意味で、理論やモデルは志向的です。それらは「何かを表象する」ために存在しているのです。その「何か」を定めるとモデルになり、私たちが科学理論と呼んでいるのは指示対象が定められたモデルのことなのです。
 理論は「観察語(observational term)」と「理論語(theoretical term)」を含み、理論語は主に数学の言語です。観察語が指示するものについて観察可能とか観察不可能とかが論じられますが、理論語である数学的な概念が指示するものはどのようなものでしょうか。それは原理的に観察できないのでしょうか。3個の対象の「3」は観測できるでしょうか。誰もできると答えそうになります。では、公平なコインの表の出る確率0.5はどうでしょうか。0.5そのものは観察できなくとも、それは「何か」を指示でき、その「何か」であるコインの表の出る頻度は間接的に観察できます。(では、この頻度はどのように観察されるでしょうか。)
 数学的対象と物理的対象の違いはどこにあるのでしょうか。数学的対象はさまざまな観点から不変、一様ですが、物理的対象はそうではありません。数学的世界があるとすれば、その世界に変化はありません。したがって、一定の条件を満たすと数学的対象についての言明は普遍的に真や偽になるのですが、物理的対象についての言明の真偽は実に多様に変化します。変化こそが物理的対象の特徴だったことを思い出して下さい。