経験内容の科学

 ガリレオのささやかな形而上学的プランは、どのように現象と実在を見分け、経験科学の研究対象を実在にしっかり定めることでした。そこで彼が考えたのは「物体のどの性質や側面が真に物体自体の中にあり、どれが物体を観測する人の感覚器官(眼や耳)によってつくり出されるのか」を判別することでした。ガリレオによれば、物体自体の中には形、運動、量等があり、色、音、匂い等はそれを感じる感覚器官の中だけにあります。彼は物体が本来もつ性質と、物体を観察するときに観察者に生じる性質とを区別しました。というのも、ガリレオはこの区別がきちんとなされ、世界の本性についての科学的研究に必要なのは物体がもつ性質だけであると考えたからです。こうして、現象を通じて実在の真の姿を明らかにするのがガリレオの経験科学ということになります。(蛇足ながら、感覚される現象的な性質と、実在するものの性質という区別は現在では誤った区別であることは言うまでもありません。現在、色、音、匂い等は量子力学によって物理的な性質として研究されていて、私たちの感覚器官が勝手に生み出した心的な性質ではないことになっています。)
 ガリレオ、そしてデカルトが上述のような機械論的見解を偏愛しましたが、実在を質量、空間、時間を使って客観的に記述することによって、実在記述の基本的な形式が天文学や力学をはじめとするすべての研究対象に幅広く適用できると考えたからです。当時の物理学が機械論的な力学中心だったことが彼らの偏愛の理由です。
では、経験論哲学が盛んだったイギリスはどうでしょうか。ロックの認識論的な動機は、経験する世界で何を信じることが正当化できるかを決めることにありました。彼は生得的な知識を否定します。そして、二種類の観念を認めます。一つは直接的な「感覚」で、他はそれについての「内省(reflections)」です。
物体の中に形、運動、量等があり、感覚器官の中に色、音、匂い等があると考えたガリレオ、そしてそれに同意したニュートンの考えを哲学的に整備したのがロックによる二つの性質の区別です。どの観念が外部の実在がもつ性質への信頼できる手引きとなるのでしょうか。この問題に対するロックの解答は二種類の性質を区別することによって与えられました。第一性質は実在する性質で、対象の中にあり、私たちにそれに類似した、対応する観念を引き起こします。これに対し、第二性質は私たちに感覚を引き起こす、私たち自身の能力や傾向の性質でしかありません。 

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 ロックは第一性質が適切な観念によって表現されることが認識の正当化に必要だと考えましたが、そのためには第一性質とそれらの観念の間に類似性があることを仮定しなければなりませんでした。したがって、問題は類似性という概念が意味をもつかどうかにありました。類似性があると、どうして私たちはその性質について知ることができるのでしょうか。バークリーのロックに対する批判は、類似性だけではある観念が別の観念に似ているとしか言えず、正当化には不十分という点にありました。
 経験論の中での最初の反実在論者がバークリーですが、彼の現象主義は対象を感覚の束として考えます。(バークリー自身の表現によれば、「存在するとは、感覚されることである(To be is to be perceived.)」となります。)すると、事物を見ていないとき、その存在をどう説明するかがすぐに問題となります。眼を閉じたときにそれまで眼前に見えていた恋人はどうなってしまうのでしょうか。バークリーは、見ることを決して止めない神の眼と私たちの感覚の可能性によってその存在を説明できると考えました。
 

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 ロックと同じように、ヒュームは感覚印象が私たちの知識の基礎となると考えます。そして、それら印象が互いに異なり、区別できる点でも一致します。ヒュームはこれらの離散的な観念の間に一時たりとも固有の結合関係はないと言います。私たちは決して事物の間の結合関係を観察しないからです。彼はこの一般的な結論を次のように具体化します。

(観察できないもの)
1. 因果関係:通常の見解では因果関係は原因と結果の間の非対称的な結合関係です。ヒュームが言うには、私たちが実際に観察するのは規則性であり、ある事物が別のものに規則的に連合していることだけが観察できます。「因果性」や「必然性」は私たちが付与するものであり、原因Aの後に結果Bが続くことを予想するのは長年の習慣によってです。
2. 自己:ヒュームは、私たちが時間を通じて連続する単一の自己であるという考えをもつのも因果関係の場合と同じ理由からだと考えます。私たちが観察するすべては私たちの観念のその時々のパターンです。それらをしっかり結びつけ、統一しているものなど私たちは観察しません。ですから、自己は観察されません。
3. 外在する対象:同様に、ヒュームは私たちの目の前にテーブルがあり、それが存在し続けると考えるのは心の習慣に過ぎないと考えます。 私たちが観察するものはテーブルの離散的な印象の系列だけです。

 ヒュームが正しければ、科学の役割は一体何なのでしょうか。それは現象の規則性の記述でしかなく、実在するものについての説明ではありません。ですから、ニュートンの運動法則も規則性の記述であり、自然の隠れた機構の説明ではないことになります。結局、科学は習慣の規則性の集合に過ぎないことになります。

(問)ヒュームの主張が正しいとすると、私たちは経験自体を経験することができるでしょうか。

 ここまでの歴史的な説明では経験論が形而上学に対して与える制約は知識の問題でした。経験論の主張を文字通りに考えるならば、観察可能なものを超えて実在について述べようとすると、それは正当化できない、それゆえ、形而上学の目標は達成できない、ということになります。
 でも、ヒュームでは形而上学への異なる種類の制約が重要となってきます。それが意味の問題です。単語が感覚経験と結びつくことによってその意味を獲得するのであれば、経験を超えて何かを指示しようとする言葉は無意味なように見えます。(例えば、「正当化できない」と「無意味である」の間の違いを問われ、経験的データだけを使って答えろと言われたらどうするでしょうか。) 形而上学への制約としての意味の問題は経験論の展開の中で次第に重要さを増していきます。

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 物理学での反実在論者マッハ(Ernst Mach, 1838-1916)は若きアインシュタインに大きな影響を与えたことで有名ですが、ニュートン物理学に経験的に納得できる哲学的基礎を与えようとしました。そこで、物理学から形而上学的ドグマを取り除き、観察できるものに基づいて物理学を再建しようとしました。彼の実証主義的な見解の要点は次のように述べることができます。

・ 物理学は形而上学ではない。観察可能な現象の背後にある実在を説明しようとするのが形而上学であるが、それは物理学の役目ではない。
・ マッハは物理学について道具主義を主張する。彼は科学理論を感覚的な現象を組織化し、予測するための形式的な道具、装置と捉えた。科学はこの組織化の経済の中にあり、科学の中で物理学が基礎的なのはそれがもっとも経済的だからである。
・ 同一の現象に適用できる別の理論がある場合、その選択基準はいずれが正しいかではなく、いずれが有用かである。

(問)マッハのような道具主義が正しいとすると、理論は何も表象しないのでしょうか。

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 『数学原理(Principia Mathematica)』(Russell and Whitehead,1910)の試みは、数学の真理は論理的な真理であることを示すことにありました。(例えば、数は論理的構成に還元できます。)1912年にラッセルは同じ考えを物理学とセンス・データ(感覚与件)の間の関係に適用しようとしました。物理学に関して、その対象を推論されたものと考えるより、論理的構成によるものと考えるほうが適切である、と彼は言います。というのも、推論される物理的対象は経験的な証拠を超えてしまうからです。物理学が感覚的現象を超えて何か語ろうとすれば、それは疑念を含むものとなります。彼は物理的対象についての話をセンス・データについての話に翻訳できることを示そうとしました。多くの点でラッセルはバークリーがしようとしたことをより精緻な仕方でやり直そうとしたのです。物理的対象についての話は感覚的現象についてのものであることを洗練させようとしました。一方、マッハとラッセルには重要な違いがあります。道具主義者のマッハにとって科学理論は真でも偽でもありません。でも、ラッセルには科学理論は感覚的現象についてのものであり、それゆえ、理論は真か偽です。

(問)科学理論は何かの表象装置だと考えたとき、科学理論が表象装置である(道具主義)ことと実在を表象する装置(道具主義実在論)であることとは両立するでしょうか。

経験論の諸結果を真剣に捉えようとした哲学的立場のもっとも洗練された形が実証主義と呼ばれる運動です。1920-30年代がその流行期でした。実証主義という語は適用に僅かですが混乱があります。既述の哲学者には通常適用されません。でも、彼らの考えは実証主義と多くの点で共通しています。ヒュームは初期の実証主義者と言ってもよいでしょう。マッハも実証主義者です。でも、この語はその歴史的、地理的起源を重視して使われます。「実証主義」は1830年代のフランスでコント(Auguste Comte, 1798-1857)によって使われ、論理実証主義者と自らを呼ぶ1920-30年代のドイツ、オーストリアの哲学者のグループによって広く流布されることになりました。このグループは20世紀中葉の経験論的な哲学者に大きな影響を与えました。こうして、現在では実証主義という語は、経験論とその帰結を真剣に捉える試みを意味することになりました。
ハッキング(Ian Hacking)は実証主義の特徴として次のものを挙げています。

1. 検証主義(Verificationism):有意味な命題は観察によってその真偽が決められる。
2. 観察の優先:見て、感じて、触ることができるものが私たちの数学的でない知識すべての最善の内容や基礎を与えてくれる。
3. 原因の否定:自然の中に因果性はなく、ある種類の出来事の後に別の種類の出来事が続くという一様性、恒常性以上のものはない。
4. 説明の軽視:科学的説明は「なぜ」という問いに答えない。現象が規則的に起こるというだけである。(「なぜ」という問いに対する説明が必要なら、真の原因があるという考えに頼らなければならないだろう。出来事はその原因によって説明される。原因なしの説明は単なる記述である。)
5. 理論的存在の否定:実証主義者は反実在論者である。
6. 形而上学の否定:上の1から5までをまとめると反形而上学が帰結する。

(問)実証主義の原因の否定、説明の軽視と前章で述べた科学的説明の三つの見解を比較し、どの見解が実証主義的か述べなさい。

ウィーン学団はそれまでの哲学研究を科学主義的に編成し直すことを彼らの運動の目的にしていました。彼らが主張していた論理実証主義の内容をまとめるならば、次のようになるでしょう。

・ 科学的な方法と精神で哲学を再構成しようという近代化の試みであった。
フレーゲによる新しい論理学の知識を適用することによって、経験論によって出されていた問題を解こうとした。特に、カルナップ(Rudolf Carnap, 1891-1970)は物理学が現象主義的基礎の上に成立できることを示そうとした。(最後に彼はこれをあきらめる。)

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・ 意味の検証原理「言明の意味はその検証の方法である」を使って言明を分析した。論理実証主義者はこの原理を適用して多くの伝統的な形而上学を「無意味なもの」として排除しようとした。

このような極端な哲学的主張は当然ながら多くの問題を孕んでいます。意味の検証原理に対して、次のような問題がすぐに出されました。

(i) 言明の中には有意味だが、検証できないものがある。例えば、「この場所には大学は決してつくられないだろう」という未来形の文、「人類はアフリカで誕生した」という過去形の文はどのように検証できるのか。
(ii) 意味の検証原理自体は検証できるのか。それは有意味なのか。

(問)上の(ii)について、意味の検証原理は検証できないことを説明しなさい。

 彼らはまた分析的、総合的の区別をし直すことによって知識を整理しようとしました。彼らによれば、分析的真理は意味がわかるだけで真であることがわかります。そうでない真理が総合的真理です。論理実証主義者にとって、すべての総合的真理はアポステリオリです。つまり、それらは観察を通じてのみ得ることができます。(したがって、カントの総合的でアプリオリな真理は否定されます。)