時間物語:アウグスティヌス(354-430AD)(2)

 時間の哲学的な考察では必ずアウグスティヌスの考えが取り上げられます。彼の時間についての発想・理解が現代の私たちにも通じていて、アウグスティヌスが時間について現代的な考えをもっていたことは、次の二つのよく似た問いを比較すれば一目瞭然です。

神は世界をつくる以前に何をしていたか。
ビッグ・バン以前に何が起こったか。

最初の問いに対するアウグスティヌスの解答は、二番目の問いに対する現代の物理学者の解答に極めてよく似ています。時間は神が世界をつくる際、あるいはビッグ・バンで世界が生まれる際に始まったので、それ「以前」というのはそもそも存在さえしません。ですから、上の二つの問は無意味です。これが両者に共通する答えです。問いとそれらが出された状況は異なっていても、両者の解答は何とよく似ていることでしょう。
アウグスティヌスが直面した問題は神による世界の創造を説明することでした。神とその創造については次のような三つの主張があります。

(1) 神は永遠である。
(2) 神は恣意的でない。
(3) 神はある時点で世界を造った。

これら主張の二つから残りの一つの主張の否定が導き出されます。(1)と(2)からは創造された世界が永遠で、したがって、(3)は誤りになります。(2)と(3)からは神が永遠ではないことが導き出され、したがって、(1)に反することになります。((1)と(3)からは何が出てくるでしょうか。)これでは神の創造を説明できないことになってしまいます。アウグスティヌスは時間についての独特の考察によってこれを整合的に説明しようと試みます。彼は(3)の神がある時点で世界を造ったことを否定します。「神は時間の中に存在しているのではないから、ある時点で何かを行なう」ということはないと彼は考えます。そうではなく、世界を造る際に時間も一緒に造ったのです。時間は時間の中に存在する人間にだけ属するのです。神はすべてのものをそれらが現存しているかのように観ています。神の眼にはどんなものも過去や未来をもっていません。でも、私たちの時間的な見方では、すべての出来事は時間の経過の中で起こるものとして映っています。
 アウグスティヌスは時間の三つの区分、つまり、三つの時制(tense)を「存在」という概念を使って定義します。

(1) 過去は既に存在していないものである。
(2) 現在は今存在しているものである。
(3) 未来はまだ存在していないものである。
(これらの定義の中の「既に」、「今」、「まだ」は時間を仮定していないのでしょうか。仮定しているなら、それはどのような身分のものでしょうか。)

アウグスティヌスはこれらの定義を心理的なものと考えます。過去は記憶の働きにより、現在は注意の働きにより、未来は期待の働きによって、私たちに経験されます。時間はそもそも存在せず、神はこれらの働きをもつ人間を造ることによって、時間を造ったのです。

(問)神の眼から観た時間、科学者の眼から観た時間、生活する人の目から観た時間はどのように異なっているのでしょうか。

 「時間とは何か」という問いに対してアウグスティヌスは「それは何かと問われなければ何かはわかっているが、問われて説明しようとするとわからなくなる」と答えました。とはいえ、時間には過去、現在、未来があることを私たちは知っています。この時間の区別(=時制)を考え出すと、時間のもつ特異な性質が浮かび上がってきます。『告白』Book XI にはアウグスティヌスの時間論が展開されています。それによれば、過去や未来は存在しません。というのも、過去は過ぎ去ってしまったもので、未来はまだ来ていないものだからです。過去も未来も存在しないなら、現在は過ぎ去ることなくいつも現在であり、それは永遠であることを意味しています。それゆえ、現在だけでは時間を十分に特徴づけることはできません。そこで、アウグスティヌスは時間がどのくらい続くかを考えます。出来事や時間間隔が短い、長いというとき、そのように言うことによって何が述べられているのでしょうか。過去や未来が長い、短いはそれが存在できる現在のとき、長い、短いと考えられます。でも、明らかに現在は延長をもっておらず、瞬間でしかありません。過去も未来も存在せず、現在が瞬間であるとすれば、「何かが起こっている」とか「何かが起こるだろう」ということについて私たちが話しているとき、一体何が話されているのでしょうか。これにどう答えてよいかわからなくなります。でも、アウグスティヌスは過去や未来の話をすべて現在の話に還元しようとします。つまり、過去や未来についての主張が真や偽であるのは、過去の記憶や未来の期待についての現在の主張が真か偽であることと同じだと考えるのです。

(問)アウグスティヌスにしたがって、「昨日雨が降った」という言明を、現在の主張に書き換えるとどのようになるでしょうか。書き換えられた言明の真偽と元の言明の真偽は同じ条件で判定されるでしょうか。

(問)時間は物体が運動することによってつくられるものでしょうか。そうなら、運動変化がなければ、時間もないことになるのでしょうか。シューメイカー(Shoemaker)はこの問いに対して次のようなモデルを考えました。(‘Time without Change’, The Journal of Philosophy, Vo. 66, No. 12, 1969, 363-381.)

三つの天体からなる可能世界があり、それぞれの天体A、B、Cはそれぞれ3年、4年、5年に一回、それも最後の1年間すべての変化がなくなるとしてみよう。例えば、天体Bは3年通常の変化があり、4年目にすべてが静止する。各天体の静止は他の天体から観測できる。この世界では60年に一回、あるいは60年目毎にすべての天体は静止する。

このモデルは「変化がなければ時間もない」という主張の反例になっています。どのような理由で反例になっているか説明してみて下さい。

 ここでアウグスティヌスの主張を整理してみましょう。彼によれば、世界には現在の時間、あるいは現在の出来事しか存在しません。未来はまだ存在していないし、過去はもう存在していません。でも、このような考えは多くの問題を生み出します。未来や過去について語るとき、何が語られているのでしょうか。過去と未来が存在せず、現在が瞬間に過ぎないなら、時間はどのように延長できるのでしょうか。延長していないなら測定できないことになります。時間の経過を説明するのに過去や未来は必要ないのでしょうか。現在しかなければ、時間はなく永遠しかないことにならないのでしょうか。
ところで、過去も未来も存在しないというアウグスティヌスの見解の拠り所は何でしょうか。それは明らかに次の主張にあります。

まだ存在しないものは存在しない。
もう存在しないものは存在しない。
パルメニデスやゼノンを思い出し、類似点を確認して下さい。)

ここで「存在」には時間的な意味と空間的な意味が含まれていることを思い出してみましょう。時間的には

存在する=現在存在する

という等式が、アウグスティヌスの言う通り自然に成立するように見えますが、

存在する=ある場所に存在する

という空間的な場合は、「東京は日本に存在するが、中国には存在しない」という文が正しいように、いつも等式が成立するとは限りません。したがって、時間についても、

存在する=ある時刻に存在する

というように、空間の場合と同じように考えるなら、「ケーキは1999年2月5日にはもう食べてしまい存在しないが、同年2月4日にはまだ存在していた」という文が正しいことが説明できます。でも、「ケーキはもう食べてしまい存在しないが、昨日はまだ存在していた」という文は説明できるでしょうか。つまり、時間的な存在と空間的な存在を全く同じように考えて問題はないのでしょうか。