古典力学の時間とカントの認識の時間

 ライプニッツニュートンの間の有名な論争を既に述べましたが、二人は互いに相手を正しく批判していました。ニュートンによる宇宙の「絶対静止点」の考えは実験や観察では確かめることができなく、実証的でない性質を認めることになり、ニュートン的な時空を構造過多にしています。一方、ライプニッツの時空は構造過小で、ニュートンが述べる絶対回転運動に適切な説明を与えることができません。ニュートンは時間に期待し過ぎ、ライプニッツは時間を過小に評価し過ぎたと言えます。
 オイラー(Leonhard Euler)はニュートンの絶対空間を仮定しなければ慣性の法則を表現することができないと考えました。でも、「慣性系」が導入されることによって、絶対空間の仮定は余分なものになりました。そのような慣性系に対して、慣性の法則は絶対空間がなくともその物理的意味をもつことができます。現在、慣性系は慣性の法則が妥当である系として定義されます。
 古典力学での時間はすべての慣性系に一様に適用され、それゆえ、絶対時間です。ある慣性系のすべての点は同一の同調した時間測度を指定できます。時点0を決め、単位時間を決めると、異なる慣性系の時計は互いに同調させることができます。したがって、古典力学の絶対時間の仮定によって、特定の慣性系から独立に普遍的な同時性について語ることができます。ですから、すべての観測者に対して同じ仕方で、特定の時点(=現在)によって過去と未来を分離することができます。絶対時間の仮定は数学的にはガリレオ変換によって表現できます。ガリレオ変換はニュートンの時空より一般的です。というのも、絶対に静止した系が仮定されていないからです。
 古典力学の時間対称性は重要な意味をもっています。ニュートン運動方程式は加速度を時間に関する物体の位置の二階微分として定義します。ですから、前方に進む時間tが後方に進む時間-tで置き換えられても、運動方程式は同じままです。つまり、力学の法則は対称的な変換に関して不変なのです。したがって、古典力学では時間の二つの方向は区別できず、すべての力学的な過程は摩擦がなければ原理的に可逆です。このような意味で、私たちが日常的に経験する不可逆性(例えば、昨日がまたやってくるとか、若返るとかという変化の過程)は力学によっては説明できません。でも、私たちの周りで起こる物理的な過程はみな不可逆です。力学の時間対称性はどこかパルメニデスの世界に似ており、日常生活での不可逆な現象はヘラクレイトスの世界に似ています。

 知覚や測定に対応しない絶対時間の存在についてのニュートンの仮定は認識の世界にも大きな影響を与えました。カントの認識論では、この仮定が経験的実在としての時間ではなく、経験に先立つ(アプリオリな)認識の形式としての時間という考えの契機、動機になっています。このようなアプリオリな時間は観察し、測定し、物理法則を表現することができる前に私たちが前提しなければならないものと考えられています。カントによれば、人間の認識は感覚と理性の共同から生まれます。私たちの感覚器官は知覚の刺激や信号(光、色、音等)を伝え、直観が空間的近接性や時間系列にしたがって順序を与えます。空間と時間は、この意味で感覚与件を組織化するために使われる直観の形式です。具体的な経験的時計は直観のアプリオリな形式としての時間の存在を前提にしています。他方、直観の形式としての時間と私たちの時間の主観的知覚を混同してはなりません。カントにとって、系列としての出来事がもつ一般的順序のための時間は直観の客観的(超越論的)形式であり、時間の実際の知覚や時計の製作を可能にするものでした。
 このように説明してくると、カントの主張はもっともな主張だと思わせるところがあるのですが、DNAは人間を生み出すための情報をもっていて、その情報に従って人間は生まれるのであって、その情報を生み出すのは個々の人間ではない、とでも言っているのと似ています。また、個々の文法に従う言語表現が可能なためには文法を可能にする原文法のようなものが必要だと言うのと似ています。そもそも「認識を可能にする形式」といった表現は妙に文学的で、その意味が問われることはほとんどありません。
 直観の形式とは別に、理性の概念形式と判断形式も区別されなければなりません。カントの認識論では、認識は個々の知覚と直観を一般的概念に従ってカテゴリー化し、判断に到達することによって得られます。例えば、数1の表示やイメージは記号|です。すると、数2は記号||で示されます。そして、ごく普通に記号|、||、|||、…はイメージとして自然数の概念に対応することになるでしょう。一般図式は番号付けの各段階で単位|を加えることです。カントによれば、これが時間のアプリオリな決定のための一般図式を表しています。カントの時間観念は直観の純粋形式であり、自然数の研究として算術のアプリオリな基礎を生み出すものです。ハミルトンやブラウアーはカントの時間観念を算術の基礎と考えました。連続としての時間概念は私たちの連続的な知覚に基づいています。
 持続、時間的系列、同時性といった時間の様相は、私たちが経験を判断するために使うカテゴリーを決めます。これらカテゴリーは実体、因果性、相互作用を含んでいます。実体カテゴリーから保存法則が得られます。因果性カテゴリーは原因から結果が得られることを述べた因果性の物理法則(例えば、運動方程式)に対する一般形式です。最後に、相互作用カテゴリーから、相互作用の法則が出てきます。個々の物理法則の実際の表現は物理学の中で行われます。アプリオリに、何か具体的な経験をする前には、認識論は物理法則の一般形式を区別するだけです。時間は観察、測定、法則や理論の定式化すべてに前提されなければならない、カテゴリーのアプリオリな条件となっています。
 さて、このようなカント認識論の概説は私たちの認識を麻痺させる魔力をもっているのですが、眼を覚ましてみましょう。「時間、空間、因果性、相互作用」等々のカント認識論の基本概念について、新しい科学知識によってそれらが更新され、修正されることがこれまでの歴史であり、直観の形式やカテゴリーが変わっても一向に構わないのだというのが今や常識となっています。確定性や蓋然性もまた然りです。認識されるものが変わるのは構わないが、認識を構成する装置は不変でなければならないという理由もありません。文法が時代とともに変わるように、カテゴリーも状況に応じて変化して構わないのです。経験を有意味な経験にするものは、アポステリオリなものでも、状況に応じて変わるものでも一向に構わないのです。つまり、認識の形式はあるのですが、その形式はアプリオリでも普遍的でもない、それが経験的な認識なのです。